またまた寝坊した。天気の良いうちに窓を開けて空気の入れ替えをして、リビングルームにひと山ばかり積んだ本を並べ替える。そういえば、このダイニングテーブルの上も、そろそろ整理せねばならぬ。
午後は散歩に出る。宮西のブックオフを冷やかし、いよてつ高島屋の紀伊国屋書店を冷やかす。紀伊國屋書店はうっすらと冷房をかけていたように思う。それくらい暖かな日だった。
帰りは歩いているうちに雨が降り出した。そのうち雷まで鳴りだした。天気予報を見て念のために折りたたみ傘をバッグに忍ばせておいたのは正解だった。どうにかフジグラン松山にたどり着く頃には雨はすっかり本降りである。
さて、フジグラン松山まで来たついでに、倅のためにフォーマルな靴下を買って、家にあるネクタイやハンカチと一緒に、倅が今日入居したばかりのアパートへ送ってやることにする。なにしろ、倅は入学式でスーツを着ると、母親であるわが妻が決めてしまったのだ。ネクタイやハンカチはともかく、下着や靴下は父親のお下がりというわけにはいかないだろうからな。
倅はスーツとかフォーマルとか、そういうものが意味を持たない世界に入門したくて、毎年の卒業式にコスプレで登場する連中がいることで有名なあの大学に進む。倅にスーツを着せたいのは、俺でも倅自身でもなく、世間というものに少々過剰反応気味なわが妻である。まあ、そうは言っても、フォーマルな格好をせねばならぬ時と場合というものは、生きていれば必ずやってくるわけで、スーツの着方、ネクタイの結び方くらい、早めに経験しておいてもらうに越したことはないのも事実だ。そういう意味では、大学の入学式はまあいい練習の機会である。
このところ、朝起きられない日が続く。昨晩23時には寝たのに、今朝は9時過ぎまで起きられなかった。寝すぎである。
ともあれ、遅い朝食をとり、天気がいいので洗濯をする。午後はソプラノサックスを持って堀端に行き、少し練習というか楽器のご機嫌伺いをする。そのあとはパルタジェに行って4月にやる講演会の打ち合わせをしつつ、ワインの試飲をする。昨年9月に「理系と文系」というテーマで話した講演会の第2回で、今度はアルゼンチンタンゴの話をすることになった。このテーマからあのテーマへという脈絡というものがまるでない。まあ、俺はそういう奴なのである。
丑三つ時に目が冴えて、『ボルヘス怪奇譚集』を手に取る。柳瀬尚紀による訳者あとがきに引用された、ルイス・マクニースの言葉が印象的だ。
新しいものが何ひとつないことを
知っているゆえに何ごとをもはじめないのは
衒学的な詭弁 ——
原罪だ。
柳田國男『遠野物語』を併せて読みたくなる。夜のしじま、外から雨音が聞こえる。この数日の雨模様のおかげで石手川ダムの貯水率も8割まで回復した。ありがたいことだ。
改めて自分の書棚を見直すと、なんということだろう、宝の山ではないか。俺はいったいどれだけ本を積めば気が済むのか。
その宝の山の中に、このさいもう手放してもいいかという宝も、なくはない。とくに、オーケストラのミニチュアスコアのうち何冊かは人に譲ることにしよう。バルトークの《不思議な中国官吏》とかレスピーギのリュート組曲I、II、IIIとかミヨー《世界の創造》とかイベール《フルート協奏曲》などなどを、Twitterで相互フォローの うたさん にあげることにした。オネゲルとかヴィラ=ロボスとかショスタコーヴィチとかは譲らない。そして、毎度の疑問だが、リムスキー=コルサコフ《シェヘラザード》のスコアが手元にないのは何故だろう。持っていたと思ったが、記憶違いなのか。しゃあない。また買うか。
夜が明けてみると、雨はすっかり上がって、青空が広がっている。京都に戻った倅に送る荷物と、うたさんに送るスコアとを、それぞれ荷造りして、近所のコンビニから発送する。
午後、自転車で大学に向かうが、年度末の金曜日とあって、道には車がとても多かった。大学では、事務員の正岡さんの送別会があった。5年間にわたって数学教室を支えてくださった正岡さんは、このたび定年退職なさるのだ。教員一同から花束と記念品を贈り、皆で写真を撮った。
どうも疲れが溜まっていたようだ。一日、くたばって過ごす。当然、酒も飲まない。
あれもこれも読まんならんのである。しかも本は無数にあり、対するこちらは、知力も体力も財力も何もかも有限である。まるっきり多勢に無勢である。だがそんなことを言っていても始まらない。どっからなといかな。
アルゼンチンのことをいろいろ調べているので、ホルへ=ルイス・ボルヘスの作品を読みたいと思った。昨年の暮れに岩波文庫で『シェイクスピアの記憶』という短編集が出ていて、これなら松山三越のジュンク堂にもあるようなので買いに行ってきた。いっしょに河出文庫の『ボルヘス怪奇譚集』を買うことにして、他に何かないかと思って見て回ると、畠山雄二『音楽理論と文法理論』(開拓社, 2024年)という新しい本が出ていた。理論言語学者としての畠山さんのことなら、産業図書の『数理言語学事典』を通じて、俺も名前くらいは知っているが、彼は実は、間違いなく言語学より音楽に詳しいと自認するほどの音楽マニアであるという。その畠山さんが、音楽理論と文法理論を渉猟して、ここが共通点でここが相違点で、というようなことを書いているらしいのだ。これは素通りできない。
MacBook ProにインストールしたTeXLiveを最新の2024にアップデートした。これはダウンロードにちょっと時間がかかった。
午前中は倅を三津の港まで見送る。三津までの電車では、昨日お別れの挨拶をしたばかりの院生HRTさんと偶然にも同道。彼女も倅と同じ船で柳井に渡るという。HRTさんと倅を三津港で見送って、雨上がりの曇り空の下、旧三津浜商店街を逆にたどり、電車で家に戻る。いつの間にか、頭上に燕が舞い、鶯の声が聞こえる春になった。このところの雨で石手川ダムの水位も7割まで回復したようだ。
夜にはピアノのレッスンに行く。この2週間というものずっとドタバタしていて、ピアノが練習できていなかった。そういう言いわけをしてサボるのは簡単だが、後で後悔するに決まっている。いつも言っているように、仕事ではなく自分の楽しみのためにやっているのだから、手を抜くのはバカというものだ。いつかいい演奏ができる日のために練習を続けよう。そして、続けるためには「弾けない自分」「ヘタな自分」「カッコ悪い自分」をありのままに受け入れる心構えが必要だ。この覚悟が俺には足りないんだ。
大学の卒業式の日。例年のことだが俺は県民文化会館での式典には参加せず、その後の理学部キャンパスでの学位記授与に立ち会い、さらに写真撮影に参加する。今年度は学部卒業生3名大学院修了生1名が自分のゼミにいたが、写真撮影に1人も現れない。院生MBRくんと学部生TYTくんは仕事のため来られない。あとの2人、学部のTKDくんとM2Mは、写真撮影のあとの記念パーティーにやってきた。そもそも12時から学位記授与があること自体を「聞いていない」という。そんなわきゃあない。
6年前から学生生活担当教員として対応した院生F2KもHRTもMBRも大学を後にする。これまでいろいろ面白いことを提供してくれてありがとう。これからも健康第一で頑張りましょう。
さて先週買った田中尚夫先生の『記述集合論要説』だが、けさ大学の事務室に行ってみると、版元から献本が届いていた。すぐに田中先生と編集の大賀さんにお礼のメールを送った。買った方の1冊は大学図書館に寄贈することにしよう。
夕方帰宅すると、大学新入生の倅が、明後日大学で開かれる歓迎会に手土産を持って行きたいという。自力でそのことに思い至るとは、なかなか感心だ。フジグラン松山に行ってポンジュースのペットボトルを何本か買ってやる。それと、倅は明日の晩には山口県の妻の実家に世話になるので、おじいちゃんへの手土産に日本酒を買って持たせる。荷物を置きにいったん帰宅してから、焼肉屋へ行って夕食をとる。
コンサート当日。集合は8時20分キャメリアホール前だが、朝飯の用意をしていなかったこともあり、ひとまず7時台の電車で市駅に向かう。電車を待つ間、青山南の『本は眺めたり触ったりが楽しい』を読み、電車の中でも読み、読みながら電車を降りた。降りるときにドアのところで手元に雨だれが落ちてきた。本のページが濡れたかと思ったが、どうやら無事のようだ。
市駅ビルのドトールコーヒーで、コーヒーを飲み、レタスドッグを食べる。隣のテーブルでは若い男女4人がなにやら語り合っている。その口調が、楽しそうなんだけど、少し遠慮がちで初々しかった。敬語こそ使わないが、クラスメートとか遊び仲間に対するような馴れ馴れしい話し方とはどこか違う。そんな若い男女が日曜の朝のコーヒーショップにどんな事情で集まっているのかはわからないが。なんにせよ、若さっていいな。
さて、コミセンの広い広いピロティには、来場者が腰をかける場所というものがない。二階三階の会議室の廊下にも、ベンチのひとつもない。図書館の閲覧室やキャメリアホールのロビーにはもちろん椅子があるが、ふらっと立ち寄った人が足を止めて休める場所のひとつもない。となると、用のない人は来なくてもいいと言ってるようなものである。
かつてここには、たくさんのベンチがあり、椅子とテーブルのセットもあって、ちょっとした打ち合わせや待ち合わせには、それでじゅうぶんに間に合っていた。市立中央図書館で借りた本をピロティのテーブル席で読むということを俺もこれまで何度もやっている。あの楽しみが禁じられたのは寂しい。コロナ禍のドサクサで今のようなことになっただろうとは思うが、これではコミュニティのためのセンターとは言えないのではないかとボヤきつつ、キャメリアホールの開扉を待つ。
会場入りしてすぐに10時過ぎまでリハーサル。それから14時半くらいまで、少し長めの空き時間がある。一昨日の合奏で頑張りすぎたせいでアンブシュアにダメージを負っているので、空き時間にはあまり楽器に触れないことにした。昼食を取ろうと竹原のはなまるうどんに行ってみたら改装中とて閉店している。仕方がないので、その隣のレディ薬局でおにぎりと飲み物を買って楽屋に戻る。
今回のプログラムは、最後のレスピーギは別にして、もっぱら映画音楽である
- 大脱走のマーチ
- タイタニック・メドレー
- 「シンドラーのリスト」テーマ曲
- シンデレラ・メドレー
- パイレーツ・オブ・カリビアン
- アンタッチャブル
- 交響詩「ローマの松」から、アッピア街道の松
本番のステージでは「演奏し終わるのが惜しい」というあの感覚を、久しぶりに味わった。そして例によって、普段の練習が足りないことを思い知らされた。
白石先生のバンドで演奏するのは今度が4回目だった。これまでと違うのは、レセプションと称したウチアゲが実施されたことだ。南堀端のアミティエで、60代から中学生まで30人ほどが飲み食いをして、なかなか楽しかった。
そんなわけで、朝は少々寝坊した。
青山南の『本は眺めたり触ったりが楽しい』を読んで、ジャン=オノレ・フラゴナールの「読書する少女」という絵のことを知った。有名な絵らしい。ネットを検索してみた[Wikimediaの画像データへのリンク]。随分小さな本だなあ、とか、あんなふうに本を持てるものかなあ、とか、妙なところが気になりはするが、確かにいい絵だ。白の襟飾りのついた黄色のドレスに身を包んだ少女のまだあどけなさが残る横顔と、絵を包む、なんというか赤外線的な暖かさが印象的である。レプリカを家に飾れたらいいなと思ったけど、うちはとてもそんな家ではない。絵を飾ろうにも、その前にカオス状態の部屋をなんとかせにゃ、どうにもならん。
今日も夜は吹奏楽のリハーサルがある。夕方4時ごろキャリアホールに到着。昨日のリハーサルで出だしの入り方が全然わからなかった曲は、YouTubeにスコアをめくりながら音源を再生する動画があったので、それをみてどうにか理解できた。まだやり残したこともなくはないが、昨日のようにバテバテになることもなく、充実したリハーサルだった。ありがたいことだ。明日の朝一番に最後のリハーサルがあるので、今夜は夜更かしせずに寝ることにしよう。
昨日に引き続き代休日だ。午前中ちょっと用があって自転車で郵便局まで走った。ゆるい坂を上がったり下がったり、片道20分弱の道だ。今回初めてヘルメットを着用してみたが、思ったより軽くて快適だった。
明後日の吹奏楽のステージ本番に備えて、午後にはコミセンで練習。夕方から1回目のリハーサルをやる。出だしのタイミングがわからない合わせ方の難しい曲もあるし、体力的にも結構大変。ついていくのがやっとという感じだが、やっぱり楽しいぞ。
夜9時にリハーサルが終了してから、トランペットの川尻さんと、市駅前のリュードバックに行った。例によって軽く飲みつつ川尻さんの長い話を聞いて、真夜中すぎにタクシーで帰宅。ダイニングに着席したまま寝落ちして、気づいたら朝の4時だった。こりゃいけない…
今日と明日は休日出勤の代休日をとっている。
けっこう寒い。午前中、洗濯をし、昨日やり残したスペイン語の練習問題を済ませた。倅が出身高校へ大学合格の報告と卒業証明書の発行手続きに行っている間、俺はコミセンへ行って、誰もいないホールで少しだけ楽器に息を入れる。
帰宅して昼食をとり、昼寝しているところへ、紀伊國屋に発注していた本をクロネコヤマトが届けてくれた。月曜日の日記に書いた、約束していた本というのは、加藤文元・砂田利一編『数論入門事典』(朝倉書店, 2023年)である。姉妹編の『幾何学入門事典』(朝倉書店, 2023年)と一緒に届いた。で、大学で数学を学び整数論をやりたいと言っている倅に数論入門事典をプレゼントし、幾何学は俺が読む。
倅はさっそくメモ用紙と鉛筆を手に数論入門事典に取り組みはじめた。なかなか見上げた向学心である。途中で「この \(M\times M/\sim\) ってのがわからん」とか言う。そりゃ直積集合とか商集合は高校数学の範囲にないから仕方がない。横から説明してやる。
今日のスペイン語は ir と venir の現在形。それと序数詞。スキットはレストランでの注文の場面だった。「ir a +不定詞」で近接未来(これから〜するつもりだ)を表す仕組みは英語やフランス語とも共通だ。最近は日本語にもこの発想が輸入されているようで、「これから〜します」を、若い人たちは「〜していきます」と表現する。日本語になかった未来形がいつのまにか誕生している。さてそれではフランス語の「venir de+不定詞」の近接過去(ちょうど〜したところだ)はスペイン語にもあるのだろうか。テキストのこの第5課には記述がなかった。辞書で調べてみると、スペイン語にも venir de+不定詞 の表現はあるが、フランス語とは少しニュアンスが違うようだ。
夕食は倅の好きな はま寿司 に行った。
昨日までに読んだ『さみしい夜にはペンを持て』は「書くこと」についての本だった。いま手にとっているのは、青山南『本は眺めたり触ったりが楽しい』(阿部真理子 挿画, ちくま文庫, 2024年)で、こちらは読書論、つまり「読むこと」についての本だ。この本もそうだが、本についての本には面白いのが多い。書く人がたいてい無類の本好きであるからかもしれない。それに、この本では、著者が「自分は読むのが遅くて仕方がない」と何度も独白していて、そうそう俺もそうなんだと共感できる。まあ、そうは言っても著者の青山南は翻訳家・作家であり、読書の量も質も、俺なんかとはもちろん比べものにならん。
春分の日
今年もこうして春分の日を迎えたが、わりと肌寒い。朝のうち、小雨の降る中を、近所のホームセンターまで行って、自転車用ヘルメットを買った。自分用に買ったのだけれども、まず倅に被らせて、倅が松山にいる間に、自転車に乗る練習をさせる。というのも、4月から倅の通う大学のキャンパスはかなり広くて、自転車でもないと次の授業に間に合わない心配さえあると聞いたからである。俺も仕事で何度も訪ねている、あのキャンパスである。確かにキャンパスは広大で(←広島大学というわけではない)、キャンパス周辺の道路は学生さんが歩道を自転車でビュンビュン走っていて、夕方なんか特に危ない。なるほどあれはみんな必要に迫られて自転車に乗っているのね。で、倅は幼稚園時代には園庭で自転車に乗って遊んでいたというが、それ以後13年ほど、まるでご無沙汰である。そんなわけで、こちらにいる間にちょっとは練習しておいてもらおう。
午後には雨は止んだ。週末の吹奏楽の演奏会に備えて、夕方から打楽器の搬出・搬入がある。昼食後、少し早めに出て、誰もいないホールでしばらく楽器に息を入れてから白石先生の家に向かう。集合時間より15分ほど早く行ったのに、すでにたくさんの人が集まっている。まあ祝日だからね。引越し業者のトラックにティンパニ4発、オーケストラベル、マリンバ、シロフォン、ビブラフォン、銅鑼、ボンゴ、ドラムセット、その他たくさんの打楽器と、チューバ、トロンボーン、ホルン等々の管楽器を積み込む。この時間になると、雨の心配はどこへやら、晴れ間が見えて陽光がさしている。去年もそうだった。どうやら白石先生は、よほど日頃の行いがよいか、あるいは天気の神さまにコネでもあるのだろう。
コミセンに楽器を搬入する作業が済んだら、帰宅して夕食に もつ鍋 を作る。夜遅くに少しだけスペイン語をやる。tenerの活用とtener que+不定詞の用法。
一昨日大学生協に行ったときに田中先生の本と一緒に買った古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』(ポプラ社, 2023年)を読み終えた。自分を知り自分と対話し自分との人間関係を築くために、日記を書いてみようと勧める本であった。いい本である。タコジローくんの日記には及びもつかないなりに、俺もこうやってウェブ日記を二十数年も続けている。どうもやっつけ仕事になりがちだが、これでも後で読み返すと時間を忘れるくらいに楽しいこともあるのだ。
しやし今日はよくサボった。ピアノもスペイン語もやらなかったし読書も捗っていないし運動もしていない。洗濯と飯の支度はした。朝は雑炊。昼は天ぷらうどん。夜はハンバーグの他に塩サバの油漬けを作った。どれも素人料理だ。他の時間は昼寝と、倅との無駄話に費やしてしまった。
先日からアルゼンチンタンゴを集中的に聴いていて、いくつか気に入った曲がある。
- El día que me quieras (想いの届く日): カルロス・ガルデル
- Por una cabeza (首の差で): カルロス・ガルデル、映画「セント・オブ・ウーマン」で使われたらしい。
- A fuego lento: オラシオ・サルガン(Horacio Salgán)、どこが一拍目かわからない!!
- Generación 80 (1980年代): オマール・バレンテ(Omar Valente)、大貫妙子+小松亮太の《Tint》の第1トラックに収録
- El ultimo café (最後のコーヒー): 上記アルバム《Tint》所収の「ハカランダの花の下」の原曲
- Ojos negros (黒い瞳): ビンセンテ・グレコ(Vincente Greco)、アニバル・トロイロの演奏がいい。なんでも、編曲は若い頃のアストル・ピアソラだとか。
- Malena: ルシオ・デマレ (Lucio Demare)
とくに「想いの届く日」とか「ア・フエゴ・レント」とかは、いずれ自分用に編曲してどこかで演奏してみたいものだと思っている。
大学生協の書店で田中尚夫先生の新著『記述集合論要説』(日本評論社)を見かけた。実物を見るのは初めてなので、手にとってみたら、扉をめくったショッパナの緒言に俺の名前が載っていて驚いた。こりゃいけない。不意打ちを食らった。すぐさま本をレジに持っていった。田中先生は緒言で、俺の古い2004年のノートを参考文献に挙げてくださったうえ、いずれ俺かフチノさんがもっと新しい内容の本を出すはずだという意味のことをおっしゃっているのだ。むむむむむ。こりゃいけない。いけない いけない いけない。一方的にバトンを渡されてしまった。だが他ならぬ田中尚夫先生の言葉だから、俺としては襟を正す。
某所にも書いたとおり、田中尚夫先生は記述集合論や再帰理論(計算可能性理論)において世界的に著名な方である。Sacks-Tanakaの定理 (正のルベーグ測度をもつ \(\mathit\Pi^1_1\) 集合は超算術的(hyper-arithmetical)な要素を無限個含む) といえば、実効記述集合論をちょっと勉強した人なら誰でも知っている。『選択公理と数学』などの著書もつとに知られている。俺が初めてマトモに集合論を勉強したのは学部3年生の頃で、田中先生の『公理的集合論』を取り寄せて読んだのだった。
夕方には倅が京都の寮を退去して帰省してきた。一週間ほど松山に滞在するらしい。
実は倅は一年の浪人のすえ、首尾よく志望校に合格したのだ。前々から約束してあったあの本を、祝いとして買ってやらねばなるまい。
雨が降っている。まあ、せんど言っているとおり、雨も降ってくれないと困るんだが。そんなわけで、日中は家でグダグダと過ごした。スペイン語の自習をしているときに、倅と二人で母の見舞いに行っている妻からLINEのビデオチャットの誘いがあった。
夕方から電車で街へ出かけた。紀伊国屋書店に行ってクラウス・リーゼンフーバー『存在と思惟』(講談社学術文庫)、中山茂『帝国大学の誕生』(講談社学術文庫)、松原隆彦『宇宙とは何か』(SB新書)と3冊買い、地下BALで2杯飲んだ。
先日からの話の流れで、少しスペイン語を齧っている。11年前にドイツ語の勉強をしたときはルーズリーフに手書きで要点をまとめたり演習問題の解答を書いたりしたが、今回はノートをテキストエディタでマークダウン記法で書いて、Obsidianの「保管庫」の専用のフォルダに残しておくということを考えた。テキストは福嶌教隆『これからはじめるスペイン語入門』(NHK出版, 2022年)を使い、ドイツ語のときと同じく1日に1課を目安として進む。
それにしてもドイツ語はすっかり揮発したなあ。やはり言語は使わないとダメだわ。
マークダウンはHTMLやTeXより手軽なのがいい。ただし、手書きノートのように蛍光マーカーで簡単にカラフルにするなんていうわけにはいかない。文字の色を変えようとすると、そこをいちいち <span style="color:#cc66ff">こんなふうに</span> HTMLでマークアップしなければならない。演習問題の答え合わせなどでどうしても必要なときにはこの方法を使うことにする。
夕方からパルタジェに行ったら千客万来で楽しかった。
MacBook ProではObsidianを起動しっぱなしにするくらいでいよう。Vivaldiのメモ機能とAppleメモはどうしても必要なときだけ使うことにして、普段のメモはObsidianの日ログでとろう。文章をちょいちょい入力するだけならiPhoneでもできるので、日記の下書きもこれでやろう。
というわけで、MacBook ProとiPhoneのObsidianを使って入力した今日の日記。
朝起きて、取り急ぎ2品調理した。鶏もも肉を醤油と酒に漬けて蒸し焼きにした。それと、鶏肝を赤ワインで煮込んだ。こちらはちょっと塩気が足りなかった。
久しぶりに古い松山ウィンドの録音を聴いた。あの頃の俺たちは、ショスタコーヴィッチの11番とか7番とか、わけのわからん長くて難しい曲を、指揮者の指導だけを頼りに必死で演奏した。俺はあの楽団でもやはり呆れられるばかりのバカ男担当だったから、楽しいことばかりじゃなかった。悔しくて泣いたこともある。だがそんなことはまあいい。いま聴くと、すごく上手いわけじゃないが気合いの入った、いい演奏だ。
録音を聴きながら考えた。普通に生きていて、いま幸せだと実感できるなんてことは、なかなかない。だけど、達者で諦めずに頑張り続けていれば、いつか振り返って、あの頃は楽しかった、幸せな日々だったと思えるときがくる。幸せとか不幸なんてものは、その時にわかるものではない。そんなものは横へ置いといて、ただ、いまこの時を充実させよう。努力を続けよう。身体に気をつけて、健康で上機嫌でいよう。
午後はいつもの通院に関連して保健所に手続きに行った。年に一度この時期に欠かせない手続きだ。そして、給料日なのでいつもの資金の移動。これまた月に一度の欠かせない手続きである。
午後には、修士課程を終えて東京に引っ越したMBRくんと、ビデオチャットで小一時間話した。身体に気をつけて頑張ってほしい。そのあと、ある委員会のビデオ会議があった。
EvernoteからApple純正のメモにコピーしたテキストをObsidianに移植し終わった。メモアプリからObsidianにテキストをコピペして編集する単純作業だ。一つひとつはなんでもないが、なにしろメモが221個あったので、ちょっと大変だった。それから、VivaldiブラウザのノートもObsidianに移植した。こちらはデータがJSON形式で保存されているから話は早かった。Pythonで短いプログラムを書いて、50件ほどのノートの本文をマークダウン形式のテキストファイルとして書き出し、Obsidianの「保管庫」にコピーして、少し編集しなおしたら、それでおしまい。Obsidianのデータは、マークダウン形式のプレーンテキストをフォルダで分類しているだけの、いたってシンプルでオープンな形式だから、今後はメモを残すのにObsidianを使うことにすれば、データ形式がどうとかサービス終了がどうとかで悩まなくて済むだろう。LaTeX形式の数式のレンダリングもしてくれるから、数学関係のメモだって残せる。ひとつこの機会にマークダウンの使い方を覚えよう。
雑誌「数学セミナー」の4月号の特集「数学とのつきあい方2024」の冒頭に、俺と川井新さんと静間荘司さんの鼎談が掲載されている。昨日発売日だったのでジュンク堂書店に行って確認してきた。鼎談は今年の1月10日にZoom座談会という形で実施したものだ。さてそれで、自分の写真を誌面で見て、改めて老けたなあと思うと同時に、なんとも父親に似てきたなあと思った。
午前中は入試の監督業務。午後は研究室でぼんやりしていた。
MacBook ProとiPhoneにObsidianをインストールした。この手の、テキストをデバイス間で共有するソフトはこれまでにも、SimpleNoteとかTextasticとかTextwellとか、はたまたYahoo! NotepadとかGoogole NotebookとかEvernoteとか、あるいはVivaldiブラウザのノート機能、macOSとiOSのメモアプリとか、いろいろ試してきた。ここでさらに新たにObsidianを使う理由は、なんといってもTeX記法で数式が扱えることだ。CherryTreeのようなアウトラインプロセッサとして使えればいいなと思っているが、どうだろうね。現在はiCloud Drive経由でMacBook ProとiPhoneの同期をとっているが、研究室のUbuntuパソコンにもObsidianは入っているので、これとの同期のためにクラウドにサインアップしようかどうしようかと思っている。
さてさて、夜はピアノのレッスン。それほど進捗はないし、ちゃんと練習せにゃ道は開けないのだが、その一方で、ちゃんと練習すれば大丈夫だなという手応えもある。
午前中はちょっと用があって銀行に行っていた。午後には大学に行った。月刊バンドジャーナルの4月号が届いた。「聴く力」を高めよう、という特集なので読んでおおいに参考にさせてもらう。あと、記譜ソフトウェアMuseScoreの使い方を覚えようと思う。
快晴。詳細は省くけどきょうは大変いいことがあったので、散歩していても気分がよろしい。取り置きをお願いしていた本をジュンク堂で受け取り、地下BALで軽く飲んで、歩いて帰る。
コロっと話は変わる。
ベクトル解析を物理に応用するときに「極性ベクトル」と「軸性ベクトル」の区別をする。座標系を右手系から左手系へ変換したときの3次元のベクトルの変換のされようが異なるという話で、たとえば位置や速度が極性ベクトルで角速度や角運動量が軸性ベクトルだということは、それなりに納得がいく。
それはわかるのだけど、数学としてどうかと考えるとわからなくなる。例えば \((1,2,4)\) と成分表示されたされた1本のベクトルをみて、はいこれは極性ベクトルですか軸性ベクトルですか、と問うことが意味をなすかどうかと考えると、途端にわけがわからなくなる。
外積で定義されるベクトルは軸性ベクトルなのかと思ったが必ずしもそうではなく、軸性ベクトルと極性ベクトルの外積をとると極性ベクトルが出てくる。たとえばベクトル三重積 \(\mathbf{A}\times(\mathbf{B}\times\mathbf{C})\) は見かけは外積だが極性ベクトルなのだ。
物理学者がこのベクトルは軸性ベクトルですよ、というとき「このベクトル」と言って指さしているのは、\(1\mathbf{i}+2\mathbf{j}+4\mathbf{k}\) と成分で書かれたベクトルそのものではないのだろう。そうではなく、そのベクトルを与えている文脈にまで踏み込んでいると思わなくては、どうも納得がいかない。
それでまあ、電磁気学の教科書も数ある中で、今は講談社基礎物理学シリーズの第4巻、横山順一『電磁気学』(講談社, 2009年)を読んでいるわけだが、ライブの講義みたいに《御託》の多いのがこの本の特徴だと思う。物理の理解に有益と思われる御託もあれば、ちょっと先生なに言ってるんですかと言いたくなる御託もあるが、いずれにせよ面白い。たとえば、先日の日記に書いた疑問点に関連して、捩り秤を発明しただけではクーロンの法則を確かめられるわけではないと、ハッキリ書いてある。これはありがたい。
会議も何もない日なので、一日、家から出ずに鬱々と過ごした。VPN経由で少しだけ教室のウェブサイトの管理作業をした。それと、夜にいつもの集合論 Zoom ゼミをやった。選択公理を扱うセクションに「全順序集合は共終な整列部分集合を含む」という定理があり、テキストの証明はなんだか不十分だったが、修正するにも随分手間取った。
鬱々と時間をやり過ごしながら考えた。自分がバカであることは隠しようがない。隠したつもりになっても他人の目には明らかなんだから、無理に隠そうとしても、バカの上塗りをするだけだ。自分がバカであることを認めたくないばっかりに自分よりバカな人間を探して回るのも、情けないからもうやめよう。自分がバカであることを一旦は受け入れよう。だけど、自分に向かってバカだバカだと悪口雑言を投げかけるのもやめよう。そんなことをしたらなおさらバカが自己成就してしまう。自分がバカであることを一旦受け入れて、バカな自分を一旦許して、さて、どうするか。どうしたいか。俺は、何をどう改善したいのか。
自分は何をしたくて生きているのか、このごろそればっかりが気になっている。仕事にやりがいを感じるということがあまりないのは昔からだ。むしろ以前ほど趣味に打ち込めなくなっているのがいけないんだろうな。
ぐるぐる考えてばかりいても仕方がない。いい歳をして何をやってんだか。
そもそもバカでない自分でありたいと望むのが驕りあるいは貪りなのかもしれぬ。あのクレージーキャッツも「とかくこの世は馬鹿ばかり、天下御免の馬鹿になれ、馬鹿は死んでも直らない」と歌っているではないか。俺のくだらない悩みなど、すでに植木等の歌声に吹き飛ばされていたのだ。
天気がよい。洗濯を済ませて自転車で大学へ行き、教室のWebサーバの管理作業、具体的にはSSL対応のための作業を進める。途中で学部の会議があって、大学院の修了認定、学部の卒業認定を済ませた。会議のあとも少し作業して、無事にWebサーバのSSL対応ができた。あと、使っているMathJaxのバージョンが古くなっていたので、そこを書き直す作業もした。
帰宅して、夕食のラーメンを作ったら、スープに豆板醤を入れすぎた。不味くはないが、とにかく辛くて大変だった。
後期の授業が済んでから朝寝坊の癖がついてしまってどうもいけない。ずっと放置していた虫歯が悪くなってきて、これまたどうもいけないのだが、吹奏楽の本番も近いので、歯医者に行くのは4月になってからになりそうだ。
先日ネットで情報を得て買い求めた堀口智之『一瞬で数字をつかむ!「概算・暗算」トレーニング』(ベレ出版)という新しい本を読んでみている。この本にはたとえばテーマパークの入場者数を例にとって、年間の合計数を1日あたりの数にするために365で割るには、0.27パーセントと考えればいいし、概算でいいなら1000で割って3をかけるだけでもいいという具合に、日常のいろいろな場面で必要になりそうな計算を、大まかに簡単に済ませる方法がいろいろ書いてある。365で割る代わりに400で割るなら簡単だな、なんて考えながら読むと、なかなか楽しい。
朝から雨である。仕方がないから電車で大学に行く。
新年度の卒業研究ゼミ生の配属が決まった。うちのゼミ生は3人で、テキストとしては寺澤順『現代集合論の探検』(日本評論社)を読むことにする。
夜はいつものピアノのレッスンに行く。いまキャラクター的に対照的な短い曲を2曲練習している。どちらもまだ弾けないけど、弾けるようになれば楽しいはずだ。だから、いまは弾けない自分にちゃんと向き合うべきだ。何をやるにせよ、ひとまずカッコ悪い自分をありのまま受け入れない限り道は開けない。いやまあ、たいていの人はそんなことは言わなくてもわかっていて、当たり前にできているはずだ。当たり前のことをわざわざ書くのは俺がその当たり前のことができずに人生でずいぶん時間を無駄にしてきたからだ。
昨日までと比較するとだいぶ暖かい。弁当を作って自転車で大学へ行き、職場のウェブサイトの更新作業などなどをやる。午後には学部の会議があった。その後、サーバ管理に関係した調べ物をしていたら1日が終わってしまった。職場のLANへのVPN接続が用意されていて申請すれば自分にも使えることがわかったのは収穫だった。これを知らなかったばっかりにウェブサイトのタイムリーな更新ができなかったことが何度もあったからね。
俺もいい歳で、この職場に永遠に置いてもらえるわけでもないので、ウェブサイトやら何やらの管理の引き継ぎについてそろそろ真剣に考えねばならない。
朝からよい天気だが、昨日にまして寒い。しかしせっかく晴れたし、昨日の風呂の残り湯もあるから、洗濯をする。本を読もうとするが、なかなか集中が続かない。
小山慶太『科学史年表 増補版』(中公新書, 2011年)によると、シャルル・オーギュスタン・ド・クーロンが電気力の逆二乗即を確かめる実験をしたのは1785年のことだそうだ。また、ヘンリー・キャベンディッシュがクーロンに先立って電気力の逆二乗則を実験的に確かめていたらしいとも書かれている。キャベンディッシュは自分の発見のプライオリティを主張する気がなかったらしい。ネット上のいろいろの情報源によれば、そのキャベンディッシュが万有引力定数の測定実験をしたのは1798年だというから、重力の逆二乗則の実験的検証は電気力の逆二乗則の発見よりだいぶ遅かったことになる。もちろん重力の逆二乗則の主張自体は16世紀にニュートンによってなされており、ケプラーの法則という観測事実に照らして間違いないであろうことはわかっていたのだけれども。
さてそれで、昨日の日記に「頭の中が疑問だらけになる」と書いたのはこういうわけだ。電気力が「電荷に比例し、距離の二乗に反比例する」というクーロンの法則のうち、「電荷に比例する」という部分は、本当にクーロンによって実験的に確かめられたのかどうか。というのも、質量が普段から慣れ親しんだ「重さ」に対応しているのと比較すると、電荷は直感的にわかりにくいし、先に電磁気の法則を知っていてそれを応用するのでなければ、電荷を直接測定する方法が俺には思いつかない。クーロンはいかにして、電気力は電荷に比例するという事実を発見したのだろうか。電磁気学の教科書でクーロンの実験の概要を紹介しているものはあるが、そうしたテキストにしても、電荷の導入は天下りになりがちだ。天下りに導入された電荷を用いて定式化されたクーロンの法則から電磁気学の教程は始まる。そこが気になる。
朝のうち少し降雪した。昼頃からは晴れたが、なかなか寒い。電磁気学の本を少し読んで、頭の中が疑問だらけになる。
きょうも休日出勤の代休日。ぼんやりしているうちに午前が終わってしまった。昼食のあと県立図書館に行った。アルゼンチン関係の本のうち2冊を貸し出し延長してもらい、別に物理の本を3冊借りた。
相対性理論を勉強したいのだが、それには古典電磁気学を学ぶことが前提になるというか、古典電磁気学と特殊相対性理論はとても深く関わっているらしい。なので、ひとまずベクトル解析からチマチマと勉強する。
かれこれ20年前、まだ銀天街に新刊書店も古書店もあって、まだ俺が子育てと吹奏楽とに一生懸命だったころ、2004年6月24日の日記に、俺は「荷電粒子は本当に慣性運動できるんかいな」という疑問を書いた。その疑問を解決するための勉強がまだできていない。というか、やっていない。やっていないのだが、少し思い出して、荷電粒子を加速するとき何が起こるか考えたら、ますます疑問が湧いてきた。うんとこさ軽いがたっぷり電荷を持った粒子を、電場も磁場もないところで加速させても、質量が少なければ特に抵抗がないはずだ。質量が少ないというのはそういうことだ。ということは、荷電粒子みずからが生み出す電場が、その粒子の運動によってどのように変化しようとも、その結果として生じる電磁場の変化によっては、粒子自身の運動はトラップされない。電磁場というのはそういう性質のものらしい。いっぽうで、質量をもった粒子を加速させることには、質量に比例した抵抗が発生する。重力場というのはそういう性質のものらしい。いや、いま俺はここでまったくトンチンカンなことを言っているのかもしれない。なので、電磁場の方程式と重力場の方程式を解析してそのあたりのことをちゃんと理解したい。
相対性理論を勉強したいというなりゆきになったのには、上の段落に書いたような疑問とは別に、理由が二つある。雑誌『数学セミナー』の昨年の6月号の記事に、現代の物理学では時空は連続体ではないと考えられているらしい、という意味のことを書いた。しかしこれはいくつかの概説書を読んで書いたにすぎないので、そのことについてもっと詳しく裏を取りたいというのが第一の理由だ。そしてもう一つの理由はロジャー・ペンローズの古い本『皇帝の新しい心』にある。この本でペンローズは、量子重力理論が完成した暁には、人間の脳の仕組みに関する新しい知見が得られ、人の心がチューリング機械を超える働きをすることが明らかになるだろうと予言している。もちろんこのペンローズの見解はこれまでにもさんざん批判されているが、どうも哲学的観点からの批判が多いようだ。だが、脳がどうした心の哲学がどうしたということをカッコに入れてしまうと、ここでペンローズは、チューリング機械の計算を超越した物理過程が可能であることを示唆している。俺としてはそこに注目する。もしもそんな物理過程が可能だとしたら、それは計算可能性理論にとって一大事である。その物理過程が人間の脳内で起こり得るか、人間の心の働きとしてあり得るか、ということとは別に、チューリング機械を超える物理過程の可能性自体を、まじめに検証してみる価値がある。トンデモじみた話なのは承知のうえである。
県立図書館のあとはジュンク堂書店で加藤文元の新刊『数学の世界史』(角川書店)などなどを買い、パルタジェでひと息入れた。夕方からはいつもの集合論Zoomゼミをやった。テキストの記述が混乱しているところがあってなかなか手間取った。選択公理から整列定理を導き、整列定理からツォルンの補題を導いたところで時間切れとなった。この第4章を片付ければ、ゼミ生くんの当初の目的である集合論による《数学の基礎づけ》について、ある程度の理解は得られるはずなので、それ以後は、ゼミを続けるにしても、テキストを変更しようと思う。あと、金曜日のゴールデンタイムが毎度のようにゼミに費やされるのもそろそろ苦しくなってきたので、曜日を変えてほしい。まあそれは年度が改まってからでいいけど。