て日々

2023年7月

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2年生向けの解析学の期末テストを実施した。58人が受験した。病欠の連絡が1人からあったので、追試験をせねばならない。大学院の数理情報基礎の授業もきょうが最終回だった。この授業が理学部卒と工学部卒の院生たちの交流のきっかけになってくれるといいのだが。そのあと、きょうも3年生の研究室訪問があった。夕方からの集合論のZoomゼミでは分出公理の議論をした。

とかなんとか言っているうちに7月も終わりである。今月はApple Watchのムーブ、エクササイズ、スタンドの3つのリングをすべて毎日完成することができた。まあ小さなことではあるが、小さなことなりに、達成感があった。1か月間毎日ムーブリングを完成すると、iPhoneのフィットネスAppに「完璧な1か月」というバッジが表示され、記録に残る。これを前回獲得したのが2021年11月だから、ずいぶん久しぶりのことだ。

朝夕2回の買い物のための短時間の外出のほかは、基本的に家でのんびりと過ごした。本も読んだが、それほどは進まなかった。

昨日帰宅するとき、小銭入れを大学に忘れて帰ってしまった。炎天下を歩いて取りに行き、その足でパルタジェまで行って一服。それから、一色楽器に行く。預かりものの楽器をメンテナンスに出していたのだ。店に行くと川尻さんがいた。川尻さんはトランペット吹きだが、あのサックス奏者の上義幸さんに音楽表現のレッスンを受けていて、きょうがレッスン日なのだそうだ。で、メンテに出していたアルトサックスはもちろんきちんとメンテナンスされていた。来月の下旬にはこれを京都へ持っていって次の使用者に託すことになっている。

午前中に大学院向け解析学の講義の最終回をやる。積分作用素のコンパクト性を証明し、フレドホルム型積分方程式の解法への応用を述べ、「この積分方程式を解け」という問題が「この作用素の固有値と固有関数をすべて求めよ」という問題に変換されたのだよ、と言ったところで時間が来ておしまい。昼休みに大学院入試に向けての短時間の打ち合わせ。午後には大学院ゼミ。だいぶ難しくなってきて、二人で必死で頭をひねっても進捗が厳しい。そろそろ修士論文のテーマも決めねばならず、いろいろ悩ましいところだ。ゼミのあと、3年生がひとり研究室訪問に来た。

きょうは先日の休日出勤の代休をとった。

あのストリートドラマーのリエイさんが今治城の吹揚公園でライブをするというので出向いていった。JRの各駅停車で鹿島茂の本を読みながらのんびりと行く。今治の街を歩くのはひさしぶりだ。平日の昼前後ということもあって歩いている人も少なくて、ドンドビ交差店の向こうのアーケード街など、以前にも増して、なんというか、さびれた気がするが、元気に営業している店もまだまだある。街全体が昭和レトロで、その点が俺には好ましい。港の近く、恵美須町のこれまたレトロな店「たこ焼喫茶 寄港地」で、たこ焼とビールの昼食をとり、吹揚公園へ。

リエイさんは一貫して楽しそうに演奏していたので、見ているこちらも楽しかった。岡山とか広島とか、なんなら本拠地愛知県から来ている常連さんもいて、わりかしアットホームなムードだった。ドラムが好きだという小学校も低学年くらいの子供たちが3人ほども、お父さんお母さんに連れられて遠くから、しかもスティック持参で聴きに来ていたのが印象的だった。日本の未来は明るい?!

まあしかし、とにかく暑かった。カラオケを流すiPadが高温アラートを出して止まってしまうくらいの炎天下である。リエイさん曰く、これまでのストリートライブのうちで一番暑い日だったそうだ。なので、たびたび休憩をとり、演奏者もスタッフも観客も一緒になって日陰で水分補給。コンサートや箱でのライブにはないストリートならではの一体感が味わえた。

ストリートライブが一段落した頃合いに吹揚公園を出発して、ふたたび街を歩く。午前中に目をつけていた今治街中麦酒は残念ながらきょうは臨時休業だった。駅まで歩き、時間の都合で帰りは特急に乗る。きょうは医者に行く日なのだ。だが駅の前でいくら待ってもバスが来ない。まあよくあることとはいえ、10分も遅れたら、医者の予約に間に合わないので、しかたなくタクシーを利用。いつものように診察は短時間で済み、薬を出してもらって、徒歩で帰宅。

朝から気持ちよい晴天だ。さっそく洗濯をする。クマゼミがうるさい。大学に行き、期末テスト問題を印刷に出す。3年生ゼミのための研究室訪問のアポをメールで何件か受けつける。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年)を読み終えた。このタイトルの示す問題に明快な答えが与えられるわけではないが、文理の分離について考えるための基本的な視点を与えてくれる労作である。次には鹿島茂『思考の技術論 自分の頭で「正しく考える」』(平凡社、2023年)にとりかかる。570ページを超える厚さで、手強いが、なかなか楽しそうだ。

午後に卒業研究ゼミをやる。ラムダ計算の演習問題をいくつか済ませて、このテキストを読み終えたことにする。で、後期のゼミでは別のテキストを使う。ゼミ終了後、来週月曜日の解析学の期末テストの問題を作る。どんな問題かをいまここで詳らかにするわけにいかないが、要するにこれまでの演習で扱ってきた問題ばかりである。夜はピアノのレッスン。ゆるゆるとだが進捗している。あきらめずにがんばろう。

レッスン後に地下BALに行ったら、店主ミチコさんが最近札幌で起きたという猟奇的な殺人事件の話をしてきた。ミチコさんは、こういうニュースに関心をもつことで人間というものの勉強になると主張するが、俺は同意しかねる。それは勉強なんかじゃなく、ただのヤジウマだ。だが、こういう事件を巡って人びとが何を言うか、それを聴くことが人間というものの勉強になるとは思う。人間については、本を読むのもさることながら、生きてる人間と実際に会って、話しあうとか愛しあうとか喧嘩するとか、そういうことを積み重ねることで勉強せねばならん。ネットのニュースでは人間の勉強はできない。そう思えばこそ、俺はなけなしの金をはたいてこうして毎週ここへ飲みに来ているのである。だが、今夜はあまりお客さんは来ない様子だったので早めに退散。

きょうの午前中は解析学の講義の最終回だ。積分と極限の順序交換。すなわち積分の収束定理とその周辺の話題を扱う。午後の演習では、期末テスト直前とあってか、普段より多めに質問が出た。夕方には後期の3年生ゼミの研究室選びのために、何人かの学生さんが部屋を訪ねてきた。

的場昭弘『「19世紀」でわかる世界史講義』(日本実業出版社、2022年)を読み終えた。500ページを超える本だが楽しく読めた。昨日の日記に書いたように話のつながりがよくわからないところがしばしばあったが、それには、これが神奈川大学の市民講座の講義記録をもとにした本であることも関係しているのだろう。

的場昭弘『「19世紀」でわかる世界史講義』(日本実業出版社、2022年)を読んでいる。読みやすいが、わかりやすくはない。というと変に思われるだろうか。とにかく、語り口は平明だし、扱っている題材は面白いし、読んでいて楽しいのだけれども、ところどころ、なぜそれをいまここで言うの?とか、さっきのあの話はどこに行ったの?という具合で、文と文のつながりがよくわからないところがあって、そのせいで何が言いたいのか論旨がぼやけることがあるのだ。

夜、とある方とツイッターでやりとりしながらレスピーギのローマ交響詩三部作を聴いたりして、なかなか楽しかった。きっかけは、ティーンの頑張りを感動ポルノとして消費する世間への憤りという話だったのだが、感動ポルノ→見世物→パンとサーカス→コロッセオ→ローマの祭と連想が展開していったというわけだ。そういう自由な話の展開のできるのがツイッターのいいところだと思っていたのだけど、最近はすっかりウサの捨てどころになってしまってていてつまらないな。

久々に地下BALとパルタジェをハシゴした。その前後に土曜夜市の人込みを通りぬけた。昔ほどの賑わいではないが、それでも浴衣美人がいっぱいで眼福である。

いい天気で暑かった。午前中の講義ではコンパクト自己共役作用素の固有ベクトルによる直交展開の話をし、最終回を待たずにレポート課題を出題した。午後の大学院ゼミは確率微分方程式の性質についての議論の続きだが、テキストの行間が広く式変形を追うのがたいそう難しかった。昼過ぎから夕方までMBRくんと二人で頭をひねって、ちょっとくたびれた。

朝のうちは曇り空で比較的涼しく、ただし湿気が多い。朝のうちに洗濯と買い出しを済ませ、自転車で大学へ行く。午後にTeamsで会議があって、そこで9日の理学部公開講座の報告を読み上げた。会議のあとは明日の講義の準備をする。それから本を読む。

先日、平和通のモアイで檸檬酒(にんもんちゅう)を見かけたので買ってきた。まだ若かったころにはこれが好きで、買ってきては水割りとかですぐに飲み切ってしまっていた。いまソーダ割りにして飲んでみると、なんとも甘すぎる。まるで砂糖水だ。こんなのを喜んで飲んでたんだなあと思うと不思議な気分だ。年齢とともに味覚も変化するもんなのだな。

雨が降ったり止んだりでジメジメしているが、暑さはそれほどでもない。パソコンで業務上の各種オンライン研修を受ける。今月末が期限なのだ。6つあるコースを全部を片付けたら、昼前から夕方までかかった。

きょうもなかなか暑い。

ちょっと思うところあって「文系・理系の分離がわが国の教育にどのように定着したのか」ということを調べようと目論んでいる。その参考になるかと思って、C.P.スノー『二つの文化と科学革命』(松井巻之助、みすず書房、1967年)を読む。文理の分離が克服されるべき残念な事象であるという認識はこの著者の1959年のリード講演においてハッキリと提示されている。だが、ひとつには1950年代までのイギリスの知的状況が主な話題であることと、もうひとつには科学技術の人類の福祉の向上への寄与について著者の展望が楽観的すぎること、より正確に言えば、当時の西欧諸国と共産圏諸国が第三世界の産業の発展と生活水準の向上のために技術供与する可能性について楽観的すぎること、この二点において、スノーの議論は2020年代の俺たちには受け入れにくい。他国に科学技術を移転し経済発展を促す動きが経済的関心でも領土的野心でもない純粋に人道的な関心から起こりうると、著者には本当に想定できたのだろうか。それとも、やはりこれは経済的ないし地政学的な関心に動機づけされた進出、早い話がある種の植民地化の話だったのだろうか。東欧に先を越される前に西欧がやるべきだ、と主張されているところをみると、そうなのかもしれない。

きょうもいい天気だ。海の日なので海を見に行くことにする。数年前と同じコースで、電車で高浜へ行き、歩いて松山観光港に行き、デッキでひと息入れてから、引き返して高浜を素通りして梅津寺まで歩き、電車で帰る。さすがに暑いが、日陰で風に当たれば、案外心地よい。空と海はとても青く明るく輝いていた。あと、ずいぶん潮位が低かった。きょうは新月の日だからいわゆる大潮なのだろう。

柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン -- 闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)を読み終えた。若いころから岩波新書はいろいろ読んできたけど、こんなに難解なのは初めてかもしれない。その後、またちょっと夜更かしをして、前山悠訳のカミュ『転落』(光文社古典新訳文庫、2023年)を読んだ。なんだか息苦しい、いやな読後感を覚える本だ。学生時代に新潮文庫版(大久保敏彦・窪田啓作訳)を読んで以来、ほぼ四十年ぶりの再読だ。もはや学生時代のことなんかぼんやりとしか覚えていないけれども、当時はやはりろくすっぽ読めてなかったなと感じる。俺にはいまもそういう傾向があるが、当時は、読み始めるとすぐに読み終えることだけを考えてしまっていたのだろう。村上春樹の小説の登場人物の言葉を借りれば「始まったと思ったら、もう終わることを考えているのよ」だ。

快晴で、なかなか暑いが、たまには日光に当たるのも気持がいい。

夕方、手羽先のタレ焼きと、こんにゃくの煮物を作った。

いま読んでいる本でアレゴリーに言及されているので、メタファーとアレゴリーについてChatGPTにいろいろ聞いてみたり、辞書をひいてみたりした。アレゴリーというのは、メタファーよりも大域的で、ひとつの物語全体をもって何か別のメッセージを告げ知らせるというようなものらしい。

昨晩はずいぶんと夜更かししたので、遅めに起きた。毎月第1・第3土曜日朝にペットボトルの回収がある。それには間にあった。午前のうちに、スーパーで食材を買ってきて、豚肉とナスを炒めて味噌だれで味付けし、密閉容器に入れて冷蔵庫にストックした。2食分くらいにはなるだろう。昼過ぎ、フジグラン松山のメガネの田中で、新しいメガネを受けとって、その足で県立図書館へ行って本を5冊借りた。

朝、自転車で大学へ向かうときにクマゼミが鳴いているのを聴いた。今年はじめてのセミの声だ。そろそろ夏も本番というわけだね。

午前中の講義は大学院向けの解析学概論である。ゼロでないコンパクト自己共役作用素がゼロでない固有値をもつことを証明した。午後の大学院ゼミは確率微分方程式の解の存在と一意性の証明の続き。またしても難しい計算を追いかけねばならない。しかも、テキストの議論にどうやら間違いがあって修正を余儀なくされたりと、なかなか一筋縄ではいかない。

夕方には自転車のタイヤ交換に行った。待ち時間には公園に行って本の続きを読んだ。帰宅してシャワーを浴びて、酒をちびちび飲みつつ、うたた寝をしつつ、そんなこんなで夜中の2時までかかって、鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社、1996年/新装版2004年)を読み終えた。ベンヤミンの難解な書物に挑む鹿島の闘いぶりを見て、本をちゃんと読むというのは、これは大変なことなのだと思った。

朝のうちに洗濯をして、午前中は家で本を読んでいた。午後は大学に行き、いろいろの用を済ませ、明日の講義の準備を進める。一日じゅう曇り空だったが、雨は降らなかった。

昔なにかの本で「速く読むためには頭の中で音読するのをやめるべきだ」と書いてあって、今までなんとなくそれを信じていたが、俺にはこれは逆効果のようだ。言葉が音にならないことには、速く読むことはできても、内容がさっぱり頭に入ってこない。むしろ声に出しはっきりと抑揚をつけて読んだほうが「わかる」気がする。いや、錯覚かもしれないけどね。

昨日の日記を書いていて、アクセントつきの é とか ç とかの文字を入力する必要に迫られた。これまでは é とか ç とかHTMLの特殊文字実体参照 (→IT用語辞典e-Wordsの該当ページ) を使って書いていたのだが、これはHTML以外の文書には使えないし、けっこうな手間だし、直接入力する方法は用意されているはずなので、ちょいと調べてみた。OSのキーボード設定を調整して Compose キーというもの (→Wikipedia英語版の該当ページ) を割り当てるといいらしい。ただしSKKが動いているときは使えないのでいったん入力メソッドをオフにせねばならないのが面倒だ。Ubuntu Desktopではこの他にCtrl+Shift+Uに続けて16進のユニコード番号を入力するという方法がある。面倒を厭わなければ、この方法で 🐻 (文字コードはU1f43b)のような絵文字も入力できる。

久々に天気がいいので洗濯をする。この一週間は洗濯ができず、ぼちぼちアンダーシャツが残り少なくなっていたところだ。

午後に卒業研究ゼミをやるが、俺はどうも今年のゼミの指導の仕方を誤ったかもしれない。テキストの選択もよくなかったし、ゼミの進め方もなんというか、要するに甘すぎるように思う。いまから軌道修正できるだろうか。ううむ。

中条省平『世界一簡単なフランス語の本』(幻冬社新書)を読み終えた。たしかに簡単というか、文法事項は昔に大学で習ったことばかりだった。しかしまあ、40年もたてば、けっこう忘れているものだ。思い出して役立てよう。Je dois étudier la langue française ですわ、しるぶぷれ。

夜にはピアノのレッスン。以前より少しは曲の流れがわかってきた。だがまだ全然弾けてはいない。練習するしかない。がんばろう。

レッスンから帰宅して、きゅうりとにんじんの浅漬を作り、ひよこ豆を煮た。一人暮らしだと、どうも料理をする気にならないが、せめて毎朝の朝食だけはしっかりとろうと心掛けている。ひよこ豆は朝食の野菜サラダに欠かせない素材なのだ。

月曜日なので午前中に講義がある。「積分は微分の逆」という意味のことをいう微分積分の基本定理をやった。「積分は微分の逆」には二つの意味があって、ひとつは「積分したものを微分すると元に戻る」ということ。もうひとつは「微分したものを積分すると元に戻る」ということ。「積分は微分の逆」を積分の定義のように扱う高校数学の流儀では、これらは単なる同義反復であるが、積分をきちんと定義して使おうという立場に立つとたちまち難問になる。前者についていえば、被積分関数が不連続であれば不定積分は微分可能とは限らないし、後者の「微分したものを積分したら元に戻る」にしても、いたるところ微分可能なくせに導関数が(ルベーグ積分の意味でも)積分可能でない厄介な関数が存在するなど、一筋縄ではない。今回は2年生向けの話なので積分はリーマン積分である。だから被積分関数が連続な場合に話を限定して「連続関数の不定積分を微分すると元の関数に戻る」それから「\(C^1\)級関数の導関数の不定積分は元の関数に戻る」ということの証明を紹介した。

講義中、窓の外はけっこうな勢いで雨が降っていた。昼休みには教室会議が入った。

午後の演習の時間中に、大学訪問に来たある県立高校の生徒たちが廊下を通り過ぎていった。理学部のこととて、数学の図書室や地学の資料室や物理の実験室などを見学するわけだが、その途中には授業中の教室の横を通りかかることになる。高校生の何人かが、黒板にあった数式に関心をもったように思われた。高校から大学への教育のバトンタッチをスムースにしようという高大連携については、このごろ高校側に予算がついたりして、いろいろな行事が実施されるようになった。高校の先生としては、進路のイメージを明確にして受験勉強のモチベーションにしてほしいと願っているだろうし、大学側は、ちょっとでも入学志願者確保につながればと思って、専門の高大連携委員会を発足させて対応している。ところが、現役高校生にとって何が大学の魅力なのか、偏差値以外で志望校選択の決め手になるものが何かあるのか、そういうことは、われわれ大学教員にはなかなかわからない。せめて、大学に進んで学ぶことにも楽しみも意義もあること、それぞれの学問分野には固有の存在理由があること、そういういことが伝えられたらいいなと思う。昨日の公開講座などは、そうした努力の一環というわけだ。

演習が終わるころには雨は止んで、気持ちよく澄みわたった青空が広がった。大学院の数理情報基礎の授業を終えて電車で帰宅。夕方からは集合論のZoomゼミで集合族の和と共通部分や直積といったところの話をした。

午後の「理学部公開講座」の準備のため朝9時ごろ大学へ行き、会場の準備をする。講義室での講演会をWebexのウェビナーで配信するハイブリッド開催で、そのうえ、愛媛CATVが番組として収録に来る。昼過ぎに開場するが、ちょうどそのころ激しい雨が降った。ちょっと出足が心配だったが、小学生からベテランまで、20人ほどの聴講者が来てくれた。公開講座の内容は中島さんの数学の講演と延寿さん鉱物学の講演。小学生からの質問とかも出てなかなか楽しかった。ただ、俺が司会でいろいろ不手際なところを見せてしまったのが申しわけなかった。

妻は妻で、きょうは学会発表だったらしい。

ここまで書いてから、このごろつくづく文章が整ってないなあと思う。やっつけ仕事になっているのかもしれない。あるいは酒ばかり飲んでいるせいで頭が悪くなっているのかもしれない。どちらにせよ、なんとかせねばならない。

昨日は調子が出ないところをいろいろがんばったので、きょうは極力ゆっくり過ごす。ときおり雨が激しく降った。早いとこ梅雨明けしてほしいものだ。

佐藤優『いま生きる「資本論」』(新潮文庫)を読み終えた。なかなか集中して読みすすめることができないのは自分に気力・体力が足りないからだ。でも、あきらめずにいろいろ読み続けよう。

金曜日は午前中に講義がある。ヒルベルト空間の有界線形作用素の話。作用素ノルム、射影作用素、共役作用素などなど。午後は大学院のゼミで、確率微分方程式の解の存在証明をめざしてハードな計算をする。ゼミのあと、明後日の「理学部公開講座」の会場まわりの準備作業をする。

仕事が一段落した午後6時前に、小雨のなかをパルタジェまで歩く。1年前オープンしたパルタジェの創業記念日と俺の誕生日が同じであることが、すでに関係者に知れわたっているから、今夜ばかりは他所に行くわけにいかない。それはかまわないのだが、きょうは体調がもうひとつで、あんまり飲み食いできなかったのが残念だ。そんなわけで今年も誕生日が来て、59歳になった。

明日の講義の準備と、日曜日の「理学部公開講座」の準備をせにゃならぬ。きのうサボったぶん、きょうは頑張らねばならぬ。講義はあと4回。今月中に完結させるわけだから、先の見通しをちゃんと立てねばならぬ。(というからには、要するに見通しがいまひとつ立っていない。)

次の日曜日の公開講座について、プレスリリースを読み間違えたとしか思えないオファーが某所から来て対応に追われた。仕事というのはいろいろあって面白いものだ。

今度は佐藤優『いま生きる「資本論」』(新潮文庫)を読んでいる。きょう半分くらい読んだ。

思い立ってわが母校、立命館大学の沿革をウィキペディアで調べてみたら、俺が通った衣笠キャンパスを開くにあたっては、西園寺公望のつてで、かのラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀が巨額の寄付をしてくれたのが大きく寄与しているとのことで、ちょっと驚いた。

午前中、夜まで天気がもちそうだったので洗濯をし、ピアノの練習を少ししてから、市役所に固定資産税を収めに行って、そのあと大街道のコーヒーショップ「フライング・スコッツマン」で炭焼珈琲を飲みながら、佐藤優『人生のサバイバル力』(講談社文庫)を読み終えた。薄い本なのに2日がかりになったのは、まあ昨日がちょっと忙しかったからというわけで。BGMにバッハの管弦楽組曲第2番だったか、フルート独奏の入ったロ短調の管弦楽組曲がかかって、ちょっと嬉しかった。後半のメヌエットあたりから店が賑やかになってきて音楽があまり聴きとれなくなってきたけど、それはそれで、またオツなものである。

午後は卒業研究ゼミ。ラムダ計算の章に入った。面白いが、慣れない分野なのできちんと手を動かして理解していかないと、たちまちワケがわからなくなりそうだ。ゼミのあとは今週末の「理学部公開講座」の準備作業を少し進めてから、ピアノのレッスンに行く。こちらのほうは、先週からそれほどの進歩はない。

朝のうち雨だったが、8時過ぎに大学へ出かけるころには小降りになり、夕方には晴れ間が見えた。いつもの月曜日である。解析の講義は連続関数のリーマン積分可能性の証明。午後に解析の演習と大学院のプレゼンの実習の授業。帰宅して夜には集合論の自主ゼミ。対の公理とそれに関連する議論。

ひとつ、いつもの月曜日と違ったのは、帰りの電車が大幅に遅れたことだ。なんでもどこかでポイント切替器の故障があったとか。おかげで伊予鉄道にしては珍しく満員電車に乗ることになった。まあ、自主ゼミに間に合ったから問題ないんだけど。

晴れた。洗濯をする。お昼ちょっと前に散歩に出かけ、3時間ほど外をうろうろした。途中で辛麺の店に寄って昼食をとったり、スーパーに寄って毎朝の朝食のサラダに入れるひよこ豆を買ったり、三津厳島神社で茅の輪をくぐってお参りをしたり、梅津寺の海岸を歩いたり。それから帰宅してシャワーを浴び、ひと息入れたら今度はまたフジグラン松山まで歩いていって、履きつぶした靴を買い換え、夏用のシャツを2枚買い足した。帰りは電車。さらにそのあと、ブックオフに本を売りに行った。全部で38冊。まあ、この程度ではたいしたお金にはならない。だからといって、なんでもかんでも売ってしまうわけにもいかないのよね。

これは、昨日の日記に書いたことにも関連する。

ヘミングウェイにとって1920年代のパリが移動祝祭日だったのは、ヘミングウェイがこの時期のパリで、倹約と享楽の絶妙なバランスをとりつつ、とてもクリエイティブに活動していたからこそである。いつも言っていることだが、街には美術館や映画館や図書館がなければならず、さらにカフェというか喫茶店というか、人々が集う場所なければならない。しかし、いくら街にいいカフェがあっても、評論家ばかりが集っていたのでは、やはり仕方がない。そこには、どれほど小さくても何かを生みだし何かを変える活動がなければならない。そこにはクリエイティブな何かがなければならない。

クリエイティブな人が集まるカフェ。それは大都会でなくてもいい。両大戦間のポーランドのルヴォフ (現在はウクライナのリヴィウ) の「スコティッシュ・カフェ」がよい例だ。志賀浩二『無限からの光芒』(日本評論社1988年)によれば、このカフェにバナッハ、マズール、ウラムといったポーランド学派の数学者たちが集い、議論を重ねたという。彼らはディスカッションのためのノートをカフェに預けて、いろいろな考察をメモしていった。そのノートは奇跡的に戦火を逃れて現存しており、The Scottish Book として知られている。

バナッハもマズールもウラムも、また時折ルヴォフを訪れたいろいろな数学者たちも、それぞれに一人一人がクリエイティブだった。だが彼らのディスカッションと残されたノートは、カフェという場と無縁にはありえなかっただろう。人が集い、思うままに、自由に議論できる場所が大切だ。

ルヴォフ、現在のリヴィウは、県都でもあり、むろん小さな街ではない。だがパリのような大都会でもない。街の規模の問題ではない。

となると、結局、問題はここへ帰着する。《いろいろ語っているお前は、クリエイティブといえるか。》

そういう観点から己を振り返るなら、いまの俺は怠慢すぎる。

知っている人は知っているとおり、俺はアホ・バカ・マヌケである。おまけに、もういい年齢である。しかしながら、いまのまま、バカのまま死ぬのは、なんとか避けたいとやはり思っている。書くと言って書きかけて書き終えていない本がある。書きたいと言ってちっとも書いていない本もある。俺はもっと書かねばならない。そのためにも、俺はもっともっといろんな本を読まねばならない。

つまり、積んでばかりでは仕方がないというわけだが、本を読むには気力体力と、それから時間が必要なので、さしあたって積むという行動がどうしても必要でもあるのだ。積んだ本を迂闊に売ってしまってあとで後悔したということもあるので、そこは慎重になるべきだ。

朝起きるころには、昨晩からの大雨はだいぶ小降りになっていたが、今朝は電車が止まっている。外が静かなのはいいが、いろいろ予定していたことをどうしたものか。というのも、半年に一度、ピアノ教室の月謝を6か月分先払いすることにしていて、きょうはそれを含めて、いろいろの支払いに行くつもりでいたからだ。昼を過ぎても郊外電車が動かなかったのが、まあなんとかなるかと思い、傘をもって出かけた。自宅の最寄りの交差点まで来たら、ついさっきそこの停留所を発車したのであろうバスが目の前を通り過ぎていった。郊外のこととて、30分に1本のバスである。バス停で傘を差して待つ気もしない。これはもう仕方がない。まだ名残り惜しそうに降り続ける雨の中を歩いて市内電車の電停まで行き、普段使わないルートで松山市駅まで行った。

ピアノ教室の月謝を払ってから市内電車で一番町へ移動し、ジュンク堂書店を冷やかしてから、カフェ・パルタジェに席を占めて、ヘミングウェイ『移動祝祭日』(高見浩訳、新潮文庫)を読み終えた。この本はヘミングウェイの回顧録にしてパリ讃歌だ。パリに限らず、どこであれ都市というものは、よきにつけ悪しきにつけ、文化の華が咲くところであるべき、移動祝祭日であるべきだと、俺には思われた。かく言う俺が最近訪れた都市といえば那覇と京都と福岡で、そういうムードが少しは感じられた。わが街、松山はどうだろうか。移動祝祭日たるには、ちょっと街の規模が足りないかもしれない。夕方には郊外電車も復旧し、土曜夜市が開催されていて、普段よりは人通りも多かったのだけれども。