て日々

2012年5月


2012年5月31日(木)くもり

職場の定期健康診断。若いころは「んなもん、必要ぬゎ〜ぃ」と思っていたが、さすがにもうこの年齢なので、おとなしく調べられてやr…ではなく、ありがたく診ていただく。きょう検査したばかりなので当然、血液も尿も心電図もX線も結果待ちだが、身長 体重 腹囲 血圧 視力 聴力はその場で結果が出る。身長:173.4cm、体重:69.5kg (BMI:23.1)、腹囲:87cm (前年比+3cm)、血圧:1回目135/86+2回目129/85、視力(矯正):右1.2+左1.0、聴力異常なし。オプションで尿酸検査、鉄・カルシウム検査、胃がん検診をつけた。バリウム飲んで気持ち悪い。

朝のうちに「きょうの夕食はパパラーメンにしよう!! 」と宣言したが、よく考えたら医者に行く日であるから、帰りはどうしても午後7時をまわる。子供らをそれまで待たせるのはよくない。いままでなら「じゃあラーメンは明日にしようか」と弱気の解決をしたものだが、今日はやり方を少し変えて、大学から早めに帰宅し料理をしてから医者に行った。だいいち、明日はピアノのレッスン日だからやはり7時より早くは戻れないし、子供らは俺の作るラーメンをいつも楽しみにしてくれているからな。

ラーメンの麺を買ってきて、自前のスープを作り、具を用意したところで医者に行く時間がきたので、あとを妻に託して出かける。医者には予約時間より少しだけ早くついた。混んでいたこともあり、呼ばれたのは予約の40分後だ。えらく空いていて予約時間より早く診察が済むこともたまにあるが、たいていはまあ、こんなものである。わかっているから、おとなしく本を読んで待つ…

やるきのないあひる

いま読んでいるのは Thomas Hawkins, «Lebesgue's Theory of Integrals» (Second 1979 Edition, Chelsea Publications/American Mathematical Society)第2章第2節第3章あたり。ここでは、リーマン以後ルベーグ以前、すなわち1860年代から1890年代の積分理解のありさまを述べる。1875年の時点では、このころまだ不可算集合の概念は存在していないから、まあ仕方がないのだが、デュボアレイモン (Paul du Bois-Reymond) のような一流の数学者といえども、今日の言葉でいう「至るところ非稠密 (nowhere dense)」と「カントール・ベンディクソン階数が有限であること」と「ジョルダン容量ゼロ (content zero)」とを区別できていない。(容量ゼロという)測度論的な着想が(至るところ非稠密という)位相的な概念から分離されていないのは、いまにして思えば不思議とさえ思える。しかし、カントールによる点集合の理論が出版されはじめるのが1879年 (“Über unendliche, lineare Punktmannichfaltigheiten”, Pt 1. Math.Ann. 15 (1879), pp.1-7) であることを思えば、これは、正しい概念を求めて人々が右往左往していたと理解するべきだろう。そういう文脈に置いてみてはじめて、カントールの集合論やルベーグの積分論が持ったであろうインパクトを、正しく評価できるのだと思う。

力学系理論や記述集合論などをやっていると、カントール集合にはしょっちゅうお目にかかる。しかし、カントール以前には、至るところ非稠密であってなおかつ孤立点をもたない点の配置など、論理的な可能性として検討することすら、誰ひとりとしてできなかったのだ。その当時はリーマン可積分函数の範囲こそが理論的な考察の手におえる函数のもっとも広いクラスと考えられていて、リーマン積分こそが積分の究極の定義だと考えられていた。これも仕方のないことだ。

ルベーグの積分論の見地に立つなら、リーマンの積分論が一般性の意味で劣るというのは本当だ。しかし1870年代には、そして1880年代にあってもかなりの程度、リーマン可積分函数はそれまでに考えられてきたどんなものよりはるかに広大な函数の範囲を含むものと見えた。そのうえ、リーマンの積分論の礎石となる、コーシー和の一意的な極限値という定積分の定義は、それこそ積分を定義する 唯一の 自然なやりかた (the natural manner) として、異論の余地なく受けいれられていた。それゆえ、リーマンによる積分の拡張は究極的なものと考えられた。デュボアレイモンが(文献[1883a:274]に)書いているように、リーマンは可積分函数の概念を最大の外縁まで拡張したように見えた。(Hawkins, 原書34ページ)

この話から引き出せる教訓はいくつかある。

現在はルベーグの積分論が、1870年代のリーマン積分と同じ「究極の積分概念」の扱いを受けている。しかし歴史は繰り返すというから、同じことが起こらないとは言い切れない。たとえば、ニュートンやライプニッツの時代に戻って積分を「逆微分」と考えるなら、ルベーグ積分も完全とはいえない。至るところ微分可能な函数のうち、その導関数がルベーグ可積分にならないものは、たしかに存在するからだ。この点を強化して、完全な逆微分となるようルベーグ積分を拡張する理論が、ダンジョワ、ペロン、ヘンシュトックといった人々によって提案されている。ただしそれらが各種の収束定理においてルベーグ積分の示す柔軟性をも共有するかどうかは別問題だ。(ここ、あとでちゃんと調べとかんとな。)

このように、ひとたび「究極の理論」とみなされたものも、いずれどこかに綻びがでてきたり、あるいは窮屈に感じられるようになって、修正あるいは再構築が必要になることがある。理論は生きものだ、というのが、一つの教訓。

それと、もう一つ、もっと大切な教訓は、適切なコンセプトの必要性ということだ。カントールの三進集合について検討すれば、1870年代の点集合(という言葉はなかったけど、数直線上の点の配置)の理解に大穴があいていることはあきらかだが、カントールが点集合論を始めるまで、誰にもそのことがわからなかったのだから。これは、教育という見地からも大事な示唆を含むと思う。

やるきのないあひるやるきのないあひるやるきのないあひる

まあそんなことを考えつつ、長い長い5月がやっと終わるのだった。いやあ、長かったぞホンマ…たとえばの話、先月下旬にエミフルに行ったことなんか、もう忘却の彼方やったもんな。


2012年5月30日(水)くもり

いつものとおり、午前中は位相の講義。午後は大学院のセミナー。新井本の第3章に入る。夜8時過ぎに帰宅し、夕食後、この一週間分の日記を書く。


2012年5月29日(火)はれ

今日から通常どおりの仕事に復帰。

妻の車で大学に向かう途中のこと、妻がぽつりと「ふうふって…」とつぶやいた。先週から京都で、俺たち兄弟それぞれの夫婦、それと父母という4組の夫婦の姿をつぶさに見てきたばかりだし、つい先ほど俺が少々不機嫌になって妻に八つ当たりしてしまったこともあり、うわっいよいよ妻が結論をくだすのか…と俺は身構えたが、妻は「ラーメン風風亭」の看板を読んだだけのことだった。

午後は卒業研究セミナー。0-1くんも教育実習から帰ってきて、こちらも平常運転。

不意の帰省のあいだにガスを止められていた。これでは風呂と料理ができない。妻も疲れているだろうから、あまりお金ないけど今晩は外風呂外飯にしようと提案。さりとて、未払いのガス代は払わねばならんから、昼休みに銀行にいって振込を済ませた、そうしたら、昼間のうちにガスはまた使えるようになったのだけど、妻はすでに「お言葉に甘えますモード」に入っていたので、約束通り4人でキスケの湯に行った。自宅の布団で寝るのは久しぶりだ。それによく考えたら、実家の布団で寝たのだってこの六日間のうち一晩だけだぞ。


2012年5月28日(月)くもり

一夜明けて、役所やら銀行やらのいろいろの手続きをせにゃならんが、俺は京都を離れて25年になるし、車も運転できないから、あんまり役に立てない。留守番のほかは子供の使い程度のことしかできない。病院においてあった皐月の鉢を引き取りに行ったあと、文房具屋へ妻のためにボールペンを探しに行ってやる。学生のころしばしば世話になった天神御旅商店街のナカツカ文具店だ。妻は金曜日からずっと、実質一人で、実家のおさんどんをしてくれた。ありがとう。

早めの夕食を済ませて、夜の船で愛媛に戻る。


2012年5月27日(日)はれ

告別式。従弟のコウイチに会うのは祖父の葬儀以来。従姉のイクちゃんに会うのも彦根の祖母の葬儀以来だから、かれこれ30年どころではない。もちろん、葬儀のとき以外会ってはならんと決められているわけではないのだけど、なんとなく顔を合わす機会もなく過ごしたこの30年数年のうちに、14人いたイトコたちのうち2人にはもう二度と会うことが叶わなくなってしまった。

母が位牌をもち、兄が遺影、俺が骨壷をもって、それぞれ車に乗る。一昨日は寒くてたまらなかったが、きょうはまた好天で、東山の斎場は暑いくらい。そして火葬・拾骨。葬儀社へ戻って初七日法要・精進落としまで済ませる。

昨晩、【息子】は「おじいちゃん焼いたら可哀想だからだめ」と言って困らせたが、ママに説得され「おじいちゃんに天国に行くための羽根をつけてもらう作業」と思って納得したそうだ。もっとも、この一連の行事の意義を【息子】が理解するのは、もっとずっと先のことだろう。


2012年5月26日(土)はれ

納棺・通夜式。故人の遺志と喪主である母の意向で、町内にもあまりお声かけせず、親戚だけで地味にやる。読経・焼香・法話のあと、叔父叔母に食事を振るまい、その後は、母と俺たち3兄弟、それに兄嫁のかずよ姉さんが、会場で一夜を過ごす。会場にはちょっとした旅館並の設備があって、5人までは泊まれる。わが妻みろりと義妹ともこさんは、4人の子供たちを連れて実家へ。子供たちにとっては、おじいちゃんの葬儀といえども、従兄弟たちと一堂に会する絶好の機会であり、はしゃぐなと言っても無理である。


2012年5月25日(金)くもり

朝、ひとまず実家に行く。慌てて駆けつけたものの、俺にできることはあまりない。留守番と電話番と、昼食の用意くらい。

夜、8時過ぎから、葬儀社の霊安室の父の骸のそばで過ごす。30分ほどして、ひろこ叔母がケイスケくんと一緒にやってきた。

ひろこ叔母から、父の若いころの話を聞く。父が中学生の頃といえば終戦後まだ間もない物資の乏しい頃だが、色鉛筆を駆使して顕微鏡下の生物の丁寧なスケッチをたくさん残していたそうだ。叔母たちはそのノートを広げて見とれていたという。生物学が好きで高校生のうちから京都大学の研究室を訪ねて勉強していたとは、本人からも聞いたことがある。高校の先生からも「お前なら大学に進んでもモノになる」と太鼓判を押してもらったそうだが、どっこい家の経済状態がそれを許さない。いろいろの事情で、次男であった父が家を継ぎ、養父や3人の妹たち、そして後には俺たちを、養わねばならなかった。いまのような、誰でも彼でもが、親に借金させてでも大学へ、という時代ではなかったのだ。そんな経験のゆえか、アカデミズムというものへの憧れというかコンプレックスを、父は一生持ち続けた。たとえば、息子たちが受験する年頃を過ぎても、父だけがいつまでも大学入試関係のニュースに関心を持っていた。「本当は学者になりたかった」という父の気持ちが、回りまわって、俺の人生を決めることにもなった。

高校を卒業した父は、とある商社、そこそこの大企業に就職し、40歳になるころには営業課長にまでなったが「このまま大会社で飼われていてもつまらん」といって独立した。その後しばらくの間は事業もうまくいっていたのかもしれないが、そもそもが斜陽の和装業界のこと、ご多分に漏れず、そのうち取引先の倒産のあおりを食らう。父の会社もあえなく倒産するが、父は手を尽くして、自分の切った手形の支払いだけはなんとかやりとげ、連鎖倒産を自分のところまでで食い止めたという。そのせいで家に“怖いオニイサン”が訪ねてきたこともあったようだ。というのも、高校生だか大学生だった頃のある日、母に「あんたら今日は夜まで家の近くに寄らんときや」とこっそり念を押されたことが何度かあったからだ。国民金融公庫から毎日のように電話がかかっていた時期もあった。

会社を清算してからも、それまでの人脈を通じて商売は続けていたが、台所は火の車だったはず。俺が大学院にまで進む学費を、父はどうやって工面してくれていたのだろう。今にして思えばとんでもない苦労をさせていたに違いない。だが、父はとにかく子供たちにそういう心配を一切させなかった。自分の仕事の話を一切子供の耳に入れようとしなかった。だから、俺がいまこうして三流とはいえ学者のメシを食っていられるのは、ひとえに両親の苦労のおかげなのだ。俺が数学者のハシクレとして大学に職を得たことを、誰よりも喜んでくれたのが父だった。父がまだ元気な頃は、俺のノートを見ては、《お前の書くことは一行たりともわからんなあ》と嬉しそうに笑ったもんだ。

そんな父を幼い頃から見てきた ひろこ叔母の目には、兄すなわち俺たちの父の人生はひたすら辛抱の人生だったと映る。俺たち息子どもには、父はそんな印象を絶対に与えたがらなかった。俺たちの前では父は常にガサツそうに尊大にふるまい、時に露悪的でさえあった。若いころの話といえば、悪ガキだった話ばかりだったし。それでもまあ、父が実は神経が細く寂しがり屋であることは、長じてのちは俺たちにもわかるようになったけどな。

二週間前に父に会ってこれまでのことを懇ろに礼を言えたのは、本当に幸いだったと思う。父はずいぶんと買いかぶってくれていたが、本当のところ俺は三流学者で、あの著書だって、だらしない駄本にすぎない。しかしこのままで終わっては父に申し訳ないし、なにより自分がつまらない。いまさら数学研究の最前線でめぼしい業績を上げられるとはさすがに思っていないが、せめてもう一冊、今度はもうちょっとまともな本を書いて、父の霊前に捧げたいと思う。

ひろこ叔母とケイスケくんが帰っていき、再び父と一対一となる。深夜に、初めての場所で、肉親とはいえ物言わぬ骸とふたりきりというのは、なかなかに心細いものだ。数学の本を読むが、いろいろの考えが浮かんできて、ちっとも集中できない。そしてなにしろ寒い。だいたいがきょうは5月と思えぬ肌寒さで、現に実家でも暖房を入れていたが、そのうえここは遺体を安置するための部屋だから、暖かくするわけにいかないのだ。かなわんなあと思っているところへ、10時頃に弟がやってきて、ずいぶん気が楽になった。さりとて二人で取り立てて何を話すということもなく、弟はしばらくクロスワードパズルを解き、俺はiPhoneをいじる。そのうち弟はベンチに横になり、俺はテーブルに突っ伏して寝入ってしまった。


2012年5月24日(木)くもり

夜9時前。兄からの電話で父の訃に接する。享年80。家族4人で、東予からの大阪南港ゆきフェリーに乗る。


2012年5月23日(水)くもり

朝、いつもより一本早い電車で子供らと一緒に出かける。小学校の前の道端の、コンクリートの隙間から、パンジーが一株生えてきて、小さな小さな花を咲かせている。

路傍のパンジー(1) 路傍のパンジー(2) 路傍のパンジー(3) 路傍のパンジー(4)
こういう健気な姿を見ると
植物に学ぶべきことがたくさんあるように思える

位相数学の講義。位相空間の概念の導入。位相の例として密着位相、離散位相、補有限位相を紹介した。補有限位相はそれほど有用というわけではないのだけど、位相の条件をチェックする例題として好適だと思ったので、その定義で本当に位相になっていることをくわしく検証してみせた上で、小テストでは、正整数全体の集合 \(X=\{1,2,3,\ldots\}\) において \[ \tau=\big\{\,A\subset X\,:\,\{1,2\}\subset A\,\big\}\cup\{\varnothing\} \] と定めた \(\tau\) が \(X\) 上の位相になっていることを確かめなさい、という問題を出した。

大学院セミナーは新井本台2章の計算論の続きで、チューリング機械計算可能であることと再帰的関数であることの同値性を証明し、それから、計算理論の基本ツールであるS-m-n定理やクリーネの再帰定理(Recursion Theorem)を証明する。


2012年5月22日(火)くもり

ゼミ生H(K)くんと0-1くんが来れないので、四年生のセミナーはお休みである。そのかわりにキューネン本第VI章の演習問題を5問解いて、解答を公開した。(→なげやりアカデミア) 昨年5月このプロジェクトが本格始動して、7月くらいまでかなり活発だったが、その後は田尻さんと縫田さんがスポラディックに貢献してくれるのを待つばかりという申しわけない状態になっていた。ちょうど一周年というこの機会に、なんとかペースを持ち直せればと思う。


2012年5月21日(月)くもり

松山はぎりぎり範囲外なのだけど、日本の各地で金環日食が見れた日。きょうに限って妻は張り切っている。7時すぎには子供たちを車に乗せて小学校へ連れていき、運動場でいっしょに日食の観察をしようというのだ。俺にも来いという。それに逆らってまで守るべき何かがあるわけでもないから、というくらいの気持ちでつき合うことにしたが、これはなかなか得難い経験であった。たくさんの子供たちが日食観察のために早めに登校したが、太陽は雲に遮られてなかなか見えないので、それは自然と「お遊びの時間」になる。小学校の校庭で子供達が自由にわあわあ走りまわっている中に立つのは久しぶりだ。ときどき雲の薄いところに太陽がさしかかると、たしかに大きく闕けているのが肉眼でもはっきりわかる。蝕の最大の様子は、空に指輪が浮かんでいるようだった。晴天ならば特別な遮光板がなければ闕けた太陽は見られない。日食中といえども、肉眼で太陽を見つめたら失明してしまいかねない。雲が厚いのがかえって幸いした。ただ、雲のフィルター越しとはいえ、太陽を見つめた報いで、半日ほどは目にダメージを感じた。思い思いに友達と遊んでいる子供たちも、太陽が見えだすとちゃんと遮光板を手に日食を見て大喜びしている。こういう子供たちの無邪気な姿に触れられたのも収穫だ。

2012年5月21日朝, 雲の向こうの日食
わははは。雑な絵ですまん。

午後、いつになくのうこ(@noukoknows)が医学部の勉強のモチベーションが上らないことを悩むようなツイートをしているので、俺やぼんてんぴょん(@y_bonten)が相談に乗る。俺は医者ではないから偉そうなことを言っても片腹痛いと言われそうだがな。

よく知らないのではあるが、医学部というところは他の学部よりも職業訓練校的な要素が強いだろう。理学部や文学部よりも、警察や消防や自衛隊の学校に近いかもしれない。そういうところで、のうこのようなリベラルアーツ志向の強い人材が学んでいるのだから、違和感をもつのは仕方がない。自分の立ち位置についてメタレベルから考えたがる傾向のある人は、理学部でも文学部でも自分のやっていることの意義について考えることを止めないだろう。そういう人物は医者になってはいけないかというと、そんなことはない。違和感をもちながら、医学部の課程をきちんとこなして国家試験をパスして研修を済ませて立派な医者になればいいのである。そういう違和感をもたずに毎日を医学修行一本槍で過ごし、自分は医者になるべくして生まれてきたのだと信じきって医者になる人も、あるいはいるかもしれないが、そうでない医者が医療面あるいは人格面で劣るわけではないし、患者と向きあったときにその悩んだ経験がむしろ活きてくるんじゃないかと、まあ、素人ながら思うのだ。

医学部の課程が厳しく医者へのハードルが高いからといって、医学部という空間に自分の全存在をはめ込まなければならないわけではないだろう。はみ出す部分はあってかまわない。のうこの場合はそのはみ出した部分で論理学の哲学をやりたいと思っているわけだし、ぼんてんぴょんはメダカカレッジの一員として、数学の本を書き数学教育の刷新に寄与すべく活動を続けている。それにわが愛媛大学の医学部には、附属病院の医局に勤務しながらオープンソースソフトウェアによるプログラミングの本を執筆してそちらで有名になってしまった先生もいる。やっちゃならないのは、自分に与えられた学ぶ機会を無駄にすることだけで、それさえなければ、医学生だろうが法学部生だろうが数学徒だろうが、その他の活動に手を広げて悪いはずはない。厳しい修行のなかで二足めの草鞋を履くのは簡単ではないだろうけれども、立ち位置に悩みがちな人は、本職とは別に足場を持つことでアイデンティティを見失う危険を避けられるのではないだろうか。


2012年5月20日(日)くもり

昨日の続き。妻が使ったという「猫まねき」というスキャンコード変更ユーティリティや、俺がThinkPadで一時期使っていた「keyswap」というユーティリティーを使っても、《LOOXのるーちゃん》のキーボードの設定を復旧できなかったので、結局はWebで情報を収集したうえ、Regedt32.exeを起動してレジストリにアクセスし、スキャンコードを変更するレジストリ項目を削除するという方法で解決した。これでシステムも最新になり、キーボード設定もデフォルト状態に戻り、るーちゃんは晴れて妻のところへ戻っていった。妻は「るーちゃんがネットにつながったんだったら、新しいタブレットPCとかいらない。浮気しない!」と言っているから、これからはバリバリ使ってもらえることだろう。よかったよかった。

ところが、話はそれで終らなかった。というのは、Regedt32.exeでの作業を始めるにあたって《るーちゃん》のレジストリのバックアップをとってUSBメモリに保存したものをデスクトップPCにマウントし、内容を確認するつもりで、ダブルクリックしてしまったからだ。レジストリファイルをダブルクリックしたときのデフォルト動作がシステムのレジストリへの結合だとは、俺も知らなかったのだ。結果として、デスクトップPCのレジストリが書き替えられてしまい、今度はこちらのマシンのWindowsが起動しなくなった。Safeモードですら起動しないのだから仕方がない。システムリカバリーである。さいわい高価なアプリケーションはインストールしてないし、ユーザのデータは別のドライブにあるので、大きな実害はなかった。るーちゃんと違って、デュアルコア2.6GHzのAthlonプロセッサと3GBのRAMを積んでいて、ハードディスクの容量も余裕綽々だ。それに自分のPCだから自分の好きなようにシステムを構築していい気楽さもあって、この作業にはさほどフラストレーションはなかった。まあしかしそれにしても、素のWindows Vistaからの怒涛のソフトウェアアップデートを二日のうちに二回やることになるとは思わなかったな。

きょうは昼食のカレーを作った。


2012年5月19日(土)はれ

妻のFMV BIBLO LOOX (愛称:るーちゃん)のメンテナンスを手伝う。しかし内部クロック800MHzのCPUでWindows Vistaは苦しいだろう。しかもRAMは1GB、起動ドライブの空き容量も2GBない。そこへもってきて、このLOOXのるーちゃんは、5年間の箱入り娘状態を脱してこのたび初めてネットワーク接続ということを経験したヴァージンちゃんであるから、最初に怒涛のごときソフトウェアアップデートの洗礼を受けねばならない。その間、ずっと放っておけばいいわけでもなく、たまに  [はい (Y)]  とか  [同意します (A)]  とかのボタンを押してやらないといけない。なかなかフラストレーションのたまる作業となった。ひととおりのソフトウェアアップデートが終わったらWebブラウザを妻のお気に入りのGoogle Chromeに替えるなどの作業をする。だが、以前に妻が見よう見まねでキーボードのスキャンコードの変更ということをやってしまったもので、るーちゃんのキーボードではスラッシュ ( / ) やピリオド ( . ) が打ち込めない。これはつまり、「URL直接入力」とか「コマンドプロンプトで作業」とかの俺の得意技がすべて封じられていることを意味する。しかも、妻がスキャンコードを変更するのに使ったユーティリティーはすでにアンインストールされているし、具体的にどういう作業をしたのかは、本人も忘れている、ときた。がおおおおおおおお。

というわけで作業はいったん中断して、夕方から「近々必要になりそうな色々のもの」を買いにフジグラン松山へいく。で、夕食は山小屋ラーメン。

深夜、妻が寝言で「ぴよぴよ小鳥がやぁってきったー」と節をつけて言ったのは面白かった。(節はソファミファ ソソソソ ソーファミドーだ。)


2012年5月18日(金)はれ

午後、三年生のゼミ。『はじめてのルベーグ積分』の3.2節。担当者病欠のためe5くんとχくんが交替で代役を務める。

このセクションでは、数直線上の開集合の外測度を、各連結成分(これは開区間になる)の長さの和と定義して、他の集合の外測度を開集合による上からの近似で定義する。開集合の外測度のここでの定義はボレルによるものだが、2次元以上の場合に直接に拡張できないため、現在では一般的でない。ボレルはここでいう「開集合の外測度」を「開集合の測度」とし、補集合と可算和をとる操作を繰り返して「可測な集合」の範囲とその測度とを定義することを提唱した。これがボレル集合の定義の始まりだ。以前にも書いたが、当初ボレルは積分論への応用を考えていたわけではなく、自分ではこの測度の論法を実数の不可算性というカントールの結果を拡張・精密化するものと考えていたようだ。まだ確認が十分でないのであまり書かないほうがいいのだが、外測度の考えはおそらくジョルダンによるもので、ボレルとジョルダンの方法を借りて拡張された測度の理論を展開しさらにそれを積分の新しい定義に結びつけたのはルベーグの業績だ。与えられた集合を被覆する可算個の区間の長さの和の下限という現在一般に用いられる外測度の定義は、1次元ではボレルの定義と同じ結果を与え、かつ、2次元以上の場合への拡張が容易な優れた定義だ。こちらが本書では第3章の演習問題に回されている。著者の寺澤さんがボレルの定義を採用した理由は、開集合では外測度が直観的な「集合の大きさ」の概念によく一致していることをてっとり早く示そうとしたためだろうと推測する。

開集合の可算和についての外測度の劣加法性(補題3.2)の証明も、大事なところがサラっと書いてあるが、次のような論法を含んでいる: 開区間 \((\alpha,\beta)\) が可算個の開区間 \((u_k,v_k)\) (\(k=1,2,\ldots\)) の和 \[ \big(\alpha,\beta\big)=\bigcup_{k=1}^\infty\big(u_k,v_k\big) \] となっているとき、これらの区間の長さについて \[ \beta-\alpha\leq \sum_{k=1}^\infty (v_k-u_k) \] が成立する。これは直観的にはたしかに正しそうだが、ちゃんとやろうとするなら有限和の場合に帰着させにゃならん。開区間 \((\alpha,\beta)\) よりほんのちょっとだけ短い閉区間 \[ \big[\alpha+\varepsilon,\beta-\varepsilon\big] \] は、ハイネ=ボレルの定理(閉区間のコンパクト性)により、有限個の \((u_k,v_k)\) で覆うことができるので、十分大きく番号 \(N\) をとれば \[ \big[\alpha+\varepsilon,\beta-\varepsilon\big] \subset\bigcup_{k=1}^N\big(u_k,v_k\big) \] したがって \[ \beta-\alpha-2\varepsilon\leq\sum_{k=1}^N(v_k-u_k)< \sum_{k=1}^\infty(v_k-u_k) \] となる。ところがここで正の数 \(\varepsilon\) はいくらでも小さくとれるので、結局 \[ \beta-\alpha\leq \sum_{k=1}^\infty (v_k-u_k) \] となる。実は、ボレルが「ハイネ=ボレルの定理」を考案したのは、この種の測度の議論への応用のためなのだった。寺澤本には書いてない、というか他の測度論・積分論の本にも(志賀浩二先生の本を例外として)あんまり書いてない、こういう「こぼれ話」を俺が補ったりして、担当者不在でもセミナーはどうにか終了。

夕方はピアノのレッスン。その後ジュンク堂に寄ったら、一階ホールで技術評論社の「知りたい!サイエンス」シリーズのミニ・フェアーをやっていた。『魅了する無限』も、平積みとはいかないがちゃんとディスプレイされていて嬉しかった。店員さんが近くにいれば話をつけて写真を撮らせてもらうところだが、そのためにレジ係のお姉さんを呼びつけるのも申しわけないように思えたので我慢。

2012年6月8日追記:三週間後に行ったらまだフェアをやっていたので、レジで話をつけて写真を撮らせてもらった。(→2012年6月8日)


2012年5月17日(木)はれ

予期しなかった帰省のためいろいろのことが滞っていた。妻に成り代わって家事をする。たまっていた洗濯を片付ける好機である。湯船の蓋と風呂床マットも天日に干す。図書館で借りた本も返却期限が過ぎている。夕方、子供たちを連れて返却に行こうかと思ったが、一時冷たい風が吹き雷が鳴ったので取りやめた。結局夕立は降らなかったけど。あと、書きためたメモから10日分の「て日々」を書き起こす。

学校から帰った子供らの算数の宿題を見る。二年生の【息子】はものさしで長さを測ること。ミリメートルとセンチメートルを混在させた長さの表現は面倒だが、これは数の小数表記の理解への大事な布石だから丁寧にやってもらわにゃならん。しかし、それにしても1センチメートルとその十分の一の1ミリメートルという長さは8歳になるかならずの子供には扱いづらい。そろそろ老眼の進んできた俺にも少々つらい。インチや寸が単位ならそのあたり少しはマシなはずだ。このとおり人間の体のスケールにうまく適合しないところが、メートル法の唯一残念なところだ。五年生の【娘】は、小数の掛け算と割り算をやっている。位取りで間違えさえしなければ、技術的には整数の乗除とかわりはないのだが、その位取りが面倒だ。慎重に小数点の位置を揃えて計算すればいいだけのことだが、たとえば「1リットルあたり1.4キログラムの蜂蜜が0.7リットルで、9.8キログラム」なんて間違った答えを出してしまったときに、「えー、そんなわけないな」と直感するセンスを養うことも大切なように思う。

夕食は手抜きをしてなか卯に行く。徳島での仕事を終えた妻は高速バスに乗って夜9時過ぎに帰ってきた。お疲れさま。


2012年5月16日(水)はれ

午前中は位相の講義。今日で5回目になる授業の終わり近くになって、ようやく位相空間の定義に入った。こりゃいくらなんでもマクラが長すぎたな。

今日は妻が泊りがけの仕事に行く。子供たちは午後4時半まで学校で過ごしてもらう。水曜日の午後は普段なら大学院ゼミがあるが、昨日書いたようなことで今日はおやすみだ。だから、子供たちのお残りに付加価値をつける意味もこめて、4時半に小学校まで迎えに行くことにした。帰り道に【息子】が落し物をしたおかげで、親切な美人のママさんとお話ができたぞ。わはは。

子供らの晩飯にたぬきうどんをつくる。

黒板に書いた進捗表
章別の解答進捗表

キューネン本演習問題。第II章の問題の解答が揃った。第II章の問題は量的にも質的にも大変充実している。これにひととおり解答がついたというのはなかなかすばらしい。俺がつけた解答もいくつか載っているが、第II章の解答は概ね産総研の縫田光司さんの尽力に負う。ありがたいことだ。だが俺としてはすぐにでも構成可能的階層を扱う第VI章の問題に取り組まねばならない。かがみさんにも貢献してもらうことを大いに期待しているけれども、もちろん主には俺がやるしかないと思っている。また、第VII章の問題に田尻くんががんばって取り組んでいる。しかし第VIII章だけはいまだに前人未到の処女地である。


2012年5月15日(火)あめ

夫婦で早めに昼食をすませて郵便局へ出向き、ちょっとした用を済ませる。午後の卒業研究セミナーがH(K)くんの病欠で急遽お休みになったので、大学内のレストラン「セトリアン」で妻と今後の段取りを相談していたら、910くんからメール。ゼミのことを連絡することをコロっと忘れていて、20分ほど待ち惚けを食わせていた。あわててセミナー室へ駆けつける。

火曜日は学部のセミナーの日で、910くんはオブザーバとして出席しているだけ。大学院セミナーは水曜日午後の予定だ。だけど、「きょうできる?」と聞いたら、910くんはできるという。それから3時間ほど、新井本の2.2節の内容をやる。レジスター機械による計算という計算モデルを定義し、再帰的部分関数であることとレジスター機械計算可能性とが同値であることを証明する。セミナー終了後、縫田さんから頂いていたキューネン本の演習問題の解答を一気に5問も公開。夜にあと1問届いて、第II章はあと[58]を残すのみとなった。すごいすごい。それからようやく明日の授業の準備にとりかかり、10時ごろ帰宅。授業の前夜に慌てて準備している俺に比べて、前日に急に話を振られてちゃんと対応できる910くんは立派である。


2012年5月14日(月)くもり

朝、船が東予港に着く。妻の車で松山に戻る。生きるということについて考える。生きているということはいずれ死ぬということだ。だが、そのことが、生きることの価値を無にするわけではない。生きている間は生き続けなければならない。与えられた有限の期間のうちに、人生の中身を自分で作らなければならない。更にいずれの時をか待たん。他日を期すことはできない。


2012年5月13日(日)くもり

午後、【娘】と二人でもう一度父の見舞いに行く。一生懸命話してくれるのだが、一昨日より少し状態が悪いこともあって、話の脈絡が何ともわからない。かなり痛みを感じるようだ。お医者さまが来て鎮痛剤を入れてくださったおかげで、そのあとは父は静かに寝入った。しばらくの間その手をとって、無言のまま肉親がそばにいることを伝える。いびきが聞こえ始めた。横柄でガサツなようで実は神経が細かい父は、会う人会う人に何かひとこと話をしないと気が済まない。だがいまは少し体を休めてもらったほうがいい。俺たちは今夜の船で松山に戻らにゃならず、そのための荷づくりもある。眠っている父に俺が「そしたら帰るわ。また来るし。」と言うと、父は目を開いて、「…に寄ってくれよ」と答える。すぐまた来いと言っているのか家で母に会って行けと言っているのか、どちらかだろうがどちらなのかわからない。

あとで妻に【娘】が報告したところによると、「おじいちゃんは痛そうにしてたからパパは心配そうだった。だけど、大丈夫だよって顔をしていた」とのことだった。俺は心配というより、父が満身創痍の身でそれでも必死で生きようとしていることに、改めて驚きと感激を覚え、いろいろのことを考えさせられていたのだった。

そう遠からずまた必ず来なければならないと知りながらも、俺たちはひとまず松山に戻らねばならん。


2012年5月12日(土)はれ

昼過ぎに弟夫婦が息子のあっくんを連れて父を見舞い、実家にやってきた。リコちゃんは部活もあるため来れない。あっくんとうちの子供たちが、さっそく大騒ぎで遊びはじめる。おじいちゃんの病気のことはわかっているつもりでも、だからといってはしゃぎ回ることをやめる理由は子供たちにはないのだろう。それはそれで仕方のないことだ。だけど、あんまりうるさくされると看病疲れでまいっている母が昼寝もできない。近所の公園で遊んでこいと追い出したら、しばらくして、【息子】がよそのうちの玄関先の門柱の上においてある石を勝手に動かして落としたと、あっくんが知らせにきた。幸い誰も怪我もなく済んだが、まったく世話が焼けるやつだ。

俺や妻が、よそさまの持ち物を勝手に触ってはいかんだろうと説教すると、【息子】は「だって石は誰もいらないものでしょ」と抵抗する。誰もいらない石を自分が使おうとしている時点で「誰もいらないもの」とは言えなくなっているという自己矛盾に気づけと言うのは無理としても、一つ間違えば誰かが怪我をしたかもしれない危険性は注意しておかねばならん。妻が根気よく諭した末に「お姉ちゃんがあっくんとばかり遊ぶのが嫌で無茶をしてみせた」という供述を引き出した。そのあと【息子】はしばらく一人で毛布をかぶって反省していたようだ。

従弟のケイスケくんと奥さんが見舞いの帰りに家に寄ってくれて、皆で積もる話をする。

妙心寺境内
妙心寺境内のこのあたりは
時代劇のロケーションでよく使われる

【息子】の頭が冷えた頃あいを見て、俺がまた子供たち三人を連れ出し、今度は妙心寺に散歩にいく。今度こそ三人とも上機嫌である。途中で境内の手頃な石をひっくり返して【息子】に見せる。石の下にはダンゴムシや小さな甲虫が住んでいる。その様子を【息子】に見せて、誰もいらないように見えるこの石は、虫たちの家だから、虫に言わせれば、いらないどころかとっても大事なものだ。だから、【息子】にとっていかにつまんないものに見えたとしても、「誰もいらない」というのは、【息子】の勝手な思い込みかもしれない。それに、石がどうしてそこにあるか、本当の理由はわかんないじゃないか。だから、勝手に動かしたらだめだよ、と、再び説教。虫が好きな【息子】のことだから、家の中で抽象的に諭されるよりも心に響いたと思いたい。

明日は学校の参観日だというあっくんがおかあさんと帰った後、今度は兄夫婦がやってきた。兄弟三人と母とで、夜更けまで今後のことをいろいろと相談する。


2012年5月11日(金)はれ

京都駅から母にメールすると、病院へ直行してくれという。父は衰弱しているが、兄の言葉から想像していたよりはずっと意識が明瞭で、上機嫌そうだった。それで、久しぶりに父と懇ろに話ができた。ただ、母によると、こんなに状態がいいのは珍しいことらしい。

空は晴れているが、風があり、ずいぶん肌寒い。

父は根っからの商人のようでいて、話の端々に「学者になりたかった」「物書きになりたかった」という叶わなかった夢が見え隠れする。いま、ホスピスで闘病する父には、四人の孫がみんな学者になるような未来が見えているらしい。その病床の父に「学者には俺がなった。【娘】は作家になりたいと言っている。だから安心せい。」と伝える。まあ俺は実際には風上に置くとイヤな顔をされそうな三流学者でしかないのだが。


2012年5月10日(木)くもり

夜、東予の港から船で京都へ向かう。なんとも不安である。


2012年5月9日(水)くもり

大学院のセミナー。新井本の第2章に入り、再帰的部分関数の定義のおさらいをする。910くんは前原『数学基礎論入門』でこのあたりの話を少しばかり読んでいる。だが話が面白くなるのはここからだ。

夜、兄から電話。ホスピスに入った父の具合がよくない。いまのあいだに見舞いに行ったほうがよいとのこと。


2012年5月8日(火)くもり

H(K)くんの卒業研究セミナー。述語論理における導出原理。H(K)くんは9月卒業予定なのだから、できれば先へ進んでもう少し歯応えのある内容をやりたいところだ。


2012年5月7日(月)くもり

ようやく戻ってきた普通の日。普通に仕事をする。

昨日考えたような《すうがく徒の館》は夢物語だが、たとえばの話、周防大島温泉ホテル大観荘を会場にしてセミナーを開くくらいのことは、通常の営業努力の範囲内でできることだ。そして、そうすれば、俺が見た夢の実現はできなくても、そこへ集まった人たちと夢を共有することはできる。そういうところから活動を広げていくのがいいのだろう。


2012年5月6日(日)くもり

夕方には帰途につかねばならんので、午前のうちにいろいろの用を済ませる。町立図書館へ妻子が借りた本を返しにいくついでに、図書館前の公園で写真をとる。ツツジがきれいだ。

平生町立図書館前のつつじ 平生町立図書館前のつつじ

昼食は義父の作るカレー。これが実にうまかった。昼食後はのんびりペースで荷造りして、午後5時まえに妻の実家を辞する。

伊保田港の風景
夕暮れの伊保田港から島影を望む

帰りは妻の車で伊保田港からフェリーに乗る。いつものコースだ。前回(→2011年10月10日の日記)もそうだったが、屋代島の海岸ぞいの道をドライブしていると、ここに《すうがく徒の館》という名のセミナー室つきの別荘を建てて夏場に若い学徒の合宿所として提供しようぜ、なんて、夢を語りたくなってしまう。そのためには、とにかく「大金持ち」というものにならねばならん…というところで前回は現実に返って、まずは(大学などあまりお金のかからぬ会場で)普通に研究集会を開いたり書物を著したりの自分にできる方法で学術の振興に寄与すべきだ、という、まことに順当なところへ話が落ち着いたのだった。もちろん、実際にはそうするわけだが、失敗を怖れるあまり小さくまとまりすぎていたこれまでの生き方を反省すべきだとも、今回は考えた。《魅惑の失敗さま》(→2009年11月2日の日記)に思わず知らず魅入られ続ける人生にはサヨナラしたい。もちろん、だからといって《魅惑の成功さま理論》の信奉者になろうというのではない。《すうがく徒の館》は無理だとしても、やりたいことはあるのだし、それに生きているかぎり新しいものに立ち向かうことはどのみち必要だ。なにしろ、動物が餌を食うのは、活動のためのカロリー摂取だけが目的ではなくて、代謝すなわち体内組織の更新のために、新しい身体の材料を必要とするからでもある。思考だって同じことだろう。もっと積極的に新しいものに目を向け、若い人から学ぶべきだ。身体はともかく、考えまではじじぃ化しないようにしたい。


2012年5月5日(土) こどもの日はれ

とてもいい天気で、散歩にでも出ればよかったのだが、子供らの様子、義父母の都合、昼飯の段取りなどなどを窺っているうちに一日がみすみす終わってしまった感じ。さっさと出かけりゃあよかった。キューネン本の演習問題の解答集の更新作業くらいはしたのだが、全体としてはボケボケと過ごした一日だった。

路傍の赤い花
夕食に出かけた道すがら見つけた赤い花
俺たちには、路傍の雑草に見習うべきことがある
その場所でただひたすらに生きることだ

昼飯は妻が作るこのあたりの名物瓦そば。夕食はジョイフル。


2012年5月4日(金) みどりの日はれ

昼めしにフェットチーネ。茹でたほうれん草、刻んだトマトとハムとチーズ。ソースはゆず醤油とガーリックとオリーブオイル。皆に好評。

意外にも子どもたちが動物園行きを望まなかったので、午後は義父母に子どもたちを任せて妻と二人で徳山へ。マツノ書店で古本を買い、近鉄松下で義父にプレゼントするネクタイや自分のベルトを買う。

パンダの柄のネクタイ
ネクタイの柄はこの通り
義父は立場上小さな子供とも話す機会があるだろうし
そういうときにツカミとして有効だといいなと思う
気になるお値段の方は、俺の普段着のシャツ4枚分くらい
先日の本代とこれとで、来月のカードの請求が怖い

夕食は義父の買ってきたランプ肉のステーキ。柔らかくて旨い肉だった。断酒中だが赤ワインも少し飲んだ。


2012年5月3日(木) 憲法記念日はれ

昨晩マックスバリューでマイカを二杯買ったので昼食はイカスミのおじや。午後は子供らの散髪に付き合い、それからゆめタウン柳井へいく。

いかすみのおじや

先日から和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』を読んでいる。哲学史上の代表的な倫理学説を検討する部分がずいぶん難しくて困る。それでも、アリストテレスとカントを扱う第六節と第七節はなんとか読めた。しかし、そのあとのヘルマン・コーヘンを扱った第八節が、どうにも理解できない。

積分は無限級数が無限小と結合している総体性にほかならない。しかしかかる積分は数以上のものである。それは時間によって産出せられた内的内容だけではない。そこには空間の範疇による«外»の産出が含まれている。(岩波文庫版p.90)
法律学は、数学が論理学に対して持つと同じ地位を、倫理学に対して持っている。で、コーヘンは、法律学における«法人»の概念の内に、あたかも数学における無限級数のごとき機能を見いだす。…(岩波文庫版p.93〜p.94)

これは、いったいどういう意味なんだろう…

近代・現代の哲学的無限論を研究するしんじけさん ( @shinjike ) によれば、新カント派の哲学者ヘルマン・コーヘンはゲオルク・カントールとほぼ同じ時期に活動していた。数学理論の認識論という観点からいろいろな数学者の無限小概念を検討したようだが、なぜか数学史上真に重要なボルツァーノやカントールの学説については語っていないらしい。

その先は俺の推測だが、おそらく、カントール以前の数学に依拠しながら「個別」と「総体」の統一を語ろうとしたために、数列の個々バラバラの項を「足し合わせる」ことで統一しようとする無限級数のメタファーを借りることになったのだろう。そして、無限和と無限小の統一により変化の集積という時間的範疇の操作と面積の計算という空間的範疇の操作を実現する積分に注目した。そうしたい気持ちはわからんでもない。しかし、現代数学の見地からは、数列と級数には形式上の区別はない。ただ級数においては「これらの項を足し合せて一つの数へとまとめあげたい」という«願い»が記法に表わされているだけだ。だから無理にもと言われれば「無限個の項」を「足したい気持」が統一すると言えないことはないが、無限級数は収束するとは限らないのだから、そのような統一はしばしば不可能である。とすれば、このアナロジーが上策でないことは間違いない。

そう考えるとき、コーヘンがカントールの業績に言及しなかった(知りえなかった?)ことは大変残念だったと言わねばならない。コーヘンがカントールの集合論を知ったら、「要素と呼ばれる多数のものの統一としての集合」という端的なアイディアに、これこそ自分の求めていた数学だと喜んだのではないかと思われる。(なお、カントールのほうはコーヘンの著作を読んでいて、書評を発表してもいるらしい。)

そのように思っても、なお、「自我の根源において個別的・多数的・総体的なる人が見いだされたのである。」(p.96)と言うために数学的無限論の言葉を借りなければならない理由はわからない。もしコーヘンが現代に生きていたら、その数学用語の濫用を、ソーカルに槍玉に上げられていたかもしれない。実際、当時においてもそのような批判を受けていたらしい。

そして和辻哲郎によるコーヘンの紹介を読むにつけ、和辻が数学をどう見ていたのかも気になってくる。あまり数学の実際的な知識があったとも思いにくいのだ。まあ、どのみち本論にはあまり関係がないのではあるけれども。


2012年5月2日(水)あめくもり

夕方、子供らを連れて妻の実家へ。船は意外にすいていた。子供らもそれなりにおとなしくしてくれたので楽だった。ありがたいことだ。帰省ひとつにしても、5年ほど前と比較したら天地の開きがある。


2012年5月1日(火)くもりあめ

午後は4年生ゼミ。0-1くんは新キューネン本の演習問題I.4.18。H(K)くんは命題論理のシーケント計算。H(K)くんが読んでいる『論理と計算のしくみ』(岩波書店東京大学出版会)は結局のところ少々もの足りない。

新キューネン本の演習問題I.4.18とは次の問題: 【内包性公理と基礎の公理を使って \(\forall y\,[\,y\notin y\,]\) を証明すること.外延性公理や対の公理を使ってはならない.つぎに,外延性公理.基礎の公理.対の公理.和の公理,それに \(\exists y\forall x\,[\,x\in y\,]\) の,2要素からなるモデルを与えなさい.】前半は \(y\in y\) をみたす集合 \(y\) の存在を仮定して \(x=\{y\}\) なる集合 \(x\) を作ればそれが基礎の公理への反例になるという議論.\(y\) から \(\{y\}\) を作るには通常は対の公理と内包性公理を使うが.\(y\in y\) である場合は \(\{y\}\subset y\) なので対の公理を使わず内包公理だけで済む.後半は外延性と基礎の公理と \(\exists y\forall x\,[\,x\in y\,]\) の2要素モデルであることだけからでも,2つの要素の一方が空集合,他方が \(b=\{\emptyset,b\}\) をみたす集合 \(b\) と,構造が決まってしまう.そこであとは,求められているとおりの公理のモデルにその構造がなっていることを確認すればよいが,それは簡単だ.0-1くんは前半をどう示すか,そのプレゼンテーションのところで苦労しているようだった.H(K)くんや院生の910くんがやっている論理学の実際的なところをすっ飛ばして新キューネン本にいきなり取りついたのが仇で大変な思いをしているので,ゼミとは別に田中先生の『ゲーデルに挑む』を読むように指示し,またロングマンの英英辞典を薦めた.

夕方からは市民コンサートの機関誌作業。Microsoft Wordを使わないといけない。しかも市民コンサート事務所のパソコンに入っているOfficeは2007で、ユーザインターフェイスがそれ以前のものと全然違う。これはかなわん。どのみちWordを使うことが避けられないなら次回からはややこしいところは全部MacOS X版でやってやろうかしら。家族へのおみやげに美生柑3個とキリンフリー1本をいただいた。

「すうがく徒の本棚」への寄稿第一段として、昨年8月31日の日記に書いたワプナー『バナッハ=タルスキの逆説』の評に加筆修正して担当者の脳子に送った。次は小林章夫『コーヒー・ハウス』を再読して紹介文を書こうと思う。