て日々

2011年9月


2011年9月30日(金)あめ

講義を終えたブレンドルさんは少々お疲れのようす。セトリアンで昼食を食う。それほど話のはずむ話題もないので「お疲れのところややこしいこと聞きますけど」と、数年前からの懸案の数学の問題について話した。この分野では世界の五指に入るブレンドルさんなら即答だろうと思ったが、意外にも自分も知らないとおっしゃる。

その懸案の問題というのは、文脈の説明を省略して要点だけ言うと、「\(L\)上のランダム実数からなる完全集合の存在」と「互いに\(L\)上ランダム・ジェネリックな実数の完全集合の存在」という二つの仮説を区別したい、ということ。つまり前者が成立し後者が成立しないモデルが存在するかという話。三年ほど前に静岡のヨリオカくんから聞いた問題に関連したある命題が、前者を導き後者から導かれることがわかっている (いまのところ確証はないが, たぶん後者と同値である) ので、この二つの仮説が同値なら話はそれで終わり。そうでなければ、さらに考えないといけない。

夕方は、普通にピアノのレッスン。10月中旬には京都出張があるので、11月の発表会までにレッスンはあと4回しかない。ううむ。


2011年9月29日(木)くもり

夕食にはN教授、D教授、ブレンドルさん、俺の4人で「じぃ家」に行った。その後、皆と別れた俺は歩いてジュンク堂書店へ行き、グレアム&カンター『無限とはなにか?』(一灯社)を購入。この本は、集合論の初期に重要な貢献をなしたモスクワ学派(エゴロフ, ルジン, ススリン, アレクサンドロフ,…)について綿密に調査し、その思想の意外なる背景を明らかにするルポルタージュであるらしい。


2011年9月28日(水)はれ

ブレンドルさんの集中講義3日め。午後4時半で終わるだろうと思って4時20分ごろのぞきにいったら、基礎の公理と \(\mathbf{V}=\mathbf{WF}\) の同値性の証明をやっていた。それが済んで、やれやれお疲れさま、と思ったら、まだそれで終わりではなく、きょうは4時50分までやる予定なのだそうだ。それで、午後5時にさすがに終っただろうと思ってもう一度見に行ったら、なんとその30分の間にシュレーダー・ベルンシュタインの定理の証明が済んでいた。15週分の授業を一週間で済ませる集中講義なのだからある意味で当然だが、さすがにこれはハイペースだ。その後、授業に出ている受け持ちゼミ生二名と後期のゼミの日程を相談。


2011年9月27日(火)はれ

なんというか唐突で申しわけないが、妻に評判がよかったネタ。

出た1
1: 向こうのお山に♪

出た2
2: 月が出た♪

出た3
3: 火が出た火が出た♪

出た4
4: 四つ出た♪

ブレンドルさんの集中講義2日め。整列順序の基本定理から、次は順序数の定義。順序数の和などは、天下りに与えられた定義を見ているだけだと難しすぎるので、小規模な個別ケース、たとえば \(2+3=5\) を定義にしたがって証明してみることをお勧めします。


2011年9月26日(月)くもり

今週は、神戸のブレンドルさんが集中講義に来てくれる。学部生を相手に、公理的集合論のとっかかりの部分。キューネン本の第I章と第III章に相当する内容。キューネンの公理のリストを採用し、用語は訳書を踏襲して、ただしキューネン本の第I章にはろくに証明がついていないので、そこのところをうんと丁寧にやってもらっている。初日は午前中に1コマ、学科スタッフとの昼食会のあと午後に2コマ講義して、それから談話会講演、そしてホストのシャクマトフ教授お気に入りのビストロ アミティエ で遅くまで歓迎会。なんというか、ブレンドルさんにほとんど休む暇を与えないハードスケジュールだった。そして俺はまたしてもアミティエで酔っ払ってしまった。


2011年9月25日(日)くもり

学科の合宿二日め。成果発表だ。課題を大きめに設定してあるため、一日で全部が解けるとは限らず、また質疑応答こみ30分という発表時間では、考えたことすべてを語ることもできないので、数学を解くことだけではなく、結果をまとめプレゼンテーションをする訓練という側面を必然的にもつ。結果が良かったグループもそうでないグループも、みなそれぞれ発表には気合が入っていて、なんだか大学院のセミナーみたいに活気があった。もちろん先生たちは発表を聴きつつ、所々で鋭くダメ出しをするが、決して発表者を叱っているのではなく、むしろ学生さんたちと数学の話ができるのが、「もう、うれシくて たのシくて たーまらナい わけであります」(ここ、ぜひ二代目桂枝雀の口調で読んでください)。合宿に参加するほどの学生さんたちは、みな数学が好きで来ているのだろうし、教員のほうも、わざわざ休みの日に合宿に来るほどの人は、みな学生たちと数学の話がしたいのだ。

それで、昨晩もビールの他はお酒も予期したほどは消費されず、焼酎の一升入りパックがまるまる一本、手つかずで残ったりしていた。ふむ。仕方がないので、わたくしが片付けてあげよう…


2011年9月24日(土)くもり

2年ぶりの、学科の合宿。3年生以上の数学科の学生27名、教員6名がバスをチャーターして 大洲青少年交流の家 に行く。学生を5つのグループに分けて、それぞれ普段よりちょっと歯応えのある数学の問題に取り組んでもらう。スケジュールは大変おおまかにしか決めておらず、朝の10時半ごろに到着してグループわけをしたあとは、夕食のバーベキューの時間まで何のしばりもない。決まっているのは、明日の朝に考察の結果を発表をしてもらうよ、ということだけ。バーベキューのあと片付けをして、風呂に入って、酒を酌み交しながら歓談する懇親会の時間もとったが、そのあとからセミナー室に戻って考察を続ける学生もいる。なかなか見上げたガッツだ。


2011年9月23日(金)くもり

連休とて、妻子が帰省してしまう。実家の手伝いがあるので仕方がない。俺は明日の用事のために松山に残る。位相空間の同相類全体は集合にならないとかの話にツイッターで参加しつつ、基本的に家でダラダラと過すが、家族のいない今がチャンスと思って辛い料理を作る。昼食はラーメン。夕食にはもやし炒め。本当なら豆板醤を入れるのだが、うっかり切らしていたので、冷蔵庫の奥に死蔵されていたコチジャンを入れる。2合炊いて残ったご飯は、明日の朝食のために今夜のうちにおにぎりにしてしまう。

きょうの数学ネタ:コンパクト距離空間はどれもヒルベルトのキューブ \([0,1]^{\aleph_0}\) の閉部分集合と同相なので、同相類は高々 \(2^{\aleph_0}\) 個しかない。また、可分コンパクトハウスドルフ空間は直積空間 \([0,1]^{2^{\aleph_0}}\) の可算部分集合の閉包と同相なのだから、同相類は高々 \(2^{2^{\aleph_0}}\) 個しかない。ただし、条件をさらに緩和して可算鎖条件(互いに交わりのない開集合の不可算族をとれない)をみたすコンパクトハウスドルフ空間とすると、任意の無限基数 \(\kappa\) に対して \([0,1]^\kappa\) が該当するわけで、その同相類の全体は(濃度に上限がないことになって)集合をなさない。


2011年9月22日(木)はれ

快晴。写真は職場の窓から撮った けさの松山城。

9月22日朝の松山城


2011年9月21日(水)くもり

いろいろの書類仕事がたまっていたので片付ける。来月のRIMS研究集会の段取りを進め、メールを何通も書き、宿に電話する。そのあと、本当に久しぶりにキューネン本の演習問題を一問だけ解いた(第VI章演習問題20)。本当を言うと、この問題はその前の問題18や問題19と抱きあわせて解くべきなのだけど、きょうはどうも頭が働かなかった。いや、テクニカルに込み入った議論の歯車に合わせて頭が回転を始めるまでにはそれなりに時間がかかるものなのに、この頃の俺がせっかちで諦めが早すぎるのかもしれない。

昼のあいだは少々蒸し暑かったが、帰りには風がずいぶんと涼しくなった。第VI章の演習問題1あたりをどうやって解くか考えながら、歩いて帰る。歩数計カウント8,203歩。


2011年9月20日(火)あめ

台風15号の影響でひどい雨。夕方から市民コンサートの機関誌作業に出かけ、そのついでに11月のピアノ発表会の申し込みも済ませた。

竹内外史『現代集合論入門[増補版]』(日本評論社, 1988年)の付録1「現代集合論のめざましい発展」を読んで、\(L\) と \(0^\sharp\) について勉強しその知見を \(L(\mathbb{R})\) の理論へと拡げていく、というのが、俺のこれから取るべき道だと思った。あまり確信はないが、ジェンセンの \(L\) の理論において順序数のクラスが果した役割を順序数のクラスと実数のクラスの組合せに担わせるという方法で \(L(\mathbb{R})\) の構造を詳細に調べようとすると、モシュコヴァキス流の記述集合論が手がかりになるように思う。1980年前後のいわゆる Cabal Seminar の記録をそういう観点から見直したら、なにかわかるかもしれない。


2011年9月19日(月) 敬老の日くもり

午後、フジグラン重信に出かける。【息子】に着せるHusHusHのクマちゃん柄のTシャツが妻のお気に入りなのだが、このあたりではここで買うのがいちばん確実という理由だ。ついでといっては何だが、【娘】の新しい服も買った。


2011年9月18日(日)くもり

妻子は娘の同級生のお母さんのお誘いで遊びに出かけた。俺は炎やラーメンで昼食をとったあと、ジュンク堂で竹内外史『現代集合論入門[増補版]』(日本評論社)を買い、銀天街のドトールコーヒーで読んでいたが、昼食時のビールの効果で眠くてたまらなくなったので帰宅。昼寝をしてからピアノの練習。

学校の算数で面積について習い始めた娘は、指定された面積の図形を描くパズルのような遊びをやっている。写真は、5mm方眼の算数ノートに3㎠(へいほうせんちめーとる)の形をいろいろ描いたもの。こういう安上りかつ知的な遊びを楽しめるのはとてもいいことだ。

three-square-centimeter.jpg

数学者のハシクレである俺としては、方眼紙に5㎠(へいほうせんちめーとる)の正方形を描く方法を伝授した。

five-square-centimeter.jpg

この仕掛けがわかればピタゴラスの定理まであと一息。とはいえ娘にはまだ早いだろうな。


2011年9月17日(土)あめ

きょうも一日、雨が降ったり止んだり。午後は4人で天山のイオンへ。たいした買いものはしないが、クラビノーヴァ用にヘッドフォンを購入。これさえあれば、時間を気にせず練習ができる。


2011年9月16日(金)あめ

お昼ごろから雨。久しぶりだからか何か、まーよく降ること。夕方、電車が来るかどうかわからないので歩いてピアノのレッスンへ行ったら靴と鞄がぐっしょり。レッスンからの帰りも、珍しく電車が遅れてしまった。

ピアノのレッスンでは、弾いているうちに余計な力が入ってくることを予見して、普段の練習のときから「どこで力が入るか」「どうやって脱力するか」を考えよう、という結論になった。来週は祝日でレッスンがお休みになり、来月のレッスンもちょっと変則的にならざるを得ないので、できるだけ自分でよく通し練習をしておかなくちゃ。


2011年9月15日(木)はれ

とある人との共著論文の計画が持ち上がったので、夕方から文章を書きはじめたら夜の10時半になってようやく一段落。未完成ながらそれなりの分量になったものを、共著者へ送る。帰宅したのは夜11時半ごろ。けっこう疲れた。今週中にやるなんて言うんじゃなかったよ。


2011年9月14日(水)はれ

ううむ。むらとりさんの質問から、キューネン本演習問題のうち 第I章 の[19] の解答ミスが発覚。特異基数の場合これでうまくいく保証がない。

(追記2011年9月19日) いろいろ考えてみたけど、どうもうまくまとまらないで困っていたら、常連投稿者である産総研の縫田光司さんが修正された解答を送ってくださった。ありがとう。いつもすみません。


2011年9月13日(火)はれ

9日金曜日から昨日までの4日ぶんの「て日々」を書くだけできょう1日が終わってしまいそうだ。これはもう仕事だよ。誰かギャラくれぇ。

夜は市民コンサート事務所に機関誌部の面々が集まって、次号以降の編集作業の方針について話しあった。いままでは各自が自分の担当するページのレイアウトまでかっちり作って持ち寄っていたのだけど、これからは、まずできるだけベタテキストでデータを用意してもらい、レイアウトは事務所のパソコンでやってしまう。そのために、それぞれの記事の文字数の見積もりなどをした。


2011年9月12日(月)はれ

朝、ある数学者の「数学基礎論をやっている人は今朝食べたバナナを含めてこの世のすべてのものが集合であると思っている。頭がおかしいに違いない。」という意味のツイートが流れた。こりゃまた、明白な挑発だ。あまりにも明白過ぎる。きっと「釣り」(周囲を騒がせるためにわざと迂闊なことを言う)に違いない。頭がおかしいとはズイブンだが、即座に食ってかかっては相手の思う壺。では、どうするか。俺は普段はそういうことはあまりしないのだが、珍しく連続公式リツイートなることをやってしまった。あとで @patho_logic も同調していたな。

その数学者が「基礎論をやっている人はバナナを集合だと本気で思っている」と本気で思っているとは思えない(ややこしいね)。というか、思いたくもないが、土曜日に科学基礎論学会の会議に出たさいに、 …集合論研究のモチベーションが理解されていない。「集合論は数学的対象を記述する言語である/言語にすぎない」という誤解が哲学者に多く、「数学的対象はすべて集合である」(と数理論理学者は思っている)という誤解が数学者に多い。この6月に開いたワークショップ「あたらしい数理論理学の揺籃」に関する特集を学会誌で組むにあたって、そうした誤解を解く方向へ議論を進めたい。… という話を編集委員長の菊池さんから聞いたばかりだ。その誤解のあまりに典型的な実例が早くも目の前に現れたことに驚いた。ひょっとして菊池さんはこの先生のことを言っていたのだろうか。

こんなことわざわざ言いたくもないのだけど、集合論研究のモチベーションは、そりゃあ、集合のユニヴァースの構造がもつ固有の面白さである。それだけで、研究するには十分だろう。数学の基礎づけはできるのかもしれないが、どのみち完璧にできるわけじゃないことはわかっているし、だいいち、そちらが主目的というわけではない。

ここでは「それ自体としての集合論」という観点と「数学のインフラとしての集合論」という観点が対立していることになる。

ところが、数学という研究領域から少し引いて眺めてみれば、今度は「それ自体としての数学」という観点と「自然科学の言語として/計算の道具としての数学」という観点の対立が見えてくる。そしてさらに引いて眺めれば、「自然探求としての自然科学」と「テクノロジーの基礎としての自然科学」という観点の対立がある。ここに、少なくとも三層にわたって並行した対立関係が見られる。そこでは、なんらかのディシプリン \(Y\) とその部分領域あるいは隣接領域 \(X\) の

(★)   \(X\) のレゾンデートルは \(Y\) のための道具として用いられることである

という関係を、一方が否定し他方が肯定する。否定するのは \(X\) の構成員が自分の研究領域の固有の価値を主張するからであり、肯定するのはたいてい \(Y\) の構成員で \(X\) のメンバーではない者が、自分と \(X\) の間に引いた線のこちら側で、自分が引いた線について主張しているわけだ。こうした対立が、しばしば学問研究のそもそも論を離れて、政治的な舞台で繰り広げられることがあるから話は厄介なのだが、誰しも自分たちの立場の固有性は守りたいのだから、致し方のない話なのかもしれない。

それでも、\(X\) が (★) を否定しているうちはまだいいのかもしれない。というのも、このごろはどうも数学界が「数学は役に立つんだ」と躍起になって主張しているように見受けられるからだ。自分たちの立場の固有性を守るために今度は \(X\) が(★)を肯定しはじめたわけで、なんとも難しいことになってきたもんだと思う。

だいぶ話がおかしな方向へ行ってしまった。バナナの話に戻ろう。数学者にとって、数学の対象の本性はその構造にあり、構造を担う実体の「何であるか」はもとより問題にならない。元のツイートは、にもかかわらず「基礎論をやっている人」がその数学的対象の正体を「集合」という妙ちきりんな実体だと露骨に宣言して「何事かをなしたような顔をしている」ことへの違和感の表明だったのだろう。バナナはバナナ、集合は集合、函数は函数。それで十分なはずなのに、奴らは函数をわざわざ順序対の集合だと言い、あまつさえ、順序対を無順序対の無順序対として定義しさえする。そんなことやって何がわかるのか。数学者のやることじゃない。というわけだ。まあ、そう言いたくなる気持ちはわからんでもない。

だけど、数学的対象を集合なり形式的体系なりでコード化するだけで「何事かをなしたような顔をする」ような数理論理学者なんていまどきまずいないだろうし、そうではなくて、そのようなコード化から見えてくることがあるなら、つまり、函数を順序対の集合と思い順序対を無順序対の無順序対と(かりそめにせよ)思うことで、何か実質的に新しいことがわかるなら、それはそれで結構なことである。そして、そういう見込みがあると思うからこそ、集合論者はしばしば数学的対象のコード化をするのである。

やれやれ、結局「釣られ」てしまったようだ。これ以上エラそうなことは、俺としては実際の研究成果に語らせるべきだろう。(…ううむ)

実は、謎の東洋人フチノさんが、この問題について遅くとも4年前には文章化している。田中一之編『ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)④』の第I部「構成的集合と公理的集合論入門」の49ページあたりを見てください。公式の回答としてはこれが必要にして十分でしょう。

集合論研究における研究者の思考の生理学は、他の数学の分野におけるそれとまったく同様である。(渕野, 前掲書p.50)

実際のところ、今日のツイッターのタイムラインでは、この挑発に真っ向から乗っていこうという人は見られなかった。むしろ「バナナはおやつに入るんですか」の口調で「バナナは集合に入るんですか」と問いかける奴とか、遠足からの連想で「集合時間に遅れた児童の全体は集合をなすか」と言い出す奴とか「バナナ空間」とか「半バナナの拡張定理」とか「バナナ=タベスギのパラドックス」とか「バナナ環…って、そういえば去年まで松山の土橋にバナナ館って八百屋があったけどな」とか、ちょっとしたバナナブームが巻き起こったのだった。

(2011年9月22日追記) これを書いたときにはなぜか忘れていたが、エルデシュだかハーディーだかが言った「数学者はコーヒーを定理に変換する機械だ」という言葉をモジって「このたび、バナナを集合に変換する機械の開発に成功しました」と言った奴もいた。(俺だけどね。)


2011年9月11日(日)はれ

きょうは一日オフ。かがみさん に会うために藤沢へ行く予定。朝5時起床。まず風呂に入る。さてどうやって藤沢までいこうかと、iPad のマップAppを起動する。すると、大倉山公園まで宿から歩いて行ける距離であることがわかった。この公園の中央にある 大倉山記念館 は、20年ほど前の映画『1999年の夏休み』(金子修介監督)のロケ地だ。映画では「学園」の建物として実に印象的に使われており、ぜひ一度実物を見てみたいもんだとかねがね思っていた。朝の散歩がてら出向いていって写真を撮って、妻に送ってやろう。妻もこの映画が大好きなのだ。朝食はそのあとでどこかで食えばいいや。早めにチェックアウトして歩いていく。

横浜市 大倉山記念館

横浜市民のみなさんには見慣れたものなのかもしれないが、ご覧のとおり美しい建物だ。早朝とて中には入れなかったのだが、昭和7年建立のこの建物は、東西の文化を融合させ日本独自の精神文化を開花させんとしたかつての東洋大学学長大倉邦彦(1882-1971)が昭和初期に創立した「大倉精神文化研究所」の本拠であり、いまでは会議所・図書館・文化ホールとして、横浜市民の使用に供されてもいる。すばらしい。松山にもそういうの欲しい。

映画『1999年の夏休み』では、これがおそらく信州かどこかの人里離れた山の中にぽつんと立つ近未来の全寮制の中学校という設定になっているのだけれども、実際は東急大倉山駅から徒歩5分。周囲は高級住宅街で、すぐ横を東横線が走り、10分とあけずに電車が通る。あの涼しげな山の学校のイメージは、巧みな編集によって生み出された、いわば映像のマジックというわけだ。

話は飛躍するが、結城浩さん の小説「数学ガール」シリーズにはミルカさんの叔母である双倉博士の私設図書館《双倉図書館》が重要建築物として登場する。本当の(?)双倉図書館はもっと採光のよい明るいモダンな建物なのかもしれないのだけど、映画『1999年の夏休み』の学校のイメージと「数学ガール」の文面から喚起される《双倉図書館のイメージ》とは、俺の中ではとてもよく調和する。それで(翌12日のことだけど)そのように(→src)Twitterでつぶやいたら、結城さんから

あ、近いですね(^^)左右の広がりや、内部の設備など。上の形は少し違うけど。(→src)

と反応があった。さすがに作者は明瞭なイメージを持っているのかもしれない。「頭の中か、ひょっとしてパソコンに図面をお持ちなのですか」(→src)と聞いたら、

図面はありません。イメージと香りだけです。夢で何度も訪れる場所の記憶のように。(→src)

とのことであった。詩人ですねえ。

大倉山駅前の「すき家」で朝飯を食い、横浜駅改札内のベックスでコーヒーを飲んで、東海道線に乗った。藤沢には9時前に着いた。改札前でかがみさんと待ち合わせ。

登場したかがみさんは、4年前に静岡でお目いかかったときとは見違えるほどスマートに、というか、痩せておられた。お病気だったのだから仕方がない。いまは快復して、一日2万歩くらい平気で歩けるようになったという。まずはドトールで話す。研究室にある三つの「湯呑み」のうちのひとつ(仮に「長男」と呼ぶ)を進呈した。

湯呑み
もちろんこれのことだ

一時間ちょっと話して、じゃあ鎌倉まで一緒に行って昼飯食いましょうともちかけ、快諾いだたいた。鎌倉までは江ノ電で行く。天気もよく、湘南海岸にはたくさんのサーファーたち。それにヨット。いい景色だ。なるほど、かつて西欧近代文明に憧れる文士たちがここを舞台に「新しい生き方」の夢を見たのも、なんとなくわかる気がする。とはいえ、それからものの10分もせぬうちに、電車は古都鎌倉に到着してしまうのである。

あまりいろいろ見て回る時間も体力もないので、なにはともあれ鶴岡八幡宮に行った。みやげもの屋の並ぶ裏参道(?)を「東京原宿の竹下通りみたいな京都清水の二年坂みたいな」と思いつつ歩く。いくつかの店に「鎌倉ビール」の看板がある。よし、あとであれを飲もう。

京都の石清水八幡宮と松山の伊佐爾波神社のイメージから、俺は八幡宮というものは必ずものすごい高い石段の上にあると思い込んでいた。鎌倉幕府三代将軍実朝が二代将軍頼家の子(つまり自分の甥)である公暁に殺害されたのがこの神社の石段だったというエピソードがあって (…違ったかな…) その印象がまた、うんと長い石段があるに違いないという思い込みに拍車をかけていた。だが行ってみると全然そうではなかった。考えてみれば、算額が名高い内子八幡宮だって、べつだん山の上にあるわけではない。俺はいったい何を考えていたんだろうか。

かがみさんと「八幡宮の三柱の祭神のうち応神天皇と神功皇后はよいのですが、比売神というのがどうも謎の神様です。これ、じつは卑弥呼のことじゃないかという説があります」とか「1965年ごろのソロヴェイはすごすぎる。きっと神様が取り憑いていたにちがいない」といった話をしながら参道を歩き、本殿に参拝し、宝物殿を見る。

太閤秀吉の時代の修理・増築の図面があり、それには朱で「しゅり」「あたらしく」などと書かれていた。そうえば、いつだったか、「やむをえず」を「やもおえず」と書く人がいる、という話が出た。ジャストシステムだかエルゴソフトだかに「ふいんき」なんて基本的な語が変換できないIMEなんて欠陥商品だと怒鳴りこんだユーザもいると聞く。すでに正解となっている「さざんか」や「あたらしい」は、おそらく「さんさか」や「あらたし」の言い間違いが従来の正解を圧倒してしまったに違いないのだけど、そのうち「ふいんき」「やもおえず」「せざる負えない」も正解の座につくかもしれない。この秀吉の時代の図面は、16世紀後半にはすでに「あたらし」が使われていたことをうかがわせる。

お神籤を抽くと、「十番末吉。いまの状態に満足せず次に進みなさい」とのお示しだ。「学業:国語の学力が足りない。」ははーっ怖れ入りました。がんばります。

いや、「わらわは比売神じゃ。そちは先ほどアホなことを言うておったようじゃが、わらわは卑弥呼ではないぞよ。」とか「学業:数学の学力が足りない。連続体仮説は真ではないぞよ。」とかお神籤で神さまに叱られることをちょっと期待したのだが、よもや国語の学力のことで叱られるとは思ってもみなかった。

しかし八幡の神さま、国語の学力って実際のところ何なのですか。だいたい、学力とは何なのでしょうか。あと、京都に帰って天満宮にお参りするたびに思うのですけど、学業成就とは、いったいどういうことを謂うのでしょうか。

境内を歩きながら、かがみさんと話す。

やっぱり連続体は弱到達不可能なんじゃないでしょうか。

まあ、\(\aleph_1\) でも \(\aleph_2\) でもないなら、\(\aleph_{6837}\) なんかである理由はさらにないでしょうからねえ。ただ、そうだとすると、可算と連続の間にとても多くの中間の基数があることになる。その現象をうまく把握し表現する公理があるべきでしょう。マーティンの公理と「連続体は弱到達不可能」は両立するけれども、これではたくさんの中間の基数があるというだけで、それらの振舞いは

結局全部同じようなもんだという…

そう。\(\aleph_0\) と同じようなものになってしまって、ある意味つまらない。現象面で連続体仮説と変らないなら、単純なぶん連続体仮説のほうがいい。その点、PFAなどはsupercompact cardinalと無矛盾等価だと予想されています。昨年のRIMSの集会で、その予想にいっそう近づいた結果の報告を聞きました。

おおっ、そうなんですか。

PFAがgeneric absolutenessの形で表現されていれば、公理としての自然さも申しぶんない。ただ、そうすると連続体濃度は \(\aleph_2\) ということになってしまいますけどね。

帰りは表参道を通る。真夏のような日差しだ。お昼になったので蕎麦屋に入り、天ざる蕎麦を食いつつ鎌倉ビールを飲む。

鎌倉ビール「月」
鎌倉はどこかやっぱり京都みたいだと思った

なにしろ日本での集合論研究は層が薄い。明治時代に西洋の数学を輸入して以来、数学の主流は代数・解析・幾何であるし、そのこと自体はまあ自然というかマトモなことでもあるのだけど、大学の数学教室の長い伝統の中で、他の分野の研究者が育ちにくい、再生産されにくい構造ができ上がってしまったのは問題だ。そういう意味では、仮にも理学部数学科というところに所属して集合論研究者を自称する俺はとんでもなく恵まれた境遇にある。万年助教で安月給に甘んじている理由は、もちろん研究業績が足りないことだが、偉くなるのヤダもんねという非社会性も、たしかに理由の一端である。さっきのお神籤のお示しの通り、いまの境遇に安住することをやめて次のステージに進むべきなのかもしれない。偉くなって後進を育てうる立場に立つための努力を、俺もすべきなのかもしれない。

蕎麦屋でかがみさんを相手にそんな話をする。それからJR湘南新宿ラインで鎌倉を出発し、かがみさんは大船で乗りかえて藤沢へ戻る。俺はそのまま横浜へ行きYCATからバスで羽田へ向かう。次にお会いするときには、集合論のテクニカルな話題をもっともっとじっくりと語りあいたいものだと思う。

かがみさんは、東北大で数学(可換環論)を学び修士の学位を取得。高校の数学教師になったけれども、思うところあって、あるとき教職を辞して上京。機器メーカーのプログラマとして働きながら、集合論を勉強するのをなによりの楽しみにしている。集合論に興味をもちだしたときには周囲に相談できる人が全然なかったのに、それでも自分で自習書としてイェック本とキューネン本を選んだというのだから、たいしたセンスだ。ホームページに掲載された膨大な 集合論雑記 は、彼の独学の記録である。

ここに、そういう人がいる。では、俺たちはどうだ。好きで集合論を勉強している人から「念願かなって専門の研究者に会ってみましたが、もうこの分野にはきっぱり見切りをつけることにしました」なんて言われるようならオシマイだ。誰にも強制されずにただ学びたい一心でやってくる人たちに、何かを伝えられるか? 学校という制度に甘えてはいないか? もっと精進せにゃならん。

さっきも書いたが日本での集合論研究は層が薄い。研究者が多けりゃあいいというものでもないが、土台をしっかりさせ裾野を拡げることは、その上へ高く積みあげるためにも大事なことだ。だからといって、なにも集合論の学習塾を作ったり高校数学の必修項目に加えさせたりする必要はない。「ふつうの数学」をやっている数学者・数学愛好家たち、それに学生さんたちと積極的かつ誠実に対話し、自分たちの研究している領域のことを誠実に伝えていくしかないのだ。だが、大学での教育業務と大学運営とアカデミックな研究業務だけでも大学の教員はじゅうぶん大変で、なかなか啓蒙のようなことには手がまわらない。それでなくても日本語で集合論を語れる専門家は一握りしかいないのだ。誰にも頼めない。俺のような者がやるしかない。

最初にこの日の日記を公開したときは、直前のパラグラフのようなことを蕎麦屋でかがみさんと話したように書いていたが、それは張り切って書いているうちに筆が滑った結果だ。あとで思い出してみると、そのとき話したのは少し違うことだったので、訂正した。ついでに少し文章を推敲。蕎麦屋では話さなかったとはいえ、上に書いたことも決して嘘やデタラメではない。

17時15分の飛行機で松山に戻る予定だったが、なにかよほど事情があったようで、一便遅らせてくれたらナニガシかキャッシュバックしますというアナウンスが航空会社からあったので、取引に応じることにして、松山に着いたのは20時45分。なかなか長い一日だったわ。歩数計カウント17,792歩。


2011年9月10日(土)はれ

科学基礎論学会の企画委員会が駒場の東大で開かれる。交通費も出してもらえるというので出向くことにした。11時すぎに羽田に着く。会議は15時からなので、それまで書店にでも行ってようと、ひとまず電車で新宿に行った。紀伊國屋書店の新宿南店に行った。もひとつパッとしないなあ、と思ったのは、ひと昔前と違って、東京に行かなくてもこのレベルの品揃えの書店が全国津々浦々にできているからでもあるだろうが、どんな本を探すか、事前に十分に準備していなかった俺のほうの問題もあるだろう。

昼飯。やよい軒代々木店で鯖の塩焼き定食と生ビール。長居できる店でもないし、店を出たところで特にすることもないので、さっさと駒場に行った。一時間ほど早く着いてしまったわけだが、あの周辺は本当になにもなくて、腰を落ちつけて本を読む喫茶店すら見つけられない。仕方がないので古本屋を少しひやかしてから東大に行き、テニスコート横のベンチでボケっとして過ごす。砂田利一『バナッハ-タルスキーのパラドックス』(岩波書店2009年)を飛行機に乗ってる間に(付録の数学的に硬いところは別として)読み終えてしまったので、昨日ちょっと言及したベル本の続きを読むことにする。ベル本は集合論のブール値モデルの方法についてしっかり書いてある良い本なのだけど、第0章のブール代数の一般論のところを読んでみると、記号の間違いが散見された。

会議後、東横線で横浜へ移動。宿は分不相応にも新横浜プリンスホテルだ。ただし、素泊まり5,500円のビジネスプラン。缶ビール1本サービス。

新横浜プリンスホテルの客室内
安いプランと云えども
そこはやはりプリンスホテル

夕方。宿にくじらんと奥さんが迎えに来てくれて、野毛に夕食に行く。「元祖ばか鍋 浜幸」で馬肉料理。あぴ、けいし、まこぴ、くじらん、奥さん。みな久しぶり。

馬肉・鹿肉のばか鍋
これが「ばか鍋」
肉はサクラとモミジつまり馬と鹿


2011年9月9日(金)はれ

ベル本第3版 (John L.Bell, “Set Theory: Boolean-Valued Models and Independence Proofs (3rd Ed.),” Oxford University Press, 2005) のペーパーバック版が出たそうだ。4,000円弱。円高に敏感なAmazon価格だと、なんと3,000円ちょっとだ。ただし、俺はハードカバー版が出た時に買って持っているので廉価版の恩恵にもあずかれず円高のうま味も味わえない。たしかそのとき、紀伊國屋書店の新宿本店で大枚12,000円くらいだったと思う。

ベル本にスコット(Dana Scott)が序文を寄せている。これがなかなか印象的な文だ。ノート代わりに少し抜き書きながらコメントしよう。引用は拙訳。読みにくくてすまん。

選択公理に話が及んで、迷いが生じだす: これは全く《任意の》(arbitrary) 集合という概念に内在するものだと論じることもできるだろう。しかしその一方で、この(集合という)ことばに別の意味づけだってできるかもしれず、それによれば選択公理を破るような集合を《決定》(determine) できるかもしれない。とすれば、これ(選択公理)を仮定するというのは、まさに公理的な行いだ。“明白”(self evident)なものではあるが論理学の問題ではない。いやしかし、ひょっとしたらこれは結局のところ論理学の問題で《ある》のかもしれない。なにしろ、(選択公理の)有限バージョンは証明可能なのだから。つまり、あれこれの結論を導くのに十分な強さがあるといえども、一階論理というものが全体としては弱すぎるのだから、あるいは “無限な”推論 (‘infinitary’ inferences) をも認めるべきなのかもしれない。ここまで来ると、そもそも論理学とは何だったのかも疑問になる。論理学を用いて集合論を精密化しようとしていたのに、その論理学を精密化するために集合論を用いねばならなかったのだから、どうも話が循環しているように見える。

事実、スコットは無限論理 (infinitary logic) の研究で顕著な業績をあげている。可算無限個の論理式を繋ぎあわせて一つの文を作ることでモデルの構造を余すところなく記述できる(同型類を決定する)スコット文というアイディアは、モデル理論自身にとどまらず記述集合論への応用にも関連して重要だ。ひょっとして、ここでスコットが言っていることが、彼の無限論理研究の動機付けに関係しているのかもしれない。そして、うっかり見過してしまいかねないが、determine の一語をイタリックで強調しているのは、決定公理 (axiom of determinacy) という選択公理と相容れないオルターナティブの存在を仄めかす 仕掛け に違いない。

話はそれから連続体仮説に移る。1938年にはゲーデルが \(V=L\) から連続体仮説を導いてその無矛盾性証明をなしとげたわけだが、ゲーデル自身も認めているとおり構成可能的集合の宇宙 \(L\) は狭すぎるので、そこで成立しているという事実から、連続体仮説が真なのか偽なのかがわかるわけではない。 \(L\) の研究はそれ自身として大変興味深くて重要ではあるが、\(L\) を研究することで《任意の集合》のことがわかるというわけにはいかないし、そのうえ数学と論理学の線引きは、かえって難しくなってしまった。その後、1960年ごろには巨大基数の研究の発展により可測基数と \(L\) とが相いれないとわかり、可測基数の不存在がどうしても証明できなかったことと合わせて、状況はなおのこと \(L\) という不自然なモデルにとって不利になった。可測基数が \(V\neq L\) を導くというのも(ハンフと)スコットの得た結果だ。そして、次の文。

本物の爆弾 (real bomb) に当ったのは1963年にポール・J・コーエンが強制法 (forcing) を発見して連続体仮説の独立性を証明したときだ。そのあとに独立性証明の長い連鎖反応が続いた。それ以降、集合論は二度とコーエン以前と同じではありえなくなった。わたくしたちの集合論のモデルに関する知識が、今ではどれほど洗練されているか、コーエン以前の時期とはまったく比較のしようがない。

アメリカの人が「長い連鎖反応を起こした本物の爆弾」という表現を単なる比喩として使うと、なんというか、こちらとしては微妙に引っかかる(「ホンマモンのバクダンっちゅうのはなー」と拳を握りしめたくなる)のだが、それはともかく、このベル本のテーマであるブール代数値集合論は、このコーエンの強制法の発見から始まる。強制法は驚くほど間口が広く、さまざまに応用されて、たくさんの(しばしば互いに相容れない)集合論的命題のモデルを生み出すことになった。とりわけ「連続体の濃度はいくつか」というカントールの元の問いについて、通常のZFC集合論だけではほとんどなにもわからない、ということがはっきりした。

現在受けいれられている集合論の公理が (これまでのところ、それらには申し分なく自然な動機づけが与えられるのだけど) 連続体というとりわけ重要な範囲においてすら、もはや無限集合の概念を決定づけられないというのでは、ちょっと恥ずかしい、ぐらいでは済まされないだろう。

ただし、強制法は万能というわけではない。たとえばの話、“\(V=L\) の”独立性は強制法で簡単にわかるけれども、強制法で示すことがまず不可能な “\(V=L\) からの” 独立性も実際問題としてたいそう重要であろう。スコットはこのほかに、構成可能的でない実数が定義可能だとしても、そのような定義の解析的階層 (analytical hierarchy) における位置はいちばん低くても \(\Delta^1_3\) であるから、強制法はそれより上の複雑さに関する結果しか生まない、と論じている。これはそのとおりかもしれない。しかし、この制限はなにも強制法にだけ適用されるものではない。\(\Sigma^1_2\) のレベルでの独立性の結果を得ようとするなら、超準モデルに訴えることになるだろう。

いずれにせよ、コーエンの方法であまりにもいろいろなこと(独立性の結果)が証明されたものだから、数学の基礎に対する形式主義の立場こそが合理的な帰結であるという意見に当のコーエン自身も傾いた。しかしながら、わたくし自身はこれには同意しかねる。

次が肝心のところ…

ツェルメロ-フレンケル公理系を拡張する互いに相容れない沢山の集合論のモデルが存在することはもちろんわかっている。それでも、そうしたモデルはすべて、一階論理の公理系のモデルにすぎず、一階論理は弱すぎる。このタイプのモデルを集合論の宇宙のサブモデルとして生み出しつつも、集合論の宇宙そのものはなにか絶対的なものと考えうるような、そういう強力な公理を手に入れることが可能であってしかるべきだと、いまだにわたくしは感じている。(中略) しかし、わたくしも他の人もほんとうに素敵な (pleasant) 公理をまだ作ってはいないから、この提案も推測にすぎない。新しい発想 (そして新しい観点) が必要だが、現在のところわたくしたちにできるのは、集合論のモデルの大変な《多彩さ》(variety) を学ぶことだけである。

この部分はスコット自身の信条の吐露なのだが、俺が強制法のテキストを書いて、誰か偉い先生が「本当にやるべきことは別にあるのですが、どうしてもできないので、現在のところこの本の内容を勉強するしかありません」と序文に書いたら、そりゃ胸中複雑になるだろうな。

このあとようやく本の内容に言及するが、序文はようやく真ん中を少し過ぎたぐらいで、まだまだスコットの解説は続く。なにしろコーエンの方法を整理してブール値集合論を開発したのはこのスコットとソロヴェイ(それと独立にヴォピェンカ)である。彼らの自筆ノートが事実上の原典ということになり、それがいずれ本になるというもっぱらの評判であった。1970年代には、だから「スコットとソロヴェイの出版予定の本」を参考文献リストに載せた論文が数々書かれることになるが、結局、その本は出ずじまいである。このベル本(1977年初版)はスコットのノートの内容を土台としてそれを拡充させたもので、幻のスコット-ソロヴェイ本の、ベルによる実現ということになる。ではなぜスコット-ソロヴェイ本は書かれなかったのか。スコット自身による証言には耳を傾けるに値する。

あとはまあ、みなさん自分でベル本のペーパーバック版を買って読んでみてください。わはは。これじゃ、出版社のマワシモンか瓦版のヨミウリやね。


2011年9月8日(木)はれ

朝の起き抜けに、昨日考えた「不連続な加法的函数のグラフは稠密」の別証明を思いついたので、ここに書く。

加法的函数 \(\varphi:\mathbb{R}\to\mathbb{R}\) というのは,つまり有理数体 \(\mathbb{Q}\) 上のベクトル空間とみた \(\mathbb{R}\) からそれ自身への線形写像である.

いま \(\varphi\) が不連続であると仮定しよう,すると,ある無理数 \(\alpha\) について \(\varphi(\alpha)\neq\alpha\cdot\varphi(1)\) が成立する.そのような \(\alpha\) をとり,部分空間 \(E=\mathbb{Q}\oplus\alpha\mathbb{Q}\) を考えよう.以下では,\(\varphi\) の \(E\) への制限 \(\varphi\upharpoonright E\) のグラフが平面の稠密部分集合になることを証明する.

部分空間 \(E\) の要素 \(u\) は一般に \(u=x+y\cdot\alpha\) ただし \(x,y\in\mathbb{Q}\) の形に一意的に表される.このとき \(\varphi(u)=x\cdot\varphi(1)+y\cdot\varphi(\alpha)\) であるから, \(\varphi\upharpoonright E\) のグラフ \(G\) は \[ G = \left\{\; x\cdot\begin{bmatrix}1\\\varphi(1)\end{bmatrix} + y\cdot\begin{bmatrix}\alpha\\\varphi(\alpha)\end{bmatrix} \in \mathbb{R}^2 \;:\;x,y\in\mathbb{Q} \;\right\} \] という集合である.行列をつかって \[ A = \begin{bmatrix} 1 & \varphi(1) \\ \alpha & \varphi(\alpha) \end{bmatrix},\qquad \boldsymbol{v} = \begin{bmatrix} x\\y\end{bmatrix} \] と書けば,同じことを \[ G = \left\{\,A\boldsymbol{v}\,:\,\boldsymbol{v}\in\mathbb{Q}^2\,\right\} \] と書ける.この行列 \(A\) が引き起す \(\mathbb{R}^2\) 上の一次変換を \(T_A:\mathbb{R}^2\to\mathbb{R}^2\) と書けば,\(G=T_A(\mathbb{Q}^2)\) ということになる.いま仮定より \[ \det A = \varphi(\alpha)-\alpha\cdot\varphi(1)\neq 0 \] であるから,行列 \(A\) は正則で,一次変換 \(T_A\) はユークリッド平面としての \(\mathbb{R}^2\) の自己同相写像になっている.同相写像は稠密集合を稠密集合に写す.そして有理点の集合 \(\mathbb{Q}^2\) は \(\mathbb{R}^2\) の稠密部分集合である.したがって,\(T_A\) のもとでのその像 \(G\) もまた \(\mathbb{R}^2\) において稠密である.これが証明すべきことであった.

不連続な加法的函数は奇妙なものである。グラフの稠密性もその奇妙さのひとつの現われといえる。ただし、上にみたとおり、\(\mathbb{Q}\) 上2次元の小さな部分空間上の線型写像にして、すでにそのグラフは稠密である。実数の全体 \(\mathbb{R}\) の \(\mathbb{Q}\) 上2次元の部分空間を作り、それを (\(\mathbb{Q}\) 上の) 線型写像で \(\mathbb{R}\) へ単射で写すというのは、まったく初等的な線形代数の議論にすぎず、そこでは (たとえば選択公理などのような) 大がかりな装置は、なんら必要ではない。ただ、こうした小さな部分空間上の線形写像を \(\mathbb{R}\) 全体へ線形写像として拡大しようとしたときに、選択公理の力を借りなければならないのだけれども。

さてそうすると、はたして「不連続な加法的函数のグラフは稠密である」という結果のもつ《奇妙な感じ》を、選択公理に由来する奇妙さと言ってしまってよいだろうか?

俺にはどうもそうは思われない。《奇妙さ》は、有理数体上の線形代数という、数直線の構造から少しかけはなれた領域で議論した結果を、数直線やユークリッド空間に差し戻したことで、通常の図形的直観にとって親しからざる現象が導き出された点に存すると、上に述べた証明は示唆するように思うのだ。

ここで援用された方法論すなわち \(\mathbb{Q}\) の拡大体としての \(\mathbb{R}\) という見方を、極端にまで推し進めたのが、\(\mathbb{R}\) 全体に定義された加法的函数や、\(\mathbb{R}\) の \(\mathbb{Q}\) 上のハメル基底などだ。これらのオブジェクトの存在証明には、たしかに選択公理が必要であるし、それらはまた奇妙な手品のタネにもなる。だが、その手品が奇妙なのは、なにも選択公理のせいとは限らない。

この点について、読者の皆さんはどう思われるだろうか。

やるきのないあひるまた やるきのないあひるまたまた やるきのないあひる

いつもの医者にいつもの薬を貰いに行く。どうも血圧が高い。ドクターが「3回深呼吸しなさい」と言うので、サックスを吹くときのように大きく吸ってゆっくり吐いたら、よけい血圧が高くなった。ドクターが「ムチャな呼吸をして余計な力が入ったんじゃないの?」が言う。そうかもしれない。吹奏楽をやっているときもピアノを弾くときも、なにしろ俺はいつもこうだ。身をまっすぐに立てて力を抜く調身法をドクターが指導してくれた。もちろんそういう方法を、俺も知らないわけではなかったのだが、頭でわかっても、身についていない。日々の活動のなかで、ぜんぜん活かされていない。こりゃいけない。


2011年9月7日(水)はれ

大したことではないが数学ノートを3つ書いた。リンク先はいずれもPDFファイル。その1: 数直線上の不連続な加法的函数のグラフが平面上の稠密集合になることの証明。その2: グラフが2次元のルベーグ不可測集合になる(不連続)加法的函数およびグラフが可測集合になる不連続加法的函数の存在証明。その3: グラフが2次元のルベーグ不可測集合になり全単射で加法的であるような函数の存在証明。

あとは「加法的で不連続で全単射でグラフが2次元のルベーグ可測集合になるような函数の存在証明、またはそのような函数の不存在の証明」が欲しいが、これは今のところ俺には「ある」と「ない」のどっちが正解かわからない。

いろいろ考えたり \(\TeX\) でノートを清書したりしているうちに、数学談話会があったのをすっかり忘れてしまっていた。残念無念。


2011年9月6日(火)はれ

きょうが10月の研究集会のプログラムと参加者リストをRIMSに送る期限だ。最初は講演が集まらないんじゃないかと心配していたが、なかなかどうして、それなりに時間が埋まっている。ただ、講演する予定だと人づてに聞いていたのに本人から何も言ってこないケースが2人あって、仕方なしにその2人の名前を入れずに時間割の第一案を作って公開した。そうしたらそれを見て幾人かの人が動いてくれて、無事に全員と連絡が取れた。ただそうすると、RIMSにプログラムを送ったその翌日に早くも改訂版を作って講演者のみなさんの了承を得ないといけないことになる。時間割にせよ何にせよ、実際に形になったものを見せられないと、なかなかアイディアも出ないものだが、それならそれで、俺もあと数日早く動きだすべきだったとは思う。

この時間割案件に関連して、久々にヨリオカくんから電話があった。


2011年9月5日(月)くもり

Kunen本の翻訳についてさる高名な先生からメールを頂戴して驚いた。拙著『魅了する無限』も読んでくださるとか。なんというか、お恥ずかしい限り。だけど、本を出す (publish) ってのは意見を公にする (publicize) ということなんだから、こんなことで驚いたり恥ずかしがっていてはいけないのだろう。なにはともあれ、お礼のメールを送る。

ある雑誌の依頼原稿の校正刷が回ってきたので目を通す。編集者の目と手を通って来たことで、文面がとても読みやすくレイアウトも見やすくなっている。もちろん、執筆者だって執筆段階で何度も読み返してはいるのだけど、どうしても親の欲目ということがあるし、それよりなにより、さすが編集のプロの腕にはかなわない。なんというか、メイクと着付けを美容師さんに任せたら、妻がびっくりするほどの美女になって登場した、というような、マジックを見る感じ。なにしろ普段の妻は車ん中で3分間メイクだからね。ということはつまり、俺が文章を推敲するのも自家用車内3分間メイクのレベルってことなんだろう。

ただ、この原稿に書いたのは、本当に言いたいことのうんとこさ initial segment の導入部分だけだから、発行日が近付いたら、言い足りなかった部分について、ここでもっといろいろ言うと思う。

職場で見た夕空
帰宅時に見た夕空
この5分前だったらもっともっと鮮やかだっただろう
南の空には上弦の月がさやかに光っていた

夜も10時をまわってから、【娘】が「割り算の要領がわかってきた」と言って、計算問題プリントの問題をどんどん解き始めた。昨日までは一問解くごとに5分も10分も休んで、母親に小言を言われては口答えして喧嘩してを繰り返していたのに、急にどうしたことやら。それで俺がツイッターで

娘(小学4年生)がこんな刻限に「割り算が面白くなってきた」といって割って割って割りまくっている。おいおい明日ちゃんと起きれるんだろうね。(→Source)

と言ったら、あの結城浩さんから

算数ガール、キター!(→Source)

という反応が返ってきた。わが娘には分かるまいが、これは嬉しい。まあ、解いていたのがサボり倒して焦げついた夏休みの宿題プリントであったのが残念ではあるが。


2011年9月4日(日)くもり

「集合住宅の夢」とともにレパートリー的によく見る「偽札の夢」を、けさも見た。ATMで貯金をおろしたら、本物の紙幣がほとんどなくて、他国の紙幣なのかクーポン券なのか、とにかく妙な外国語の書かれた紙ばっかり。これはどうしたことか。近頃はこんなものもお金として通用するのか、あるいは本物と交換してもらえるのか、窓口で確かめないといけない。なんかそういう夢。今回の夢の舞台は見知らぬ銀行で、新しい機械の操作を親切に行員のお兄さんが教えてくれたのだが、それで引き出した紙幣がそんなありさまだったので、問いただそうとするが、時はすでに退勤時刻を過ぎており、その行員はつかまらない。この「偽札の夢」を見たときは、たいていは不安とともに目覚めることになる。

昼食にそうめんを茹でたら、つゆを作りすぎた。買ってきた「白だし」が前の銘柄と比較してずいぶん塩辛かったうえに、醤油を入れすぎたもので、とても体に悪そうなつゆになってしまい、予想外に水を足さなければならなかったからだ。


2011年9月3日(土)あめ

天気もよくないし気持ちも低調でいけない。気晴らしを兼ねて、昼食に牛丼を作った。うまかった。


2011年9月2日(金)あめ

新学期が来たと思ったら、台風も来た。午後、暴風警報が出たので大学でも早退勧告が学長名で出た。前回同様 勧告はメールで流され、気付かずに過しているうちに事務職員の皆さんはみんな退出してしまっていた。ううむ。もちろん台風が近付いているのを知っていながらメールをよく見ていなかった俺が悪いんだけど。

ピアノのレッスンも台風のためお休み。


2011年9月1日(木)くもり

こどもたちの新学期。二人とも、朝はいつもの電車に普段ならじゅうぶん間に合っているはずの時間に起きて来たのだけど、なにせ二学期の初日なので持っていく荷物が多く、しかも昨晩までの準備が手薄だったもので、結局間に合わず、妻の車で送っていくハメになった。はいはい。明日はなんとしても電車で行きますからね。

「0は自然数」問題では一度ひどい目に遭っているので、あまり関わりたくないのだけど、先日からまたこの話題がツイッターのTLで喧しいことになっている。俺の考えは昨年の5月29日の日記に書いたとおり。こんなのは要するに規約の問題なのに、数学の問題だから正解は一つのはずと思い込んだ人々が「0は自然数」派と「自然数は1から」派に分かれて鬩ぎあうのを見るのはいやだ。数学は、人と人の間に溝を掘るためにあるのではない。

もう「その数を自然数って呼ぶのをやめちまったほうがよくね?」とすら思うので、日本の文化的伝統に忠実に、もっと政治的に正しくて新しくてわかりにくくて長い名前に替えてしまうことを、ここに提案したい。たとえば「ナチュラルエッセンシャルスペシャルハーブエキストラダメージケアトリートメント数」という名前だ。このあとに「(植物由来成分配合)」と書いたら もっといい。この新しい呼称が普及すれば、数学者のみならずより広く妙齢の女性にお風呂で使ってもらえそうじゃないか。そういって遊んでいたら、あの3歳の天才美幼女(主催者側発表)のいがりすが「シャンプーとコンディショナーは、スーパーマイルドと決めています。」と発言。しまった…「マイルド」を入れるのを忘れてた。