て日々

2013年1月


2013年1月31日(木)はれ

夕方、いつもの医者に行ったら先客が全然おらず玄関に靴がない。お休みかと思ったがそんなことはなく、まあこういう日もあるというだけのことだ。次に行くのは3月半ばになりそうなので、いつもの《バカにつける薬》の他にアレルギーの薬も出してもらう。そろそろ飲み始めたほうがいいそうだ。

夕食後、いつものようにツイッターを見に行くが、流れている話題がどうも面白くない。こういうときに無理に話すこともあるまいと離脱し、リード『初等代数幾何講義』をちょっとだけ読む。深夜にはツイッターそのものが不調。こうなると勉強がはかどる。


2013年1月30日(水)はれ

昨晩から【娘】が熱を出した。水曜日の午前中は妻が専門学校の看護コースで非常勤講師をする。元気なときなら【娘】一人で留守番できるが、なにせ病人なので、午前中は俺がついていることにした。病人は寝ててもらうしかないけど、俺のほうはなにも仕事をしないでいるわけにはいかないので、エビングハウスのツェルメロ伝 (Heinz-Dieter Ebbinghaus, “Ernst Zermelo: An Approach to His Life and Work,” Springer, 2007) の第二章を読む。ちょうどベルリンからゲチンゲンに移ったツェルメロが数理物理からロジックへと関心の焦点を移そうというところだ。面白いが、家事をしながらでもあり、またなにぶん外国語であるから、2時間かかって12ページがやっとだった。その間に【娘】はこのあいだ買ってやった江戸川乱歩『少年探偵団』(ポプラ社)を読み終えている。まあ読みやすさが違うとはいえ、くやしいからもっとがんばろう。

きょうの昼飯
昼食には八宝菜のようなものを作って中華丼にした
肉と野菜とシーフードを炒め煮にして
中華スープで味つけし片栗粉でとろみをつける
もうすこし汁気を多くしてもよかったな

午後はいつものように4年生0-1くんとM1の910くんのゼミ。きょうは卒業研究発表会の発表内容の検討をしたので、0-1くんにとってはかなり厳しいことをたくさん言った。いつもは決してそうではないのだけど、今回だけは彼のいうとおり「フルボッコ」だったかもしれない。だがもちろん、こちらとて悪意はない。それがわかってもらえたかどうか。

あと、きょうは月末〆切の依頼原稿を編集部に送りOKをもらった。大いに肩の荷が降りたと思ったら、つぎは共立出版の営業のスタートレック蟻さん( @1738310 )から、西村敏男・難波完爾『公理論的集合論』が今春復刊の運びとなったとの報せ。これはたいへん嬉しい。

さてさて、【娘】はインフルエンザB型のようだ。毎年のことだから驚かないけど、いつものパターンだと、家族のなかでは俺が最後に倒れることになる。これが入試業務のシーズンに重なると、ちょっと厄介だ。


2013年1月29日(火)くもり

トポロジーの期末テスト。自筆ノートのみ持ち込み可(何を書いてきてもよい)としたので、みんなそれぞれにノートを準備してきていた。俺としては先日から文房具に関心が高まっているので、みんなどんなノートを使っているかと見ていたら、26人中に、ルーズリーフ17名、糸綴じの大学ノート5名、その他レポート用紙・コピー用紙・裏紙など4名という内訳だった。針金で綴じた「スパイラルノート」は皆無だった。

テストでは定義をたずねる問題と例をあげる問題を多くしたが、少しは証明らしいものも書いてもらう。とはいえそれも、たいていは「円盤が単連結であること」などの基本的なものだ。ただ、5大問のうち第5問は、解けるかどうかわからないけど「秀才発見器」として入れたもので、平面を円周にリトラクトできないことを証明せよという問題。二つの小問にわかれていて、(1)ではリトラクト可能な部分集合からもとの空間への自然な埋め込み写像によって誘導される基本群の準同型写像が単射であることを問い、(2)では平面から円周へのリトラクト写像が存在しないことを問う。後半は(1)と、平面が単連結で円周が単連結でないことを知っていればいい。前半も連続写像の合成写像が誘導準同型の合成写像を誘導することから導かれる。問題中で定義した「リトラクト」の概念以外は、すべて授業で扱った定義と技法の組合せだから、どちらの小問も説明されればわかるはずのことだが、おそらく自分で考えつくのは容易でなかろう。

数年前から積ん読のツェルメロの伝記をいよいよ読まにゃならん気がしてきた。昨晩話題にのぼった「基礎の公理」(またの名を「正則性公理」)に関連して、その初発の動機が何だったかを知りたいのだ。

学生時代に読んだ田中尚夫先生の『公理的集合論』(培風館)では、正則性公理について、字句は不正確かもしれんが概略このように述べている:《\(x\in x\) をみたす集合 \(x\) や \(x\in y\in x\) をみたす集合 \(x\) と \(y\) のようなものは他の公理によっては排除されない.しかしこうした集合はラッセルの逆理に密接に関連するから、存在しないにこしたことはない。さらに \(\in\) 関係についての我々の直観によれば、 \[ x_1\ni x_2\ni \cdots \ni x_n \ni x_{n{+}1}\ni \cdots \] となるような \(\in\)-無限降下列は存在しない.》集合論の公理について田中尚夫先生に直接お話を伺ったことはないので、田中先生がこう書かれた意図ははっきりしないが、どうもラッセルの逆理を封じるために正則性公理が持ち込まれたと誤解する人は実際にいるらしい。もちろん、もともと矛盾している体系に公理を持ち込んでも矛盾が解消されることはない。

正則性公理は、数学の中で集合がどう使えるかを規定する「個々の集合のふるまいを規定する公理」ではない。集合論の宇宙 \(\mathbf{V}\) すなわちすべての集合からなるクラスがどのような姿をしているかを正則性公理は明確にしてくれるのだ。正則性公理のおかげで集合 \(x\) にその階数 \(\operatorname{rank}(x)\) を割り当てて集合論の宇宙 \(\mathbf{V}\) を累積階層 \(\langle\,V_\alpha:\alpha\in\mathbf{ON}\,\rangle\) へと分類できるようになる。正則性公理は《要素関係 \(\in\) は \(\mathbf{V}\) 上で整礎的である》という命題と同値であり、このことから《すべての集合 \(x\) が \(P(x)\) をみたす、ということを証明するさいには、\(x\) のすべての要素 \(y\) が \(P(y)\) をみたすと仮定してさしつかえない》という \(\in\)-超限帰納法の原理が導かれる。

と、まあ、われわれはそのように正則性公理のご利益を理解しているが、これはあとづけの理由にすぎないかもしれず、最初にこの公理が提案された理由が何であったのかは、結局のところは調べてみないとわからない。なので、話は元に戻って、数年前から積ん読のツェルメロの伝記をいよいよ読まにゃならん気がしてきた。


2013年1月28日(月)くもり

妻が非常勤で請け負っている看護学校の公衆衛生論の授業もそろそろ大詰め。町役場の保健センターに10年ほど務めた妻は、自治体の保健衛生施策についてだったら一日中でもしゃべっていられるが、産業保健の話になるとちょっと弱いらしい。だからといって授業で話さないわけにいかないので、あらためて勉強し直しつつ、準備に余念がない。俺なんかより妻のほうがよっぽど教師向きで学者向きである。

さて、俺が帰宅したときも妻はダイニングでパソコンを広げて講義用のスライドを作っていた。

作業中の妻

俺「ただいま。今日はあれこれ、あれこれ…」
妻「………」(キーボードをカタカタとタイプ)
俺「まあそんなことで、うんぬん、かんぬん…」
妻「………」(カタカタカタカタ)
俺「ああ、ごめんごめん。まだ授業の準備なんやね」
妻「(ナマ返事)うん………」(カタカタカタカタ)
俺「(【息子】に)ママはいまお仕事中やから、【むすこ】くんもママの邪魔したらいかんよ。」
妻「………」(カタカタカタカタ)
俺「周りでうるそうされたら、俺やったら、もう怒ってるかもしれん」
妻「(はっきりと) そうそう。怒ってると思う!!」
俺「こらこら、なんでそこだけ聞いてるねん!!」

うーん。文字にすると面白みが薄れたなあ。それはともかく、俺はパソコンなり紙に向かって必死で作文している時に話しかけられ集中を乱されたら、たしかにすぐに怒る。この俺の悪癖のことを、いちばん心配してくれている妻が、いちばん迷惑をこうむっている。ツイッターを始めて間もないころにそれが思わぬトラブルの元になったこともある。思い出すと恥ずかしい。わー、みなさんごめんなさい。は、話を変えよう…

なんだかよくわからない区切り線

けさ未明に「第3回関西すうがく徒のつどい」の一般参加募集が始まった。教室のキャパのことを考えて、講演者とスタッフのほかに今回は80名の一般参加者を募ることにした。午前零時に募集開始したはずだが、さきほど(21時ごろ)チェックしたら、すでに残り枠21名になっていた。ずいぶんな人気イベントになったものだと思う。ありがたいことだ。

スタッフとして関わっている学生さんたちにとって、つどいの運営に関わっていたということが、本人たちのよい思い出になるのはもちろん、のちのち、彼らの人物を語る好材料となるように、あるいはせめて悪い材料にならないために、イベント自体の評価を下げるようなトラブルが起こらぬように注意を払っていかねばならないと思っている。博士課程の大学院生がアカデミックなポストを探すときに

「げげっ、この候補者、つどいの運営をしていたそうだぞ」
「ええーっそんなヤバイやつ採用できるかよ」

なんて言われるようになっては申しわけないからね。そのためには一回一回の運営を周到にすることがなにより大切だが、実は俺ごときがそんなこと言わなくても、彼ら(第一回主催のふゅーりーとのうこ、第二回の山元、そして今回のことりんと、それぞれの回の運営スタッフたち)は自分たちで相談して実にちゃんとした運営をやっている。ふだん「ねむいのにレポート終わらないので死にたい」とか「おフトゥーンさんが《授業なんか行かないで》とか言っててからい」とか困ったツイートばかりしているわりに、みんな実に優秀で、いざとなるとテキパキと仕事が速い。だからその辺は安心して彼らに任せることにする。

あとは、できればイベントが多くの人に価値あるものとして認知されるようになっていってほしいものだ。確立した研究者のみなさんにこのイベントをもっと認知してもらえるといいのだが、ツイッターアカウントが親兄弟や先生にバレることを学生さんたちは嫌がるだろうから、これは少し難しいかもしれない。


2013年1月27日(日)くもり

朝のうち曇り、昼頃には雪が舞い、夕方から晴れた。なんちゅう天気や。

ピアノを習いに行ってる音楽教室の講師のみなさんの演奏会。O野先生がラフマニノフを弾くというので、いよてつ高島屋地下のケーニヒスクローネで買ったお菓子(と、ファミマで買ったお酒)を手土産に市民会館中ホールへ聴きにいった。ラフマニノフの重厚なエチュードに挑むO野先生、なかなか凛々しくてカッコよかった。やっぱり音楽は生演奏に限るね。それに、O野先生はじめ講師のみなさん綺麗なステージ衣裳で見違えるように素敵だった。ただし、年に一度のこの講師コンサートは、実はローランドの電子楽器のデモでもあるので、ミュージックアトリエとか電子ドラムセットなどをフィーチュアしたアレンジで子供たちやお母さんたちが喜ぶ曲をやる、という演奏がどうしても中心になる。いやあ、いくら音楽は生がええと言うても、コンピュータ内蔵でリズムがプログラムされた電子オルガンの音なんかは、あれはデジタルオーディオプレーヤーにイヤホンつないで聴いたんで上等やで。ハープもフルートもピアノもヴァイオリンも先生がいらっしゃるんだから、一度ぜひアコースティックオンリーの講師コンサートをやってほしいところ。

[お堀のカモ]
帰りがけに見かけた、お堀のカモ

前半の演奏を聴いて休憩時間に離脱。ジュンク堂書店で子供らのために本を買う。娘には江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」(ポプラ社)の『怪人二十面相』『少年探偵団』、倅には羽生善治の『ハンディー版スグわかる!まんが将棋入門』(くもん出版)だ。自分はM.リード『初等代数幾何講義』(岩波書店)を購入。

夕食後は「関西すうがく徒のつどい」の運営会議に参加。顧問などという大層な肩書を頂いているのに、ぜんぜん力になれなくて、若い衆に申しわけない。


2013年1月26日(土)くもり

夜になってから、ぼんてんぴょんがデデキントの切断の推移律の成り立っていないバージョンの話をしはじめた。聞けば、グラフ理論でトーナメントと呼ばれる順序構造もどきに、十分多くのデデキントの切断が存在するのは、そのトーナメントが全順序である場合に限るか、と定式化できる問題だと思われたので、しばらく考えて解答をつけた(→PDF。)すっかり忘れていたが、トーナメントについては一昨年の暮れに少し考えて、ノートを残していた。見直してみると、なかなか面白い。《ジャンケンのグーチョキパーのどんなに長い辞書式の積にも、正五角形の完全グラフに自然にトーナメントの構造を入れたものを埋めこむことはできない》というようなことが証明してあったりする。数直線上のボレル可測なトーナメント関係の構造について記述集合論の観点から何かいえないか、という問題も当然立てられるが、今のところよくわかっていない。調べてみる価値はあるね。


2013年1月25日(金)くもり

4月からの次年度は、前期に2年生、後期に3年生の講義を受けもつ。2年生の授業は普通の「集合と位相」の集合論。もうちょっと専門性の高い3年生の授業では、位相空間論の精華というべき「ウリゾーンの距離づけ定理」をやることにした。


2013年1月24日(木)くもり

オイラーの等式 \(e^{i\pi}=-1\) の「美しさ」が昨晩ツイッターのTLでちょっと話題になった。ただし、必ずしも「なんとも美しいねえ」と話題になったわけではなく、「美しいかどうかよくわからん」という意見のほうが多かったように思う。俺もその意見に与したのだけど、そのいっぽうで、俺も自著や「て日々」(たとえば2008年12月13日の)で「美しい数式」に何度か言及したことがある。このあたりのことについて、ひさしぶりに考えてみよう。

正直なところ俺にとって「美」はもっぱら視覚的あるいは聴覚的経験に結びついている。美しい景色、美しい女性、美しい言葉、などなど。ところが、数学者はときに、視覚でも聴覚でもない数学的事象に対する感覚「数覚」を語る。ということは、数覚に訴える美というものがあるのかもしれない。数覚をもつ人にとってはオイラーの等式はとても美しいのかもしれない。しかし、その数覚なるものは、俺にはなさそうだ。それどころか、そもそも数覚というのが何を言っているのか、それすら俺にはよくわからない。たとえ俺がオイラーの等式を美しいと評したからといって、それで俺に数覚が備わっている証しになるとも思えないから、たとえ誰かが、自分には数覚が備わっていてその数覚がオイラーの等式の美を捉えているのだよと主張したとしても、「はあ、そうなんですか」以上のことは言えない。

では、そういう俺はオイラーの等式 \(e^{i\pi}=-1\) についてどう考えるのか。

オイラーの等式は、彼が見い出した三角関数と指数関数の冪級数表示 \[ \begin{align} \cos x = & 1 - \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{2\cdot 3\cdot 4}x^4 - \frac{1}{2\cdot 3\cdot 4\cdot 5\cdot 6}x^6 + \cdots \\ \sin x = & x - \frac{1}{2\cdot 3}x^3 + \frac{1}{2\cdot 3\cdot 4\cdot 5}x^5 - \frac{1}{2\cdot 3\cdot 4\cdot 5\cdot 6\cdot 7}x^7 + \cdots \\ e^x~= & 1 + x + \frac{1}{2}x^2 + \frac{1}{2\cdot 3}x^3 + \frac{1}{2\cdot 3\cdot 4}x^4 + \cdots \end{align} \] から導かれる。俺がこれらの式を知ったのは高校生のときで、ずいぶん驚き、かつ、なにか「自然の驚異」を目のあたりにしているように感じて面白がったものだ。オイラーの等式 \(e^{i\pi}=-1\) を理解するには、まずここに挙げた初等関数の「マクローリン展開」と呼ばれる冪級数表示を知り、そしてその正しさをなんらかの方法で洞察しないといけない。そして、それは「数覚」をもたない俺にも可能であった。

逆数和についての等式 \[ \sum_{n=1}^\infty\frac{1}{n^s}=\prod_{p}\frac{1}{1-\dfrac{1}{p^s}} \] や三角関数の無限乗積展開 \[ \sin x = x\prod_{n=1}^\infty\left(1-\frac{x^2}{n^2}\right) \]もそうだが、オイラーの等式は、その「正しさ」を正しく見通した者には、汲めども尽きぬ感興の泉を提供する。

【ここでCM】こうした式の数々については、結城浩『数学ガール』シリーズの特に初巻(ソフトバンククリエイティブ, 2007年)に詳しく書いてありますよ。

だが、オイラーの示した公式たちの素晴しさをじゅうぶんに認めた上で、俺はなお、この感興を「美」と呼ぶことを躊躇する。

無責任と思われるかもしれないが、俺自身が著書で「美しい」と評したライプニッツの等式 \[ 1 - \frac{1}{3} + \frac{1}{5} - \frac{1}{7} + \cdots = \frac{\pi}{4} \] についても、事情は変らない。ここにあるのは、あくまで知にともなう心地良い驚きと感興であって、それを美とよぶことの正当性には、疑いの余地がある。

《では君は美を視覚や聴覚のはたらきによる感覚的な経験だというのだね。しかし待ちたまえ。視覚的な美と聴覚的な美を君は認め、その両方を美と呼んでいる。それらがともに美である以上、両者を貫く「美」そのもの、それが何かを、君は知っていることになる。そして、その「美」そのものは視覚にも聴覚にも限定されない以上、個別の感覚を超えているはずであり、そうしたものを君が知っているからには、君は個別の感覚を超えた「美」そのものを直覚していることになる。》ソクラテス流あるいはプラトン流にそう説得されたとしても、それは俺にとっては論理的要請にすぎず、美の経験をも知的感興の経験をも説明してはくれないし、ましてや「数覚とは何か」納得させてくれるわけでもない。

そのように考えてくると《美をめぐってひとしく万人に分け与えられているのは、ただ「美」という言葉を使う権利と、それに伴う使用者としての責任だけだ》という意見に傾きかける。

しかし、それでいいのか。

美をめぐって意見が食い違うことは珍しくない。そして、そのことが喧嘩の原因になることも珍しくない。なぜか。なぜ美をめぐるすれ違いは残念なのか。それは俺たちが美に価値を見いだしているからだ。つまり、俺たちは「美のイデア」を認めようと認めまいと、美の経験の価値は認めているわけだ。

美をめぐって万人に分け与えられているものがたとえ「美」という言葉を使う権利だけであったとしても、美に価値を認め、美について他者にとどく発言をしようと努めるかぎり、俺たちは、なんらか共通の「美をめぐる言説の(暗黙の)ルール」に従おうと努めているわけであり、そこには、なにか言葉の使用者としての共同責任のようなものが発生していると認めざるを得ない。ならば、その責任は悦んで担おうじゃないか。

イデア論的になろうとなるまいと、あるいは唯名論的になろうとなるまいと、美あるいはその他いろいろの価値について、俺たちは言葉を尽して語ることをやめはしない。そして、そうした百家争鳴のうちで、よりよく(≓幸福に)生きる道を見い出すために力を合わせるべきであるという原則にも変わりはない。

なんだか、あの本にアテラレたような結論になりそうだが、ひとまず仕方がない。今回は、これまで俺が美と呼んでいたもののうちに、「視覚的または聴覚的な美しさ」と「知的な感興」とを区別すべきだということだけ、確認しておこう。


2013年1月23日(水)くもり

朝、昨日行かなかった「いつものコーヒーショップ」に行ってきた。午後はゼミ。いつもながら、午後1時から6時半まで、途中20分ほどの休憩をはさむとはいえ、のべ5時間の長丁場である。セミナーが長かっただけでなく、セミナー後の仕事の話でも、今日はなんだか色々残念な思いをしたので疲れたが、それなりに楽しいことがないでもなかったので、まあよしとしよう。

ダンボール製のドールハウス
写真は【娘】の作った段ボールのドールハウス
手書きの絵がかわいい

ゲーデルの不完全性定理についてすこし調べ物をする必要があって、昔どこかで読んだ、稲垣足穂がインタビューに答えている記事のことを思い出した。その記事で稲垣は不完全性定理に言及し、それを「どんな完全な理論も矛盾する」と表現していた。このとき稲垣が「況や不完全な理論をや」という含みを意図していたのではないかという疑いがある。だとしたら、不完全性定理の乱暴な要約とそれに基づくありがちな誤解のわかりやすい例ということになるが、裏をとろうにも、どこでその記事を読んだのかも思い出せない。どこかの図書館でなんらかの稲垣足穂アンソロジーのようなものに収録されたものを読んだには違いないのだが、書名や記事のタイトルを覚えているわけもなく、図書館にしても、京都市立図書館、立命館大学図書館、名古屋大学図書館、愛媛県立図書館、松山市立図書館、愛媛大学図書館のうちのどれかだろう、というくらいのことしかわからない。調べ物のデッドラインを考えると、せっかく思い出したこの情報は、使いようがない。

つまり「メモはこまめにとろう」という教訓話である。


2013年1月22日(火)あめ

あまり寝ていないので一日つらかったけど、そろそろ健全な生活時間に戻さんといかんので、朝の電車で子供らと一緒に出かける。昨年までは子供らを小学校へ送り届けたあと、その足でお気に入りのコーヒーショップに行って本を読んだり授業の準備をしたりの時間をゆっくりとっていた。ところが、このごろは子供らが以前より一本早い電車で出かけるようになったので、小学校につく頃にはまだそのコーヒーショップの開店時間前だ。ほんの20分くらいのことなので、夏場なら適当に歩いて時間をつぶして待つところだけど、冬土用の朝の寒空の下で荷物抱えて散歩はちょっと厳しいので、きょうは直接大学へ向かう。

昨日の日記を読んだ数セミの大賀編集長が心配してくださったけど、数セミ2月号は大学生協で難なく入手できた。市井の書店で売り切れているのに大学生協で売れ残っているというこの状況は大学の名折れかもしれんのだが、希望的観測をするなら、数セミはもちろん図書館に入っているわけだから、大学生が買っていないということがすぐさま大学生が読んでいないことを意味するわけではない。というわけで、これを読んでいる学生のみなさんは、学生のうちは数セミを(もちろん買って悪いわきゃないけど金銭的に余裕がないなら)買えとは言わないから、図書館をじゃんじゃんばりばり利用して、どんどんずんずん読書してください。そして社会に出てお金を稼ぐようになってからは、ぜひ数セミを毎号買ってあげてください。

とはいえ、いま現在の俺があるのは、学生時代にたまたま買った数セミが、志賀浩二先生の『無限からの光芒』の連載の初回の掲載号だったから、という面が多分にある。幅広く読書していれば、そういう幸運な出会いの機会がたまにある。多数の執筆者や記者が関わる雑誌はもちろん、たとえ単著の書籍でも、こちらが予期したことばかりが書いてあるわけではないからだ。

午後、トポロジーの授業の最終回。昨日準備した内容をほぼ予定通りこなした。こんなふうに、ローカルには毎回ほぼ予定通りだったけど、グローバルにはもうテキスト選びの段階で当初の予定から大きくズレている、「これぞ被覆空間」みたいな授業であった。先週の約束どおり、Tk1くんに富増本を貸出し。


2013年1月21日(月)くもり

15日に次年度の2回生向け授業のシラバスを書いたが、次年度入学生から適用される新しいカリキュラムに沿った授業計画を書いてしまっていた。指摘されてあわてて修正。これは恥ずかしい。まあ、おかげで来年ちょっと楽ができるかもしれないけど。あとは、3回生のSNくんが質問に来たのに応対したほかは、いつものように明日の授業の準備をしていた。そろそろ期末テストの問題も考えにゃならんが、明日最終回となるこの授業、俺自身にとってもかなり勉強になったと思う。

講義ノートの一部
手書きの講義ノート

(全体像がわかるフルサイズ画像にリンクしています)

そんなこんなで大学生協に行きそびれたので、夜になってから千舟町のジュンク堂書店に行った。目的は先日発売された数学セミナー2月号だ。だが、行ってみると、4階のいつもの棚にない。店員さんに聞いてみたところ、14日に10冊入荷したが全部売れてしまったそうだ。「このごろはすぐに売れてしまいます」とのこと。それはそれで慶ぶべきことではある。しかし、無駄足は無駄足。いまは読む本がなくて困っているわけでもないので、他の本は買わず、早々に退散。マツモトキヨシで養命酒を買って帰宅する。


2013年1月20日(日)くもり

おっとまだ間違ってた。「ユング的プロトタイプ」なんて言葉があるもんか。ユング心理学なら「アーキタイプ」だってば。

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17日に注文したルーズリーフとバインダーが届いた。今回は KDM (Knowledge Designer's Mart) という岐阜県を拠点とするショップの通販で買ったけど、昨日ちょっと立ち寄った銀天街の三浦屋文具店に在庫があり、地元でも手に入ることがわかった。まあ一年に130枚くらいのペースで使うものを、今回300枚手に入れたので当分は買い足す必要はない。

業務日誌にわざわざ高価なリフィルを使う理由をもう一つ見つけた。ちゃんと使わないともったいない。いま使っている年代ものの “高級” ルーズリーフが残り少ないのに業務日誌がスカスカでは、紙がもったいないから「もう一仕事片付けてから帰るかな」と思うようになったのだ。これはまあ、いままでがダラケすぎていたのではあるが、いい変化かもしれない。

夜にはSkypeのインスタントメッセージで「第3回つどい」の運営会議。


2013年1月19日(土)くもり

昼食にパパラーメンを作る。今日のはなかなかうまくいったぞ。それから図書館に行き、子供らにつきあって児童館にも行った。児童館近くのローソンで 熊本FREE という “ビールテイスト・ノンアルコール飲料” を買って飲んでみた。缶にくまモンが印刷してあったのはかわいらしくて好感が持てたが、肝心の味は、全然ビールテイストじゃなかった。うーん。できればホップくらい使ってくれ。


2013年1月18日(金)はれ

空からは暖い日差し。しかし日の当たらぬ工場裏の水たまりは昼過ぎになっても氷が残る寒い日だった。日赤のタリーズコーヒーで来週の講義の準備。いよいよ最終回。単純閉曲線が球面を二つの連結開集合に分離すること。「連結成分が二つ以上」であることは今週示されたので、次は「三つ以上ではない」ことを証明する。それだけだと少し時間が余るが、もとの単純閉曲線がそれら連結開集合それぞれの境界と一致することの証明を含めるとちょっと時間が厳しいかも。日赤のタリーズコーヒーは静かで落ち着いていて、こういう仕事にはもってこいの穴場かもしれない。ただ、俺のいた1時間ほど、ずっとBGMが同じで、3分くらいの同じピアノ曲を何度も繰り返しかけていたのには、ちょっと参った。

夕方にはピアノのレッスン。次はツェルニー三十番の第3曲。けっこう難しい。

夜、少しがんばって川本隆史『ロールズ 正義の原理』を読了。先週の土曜日、飲み会に行く道で買った本である。連休中は下痢でダウンしていたとはいえ、一週間もかかるとは情けない。まあ正直なところ、俺にはまだこの本は難しかった。なにしろ俺は、主観的には「よりよい社会を作ること」に関心があるつもりでいたが、そのテーマについてとりたてて本を読んだり人と話しあったりという積極的な勉強をした経験はない。しかし、いつまでも「ぼくは知りませんね」ではいけないと思うし、いまさら興味の幅を狭くして専門の殻に閉じ込もったところで、たいしことはできない。だからこれから政治思想の古典みたいな本もちょっとは繙いていこうと思うのだけど、いきなりロールズの主著『正義論』にとり組んでも、どうやら歯が立ちそうもない。それよりは、正月休みに妻の郷里で手に入れた山川出版社の高校教科書のリプリント「もういちど読む山川倫理」「もういちど読む山川政治経済」とか、ロックやルソーの著作で文庫本になっているもの、それからJ.S.ミルやカントの訳書、というふうに進んでいこうと思う。それらをひととおりこなして、まだ足りなければ、あらためてロールズやサンデルという現代の学者の本を読むことにする。

川本の本でロールズとその批判者との応酬について読んで思ったのは、倫理や道徳についても、根本から論じるにはどこか数学的・論理的センスのようなものが必要になるらしいということだ。俺が数学者だから我田引水して言っているという面はないでもない。しかしまあ、考えてみてほしい。ロールズが主たる論敵として乗り越えを目指したのは「最大多数の最大幸福」の実現を社会の目標とする功利主義の政治思想であり、功利主義が価値を「効用」という数学的なメカニズムによって説明しようとする以上、批判者の側も数学的な議論にかんして無知ではいられないわけだ。また、現実の社会の問題を論じるには、統計データの読み方を知らなくてはいけない。数学オンチでいるわけにはいかないのだ。

だからといってもちろん、数学がわかれば政治思想がわかる、とまで言うつもりはない。数学は必要だが、それだけでは決して十分ではない。だが、いずれにせよ、文理両系への性急な分離は、人間の学問にとって不幸のはじまりだと思う。

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写真はピアノ教室に行く途中で買った手回し発電式の懐中電灯 《ブンブンエコライト》 だ。電池の交換を気にせず使えるのでよい。非常灯としては重宝しそうだが、思いのほか頻繁にぐるぐる回して電気を溜めねばならず、そのたびにウィンウィンと歯車の音がするので、当初の思惑だった、皆が寝静まってから読書灯として使うには、ちょっと厳しい。


2013年1月17日(木)くもり

今年から仕事のある日には業務日誌をつけるようにしたわけだけど、11日の日記に書いたとおり、これにはB5ルーズリーフを2日に1枚のペースで使う。いまのところ、学生時代に買った用紙の残りを使っている。これは立命館大学か名古屋大学の生協で、当時普通に売っていた定番商品を普通に買ったもののはずだが、すかし入りフールスキャップの、今にして思えば高級品である。愛媛大学の生協で聞いてみたが、さすがに廃番になっているようである。ということは、残り15枚ある手元のリーフを使い切ったらもう補充のしようがない。なんとも残念だが、しかし使わずにとっておくことが文具にとっての仕合せであるかどうかわからないから、最後まで無駄なく使うことにする。

で、その後の代替品をどうするか。いちばん近いのが ライフ《ノーブルルーズリーフ》だ。100枚で税別850円という価格には一瞬ひるむが、ここはケチケチする場面ではない。年に何度もする買いものではないので、ひとつ張り込むことにしよう。しかし、それにしても、いま使っている大学生協のルーズリーフは、買った当時は決してこんな高級品ではなかったはずなんだが。

同じ紙材を使った大学ノートは、その昔大学生協連が開発したオリジナル商品第一号だそうだ。これはいまだにどこの大学生協でも定番商品として手に入る。

こんなこと書いてると、ルーズリーフなんか安いのがいくらでも売ってるんだから贅沢言うなと言われそうだ。確かにそうだ。俺だって、日々の雑記にはこんな高級な紙は頼まれても使わない。前にも書いたが雑記用にはナカバヤシのスイング・ロジカルノートを使っている。いっぽう、コクヨから出ている類似のドット入り罫線キャンパスノートは、気にいって使っている人もいるのには違いなかろうけど、俺にはドットが目障りで、どうも使う気がしない。ダイソーで売ってる安価なノートは、たいてい罫線が太かったり濃かったりでこれも書きづらい気がする。アイデアを好き勝手に展開するためだけにある雑記ノートだからこそ、使い勝手が悪くて手が止まってしまうようでは困る。そして業務日誌はといえば、これはつい先日始めたばかりで、習慣化するまでモチベーションを維持する必要がある。そんなわけで、文具の使い勝手はけっこう大事なのだ。

もっとも、ひとたび調子が出はじめたら、広告の裏、ファミレスの紙ナプキン、レシートの裏、なんでもお構いなしにどんどん書いてしまうのである。だけど、調子が出る前の普通の状態のときに、気分よく使える文具を選ぶのは、実はけっこう大事だと思う。

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夕方、いっときみぞれ混じりの雨が降って、心配した妻が車で迎えに来てくれた。来てくれたときには止んでたけど、ありがたく乗せてもらってらくちん帰宅。このところ飲みに出かけていたり寝込んでいたり遅くまで仕事していたり、はたまた自分は家にいるが妻が出かけていたり、そういう夜が続いたので、久々に4人そろって夕食をとれて楽しかった。


2013年1月16日(水)くもり

職場の自室の積ん読本が場所塞ぎなので、書棚あふれた本をこれまで段ボールに片づけていた。これはもちろん作業スペース確保のためのやむを得ぬ措置なんだけど、問題もある。なにしろ蔵書リストなんてものを作っているはずもないので、持っている本と手放した本が記憶の中でごっちゃになっている。すでに手放している本を「持ってるからあげるよ」と人に言ってヌカ喜びさせたことが何度かあるのだ。それに、段ボールが4箱も積みあがっていると、必要な本を探すのだって大変だ。

だいいち、箱に詰めて置いとくなんてのは「積ん読」ですらないただの死蔵だ。段ボールに入れて胸が痛まないような本は、むしろ潔く処分してしてしまおう。そうでなくて、いつかは読むつもりでいるというなら、せめて目に触れる場所に置くべきだ。

そう思って、箱詰めしていた本を作業テーブルに積み上げてみた。

本の山
テーブルの上に出現した段ボール4箱ぶんの本の山

これはつまり、過去の自分の雑多な関心の移りかわりが目の前に形になって現れたことになる。仕事柄、数学や哲学の本が多いけど、電磁気学や確率論、あるいは天体力学の本もけっこうある。それらはもちろん、ちっともモノになっていない。この節操のなさはちょっと恥ずかしいが、しかし興味を広くもつこと自体はなんにも悪くない。ふむ。過去の自分の関心事の雑多さを肯定的に見返すのも、ときにはいいかもしれん。

ともあれ、本を買うときは慎重に選ぼう。そしてどんどん読もう。


2013年1月15日(火)はれ

トポロジーの講義。どうにか単純閉曲線が球面を2つ以上の連結成分にわけることの証明が済んだ。来週はいよいよ最終回で、分けられた連結成分が3つ以上ないことを証明する。さらに得られた2つの連結開集合それぞれの境界がもとの単純閉曲線に一致することまで証明したい。本当はそのうえ、2つの連結開集合がいずれもユークリッド平面と同相であることを証明して話が完結するわけだが、残り一回の授業では、とてもそこまでは手に負えない。

授業のあと受講生の一人Tk1くんから「あの『人生で大切なことはすべて哲学と彼女が教えてくれた。』をぼくも読みたいんですけど、図書館とかで借りられたんでしょうか?」と聞かれた。うーむ。彼はツイッターでのフォロワーなのか「て日々」の読者なのか。まあ、貸してあげてもいいよ。

夕方から市民コンサートの機関誌の作業。最近講談社学術文庫に収録された新田義弘『現象学』を持っていったら、コントラバス奏者のゴーシュさん(仮名)が「わー、現象学っていまでも生きてるんですかあ、私も学生の頃読みましたよぉーメルロ・ポンティとかぁ」と、ずいぶん珍しがってくれた。はい、現象学が生きてるか死んでるか俺には判断できませんが、それなりに学生の頃から俺も興味をもっております。「やっぱり数学と関係ありますか?」という問いかけには、直接の関係はないと答えるしかなかったけれど、現象学の祖フッサールがもともと数学専攻だったことや河合隼雄が数学の教師から心理学に転進したことなど伝えると「いやあやっぱり数学って深みがありますねえ」と、これまた随分おもしろがってくれた。いや、これは数学の深みというよりは、フッサールや河合隼雄といった人たちの深みだと思いますよ。

いまはとりあえず昨日半分まで読んだ川本隆史『ロールズ』を読み終えることが先決ではある。それに 『数学セミナー』 の、小澤正直先生の不確定性原理に関する論説が掲載されていた号のバックナンバーも届いたし、他にも仕事がらみでさっさと読んでしまうべき本や論文がいろいろある。あれも読まんならん。これも読まんならん。


2013年1月14日(月) 成人の日はれ

土曜日の飲み会に行く前に書店に寄って買った、川本隆史『ロールズ 正義の原理』(講談社)を読み始める。連休中に読み終えるつもりだったのだけど、昨日はまったくそれどころではなかった。で、きょうは第四章まで読んだ。慣れないテーマだから読みにくく大変だけど、そういうことを言って敬遠してばかりいてはいけない。

一昨日・昨日と風呂に入れなかったので、昼食後に近所の温泉に行ってゆっくり身体を温めた。午後、明日の授業のノートを見直していたら、アホな思い違いから間違った式を立てているところがあった。そこを修正した結果、最終的な式はかえってシンプルになった。やはり事前のチェックは必要だ。授業の準備はぎりぎりの直前にやるもんではない、ということだね。


2013年1月13日(日)あめ

朝から体調不良。大学院生に誘われていた新年会はキャンセルさせてもらうことにして、家でおとなしくしていたが、夜に発熱。こりゃいかん。いろいろ本も読まにゃならんが寝るとしよう。


2013年1月12日(土)くもり

実際のところあまり使っていないので特に理由はないのだけど、ずいぶん久しぶりにEmacsを更新。Emacs-24.2をコンパイルしてみた。ずいぶん早くmakeが終わったので驚いた。Cocoaアプリケーションも標準でビルドされるし、Emacs-21.x系列をフォローしていた頃とはえらい違いだ。

画面キャプチャ
Cocoa版Emacsの画面(クリックで拡大)

夜、われらがボス野倉教授の20年前の教え子であるkeisyunさんが教授を訪ねてきたので3人で飲みにいった。keisyunさんが野倉ゼミにいたのは、俺が就任して2年目。野倉教授は当時こそ「ぼくたちの学科は研究する数学者集団としてのプライドをもっている」って明言していたし、実際いまでもそういう側面は確かにあるんだけど、きょう飲みながら話したところでは、今年度も論文は3本書いたけど、もう共著者が喜んでる範囲でやろうという程度に思っているとおっしゃる。いっぽう野倉教授の言うには、かくいう俺も、ずいぶん丸くなったと周囲の評判なのだそうだ。ぼんやりと過ごしてしまった感があったとしても、20年というのは、やはり長い年月なのだ。ところがkeisyunさんは、むろん渋い大人の面構えを備えたとはいえ、若い頃の面影をどことなしに残していて、なかなかカッコよかった。3月にもう一度、今度はトモヤスくんたちにも連絡を取って集まろうと相談した。(→2013年3月23日土曜日

パジャマくま

さてさて、飲み会がお開きになって満州屋で一人でラーメン食ってから歩いて帰る途中、あるマンションの前の道に一匹のネコがいた。機嫌がよさそうにしていたのでなでてやった。そしたら脚の周りをぐるぐる回ってじゃれついてきてかわいかった。300メートルほど先の角にコンビニがあるので「お前なにか食わしてやろうか」と言ったら、トコトコトコという足取りでついてきて、俺がコンビニでベーコンを買うあいだ、ちゃんと店の裏で待っていた。心得たものである。ベーコンをひときれ手にとって鼻先に出してやったら食いついた。ところが俺がなかなか手を離さないもんだから、ちょっと指先を引っ掻かれてしまった。夢中で食っているところへもうひときれだけベーコンを投げてやって「じゃあな」と言って帰ってきた。それだけのことだけど、なんだか楽しかった。それから家につくまでにすれちがった人には、俺がなんとも幸せそうな顔をしているのが見れたに違いない。


2013年1月11日(金)はれ

夕方はピアノのレッスン。ツェルニー三十番の第2曲。少しはできるかなと思っていったのだが全然だめ。左手の練習はそれなりにしていったつもりだけど、右手のメロディーの表情も乏しければ脱力もできていない。発表会の曲の練習をしているだけでは見えにくい問題点が、ツェルニーを弾こうとすると、どんどん炙り出されてくる。そういう意味でだろうけど、O野先生は「これはいいですねえ♪」と言っている。うん。たしかにそうかもしれない。

レッスン後、ミスドに寄ってカフェオレを飲みエンゼルフレンチを食いつつ、この月曜日から始めた業務日誌をつける。B5ルーズリーフを使い、大きめのプロジェクトにはそれ専用のシートを別に作ることにして、原則はあくまで1日1ページ。細かいタスクは付箋に書いて貼る。未完了の分は次の日に送り、完了した時点でリーフに記録して、付箋は捨てる。原則として日誌は記録専用で、スケジュールやデッドラインの管理はiOSのカレンダーとリマインダーでする。それで、記録には完了したタスクだけが残って、気分がよい。

ミスドで家族へのおみやげに一個100円のドーナツを4個買って電車で帰る。電車では富増章成『人生で大切なことはすべて哲学と彼女が教えてくれた。』(中経出版2012年)を読む。いったん帰宅してから近所のコンビニに行ってあれとこれの支払いを済ませ、飲み物を買って戻り、『人生で大切な…』を読み終えた。なかなか面白かったし、高校生くらいの若い人たちには哲学入門として案外有意義なんじゃないかと思う。

とはいえ、たとえ先生の話をろくに聞いていなくとも先生の言い間違いや書き間違いには大騒ぎしがちな生徒さんたちをターゲットにした本であるからには、「5日前」と「昨日」がごっちゃになっているなどというストーリー部分の雑さはちょっとマズいと思う。それに、普通に日常を生きている哲学なき人たちを一段下に置くのは話の都合上しかたないのかもしれないが、ゾンビ扱いはさすがにやりすぎで、ちと不愉快だ。本題の哲学の部分が巧みに書けているだけに、その2点は気になった。

『人生で大切なことはすべて哲学と彼女が教えてくれた』のカバー
このカバー画を見た【娘】は興味津々
まあ読ませてやらんこともないが
小五の小娘にはまだわからんと思うぞ

しかし考えてみれば、「僕」が美人JK(のようなもの)に導かれて新しい世界の門をくぐる話というのは、古くはパルメニデスの啓示、プラトンの『饗宴』から、ダンテ『神曲』など、何度も繰り返し語られてきている。この『人生で大切な…』とか結城さんの『数学ガール』シリーズとかも、まさにその部類だ。ふむ。ここには何か、ユング的なプロトタイプアーキタイプがあるのかもしれない。

翌日追記:恥ずかしいことに、パルメニデスと書くべきところでプロタゴラスと書いていたので修正。メレアグロスと書くべきところでメナンドロスと書いていたこともある。ギリシャ人名ややこしすぎ。


2013年1月10日(木)はれ

今晩も夜なべして、昨日下書きした来週の講義ノートの公開用清書版を作った。しかし、もういい歳だし身体も丈夫じゃないんだから、あんまり夜更かしなどすべきではない。生活全般を見直す時期に来ているとは思う。

Vision Object社MyScript Calculator なる iOS App が面白い。手書きの数式を認識して数値を計算してくれるのだ。iPhoneユーザは試してみるよろし。[→App Store


2013年1月9日(水)はれ

月曜日の時間割で授業する日なので、ゼミもお休み。それで少し時間に余裕があるので、非常勤講師の仕事を終えた妻と湊町のトマティナで昼食。その後は普通に大学に行き、普通にあれやこれやの仕事をする。来週の講義ノートの下書きはできた。

冬休みの始めにコミセンの図書館で借りた本が返せていなかったので夕方にそちらへ回る。コミセン図書館の検索システムは著者名での検索がやりにくい。ミシェル・フーコーの本を検索しようとしたのだが、「著者名:ミシェル・フーコー」で検索したら北条図書館にあって中央館にはないと言われた『言葉と物』が、書名で検索したらちゃんと中央館にあったりする。

まあいずれにせよ、今回は図書館では何も借りず、帰りに書店で新しい本をいくつかチェックする。「《宗教》としてのAKB48」という観点から本を書いている人がちゃんといると知って面白かったが、あとで妻に聞いたところでは、この本は前田敦子がキリストを超えたとかなんとか言ってるせいで全キリスト教会に喧嘩を売った格好になっているらしい。ううむ。

私見では、AKB現象をキリスト教と比較して論じるよりは、天理教の中山みきや大本教の出口なおと比較したほうがまだしも実り多い気がするのだけど。

夜、寝る間際になって【娘】が「そうだ音読(の宿題)やってない」と言い出した。起きてきて読んだはいいが、ぜんぜん気乗りのしないボソボソ声だったので、あとで注意した。そんなふうにつまらなそうにやるもんではない。文章というのは相手に伝わるように読むもんだ。それで、実習として、紙に「パパなにこれ」と書いて読ませた。ただし、こちらが指定したいろいろの状況に合わせてこのセリフを読んでもらうのだ。たとえば、

1. パパがプレゼントをくれた。「パパなにこれ」
2. 本を読んでいたら難しい漢字があったのでパパに聞いた。「パパなにこれ」
3. トイレに入ったら、パパが流すのを忘れていた。「パパなにこれ」
4. パパと一緒に公園のベンチに座ったらなにかベタベタしたものがついていた。「パパなにこれ」
5. 失明寸前の大怪我をしたパパが眼の手術をして、いまやっと包帯をとった。「パパなにこれ」
6. 夜遅く帰宅したパパのシャツに口紅が…「パパなにこれ」(これは妻に言ってもらった。怖かった。)

これだけやれば、言い方ひとつで言葉の伝えるものがずいぶん変わるものだということが、子供にも納得がいくはずだ。そして、こういうふうに課題を出すと、子供らは面白がってやってくれる。いっぽう、「どうせつまらないし」と腰が引けた態度で物事に参加していては、あるかもしれない面白さだって見つかるはずもない。これは、俺自身にも勉強になった。


2013年1月8日(火)くもり

昨晩は1時くらいまでかかって講義ノートを作り、そのあとも、続きの講義内容の作戦を考えていた。ジョルダンの閉曲線定理のうち、単純閉曲線が球面を二つの連結成分にわけることの証明に必要な補題の証明をつけるのに、3時くらいまでかかった。テキストに書いてある筋を単に踏襲すればいいのかもしれないけど、明日の講義でもテキストの論法を少し単純で図を描いて説明できる形に直しているので、その延長上で議論したいと思ったのだ。おかげで、自分でもこれはちょっと面白いんじゃないかと思える議論になった。これは再来週の授業で話すことになる。

で、授業に行ってみると、前回より出席者が5人ばかり少ない。27人のうちの5人だから、ずいぶん減った印象だ。少し待っていたら現われるかと、ゆっくりしたペースで始めたら、後半に時間が足りなくなって、3分オーバーした。ごめん。それにしても、欠席した5人が5人とも餅の食いすぎで寝こんでいるとも考えにくい。これはやっぱり前回の授業がまずかったのが災いしているのかもしれない。ともあれ、予定した内容はなんとかこなしたから、あと2回でジョルダンの閉曲線定理の証明は完結するはずだ。

夕方からは市民コンサートの機関誌作業。


2013年1月7日(月)くもり

業務日誌くらいつけよう。

朝、仕事上のTODOを紙に書き出していたらけっこう膨大になって泣きそうだった。イベントはiOSのカレンダー、一過性のタスクはiOSのリマインダーに書けばいいのだけど、ある程度の期間にわたるTODOすなわち「プロジェクト」はどこへ記録すればいいのか。カレンダーでもタスクリストでもなく、長め(数か月単位)のタイムスパンで動く仕事の時間軸を管理し、プロジェクトの内容をカレンダーやタスクリストに書ける最小単位のTODOにまで分解するプロセス。思えば、そういう合理的な計画性とは無縁なままで、これまでこうしてどうにか無事で生きてこられたのは、ただただ幸運であった。それはまた、周囲の賢い人たちの助けがあったからこそのことだろう。本当にありがたいことだ。だけど、感謝しているだけではいけない。作戦のない人生には成功も達成もない。というわけで話は最初に戻って、業務日誌くらい…

さて、きょうが事実上の仕事初め。なによりも、明日の講義の準備をせねばならん。


2013年1月6日(日)はれ

というわけで朝の船で松山に戻った。そしたら、10日のあいだ人のいなかった家の中がやたら寒かった。本当に、外より寒いくらいだ。昼食後、郵便局に書留を受けとりに行き、そのまま伊予市まで海岸をドライブ。それから引き返してジョープラに行って食材を買って帰り、適当に夕食。朝が早かったので俺も妻も子供らも夜の9時にはもう眠い。明後日の授業の準備もせにゃならんが、さっさと寝たほうがいいのかもしれない。


2013年1月5日(土)くもり

まあそのような理由で、松山に戻るのを一日というか半日遅らせて、明日の朝の船に乗ることにする。朝食には焼き飯を作った。昨日妻がダウンしていた関係で昨晩の赤魚の煮付けがひと切れ残っていたので、それを使ったのだが、ソースの煮汁をケチったので味つけが足りず、ちょっと不満。昼食には、ハムを乗せ秘伝のタレ(というほどのことはなくて、醤油と味醂を混ぜて少し水で伸ばし、きざんだ大根とニンニクとおろし生姜を入れたもの)をかけた丼と、ソーセージとジャガイモをもりつけたジャーマンな皿。昼食後は徳山の周南市美術博物館で開催中の安野光雅展を見にいく。思いのほか展示点数も多く見ごたえがあった。絵本の展示即売をしていたので、妻は『天動説の絵本』、俺はトランプ(2001年版)を買った。

安野光雅デザインのトランプ2001年版
博文館新社の安野光雅オリジナルトランプ

夕食後、置き土産のつもりで、いつものようにレンコンのきんぴらとひき肉の味噌炒めと、かみなりこんにゃくを作る。


2013年1月4日(金)くもり

妻が二日酔いで一日じゅうダウンしていた。それで、予定していた徳山行きはパアになった。仕方がないので、俺が子供らを図書館に連れていき、おやつと夕食の用意をした。子供らのおやつにと思って大晦日に買っておいたアイスクリームが一つだけ余っていたので、【娘】にはクリームソーダ、【息子】にはココアフロートを作った。【息子】は炭酸が苦手なのだ。夕食は赤魚の煮付けとタケノコの煮ふくめと、あと、レンコンのきんぴら。それに昨日作って少し残った豚汁。


2013年1月3日(木)はれ

郵便受けに入れてある寒暖計によると、今朝9時ごろの気温は1度。なかなかの寒さだ。子供たちの写真を何枚かセブンイレブンのネットプリントでL判印画紙に刷って義父母にプレゼントする。

夜、のうこ&ありんこを相手に年頭所感を語りあうチャットを始めるも、階下で義父と妻の親子トークがヒートアップしているのに驚いて中座。チャットは流れてしまったが、義父と腹を割って語りあう時間がもてたのは大変ありがたかった。ありんこよ、済まぬ。いずれスガキヤか味仙で何かごちそうするから。


2013年1月2日(水)くもり

午前中は好天と見せかけておいて、お昼ちょっと前にほんの一瞬だけ雨が激しく降ったため、妻が外へ干していた洗濯ものが台無しになった。午後は雲が多かった。

初夢は「京都の岡崎あたりで観光中の外人さん御一行をくすり屋に連れていく」という内容だった。今回も音楽ホールと会議室やら何やらを兼ね備えた大きな文化施設が登場した。しかし今回は残念ながらバレリーナは登場せず。京都の岡崎が舞台なら、かつての京都会館の記憶にちがいない。

昼食のラーメンを作った。みな喜んでくれたが、スープの味付けにせよ何にせよ、市販の麺と市販のスープベースで作っているわけだから、調理者がコントロールできる部分は少ない。ふむ。このスープを一から作るにはどうすればいいのだろう。

午後、俺と妻子と4人でふたたびゆめタウン柳井へ。例年どおり、子供らに文具の福袋を買ってやりたいのだが、防府のゆめタウン同様、あまりパッとしない。食材を買って帰って夕食を作る。年越し蕎麦のために買った蕎麦玉の残りが2玉あったので4玉買い足し、長芋をすって山かけ蕎麦にした。主菜は鮭のムニエル。それにいろいろの野菜を添える。いくつもの作業を並行してやるので終盤がなかなか慌しかった。ムニエルがちょっと焦げたことを別にすれば、仕上がりはまずまず。


2013年1月1日(火) 元日はれ

朝起きてみると、外には積雪。子供らは大喜び。ひとりで雪あそびをして戻ってきた【息子】の手足がひどく冷たかったから足湯をして温めてやったら、リフレッシュしてまた飛び出していった。【娘】も長靴に雪が入ってグショグショになるまで遊んで戻ってきた。おかげで子供らの靴下の替えはなくなった。やれやれ。

午後は防府天満宮に初詣に行く。昼食はゆめタウン防府内の「どんどん」のうどん定食。帰ってからの夕食は河豚の唐揚げだった。

一年の計は元旦にありという。仕事もなにもお休みのきょう一日をこころ穏やかに過ごせないようでは、忙しい毎日を朗らかに過せるはずもない。きょう一日くらいは和顔愛語で過ごそうと決心した。恐い顔をすまい。自分にも周りの人たちにも汚ない言葉をかけるまい。それで、きょう一日、たしかに声を荒げることはなかったが、なにごとにも冷淡な態度になったように思う。これでは和顔愛語には程遠い。まだまだ先は長いな。