ああだこうだ言っているうちに5月も末である。11時ごろ、このあいだ道後温泉街で買ったいぐさの草履を履いて、自転車で出かけた。外は気持ちのいい快晴である。薬局に行って小銭入れを受け取り、迷惑をかけたことを詫びて頭を下げてきた。いい加減使い古してボロボロの小銭入れで、中身も百数十円のことだが、それなりに愛着がある。戻ってきてくれて嬉しい。とかいいながら、この小銭入れを店に置き忘れるのは今回が最初ではない。記録に残っているだけでも2023年の4月に2回(15日と26日)、立ち回り先の店に忘れている。アホな持ち主である。無くさないように気をつけて、これからも大事に使わねば。
財布は妻が2016年のクリスマスプレゼントにくれたPORCO ROSSOの二つ折りの革財布で、とても頑丈で長く使える逸品だ。小銭入れは2018年の7月に天山のイオンで買ったCROCODILEの小さなもの。カード入れにはELLE HOMMEとロゴが入っているが、いつ手に入れたどういうものか記録にないし、よく覚えていない。
午後は例によって歩いて出かけて街をブラブラする。一色楽器に行ったら愛媛大学の軽音楽部の学生さんたちがトランペットのマウスピースを選んでいる最中だった。今月10日の日記に書いたことの繰り返しになるが、こういう場面で対面する大学生たちは、自分でちゃんとものを考え自分の言葉で話をする大人である。当たり前のことなのだが、教室で教師対受講生の関係で出会っている限り、なかなかその当たり前に気づくことができない。
おろしたての草履で16,000歩以上も歩いたもんだから鼻緒ズレがひどい。まあ、草履がなじむまでの我慢だ。帰宅してすぐに両足にマキロンをふきつけた。
午前中は「数学の基礎」金曜日クラスの最終回の授業だった。しゃべりは10分ちょっとで終わり、あとは全部演習の時間だ。広い教室を極力ゆっくりと歩き回るのはけっこうくたびれる。火曜日クラスと少し違って、金曜日クラスでは証明の書き方に悩んでいる質問が多かった。この授業で扱った例では、どれも証明をかなり詳細に述べたのだが、なぜそこまで詳細に述べる必要があるのか、そこのところが腑に落ちない人も多かろう。これには、授業の中心テーマであった6つの論理語「かつ」「または」「でない」「ならば」「すべて」「存在」の役割と、それぞれに特有の論証の組み立てを、ハッキリと示そうという意図があった。だから、インフォーマルな自然言語による証明ではあるものの、かなり形式ばった堅苦しいスタイルの証明ばかりを述べることになった。
いっぽう、証明はいわば説得であり、聞き手・読み手がある文章なのだから、読めるように書くべきだ、という考えも当然ある。あまりに詳細にすべてを書き切ると分量的にも文章的にも読めたものでない代物ができてしまうから、いい感じに詳細を省く必要もある。この場合、この証明がどういう文脈でどういう読み手に向けて書かれるものかを、書き手が適切に判断せねばならない。つまり、数学の証明といえども作文なのである。この《作文としての証明》という側面は、今回の「数学の基礎」の授業では口頭で軽く触れる程度にしか表に出せなかった。
ひとつ興味深い質問が出た。整数の集合 \(C=\{\,6k\,|\,k\in\mathbb{Z}\,\}\) から任意の要素 \(x\in C\) をとったとすると、\(C\) の定義から、ある整数 \(k_0\) が存在して \(x=6k_0\) と書ける。授業資料にそのように書いたら、なぜその整数を \(k\) と書かずに \(k_0\) と書くのかで悩んでしまっている人がいたのだ。\(C\) は \(6k\) の形の整数の集合なんだからその要素は \(6k\) でいいじゃないかという話で、それはそのとおりだ。
いろいろな証明を読んだり書いたりしているうちに無意識に身につけてしまう書き方のスタイルというか身振りというか、そういうものがある。いまとった要素 \(x\) は任意にとった要素だけれども、とったからには固定された要素である、という気持ちのあらわれとして、証明の筆者は、添字をつけて \(k_0\) と書いたわけだが、数学者のスタイルとか身振りというのは、なかなか言葉では説明できにくい。
これが、同じ集合 \(C\) から要素を2個、たとえば、\(x\) と \(y\) を取りました、ということになると、\(x=6k_1\), \(y=6k_2\) をみたす整数 \(k_1\) と \(k_2\) が存在する、という具合に、区別をつけるために添字が必須になってくる。この場合、添字の役目は区別であって、固定された一個の整数というニュアンスとは一応関係ない。だが、こういう事例をたくさん見ているうちに、さきほどの数学者身振りが身についてしまう、ということがあるかもしれない。
ともあれ、この件について質問者には、これはべつだん \(x=6k\) でもいいよ、と答えた。
午後は少し書類仕事を片付けた。昨日なくした小銭入れの件で医院に電話したが、医院には忘れ物はないという。はてな? と思ったが、薬局に電話して謎が解けた。薬局でマイナ保険証をリーダーに通したときに、手に持っていた小銭入れをカードリーダーの近くに置き忘れたのだった。薬局で保管してくれているという。見つかってよかったよかった。明日は晴れるらしいので、自転車で受け取りに行くことにしよう。
さて、いくらなんでもそろそろ集中講義の準備を始めねばならんぞ。
すでに公式のアナウンスも出ているからここにも書いてしまうが、6月下旬に東北大学で記述集合論をテーマに集中講義をさせてもらえる予定になっているのだ。そういうことをフジタにやらせようとて呼んでいただけるのはありがたいことだ。お声がかかっているうちが華だから、がんばって務めを果たそうと思う。(そのわりにのんびりしすぎだが。)
タイトルになっている「記述集合論の概要」はこれまでもあちこちで喋ってきたことだが、今回は、これまでどうしても話せなかった近藤-Addisonの一意化定理の証明をゴールに設定している。
記述集合論のコースといえば、これまで2004年に神戸で\(\Pi^1_1\)同値関係に関するSilver Dichotomyについて話し、2023年に那覇でLouveau Separationについて話した。(これらについてはなげやりアカデミアを参照)どちらもいわゆる実効記述集合論の議論だったが、今回はもっぱら古典記述集合論に話を限定する所存である。とはいえ、近藤-Addisonの定理を示すのだから、Moschovakisのいわゆる \(\Pi^1_1\)-scaleを古典論の文脈で扱うことになる。したがって当然、MoschovakisのDSTを基本参照文献とした話になる。ちゃんと準備して後日講義ノートを公開することにしよう。
ゼミ生たちが教育実習に行くシーズンなので卒業研究ゼミはお休みである。夕方からTGSAセミナーがあるが、医者に行く日なのでこれも欠席する。
医院には18時に来いという予約だったが、ほぼ指定どおりの時間に到着して、そこから30分以上待たされた。まあ、よくあることだ。患者はみんな、一刻も早く診てほしいが、いざ診てもらうとなったら、自分だけは極力ゆっくり丁寧に診てほしい。だから、医院の待ち時間なんて伸縮自在なのである。予約時間の10分前に行ってその5分後に診察完了したことだって過去に実際あった。もちろんそれは稀なケースで、この医院では、俺の順番はたいてい最後である。今日に限っては後にもう一人いたようだけど、まあそんなことはよろしい。いつものようにドクターに近況を報告して、バカにつける薬を出してもらう。
受付で会計を済ませ、隣の薬局に行った。薬の支払いの時になって、小銭入れがないことに気づいた。医院での支払いは確かに小銭入れからしたので、医院の受付に忘れたに違いない。薬局の支払いは千円札で済ませ、医院に電話したが、時すでに遅く、出たのは留守番電話であった。ううむ。きっと無事だと思うし、現金としては数百円のことだけれども、なくしたくはないなあ。
昨晩また深夜に料理をしたので今朝のスタートは遅めだ。朝食をとって、洗濯をする。大学へ移動して教室のウェブサイトの更新作業をする。途中で教育実習を終えたばかりの学担学生が実習日誌にサインをもらいにきたが、他には誰にも会わない。
夕方には歯医者に行った。前歯の小さな虫歯を処置してもらった。前歯は大事にしないとサックスやフルートが吹けなくなるから気をつけよう。他にもちょいちょい虫歯があるようなので、治療はまだしばらく続きそうだ。
朝は昨日より少し早めに自転車で大学へ行く。暑くもなく寒くもなく、まことに爽やかな、5月らしい好天である。午前中にリモート会議があった。
午後に「数学の基礎」火曜日クラスの最終回をやった。全体の振り返りと来週のテストの告知をして、新しい内容は出さず、これまでの演習問題に改めて取り組んでもらった。いろいろ質問が出た。この問題はMoodleに掲載された解答例ではこうなっているが、こういう書き方でもいいのか、というタイプの質問が多かった。たとえば解答例に「\(x\) は有理数でない実数である」あるいは「\(x\) は無理数である」とあるものを「\(x\) は実数であって有理数でない」と言っていいのか、とか。これはもちろん同じことなのでそう言ってもいいのだが、初学者にはなかなかその確信がもてない。そういう数理的なセンスあるいは暗黙知は、どうしたって一朝一夕に身につくものではないのだが、しかしその数理的なセンスを涵養するのがまさにこの授業の目的でもある。
それで、いわば歩くことを教えるために「歩くというのは左右の足を交互に前に出して体重を移動して云々」と動作を細部に分解して言葉で説明しながらゆっくり歩いて見せて、次に実際に自分の足で歩いてもらう、どうしてもそんな感じの授業になる。歩き方を身体でわかっている人には、かえってまどろっこしいはずだ。
さてさて、夜にはピアノのレッスンに行く。こちらでは俺が生徒であり、しかも練習をサボりがちで、いつまでたってもセンスを体得できない、デキの悪い生徒である。それでも先生はあきらめずに根気よく指導してくださっている。ありがたいことだ。バッハのシンフォニア第2番。まだ全然弾けちゃいないが、ちょっとずつ進歩している感じはあるのでがんばろう。
弁当を作って自転車で大学へ出かける。外は曇り空である。
大学に来たら普通に仕事である。ひとまず、今週が実質的な最終回となる「数学の基礎」の授業の準備と、来週にやるテストの印刷の手配をせにゃならん。7月の理学部公開講座の準備も進めにゃならん。本も、たとえユルユルとでも読み進めにゃならん。明日が某国立大生の倅の授業料の引き落とし日なので資金の移動もせにゃならん。あれもせにゃならん。これもせにゃならん。
とかいいながら、俺はノンビリ過ごすのが好きすぎていかん。
先週と同様、ゆっくり起き出して自家製スープのラーメンで朝食にする。天気予報では雨は降らないそうだけど、念のため洗濯ものは室内干しにする。
午後は歩いて道後まで行って、道後温泉の土産物屋で草履を買った。夏の時期の職場の上履きにも、自宅でちょっとつっかけて外へ出る時にも、いぐさの草履を愛用しているのだが、自宅で長年使っている草履がすり切れて、いぐさのささくれで足を怪我してしまうようになったので、このさい買い換えることにしたのだ。
そのあと道後から松山市駅まで歩き、地下BALで軽く飲んで、帰りも歩いたので、歩数が久々に2万歩を超えた。歩数計カウント22,687歩。歩行距離18.30キロメートル。よう歩いた。
夜にはいつものカレー作りをした。
予報では一日中雨のはずだったが、夕方には雨は小止みになった。ちょいと郵便局に出かける用があったので、いよてつ高島屋2階の「まつやまマドンナ郵便局」に行くことにして電車で出向いた。そのついでに例によって一色楽器に立ち寄り、例によって社長と川尻さんと光永さんというメンバーで、例によって油を売る。
油を売っている間に、サックスでジャズがやりたいと言う男性が奥さんと一緒にやってきたので、社長が対応しているうちに、ジャズならテナーだろう、テナーならビュッフェ・クランポンのあれだろうという話になった。俺と川尻さんも、ビュッフェ・クランポンはマコトに確かなメーカーである、とか、松山でジャズを学びたいなら上義幸さんに習うのがいいだろうとか、コメントを挟んだ。それで、めでたくその男性は俺が吹いているのと同じビュッフェ・クランポンのテナーサックスを買うことになった。この店でこのテナーが俺の目の前で売れるのは、俺自身のを含めればもう5本目で、社長によれば、俺は打率5割なんだそうだ。いや、いままで10本売れたうちで俺が店にいる時に売れたのが5本だというなら、俺の打率が5割なんじゃなくて、その楽器の俺率(?)が5割なんじゃないのか。って、何を言ってるんだ俺は。
ともあれ、楽器店の売上に多少なりとも貢献できたようなので、いい気分で帰宅して、豚スペアリブの煮物 (五香粉たっぷり台湾風) を作った。いや、本当ならバラ肉でこういうものを作りたいのだけど、スペアリブの方がかなり安いもんね。1時間かけてじっくり煮込む。今回はちょいと味付けが濃くて、醤油が多かったか砂糖が少なかったか、少し塩味が勝っているが、まあ食える食える。調味料のバランスを調節しながらまた再挑戦しよう。
けっこう天気がよく、気分がいい。午前のうち「数学の基礎」金曜クラスの6回目の授業をする。午後は極力のんびりと、先日依頼を受けた原稿の下書きをする。
昨晩のうちに雨がずいぶん降ったようで、まだ代掻き前で水を引いていないはずの田が、どこも水浸しだ。なにせ、このあたりでは毎年6月に入らないと田植えをしない。京都は丹波のヤマウチまこっさんのところでは田植えがもう済んでいるそうだけど。ともあれ、おひさまの昇る頃には雨はすっかり止んで、ちょいと暑い日になった。そんな中を、弁当を提げて歩いて大学へ行く。少し汗をかいた。
午後には、とある委員会のリモート会議があり、そのため卒業研究ゼミは後半の2時間弱だけになった。前原昭二『記号論理入門』の第2章が済んだ。古典論理(あるいはその部分体系としての最小論理や直観主義論理)の推論の規則がひととおり出揃ったわけで、それをどうするか、ということでこれから面白くなり始めるところなのだが、ゼミ生たちが相次いで教育実習に行ってしまうせいで、このあと3週間はゼミをお休みにせねばならぬ。
夕方、歩いて家路をたどる頃には、暑さはやわらぎ、風が爽やかな5月らしい陽気になった。
またまた昨晩宵の口に寝落ちして未明に目が覚めたので、やりかけた書類づくりをやっつける。一段落した4時半ごろに、外でホトトギスが鳴いた。5月の下旬ともなると、さすがに空の白みだすのも早い。明るくなり始めた寝室でしばらく寝直す。午前中は、未明に書いた書類をオンラインにある情報と比較して確認する。久々に外付けモニタをMacBook Proに接続して作業した。2画面あると効率が違う。
その作業が済んだら、昼飯を食う間もなくリモート会議がある。外は小雨が降りはじめ、今度はカエルが鳴いている。会議はちょうど1時間で済んだ。チャーハンを作って昼食にする。そのあとは昨日依頼を受けた原稿をどう書くか構想を練りながら、ぼんやりと過ごした。
夕方、薄暗くなった頃に、小雨の中を歩いてドラッグストアまで食パンを買いに行った。近所のスーパーで買えばいいようなものだが、少しは運動不足解消の足しになるかと思ったのだ。
午後の「数学の基礎」の授業では、背理法と数学的帰納法を扱った。主な内容がこれで出尽くしたことになる。この授業はあと2回あり、来週には全体の振り返りと総合演習、再来週には試験をする予定である。
とある原稿の依頼が来た。詳しくはまた改めて。
夜はピアノのレッスンに行って、引き続きバッハのシンフォニア第2番をやる。
先日から読んでいた白井聡『未完のレーニン』に示唆されて、今度はフロイト『モーセと一神教』(中村元訳、光文社古典新訳文庫)にとりかかる。これはこれで大変面白い。精神分析の開祖であるフロイトが最晩年の著作で神話や教典におけるテキストの歪曲(改竄と転移)について語るのは、個人の心理における潜在思想の歪曲という問題を考え抜いた人の考察だけに迫力がある。
そういえば『心の影』を読むのがすっかりお留守になっている。いつもこの調子で、なんかあれを読んだりこれを読んだりで一貫性がないのだが、こと読書に関する限り、ただ一貫性を持たせるためだけに他の本を読むのを差し控えるのも間違っている気がする。
夕方から歯医者に行った。右上のもう一本の奥歯に銀歯が入った。これで大きな虫歯はおおかた治療できたとのこと。あとはいくつか小さい虫歯を片付けることになる。
昨日の塩茹で鶏肉の茹で汁をスープベースにしたラーメンを遅めの朝食に食った。洗濯をして、送るべき郵便物があったので西郵便局へ行き、少し足を伸ばしてアイテムえひめの県立図書館へ行ってきた。堀之内の本来の建物の改修工事が済むまでの仮住まいで、いかにも仮設っぽくはあったが、けっこう快適な空間が作られていた。むしろアイテムえひめ自体のさびれ具合が気になった。もともと老若男女が日常的に訪れて賑わうような場所ではないから仕方がない。なにしろ場所が不便である。俺の家からは自転車でちょっと出かけるくらいの感じでいいが、たいていの人は、大可賀のアイテムえひめに、堀之内に行くように気軽には行けない。
午後はいつものカレー作りをした。いつものような材料をいつものような分量で使ったつもりだが、仕上がりが多めで味が薄めだった。これはひょっとして水加減を間違えたのかもしれない。食えるからいいけどさ。
そのあと散歩に出かけ、ブックオフで料理の本を2冊買って帰ってきた。なんか最近思うのだが、調理について、俺はいったん基本に返るというか、レシピに忠実にちゃんと調理することをおぼえて自己流から脱却する必要がある。
とかなんとか言いながら、帰宅後はいつものように、ひじきの煮物とジャガイモのふかしたのを作った。先週はいろいろサボり倒したけど、明日からまたちゃんと弁当を作る生活に戻らなくちゃ。
あまり天気が良くない。家でスパゲティを作って食ったり、鶏むね肉を塩茹でにしたりしながら、白井聡『未完のレーニン』(講談社選書メチエ2007年 / 講談社学術文庫2021年)を読む。レーニンの『何をなすべきか?』の悪名高い《階級意識外部注入論》を、フロイトが『モーセと一神教』で立てた《モーセはエジプト人》仮説を足がかりにして読み解く第2部など、とても面白い。
今年初めて、一日中半袖で過ごした。夕方散歩に出た。ギリギリ徒歩圏内のとある街角に、屋台風の店がごく最近できた。なかなか好ましい佇まいの店なのだが、SNSでは拡散してくれるなと店主がいうので、ここにも詳しいことは書かないことにする。興味のある人は、松山にきてくれればご案内します。
午前中に「数学の基礎」の金曜日クラスの授業をやる。内容は火曜日と同じで、数学的命題の否定文の作り方がテーマだ。
帰宅して軽い夕食のあと、煮豚を作る。BGMは吹奏楽邦人作品。1時間半以上じっくり煮込んだのではあるが、安い豚もも肉で脂身も多くないしで、どうもボソっとした仕上がりになった。これまた人前に出すには微妙だが、まあたぶん全部自分で食うので、問題ない。
自宅のUbuntuノートPCにLilypondをインストールしてみた。テキストベース入力かつCLIの楽譜浄書ソフトウェアだ。さて、自分に使いこなせるかどうか…。それと、同じUbuntu PCの壁紙を、古代ギリシャの陶板画、このリンク先のトップにある画像にした。せっかくなので記事を読んでみたら、けっこう面白い。激動を経験しつつあった紀元前4世紀の古代ギリシャ社会における女性の地位の変化を現代から振り返って考えるという話だった。
けさはずいぶん寝坊した。テキトーに食事をして出かける。きょうはまたお昼休みに教室会議があり、そのあとすぐに卒業研究ゼミがあるのだ。ゼミでは前原昭二『記号論理入門』(日本評論社)の第2章から《\(\neg\) について》《\(\forall\) について》《\(\exists\) について》の3セクションを読んだ。矛盾を表す命題定数 \(\curlywedge\) が初登場したが、こいつはまだ本領を発揮していない。そして \(\exists\)-除去の推論は \(\lor\)-除去に輪をかけて面倒である。
かなりひさしぶりに松山三越のジュンク堂書店に行った。目的はフロイト『日常生活の精神病理』(高田珠樹訳, 岩波文庫)だ。他にもいろいろ本を買ったが、そいつらについて語るのはまた改めて。
きょうは天気がよい。昼休みに教室会議があり、そのあとすぐに「数学の基礎」火曜日クラスの授業がある。きょうは否定文の作り方と空集合についてだ。否定文を作るというのは、形式上は、\(\forall\)-\(\exists\) と \(\land\)-\(\lor\) の双対性に関するいわゆるド・モルガンの公式と、「ならば」の否定の定義(\(p\Rightarrow q\) の否定は \(p\land\neg q\) になる)に気をつければいいが、大学初年度の学生さんたちはまだまだこういう形式論理に不慣れだろうから、それなりに練習が必要だ。
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夜はピアノのレッスンに行く。あいかわらずバッハのシンフォニア第2番。部分ごとに三声部のそれぞれをいったん取り出して弾いてみるように指示された。つまりこれは曲の成り立ちを理解しながら音楽的に弾けるよう練習を進めろというお諭しである。難しい曲だがとても美しく、弾ければ嬉しいのでがんばる。
久々に妄想垂れ流しモードでいってみよう。《←えっ久々? いつもじゃんか!! というツッコミは却下。10年20年前と比べて、この「て日々」でも実社会でも、言うことがおとなしくなり、ものわかりがよくなり、狂気が影を潜めたことを、本人は多少なりとも気にしているのだ。》
フロイトの理論と微分幾何学を比較してみること。仮説としての無意識は実体としては捉えられていない。観測されるのはコミュニケーションのズレ(日常会話での言い間違いなど)である。ある空間のうちに居ながらにしてその空間自体の歪曲の具合を計測することがいかにして可能か。この観点から橋爪大三郎の古い論考「フーコーの微分幾何学」の議論を修正できそうだ。
リーマン幾何学:ユークリッド幾何学 = フロイト:デカルト = アインシュタインの一般相対論:ニュートンの重力論 = マルクス経済学:古典派経済学 といった比例式が成り立ちそうだ。平たく言えば 現実のコミュニケーション:理想のコミュニケーション = 曲がってる:まっすぐ という比例等式だ。そしてこれらの比例等式に共通の比例定数は「ちから」あるいは「権力」だ。かつて『逃走論』での浅田彰との会話の中で柄谷行人がフロイトやマルクスにカントール/ゲーデル的契機を見出すと言っていた<要確認>のは、むしろリーマン幾何学的契機というべきではなかったか。いや、当時の柄谷にそれが言えなかったのは、彼が脱構築的な思考を志向していたからだというのは理解できるのだけれども。
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狂気ということで思い出したのだけれど、中世において修道院は「おかしな人・いらない人」の収容施設という意味を持っていただろうか。近代日本の文壇なんてのもそうだったという説がある。新時代を切り拓く人はしばしばおかしな人から出る。おかしな人だからといって殺してしまうわけにもいかない。彼らを収容しておく座敷牢が必要だった。いまでは病院がそうだ(それに学校も、労働年齢に至らない若年者という社会的弱者を収容する施設という意味を負わされつつある)が、そんなけっこうなもののない古い時代には、寺とか修道院がそういう意味を負わされていたのではないか。もともとは大学だってそうだったかもしれない。科学革命・産業革命・市民革命があって、大学が学校化してから、いろいろ変わったと考えられないか。それ以降は学者が制度内の存在になって「新時代を切り拓く仕事」という矛盾を孕んだ不可能な仕事を任されることになったのではないか。いままであの分厚さと文字の細かさに圧倒されて敬遠していたのだけれど、これはやはりどうあってもフーコーの『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を読まねばならん。
それにしても制度内の学問なんてどのみち不幸なものだ。どんな仕事も、ある程度は「未来を切り拓く」仕事だが、とりわけてイノベーションを起こすことを請け負うというのは不可能な仕事というしかない。俺の考えでは、学問なんて、もっと狂気に近い「これはしゃあないなあ」というようなものだ。それがたまに役にたつことがあるという事実があるばかりで、学者たちはなにも役に立てるつもりで学問なんかやってない。が、いまの世の中では、いやもう最初っからあっぱれ世の中の役に立てようというつもりで学問をしているんですよ、というポーズをとらねば生きていけない。
学問に限らず、全般に狂気じみた考えが世の中の役に立つのは(考えてみれば当たり前のことだが)世の中の歯車が狂いはじめたときである。機械の歯車と違って世の中の歯車のピッチは変化するものだから、いつもと違う歯車が噛み合う場合がある。そういうことがあるから、いろいろな歯車を道具箱に確保しておくことに意味がある。何度でもしつこく言うが、学問なんてもともと半ば狂気なんだ。合わない歯車、変なピッチのネジなんだ。いつか役に立つ日が来るまで、規格の合わないネジや歯車を道具箱にしまっておく余裕が社会にあればいいが、いまはどうも、余裕の必要性を真剣に論じることが禁じられている。いやそれどころか余裕そのものが禁じられている。これは一昨日の日記に書いたことに通じる、ナニゲニ大問題である。
社会において余裕を禁じられた情況。もうちょっと上の世代の人たちはこういうのを革命的情況と呼ぶことを好んだかもしれない。だからといって革命が起こるとは俺は思っていない(旧制度の中で力を貯めてきていまこれから社会を転覆する新しい勢力があると思えない)けれども起こらないとも思っていない(そういう新しい勢力のことが俺に見えていないだけかもしれない)。そんなものは放射性アイソトープみたいなものだ。安定な通常の原子と放射性アイソトープとは、ほんのちょっとの質量の近いでしか区別できないし、放射性があるからとて、いつ放射性崩壊するかは完全に確率的にしか決まらないことだからな。そんなものはあとになってみないとわからないことだ。
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だいぶ脱線した。俺は知力気力体力いずれも乏しい単なる阿呆ではあるが、生きているうちに、リーマンの微分幾何学とアインシュタインの重力理論とフロイトの心理学とマルクスの経済学とフーコーの権力論を同列に、かつ、ひとつの根源から統一的に論じられる人間になりたい。数学教師の堅い仕事はそのための隠れ蓑かもしれない。いや、隠れ蓑だからといっておろそかにするつもりはないが。
つらつら考えてくると、数学や数理哲学の研究者としての自分が地域保健/公衆衛生を専門とする研究者の妻とどれほど違う宇宙に生きているのか、驚くばかりだ。思うに、あれとこれを《研究者》という一言で同列に括ってしまうのが、まあ制度上仕方のないことだというのはわかるけれども、一緒に括ってしまうのがいけない。それでも俺は、いますぐにも実際の世の中の役に立たねばならぬ医療関連の分野に棹さすことを自覚しながら研究を続ける妻を尊敬しているし、研究者としての人生と大学教員としての生業を妻と共有できていることを喜んでいる。(とはいえ妻よ、あなた一人が無理をして身体を壊して犠牲になったとて、それで世界を救うことはできない。とにかく身体だけは大切にしてくれ。そして細く長く仕事を続けてくれ。)
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ビートルズに Fool on the hill という曲がある。丘の上にいつもひとりぼんやり薄気味悪い笑顔で空を見ている男がいる。誰もがバカにして相手にしないその男は、ただ夕日が沈むのを眺めている。だが、その男の心の目は、地球が回っているのを見ている。そういう趣旨の歌だ。
これは難しい問題を含んだ歌だ。
この歌が感動的な理由は、地球が回っているという、誰もが気がつかないがまぎれもない真実を、その男がひと知れず見抜いていたという点にある。これが「その男の心の耳は月が歌っているのを聞いている。」だったら、全然違った印象を与えただろう。
すべての天体が地球の周りを回っていると誰もが信じていた時代に心の目で地球が回るのを見るためには、それこそ丘の上の阿呆でなければならなかった。だが、逆に丘の上の阿呆がみな、誰もが信じているドグマに反して真実を見ているかというと、そうは問屋が卸さないだろう。
丘の上の阿呆がみんながみんなコペルニクスやガリレオやダーウィンだなどと言うつもりはない。勘違いされたくないのでハッキリ書くけれども、自然科学研究という文脈で、正統的な科学といわゆるトンデモすなわち偽科学を両論併記的に同等に扱うことには、俺は断固反対だ。
ただ、すべてが行き詰まり何かが変わらねばならぬときに、それを変えられるアイデアを出すのは、やはり丘の上の阿呆だろうと思っている。
これを言いかえれば、丘の上の阿呆のみなさまにおかれましては、ただの阿呆=ただの厄介者で終わらないためにも、しぶとく生き延びて、最終的に勝利しなければなりませんよ、というわけだ。いまのこの社会を覆うナニゲニ大問題に対抗するには、雑草のようにゴキブリのようにシブトクなるほかない。
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というわけで、シブトク生き延びるため、夕方にフジグラン松山に買い出しに出かけた。荷物が増えたので電車に乗るか歩くか少し迷ったが、歩いて帰った。そしたら、途中で少しいいことがあった。結果オーライだ。
またしても、宵の口に寝落ちしてから未明に目が冴えて眠れないという事態になったので、もう居直ることにして朝3時半ごろからカレー作りを始めた。さしあたり鶏もも肉がないので、鯖カレーである。鯖の水煮を2缶使ったが、一味足りない感じだったので、後追いで鯖の味噌煮を1缶入れた。味見してみたところ、まず甘みが来て、次に鯖の旨味が来て、スパイスの香味が来て、最後に辛味がくる。人前に出せるかどうかというと味とビジュアルの両面で微妙だが、自分で食う分には問題ない。つべこべ言わず、これで週末の給料日まで生き延びよう。
午後には下伊台のソリアーニまで光永佳代さんのフルートと植野ゆかさんのハープの演奏を聴きに行ってきた。場所がちょいと不便で、お天気がいまひとつだ。柑橘の花の香るこの季節の晴天の日にこの田舎の風景の中に来れたらさぞかしよかったのだろうけれど。
しかし演奏はすばらしかった。イベールの「間奏曲」やマクスウェルの「ひき潮」のハープ版原曲が生演奏で聴けたのがうれしい。グランドハープを間近に見ながら生演奏を聴くのは初めての体験で、けっこうでかい音も出せる楽器なのだと知った。それに、フルートは音色的にハープに合いやすいと思った。
いやあ、たまには音楽を聴きに出かけなくちゃね。
で、コンサートの休憩時間中にスマホを確認したら、今年3月29日にあった「大人の音楽会」について連絡が来ていた。次は10月だそうだ。一も二もなく出演することに決める。今度はサックスを吹かせてもらう。
午前中は家で完全にダラダラと過ごした。午後は少し用があるので出かける。というのも、娘がネットで注文した雑誌が昨日どうしたわけか娘の住む京都のアパートではなく松山の実家に届いたから、転送してやらねばならぬのだ。中央郵便局へ行ってレターパックライトで発送しよう。そのついでというのもおかしいが、コミセンの図書館に行って本を返却しよう。いや、やはり全然読まなかったな。情けない話だが。
郵便局に行った帰りの足で一色楽器に寄って油を売っていたら、立て続けに2人の中学生の来客があった。
倅の出身中学に通っている1.10.1.6.10くんは、俺が一色楽器に行ったときには、上の階で、3月に白石バンドで共演した木村先生から、サックスのレッスンを受けていた。しばらくはロングトーンやスケールをやっていたが、そのうち「テイク・ファイブ」のメロディーが聞こえてきた。レッスン後、1階に降りてきた彼と木村先生をまじえてしばし雑談した。1.6.10くんは、ゆくゆくはジャズをやりたいらしい。中学校の体操服を着ていたが、長めの髪を後ろでくくっている。俺が中学生のころなら考えられなかったが、このごろは、女の子と同じ長さまでなら男の子が伸ばしてもいいらしい。なるほど。レッスン後の雑談で「よく言われるんですけど、サックスのスケベな音ってどういうのですか?」なんて質問してくれる中学生はなかなか望みがある。話してみると、受け答えはちゃんとしているし、だいいち低めの声と落ち着いた話しぶりが好ましい。次々回以降、白石バンドで共演することになるらしい。それは楽しみだ。
そのあと、声楽の道を歩みたいという中学生の女の子が来た。一色社長と並んで僭越ながら俺も (音楽的なアドバイスなどできるわけもないが) この先の道の進み方について多少のアドバイスをした。大人びて礼儀正しい、しっかりした子だった。あきらめずにがんばってほしい。
おかげで中学生に対する認識が大いに改まった。一色社長によると、中学生は中学生なりに、ちゃんとものを考えている。そこらの中学生がアホガキに見えるのは、学校や家庭でさんざんアホ扱いされ、それらしく振る舞うことを学習してしまっているからだそうだ。そしてその原因は親にもあるが、とりわけ教師にあるらしい。それは、なんとなくわかる。
学校の枠から外した形で、中学生なり高校生なりを一端の社会人として扱う道があればいいが、それがまた、いろいろの理由でなかなか作りにくい。というのも、そうした道を作る下敷きになるべき地域社会というものが痩せ細りきっているからだ。この国の将来を考えると、これはナニゲニ大問題である。
俺の観点から言えば、この大問題の本質は労働問題である。いってみれば経済構造全体に関わる問題である。俺はこの問題が、友人のなんちゃらさんみたいに不法滞在(?)の外国人を排除することで解決するとは思っていない一方で、ひとにやさしい社会を作ると言いながらイヌネコの保護や子ども食堂の活動にかかりきりになっている一部の自称市民派のやりかたで解決できるとも思っていない。(いやいや、イヌネコの保護も子ども食堂も個別の活動としては大切なのだけどさ。) とはいえ、それでどうすればいいのかといわれたら、ああああ。俺にも名案があるわけじゃない。というわけで、きょうのように若い人たちとの出会いを大事にして、人の輪を広げながら、あきらめずに生きていくほかはない。しぶとくズルガシコク生き伸びながら、自分に何ができるか考え続ける。
小雨がぱらついている。仕方がないので電車で大学に行く。きょうは金曜日だが、火曜日のスケジュールで授業をする。なので「数学の基礎」は午後からの火曜日クラスで、先週金曜日と同じく \(\forall\) と \(\exists\) の話をした。
夕方になっても雨がなかなか止まない。まあそんな日もある。帰りは雨の中を小一時間歩く。車はたくさん通るが、歩いている人はだいぶ少ない。雨の中をひとり傘をさして歩くのは、別段みじめではない。が、風流というほどでもない。まあ、酔狂といったところだ。さすがにいろいろ濡れたが、それほど被害はない。
午後に卒業研究ゼミをやる。前原昭二『記号論理入門』の第1章が済んで、第2章の \(\lor\) に関する推論規則のところまで進んだ。\(\lor\)-除去の推論はややこしい。このあとさらに \(\neg\) に関する推論規則や排中律などが入ってくると、さすがの自然演繹もあまり自然とはいえなくなってくる。だが、面白くなるのはそこらあたりからだ。
夕食の後に明日以降に備えて鶏むね肉を塩ゆでにした。ゆで汁にいいダシがとれたので醤油とごま油を入れてスープにしてラーメンを作って食べた。なかなかうまかった。うまかったはよかったのだが、きょうは晩飯を2回食ったわけで、ちと塩分と糖質をとりすぎたかもしれない。
宵の口に寝落ちして夜中に目が覚め、それから寝つけないというのを、またまたやってしまっている。これも身体に悪い。
嘉田さんの近著『数理論理学』(森北出版)の情報が流れてきた。来月刊行だそうで、これは要チェックである。
日中はグダグダするばかりで進捗がない。夕方から歯医者に行き、運動不足解消のためにそこらをぐるりと歩いて回ったあと、家でひじきの煮物とかみなりこんにゃくを作った。
振替休日
午前のうちはショボショボと雨が降っていた。今日ぐらいは家でおとなしく本を読んでいよう。BGMはチャイコフスキーの交響曲4番5番6番、カリンニコフの交響曲1番2番、サン=サーンスの交響曲「オルガン付き」といったところ。
こどもの日
道後へ散歩にでかけた。それなりに人が多く、道後温泉本館には行列ができていた。並んで待って風呂に入るってどういう気分なんだろうな。
みどりの日
いつものようにカレーを作る。今回は最初のクミンシードを炒める時間をこれまでより長めにとった。ちょっと油が多かったかもしれない。ずいぶん前にパルタジェの遺品としてもらったクミンシードがさすがに残り少なくなったので、午後に散歩がてらナマステRARAに行って買い足した。これで当分カレー作りは安泰だ。
憲法記念日
朝食のあと、『心の影』を広げて読み始める。iPhoneで野鳥のさえずりの音源をループ再生し、MacBook ProではChillアプリで小川の流れのサウンドと、標準のミュージックアプリでポール・オデットのリュートの演奏をエンドレスで小さく再生する。まあそういう現実離れしたサウンド環境を作り、窓を開けて五月の風を招き入れ、要点をメモしながら本を読み進むのだ。もっぱら林一訳のみすず書房版を読むが、この訳者を俺は全面的には信用していないので、Vintage版ペーパーバックの原書も用意してある。訳文が不明瞭な時には原文を確認せねばならないし、参考文献リストにアクセスするにも別冊子があるほうが便利だ。
午後には散歩に出た。一色楽器に立ち寄って、一色社長や居合わせた川尻さん、光永さんと話し込んだりして、ちと長い散歩になったけどな。
というわけで「数学の基礎」で \(\forall\) と \(\exists\) の話をしてきた。講義資料には \(\forall x\in X(p(x))\) を証明するためには《任意の \(x\in X\) をとり、\(p(x)\) が成り立つことを示す》なんて書いたが、これだけでは説明になっていないので《なんらかの \(x\) を任意にとるというのは、それが集合 \(X\) の要素だということ以外いっさいわからない。\(x\in X\) だという情報だけから \(p(x)\) が成り立つことが示れば、\(x\) は \(X\) の要素だったらどれでもいいんだとなって、\(\forall x\in X(p(x))\) が言えたことになる》とか《自分は小屋の中の占い師で、\(x\) は占ってもらいに入ってくるお客だと思え。入ってくるのは入ってくる人の任意であって、迎えるこちらの任意じゃあない》などなど、いろいろ工夫してしゃべった。
多重量化は頭が混乱しがちな部分だ。\(\forall x\in X\exists y\in Y(p(x,y))\) と \(\exists y\in Y\forall x\in X(p(x,y))\) は違うぜ、というのを形式的にばかり話していては仕方ない。《たとえば \(H\) をすべての人の集合として \(p(x,y)\) は \(x\) が \(y\) のことを好きだ、と読んでみよう》と言ってみた。
\[
\begin{align*}
\forall x\in H\exists y\in H&(p(x,y)) \\
\exists y\in H\forall x\in H&(p(x,y))
\end{align*}
\]
と書いて、《日常的な思考の中で「どんな人も誰かのことが好きだ」というのと「すべての人に好かれるような人気者がいる」の違いがわからない人はいない。形式的に書かれた表現がわからないのは、あなたたちの頭が悪いからでは決してない。こういうふうに形式的に書くということ自体に不慣れなだけだ。》と力説した。この例については、あとの演習の時間にちょいちょい質問されたり、仲間内で議論したりしていた。日常的な例を出したからといって、全員にすぐにパッとは伝わらないもののようだが、関心は引いたようだ。
存在命題に関連した証明で一番問題になるのは、途中に(あるいは仮定として) \(\exists x(p(x))\) の形の命題が出てきた場合だ。しかし、今回その話には触れなかった。
午後には卒業研究ゼミをやった。前原昭二『記号論理入門』(日本評論社)の第1章の§7〜§9といったあたりを読む。毎週同じことを言っている気がするが、本を注意深くていねいに読むということを、ゼミを通じてまず学んでもらわんといかん。とはいえ、この本での《束縛変数》と《自由変数》の説明は、ていねいではあるが少々持って回っていて、直截とは言いがたい。たとえば、これは前原先生の初学者への教育的配慮から出た例だとは思うし、かくいう俺も、この話の流れで著者以上にうまく説明できるわけではないが、《2次関数 \(f(x)=ax^2+bx+c\) 》と言ったときの \(x\) は束縛変数と考えねばならない、なんてことは、初学者に言うとかえって混乱を招きそうだ。
そういえば明日の「数学の基礎」でも \(\forall\) と \(\exists\) の話をすることになっている。余計なことを言って初学者を混乱させないように気をつけなくては。