て日々

2025年4月

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昨日ちょっとがんばって重い荷物を運んだので肩から腕にかけて筋肉痛である。まあ、生きてる証拠だ。

水曜日だが火曜日のスケジュールで授業をする日である。なので午後に「数学の基礎」の授業がある。内容は25日(金)にやったのと同じだ。火曜日のクラスでは、事情により文字通訳サービスを利用している。首からぶら下げたマイクが拾った講師の喋りを、遠隔の支援者が文字起こししているのだろうけど、わりと正確なので感心する。大変な労力のはずだ。将来的にはこういうのもAIに置き換えられていくのだろうか。

試しに1つのパラグラフをMacBook Proで音声入力してみよう。いろいろな事情で、ペンローズの『心の影』を連休中に読むことになった。先日、引き受けることにしたとあるプロジェクトに関連して、いよいよ読まずには先に進めないのだが、本当は前々から読まねばならんとは思っていたのだ。というのも、この本でペンローズが、チャーチ=チューリングの提唱を超えた物理過程について考察しているらしいからだ。心の哲学との関連では、ペンローズの議論が完全性定理の応用として適切であるかどうか、あるいはペンローズの議論が本当に「心はチューリング機械ではない」ことの証明になっているのかが、もっぱら問題にされる。今回のプロジェクトにもそうした話題が少し関係している。いっぽう、俺が時折思い出したように書いているとおり、計算可能性の枠を超えた物理過程が原理的に存在し得るというだけでも、数学にとっては大問題のはずだ。その場合、その物理過程が心の働きとしてヒトの内で起こっているかどうかは、また別の問題である。(以上、音声入力のあと手入力で補足・編集した。音声入力は思いのほか正確で、書き直しはほとんど必要なかった。)

夕方から歯医者に行った。左上の奥歯に銀歯が入った。

午前中に本をひと山ブックオフに持って行った。全部で70冊ちょっとあったというので、20キログラムくらいの重さだったはずで、それを二つのトートバッグに入れて歩いて持って行った。おかげで、普段なら10分かかるかどうかという道のりの、まあ遠く感じたことよ。帰宅してしばらくは両腕のだるさを感じながら文献を読んでいたのだが、あんまり天気がいいもので、外で陽射しを浴びたくなった。それで、ちょっと遅めの時間にはなったが、ふたたび出かけ、歩いて堀之内に行った。公園では子供たちがボール遊びをしている。誰かが三線で「安里屋ゆんた」を弾いているのがかすかに聞こえる。ゆったりした時間の流れる幸せな午後である。もうすぐ閉店してしまうという大街道のジュピターの閉店セールをひやかしたり、食材を買い足したり、あちこちと歩き回ったので、久々に歩数が2万歩を超え、Apple Watchのムーブリングが200パーセントを超えた。だからどうだと言われても困るが、まあ、こういうものにも地味に達成感がある。

朝から小雨だが、電車代をケチって、代わりにモンスターエナジーを投入して、歩いて大学へ行った。濡れたスニーカーで大学の廊下を歩くと足音がクッチャクッチャとやかましくて困る。

きょうもカレー作りをした。前回作った手羽元のカレーは美味しいけど食べにくかったので、いつもどおり鶏もも肉を使った。調理中のBGMはクラシックではなく(櫻井さん神保さんがいたころの)カシオペアの古い音源をかけた。このころの曲では俺は「テイク・ミー」と「ルッキング・アップ」が好きだ。少し調べてみたところ、カシオペアというバンド名は野呂さんが母親に示唆されて星座の名前をつけようということで選んだらしい。カシオペアなんて名前だから、俺はてっきり、最初は5人組でスタートしたのかと思っていたよ。

それからコミセンの図書館へ行って本を借り換えてきた。今回のキーワードは「心の計算理論」である。あの『プルーストとイカ』のメアリアン・ウルフの2018年の本『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』(インターシフト)を含めて8冊借りてきた。2週間で読めるのか?

『プルーストとイカ』については12年前の建国記念日の日記にちょいと書いた。って、もうそんなになるのか。古い「て日々」を読み返すと、あのころは饒舌にいろいろ書いてるなあと思う。いやいや。今だって毎日を充実させることはできるはずだ。生きてるうちはがんばらないと。

きょうもいい天気なので洗濯をする。先日「英雄」を聴いたので、けさは同じくアーノンクール指揮のヨーロッパ室内管弦楽団で、ベートーヴェンの交響曲2番、6番、5番と聴いた。午後は食材を買いに行って、明日以降に備えていろいろと(手羽先のハーブ焼き、ナスの浅漬け、ひじきの煮物、チャプチェ)調理した。

きょうも午前中に「数学の基礎」の授業がある。この授業は、数学における基本的な論理語、すなわち、∧ (かつ)、∨ (または)、¬ (否定)、∀ (すべて)、∃ (存在する) を紹介し、その使い方を知ってもらうためにある。形式論理の授業ではないが、どうしても話が形式的な骸骨になりがちだ。言ってみれば、歩き方を教えるために「左足を前に出して体重をかけます。次に右足を前に出して体重をかけます。このように交互に前に出して体重を移動して、云々」と伝えるような、あるいは、自動車の運転を教えるために自動車を分解して組み立て直してみせるような、そういうまどろっこしい授業である。まあしかし、これと反対に、泳ぎ方を教えると称していきなり海に投げ込むような授業が多い中で、このようにまどろっこしい授業が設定されていることにも、それなりの意義がある。その設定の枠内で何をどう教えるかは、こちらの腕の見せ所というわけだ。演習ではいろいろ思いがけない質問が出るのでこちらも勉強になる。

午後には、先日オファーをもらって引き受けることにした新規プロジェクトの最初の打ち合わせをリモートでやった。厄介だが面白い仕事になりそうだ。でも、まだ詳しくは言えない。

天気がよいから、自転車で移動していても気持ちがいい。

午後には卒業研究ゼミをやる。前原昭二『記号論理入門』の第1章を読み進む。演繹を扱う第2章以降が面白いのだが、命題をあらわすための論理記号を説明する第1章も、もちろんユルガセにできない。

昨日作った手羽元のカレーは美味しいけど、骨付き肉のカレーって、ちょっと食べにくいな。

朝、ラジオでベートーヴェンの「英雄」(交響曲第3番)がかかっていた。アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団の演奏だ。交響曲のコンセプトを書き換えたこの曲を聴きながら、なんとなく「時代を変えた革命児」のことを考える。時代を変えた人を後になって顕彰することは誰にでもできる。だがこれから時代を変え世界を変える人は、いわばどこぞの馬の骨である。しばしば、非常識なおかしな奴である。だから、無視されたり笑われたり攻撃されたりする。後の世の人はその無視した笑った攻撃したおのれの無理解をケロっと忘れて、かつての革命児のために記念館を建てたりする。

民衆が無責任なのは、決して褒められたことではないにせよ、ある程度仕方がないことだ。しかし、記念館を建てたりするのはたいてい、地元の権力者や有力者であろう。それなら、いま現在のどこぞの馬の骨たち、これから時代を変える(かもしれない)人たちのために、権力者や有力者に何ができるか、何をする気があるか、それが問題だと思うのだ。もちろん、過去の革命児の記念館を作ることにも後の世の人を導くという教育的な意義はあるだろう。未来を作るためには歴史を振り返る必要があり、その意味では過去の偉人のやったことを正しく伝える施設だって無駄ではない。ただ、それ以上に、未来の革命児たちが活動する場所を作るためにお金や権力を使ってほしいと俺は思う。次代を担う若者たちの教育の現場に、十分な予算と裁量の余地を与えてほしいという話なのだ。いまはまだ普通のこの子供たちの中に、時代を変える未来の革命児がいるわけだから。

というわけで話は変わる。夜にはいつものカレー作りをした。今回は鶏のもも肉ではなく手羽元を使った。カレーのほかに水菜のおひたしも作った。生きてるうちは食わねばならず、そのためには料理だってせねばならぬ。

まだ詳しいことは言えないけど、先週木曜日に頂戴したオファーを受けることにした。さてさて、いろいろ勉強せにゃならんぞ。

火曜日の夜はピアノのレッスンに行く。先週からたいして進歩していない。指使いを決めないと練習にもならないので、いろいろ先生に相談する。帰宅してから、弁当箱を職場に置き忘れてきたことに気づく。いまから雨の中を取りに行く気もしない。さいわい、弁当箱は洗ってあるし、明日は比較的時間に余裕があるからまあいいわ。

未明に目が覚めて、そういう時の常としてなかなか寝つかれない。往年のシカゴのヒット曲の世界だ。このごろどうも生活にリズムというものがないので困っている。当然の報いとして、昼間はクタバっていた。ぜんぜん使い物にならない。

夕方に歯医者に行った。そのあとででぃぐセミナーに参加した。今回は集合論乱読会と称して、一つの論文を参加者がそれぞれ30分ほど黙読してからコメントしあう。お題はいくつかの候補の中から選んだ Mildenberger H., «Non-constructive Galois-Tukey connections.» Journal of Symbolic Logic. 1997; 62(4): 1179-1186. だった。30分でざっと概要をみただけだが、基数不変量の不等号を示すさいに用いられる写像が effective なものでありうるかどうかというテーマを扱っている。皆でしゃべってる時は思いつかなかったが、このセミナーの第4回の丹野くんの発表との関連についてコメントあるいは質問すればよかったな。

運動不足解消のために夜に散歩に出た。特に行くところもないしお金もないので、Apple Watch のリングが閉じるまでテキトーにそこらへんをウロウロした。

日曜日にエルベに特売の鶏もも肉を買いに行くのが恒例になっているが、昨日のうちにひよこ豆のカレーを作ってしまったので、きょうは鶏肉は買わない。午後に散歩に出る。あまり天気がよくない。散歩の帰りにスーパーに寄る。米が高くてびっくりする。しかし高くてもぼちぼち買わねばならぬ。ううむ。

けさはなんだか意味ありげで面白い夢をたくさん見たように思う。朝食とシャワーのあと、スーパーが開いた頃合いを見計らって玉ねぎを買ってきた。きょうはひよこ豆のカレーを作る。チキンのカレーと違って肉の旨味が出ないからどうなるかと思ったが、まあまあのものができた。味見をしようとスプーンにすくったカレーがこぼれて、左足の1指と2指の間のちょうどお灸のツボのところに落ちて、大変熱かった。どうせならいま不調の右足のツボに落ちてくれればよかったのに。

カレーができたので、鶏むね肉をヨーグルトとスパイスに漬け込んでチキンティッカの仕込みをした。これを冷蔵庫で寝かせておいて、焼くのは晩方にしよう。

午後には愛媛県美術館にアルフォンソ・ミュシャ展を見に行ってきた。アール・ヌーヴォーの旗手というべきミュシャのいろいろな版画やポスターがあって見ごたえがあった。ミュシャの描く美女にメガネをかけさせたらそのまんま結城浩さんの理想の女性像になるなあなどと思いながら見て周り、ふと、これはひょっとして女性像ではなく周りに描かれた花や紋様を見るべきなのではないかと思いついた時には、すでに半分以上を見て回っていた。1900年ごろのパリといえば、ドビュッシーやサティの音楽が出てきだした頃である。サティがキャバレーの歌手のために「ジュ・テ・ヴュ」を書いたのがちょうど1900年だから、フランスの音楽界も世代交代が始まる時期だったのだろう。それと時を同じくして、ミュシャの広告美術が一世を風靡したわけだ。この時期のヨーロッパの文化というものにはけっこう興味があるので、またいろいろ調べてみないといけないな。

金曜日なので「数学の基礎」の授業をやる。この授業では、Moodleの教材で予習してきてもらっている前提で、前半に内容のざっとした解説をして、後半には問題の演習をしてもらう。

理学部の裏のすぐそこの角のお地蔵さんの隣、以前は居酒屋だったところが、知らん間にインド料理店の看板を掲げている。山越のマルニと同じ名前で、きょう見たところでは営業はしていなかったが、支店でも出るのだろうか。2019年5月の日記で西尾くんと飯を食っていた、あの焼鳥屋のあった場所で、その後もいろいろ店ができては潰れている。たしか8席ほどのカウンターの他は2階の座敷があるばかりで、とてもそんなインド料理店という佇まいの建物ではない。とはいえ、こちとらなにせ日課のようにカレー作りをしているし、このごろはいよいよナンを手作りせにゃならんかと思っているところだしで、インド料理は気になる。本当に職場のそんな近所にインド料理の店ができたら嬉しいので、ぜひ行ってみたい。

夕方から でぃぐ こと後藤達哉くんのリモート集合論セミナーで発表する。今回の発表内容は、2月の下旬にいろいろ言っていたやつで、ZF+DCのもとで連続関数環 \(C([0,1])\) に極大でない素イデアルがあることと \(\omega\) 上に非単項超フィルターがあることとが同値であるという事実だった。後藤くんから「従属選択原理DCは本質的には必要なくて可算選択公理CACで十分なのでは」と指摘があった。たしかにそうかもしれない。

大変よい天気である。

午後には卒業研究ゼミがあった。今年の卒研ゼミでは、前原昭二『記号論理入門』(日本評論社)を最初から丁寧に読む。まずは勉強の仕方そのものを勉強してもらわねばならんのだから、焦ってはならない。このゼミを通して本を読むこと自体を学んでもらうつもりで、気長にやろう。

ゼミのあと、とあるくだらない要件で学生と面談する。まあこれも仕事である。

夜になって非常に興味深いメールが来たが、いまはまだここへ詳しく書くわけにいかない。即答できないから週明けまで待ってもらう。

ガキの頃から俺はそれほどお勉強が好きでなかったので、本を読むにしても、全部が理解できるなんてハナっから思っていなかったし、理解せにゃならんというプレッシャーも感じていなかった。だからテキトーにそこらへんにある本を自分の楽しみのために読んで、印象に残ったところだけを何度も読み返したりしていた。ずいぶんいい加減な話だが、それでも、その印象に残った部分が、あとで役に立ったりもしたものだ。

いまは多すぎる本に囲まれて、しかもてっとり早くアレもコレもすべてを理解したいなどという我欲妄執に捉われているものだから、読めるものも読めない。読む前に自分が潰れている。反省しよう。一度にひとつのことを理解できればそれでいいのだ。塵も積もれば山となるというが、読書なんてものは最初っから、塵を積んで山を作るものなのだと心得よう。

前にもどこかに書いた話だが、「塵も積もれば山となる」の数学的表現というべき「アルキメデスの原理」は実数体 \(\mathbb{R}\) の重要な特徴である。しかし、若い数学徒たちの間では、このアルキメデスの原理が、どうも評判が悪い。有理数体の完備化ということではむしろ \(p\)-進数体 \(\mathbb{Q}_p\) のほうが素直で面白いという考えがあるようだ。ひょっとしたら、アルキメデスの原理に含意される進歩的な人生観みたいなものが飽きられていて、むしろ原点の近傍が閉じた小宇宙をなす \(p\)-進数体が好まれているのかもしれない。まあ、穿ちすぎか。

話を戻せば、《テキトーにそこらへんにある本を自分の楽しみのために読んで、印象に残ったところだけを何度も読み返したりしていた。》というのは、なんだかレコードやCDで音楽を楽しむときの態度と同じである。そりゃあ、録音技術のない時代には音楽を聴くというのは現在とはまったく別の経験だったろうし、現在でも専門の音楽家を目指す人には違った音楽の聴き方が求められるのだろうけど。自分の楽しみのためにいろいろ聴くのはちっとも悪いことじゃない。読書だって同じだ。

一昨日『ミライの授業』を読み終え、きょう『ユングと曼荼羅』のシンポジウムの部分を読み終えて、他の2冊はザっと見てもういいやと思ったので、午後にはコミセンの図書館に行って本を借り換えてきた。電車賃をケチって歩いて往復したが、やっぱり右足がアブナイ。医者に行った方がいいのだろうけど金がない。

いつものスーパーに行ったら、「パスコの超熟フォカッチャ」が売り場から消えていた。とうとう置かなくなったらしい。売り切れていたという感じではない。俺の手作りカレーにはこれが合うので愛用していたのだが残念だ。他にカレーに合いそうなチルドのナンも、昨年のクリスマス前に売り場から消えている。いよいよ自分でナンを焼かねばならぬらしい。フォカッチャ難民ナンつって。

右足と右膝がちょいと不調なのだが、電車賃をケチッて、ゆるゆる歩いて大学に来た。午後には「数学の基礎」の火曜日クラスの最初の授業がある。午前のうちに配布物とパソコン上のファイルの確認をしておかなくては。お昼前後から雨が降りだした。140人分の配布物を持って少し離れた建物まで行かねばならんので、ちょいと気を揉んだ。さいわい授業の15分前には雨は上がったけど。

夜はピアノのレッスンに行く。いやあ、難しい難しい。だけど、絶対的に無理という感触でもない。がんばろう。逃げてばっかりいないで少しは難しいことにもチャレンジしよう。

朝のうち天気がよかったので自転車で大学に来たが、午後は雨が降ったり止んだりである。雨が止むのを待ちながら、この頃にしては珍しく夜8時半まで大学にいた。とはいえ、ぼんやり過ごしてしまったので、それほど進捗はない。帰りはけっこう肌寒かった。

瀧本哲史『ミライの授業』(講談社, 2016年)を読み終えた。この本が14歳の中学生たちに向けて2016年に書かれたということは、最初の対象読者は今年23歳で、そろそろ大学を卒業して社会に出ようという頃である。彼らが思い出して読み返したりしていたらいいなと思った。

カレーを作ったり、本を読んだり、明日以降のためにお惣菜を作ったりする1日であった。

Apple Musicでラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を聴きながら、中学・高校生のころこの曲を好きだと思っていて、何度も繰り返し聞いていたはずの俺が、実は何も聞いていなかったのではないかと気づいて戦慄した。第2楽章の美しいハーモニーなど、まるで初めて聞くように感じられる。若い頃の俺は何をしていたのだろうか。もっとも、この歳になって率直に言えば、俺にはラヴェルはさっぱりわからない。「ラ・ヴァルス」にしても「高雅にして感傷的なワルツ」にしても「古風なメヌエット」にしても、何を言いたいのか何度聞いてもわからないのだ。同じく何を言いたいのかわからないのがブラームスで、なにかモニョモニョ言っているなあ、どうしたのかなあと思っているうちに曲が終わっているのだ。これに比較するとショパンなどは言いたいことはわかるのになぜはっきり言う前にあんなふうに韜晦してしまうんだろうと思うし、ドビュッシーは言いたいことというより描きたい風景があるんだろうなあと勝手に想像してしまうし、ワグナーは職人に徹して自分が言いたいことより皆が聞きたがっていることを優先していると思う。まあ、作曲家と聞き手の相性というものがあるのだろう。

昨晩遅くに中沢新一・千谷慧子・三宅陽一郎『0の裏側 数学と非数学のあいだ』(コトニ社, 2025年)をザッと読み終えた。ザッとといっても、第3章の千谷先生の論説「レンマ界の集合論」はけっこう念入りに読んだので、それなりに時間がかかった。疑問点・修正点をマークしていったら、本が付箋だらけになった。

率直にいって、千谷先生の論説を読んでも、これがどうレンマ界の集合論ということになるのかは、よくわからない。千谷先生の書かれることのうち、数学でない部分が、数学の部分とどう繋がるのかが、俺には見えてこなかったのだ。その点で言うと、岡潔を論じた第4章の中沢さんの講演のほうが、まだ数学と非数学の繋がりはわかりやすかった。そして、その千谷先生の数学の部分にも、ここはこう直した方がいいんじゃないのかという点がいくつかあった。

そうはいっても、面白く刺激的な本ではあったので、俺としては引き続き、数学・非数学の両面から、この話題を追いかけてみようと思う。数学の面では千谷先生の書かれた他の論文や、その源流にある竹内外史先生の直観主義的集合論・量子集合論にかんする論説、同じ竹内先生の源泉から別の流れを作っている小澤正直先生の量子集合論など、読むべきものはいくらでもある。さしあたり、竹内外史『線形代数と量子力学』(裳華房)に再挑戦し、前田周一郎『束論と量子論理』(森北出版)をさっさと読んでしまわなくてはならない。非数学の方向でも、すでに中沢新一『レンマ学』(講談社)は入手済みだし、華厳経の抄訳も解説本も本棚にあるし、マリ-ルイーズ・フォン・フランツの«Zahl und Zeit: Psychologische Überlegungen zu einer Annäherung von Tiefenpsychologie und Physik» (Ernst Klett Verlag, 1970)の英訳版である«Number and Time: Reflections Leading toward a Unification of Depth Psychology and Physics» (Translation by Andrea Dykes, NorthWestern University Press, 1974)も、ずっと積んだままである。何を読めばいいかわからないという状態ではない。つべこべ言ってないで読めばいいのである。

返却期限が来たのでコミセンの図書館に本を返しに行ってきた。それで入れ替わりに日本ユング心理学会編『ユング心理学研究 第2巻 ユングと曼荼羅』(創元社, 2010年)や瀧本哲史『ミライの授業』(講談社, 2016年)などなどを借りてきた。

その足で一色楽器に行った。用件は白石バンドで来年やる楽譜を預かってもらっていたのを受け取りに行くことだが、コーヒーを出してもらって、社長としばし話し込んだ。

午前中「数学の基礎」金曜日クラスの1回目の授業をやる。配布物が多いうえ教室が遠いので、雨だったらちと大変だなあと思っていたが、どうにか早朝のうちに雨は止んだ。普段使わない教室での、これまで担当したことのない授業でもあり、Moodleの設定にまずいところがまだ残っていたりもして、かなりバタバタした。いろいろ思うに任せないが、多分次回からは大丈夫だ。

夕方には歯医者に行った。懸案だった右上の歯の治療が終わって、いまは左上の奥歯の治療をしてもらっている。管楽器を吹くものにとって、歯(とくに前歯)はものすごく大切だ。幸いにして俺は前歯はまだしも健全だが、奥歯が結構ガタガタであるから、このさいちゃんと治療してもらおう。それに、普段からしっかり歯磨きをしなくては。

常用しているMacBook Proの電池の持ちがずいぶん悪くなった。まあ、いまのところ仕事に支障が出るほどではないのでいい。それに、すぐにクタバることについてなら、俺も負けていない。などと、意味不明のことを言いつつ、歩いて大学へ出かける。

卒業研究ゼミの初回はガイダンス的な話とローテーションの相談だけで、1時間ほどで終わった。それ以外の時間は、明日の「数学の基礎」の準備を少ししたとはいえ、要するにほとんどクタバっていた。いやしかし、クタバるのは俺の仕事でも趣味でもなんでもない。好きでクタバっているわけではないので、なんとかしたい。

弁当を作り、自転車で大学へ行く。きょうが前期の開講日だが、俺の担当する授業は金曜日と火曜日で、それから木曜日に卒業研究ゼミをやる。

午前中に学部のある委員会の会議に出た。夕方、「数学の基礎」の受講者にメールを送った。

きのう準備した授業「数学の基礎」の、Moodleの資料公開の時刻設定をミスっていることに、昨晩寝る前に気づいた。きょうのうちに直しておかなくては。

夜にはピアノのレッスンに行った。今回のお題はバッハの3声のインベンションで、俺には技術的にかなりハードである。本番までにまだ日数はだいぶあるが、油断せずに練習しなくては。

きょうは学生との面談が2件あった。ほかの時間は、金曜日から始まる「数学の基礎」という1年生向けの授業の準備にあてた。「数学の基礎」といったって、決して数学基礎論をやろうというのではない。数学の議論の組み立てを体験してもらい、あわせて集合の記法のベーシックなところを知ってもらうのが目的の授業だ。

帰宅後はカレー作りをやる。昨日買ってきた鶏もも肉はあるが、今回は思い立って、鶏肉を使わず鯖缶を開けて鯖カレーにした。さてさてどんな味になったか。

日曜日の恒例としてエルベに鶏肉を買いに行った。いつもどおりもも肉を2枚と、今週はむね肉を1枚買った。もも肉はカレーの具にする。むね肉は蒸し焼きにしてお弁当のおかずにする。カレー作りは明日にするが、夜には鶏肝の生姜煮とほうれん草のおひたしも作って、ひとまず明日と明後日くらいの弁当は安泰。

朝の4時に学生が連絡のメールをよこすものだから目が覚めてしまった。すぐにもう一度寝てもよかったのだが、起き出して楽譜の準備をした。きょうは外でサックスを吹くつもりなのだ。作業がひと段落して5時半ごろから二度寝して、次に目が覚めたら9時半である。このごろナマっている。どうもいけない。

11時過ぎに出かけて西堀端へ行く。カズノさん、かおりん、有田さん、リエちゃんたちと待ち合わせて、花の下でワインを飲んだ。サックスはソプラノで、出し物は「Everything Happens to Me」「I'll Remember April」「かもめはかもめ」「追憶のテーマ」「セカンド・ラブ」などなど。iPhoneに入れたiReal Proをカラオケにして演奏した。俺のことだから、上手には吹けないが、散歩の足を止めてくれる人もいて、なかなか楽しかった。

歩いて出勤した。郵便局に立ち寄るためにちょっと遠回りして、木屋町を北へ向かい、御幸学生宿舎のほうへ回ってきた。川沿いに満開の桜が見れて目の保養になった。

毎年の例にならって、きょうは新2回生ガイダンスで自己紹介をする。その前後、新学期の履修登録について相談があるとかで、学生との面談が2件ある。空いた時間には引き続き「レンマ界の集合論」を読む。いろんな意味で面白いが、まだ核心には到達してない気もする。

夕方には、年度はじめに着任した佐藤拓哉さんの数学談話会があり、夜には歓迎会がある。それなのにうっかり歯医者の予約を入れてしまっていたもので、歓迎会には少し遅れて行くことになるかと思って、幹事にそのように予告していたのだが、歯医者が思いのほか早く済んでしまって余裕で間に合った。なんだかマヌケである。

それに、歯医者は自宅の近所であり、かつ、自宅は電車の駅に近いのだから、冷静に考えたら、きょうは歩いて出勤する必要は全然なかった。自転車で出勤して、大学から歯医者へ回り、そのあと自転車を自宅に置いて、街まで電車で出て歓迎会に参加すればよかったのである。けさなんとなく、きょうは酒の席があるから自転車はやめとこうと思ったのだが、その時点ですでにマヌケな話である。きょうはそんなわけで、マヌケのダブルブッキング。平方マヌケ。

なかなかいい天気である。洗濯をすませてから、歩いて大学に行く。図書室で雑誌『数学セミナー』のバックナンバーを紐解いて、3月号まで連載していた池上大祐さんの「集合論の雑学」をひととおり読み終えた。公理的集合論の基本のところは、誰が扱っても同じようなものかと思っていたが、語る人によっていろいろな切り口があるものだと思った。というわけで、俺も俺なりに頑張ろう。

研究室では『0の裏側 数学と非数学のあいだ』の第3章、千谷慧子の「レンマ界の集合論」を、ノートをとりながら読む。このタイプの議論には不慣れなのでいろいろ計算をしたりしながら進む。原文には、誤記や編集ミスがいろいろあるほかに、定義上の不具合と思われるものもある。だが、ゴチャゴチャ語る前に、ともあれこの章の最後まで読むことにしよう。

作業用BGMとして、Apple Musicからサム・テイラーのテナーサックスの演奏を低いボリュームで流していた。日本の昭和歌謡などを積極的に取り上げ、スタンダードナンバーの演奏でもムード音楽路線を強調するサム・テイラーという人は、コアなジャズファンには大衆迎合路線として軽蔑されがちなのかもしれないが、その自由闊達でありながら正確・確実な演奏からは、学ぶものが多そうだ。達人というのはこういう人のことをいうのだろうと思う。

ブログ「店長・久保田のサックスお悩み相談室」の記述によると、あの須川展也さんも中学生の頃にサム・テイラーの音色に衝撃を受けてフルートからサックスに転向したそうだ。(出典

きょうは進捗というものとはまるきり無縁の1日だった。とはいえ、チャプチェ、白菜の煮浸し、ひじきの煮物と、お惣菜を三品調理したから、全然何もしなかったわけでもない。

macOSが15.4になり、iOSが18.4になった。最近のmacOSには、Apple IntelligenceというAIツールが組み込まれているらしい。何に使うもんなんだろうか。いろいろの作文をサポートしてくれたりするのだろうか。

郵便局に行ったら、ATMの足元に千円札が落ちていた。超絶お金のないこの時期のこととて、少し心が揺れたが、局員さんに届けた。おかげで人間としての誇りが守られた、みたいに言うとかっこいいが、落ちていたのが壱万円札だったり、逆に百円玉だったりしたら、話は少し違っていたかもしれない。

新年度になったわけだが、俺のやることにはあまり違いがない。歩いて大学に行き、管理している数学教室のホームページと、あと、無くすわけもいかないので残してある自分の仕事用の小さなホームページを年次更新する。新人の佐藤拓也さん(非線形シュレーディンガー方程式がご専門)があいさつに来られた。

夜はピアノのレッスンに行く。11月の発表会に向けてバッハの三声のインベンションを練習するわけだが、えらく難しい。どこから手をつけていいかわからないので、先生に相談する。