て日々

2011年8月


2011年8月31日(水)くもり

レナード・M・ワプナー『バナッハ=タルスキの逆説 豆と太陽は同じ大きさ?』(佐藤かおり+佐藤宏樹訳, 青土社2009年)を読んだ。たいへんよい本だった。理科系の大学生が根気よく読めば、この驚くべき定理がきちんと理解できるはずだ。驚くべきといえば、一見して寄り道と見えるような細部にもあとでちゃんと出番があるところなど、著者のプレゼンテーションもまた驚くべき巧みさだ。バナッハ=タルスキの定理とその証明を理解するために必要なデータが過不足なく提示されており、厳密さを損うことなく、ほぼ初等的に証明が完了する。正直なところあまり期待していなかったのだが、いずれ数学の書物を著すことを志す者としては、この本から学ぶべきところ甚大と言わねばならん。

くわしくはそれこそ『バナッハ=タルスキの逆説』を読んでもらいたいところだけど、バナッハ=タルスキの定理というのはどういうものかと言うと、(1) 球体を有限個の部分集合に分割して、各部分集合を(回転と平行移動によって)移動させる操作によって、同じ半径の2個の球体へと写像することができる。つまり、ひとつのボールを分解して組み立て直すことで、同じ大きさのボールを二つ作れる。 (2) 三次元空間の有界で内点をもつ二つの集合は、(1)と同様の意味において互いに「同等分割合同」である。つまり、豆粒くらいの大きさの球体を有限個の部品にまで分解して組み立て直すことで、太陽くらいの大きさの図形を作ることだってできる。

直観的にはまったく受け入れがたいこの二つの定理は、それでもきちんと証明された事実である。ただし、ボールを実際にどのような部分集合に分割するか、その様子を図示することはできない。バナッハ=タルスキの定理は、具体例を構成できない純然たる存在定理であり、選択公理を用いないでは証明できない。俺としては、幾何学的・直観的な「図形」概念を「ユークリッド空間の点集合」という抽象的な概念に置きかえる現代数学の方法論に対するひとつの警鐘として、バナッハ=タルスキの定理をとらえるべきだろうと思う。そうした議論も含めて、くわしくはぜひこの『バナッハ=タルスキの逆説』を読んでもらうよう、再度お勧めしたい。

ただ、少々気がかりなところがないでもない。翻訳に関連した疑問点を確認するために原書を取り寄せているところだが、そのほかに、数学上のミスも、残念ながら皆無というわけではない。たとえば、デデキント流の無限集合の定義の二つのバージョン

(A) “集合 \(S\) から \(S\) の真部分集合への単射が存在するときに, \(S\) を無限集合と呼ぶ,” と
(B) “自然数の全体の集合 \(\mathbb{N}\) から集合 \(S\) への単射が存在するときに, \(S\) を無限集合と呼ぶ”

の同値性が選択公理に依存しているという見解(訳書150ページ)は正しくない。 ワプナーは, 真部分集合への単射の存在から, 入れ子になっていく真部分集合の列 \[ S\supset S_1\supset S_2\supset \cdots \] が得られるから, 選択公理によって \(s_1\in S-S_1\), \(s_2\in S_1-S_2\), 等々を選びなさい, と言っている。いわゆる「入れ子細工」(nest) を「巣ごもり的」と訳してしまっている(訳書147ページ)のは、まあ御愛嬌だ。だがここでの選択公理の使用は避けられる。 \(f:S\to S\) が単射でその値域 \(f[S]\) が \(S\) 全体でないとすると, \(s_0\in S-f[S]\) をみたす \(s_0\) がとれ, あとは \(g(0)=s_0\), \(g(n+1)=f(g(n))\), \((n=0,1,2,\ldots)\) によって再帰的に写像 \(g:\mathbb{N}\to S\) を定めれば, これは単射である。ここで「選ぶ」必要があるのは最初の一個つまり \(s_0\) だけだから、選択公理は必要ない。本当に選択公理が必要になるのは、この二つの定義の同値性ではなく、「自然数であらわされる要素の個数がないという意味で, 有限でない集合」という消極的な無限集合の定義とそれらとの同値性である。

しつこいようだが繰り返す。このような些細な思い違いはあるものの、この本には学ぶべきところが大いにある。バナッハ=タルスキの定理について書いた日本語の本の一つとして推薦してよいと思う。

日本語で読めて証明まで書いてある本として、他には、上江洲忠弘『集合論・入門-無限への誘い』(遊星社)の第7章、志賀浩二『無限からの光芒』(日本評論社)の第2部、砂田利一『新版 バナッハ-タルスキーのパラドックス』(岩波科学ライブラリーNo.165)などがある。証明はどれか一つで読めばよいが、それぞれの著者がこの定理をめぐっていかなる見解を述べているか、比較してみてほしい。

このとおり、第3〜5章の数学の部分は賞賛に値するものだし、周辺的な話題や身近なパズルから問題の核心をあぶり出す第2章や第6章以降も楽しく興味深い。全体に大変よい本なのだが、ただ一つ不満、というより不審だったのが、第1章の歴史認識の部分。

ゲオルク・カントールによって19世紀の終りごろ (Grundlagen 1883 / Beiträge 1895&1897) に連続体問題と整列可能性問題が提示され、1904年にエルンスト・ツェルメロが選択公理を提案して、整列可能性問題をそこへ帰着させる。1908年にはツェルメロが集合論の最初の公理系を提案する。選択公理を用いて、ステファン・バナッハとアルフレート・タルスキが球体の分割についてのバナッハ=タルスキの定理を証明し、1924年に Fundamenta Mathematicae 誌上で発表した。その後、連続体仮説と選択公理の無矛盾性(ZF集合論からの反証不可能性)をクルト・ゲーデルが1938年に、独立性(ZF集合論からの証明不可能性)をポール・コーエンが1963年に証明する。以上は、どうしたって間違えようのない事実である。それはよい。

だが、選択公理の独立性が確立されたことをもって、バナッハ=タルスキのパラドックスの物語の幕が引かれたとワプナーが言ったのはなぜか。

この歴史認識が提示されるのは第1章だが、本書を最後まで読まないと、この点にかんする疑いは晴れない。鍵は、ワプナーがどうやら数学の対象の実在を信じる実在論者ではないという点にある。第5章でバナッハ=タルスキの定理の証明を完了させたあと、第6章ではこの「パラドックス」の解明に移る。パラドックスというものを3とおりに分類できるとワプナーはいう。一つめは、正しい議論から導かれる「間違っているように見える」結論。二つめは、正しそうに見えるが実は間違っている議論から導かれる「正しそうなのに奇妙な」結論。三つめは、正しい議論によって相反する二つの結論が導かれる、いわゆる「二律背反」だ。バナッハ=タルスキの定理は、パラドックスとしては一つめの「間違っているように見えるが実は正しい」結論で、数学においてこの種の「病理的事例」に遭遇した場合、再検討され修正されるべきなのは、経験に培われたイメージのほうである。(念のために言うけど、これは俺が読みとった限りでの、ワプナーの考えである。)

正しく筋道を追って証明を理解し受けいれることで、パラドックスは解消するというわけだ。二つめのタイプのパラドックスも同様で、正しく筋道を追って証明に潜む誤りを見い出し修正すれば、パラドックスはたちまち解消される。正真正銘の二律背反の場合と違って、これらのパラドックスはいわば「見かけだおし」なのである。

二律背反は議論のよってたつ基盤を再検討する必要があることを意味するけれども、数学でこれに出くわすことは、幸か不幸か、ほとんどない。

第6章で長文にわたって引用されているリチャード・ファインマンの見解が、おそらくワプナーの数学に対する立場を代弁しているのだろう。ファインマンの見解をつづめて言えばこうだ。物理学者は実在との対応という側面から言葉の意味をつねに考えつつ、物理法則を言葉で定式化する。これに対して、言葉から内容を捨象して形式について判断するのが数学である。数学の知見は物理学者の問題解決におおいに役に立つが、両者が扱っているもの、というより言葉に対する両者の姿勢は、おのずからおおいに異なっている。要するに数学は言葉の意味を扱わない。

この立場に立つならば、選択公理の無矛盾性・独立性は、選択公理を公理として採用することが正当にして必要であることを意味するわけだ。すなわち、選択公理を採用するかしないかは、まさに選択の問題である。現代の数学は選択公理を採用する。そして、選択公理を採用すれば、バナッハ=タルスキの定理は、採用された公理から証明されたという意味において「真」である。数学としてはそれで十分で、「真偽」についてそれ以上深追いせずともよかろう、というのがワプナーの真意だと推察される。最後の第8章「過去から未来へ」で示された数学の未来へのきわめて楽観的な見通しも、この意味での数学の「自由さ」への信頼の上に立つものなのだろう。俺の見るところでは、『バナッハ-タルスキーのパラドックス』の砂田利一先生も同じ意見のようだ。志賀浩二先生は、おそらくそうではない。


2011年8月30日(火)はれ

「カレログ」とかいうサービス (カレシの携帯にこっそりインストールしておくと、位置情報と通話状況が逐一カノジョのメールアドレスに報告される、要するにスパイウェアのようなもの) についてツイッターと家でしばし話題になった。男女ともそのサービスの存在を知っていた場合、インストールしようとする女と拒否しようとする男の心理的力関係の問題がややこしいことになってしまうのは目に見えていて、俺などは想像するだけで気が滅入る。だが世の中には強靭な想像力の持ち主があるものだ。「彼女がインストールしようとしたら、すでに入っていて、浮気がバレたりして」「彼女にインストールされる前に自分のメアドでインストールしちまえばいんじゃね?」「それ、浮気と区別がつかないんじゃない?」などなど。こういう頭の回転は見習いたい。

この件についてツイッターの俺のタイムラインで一番よく聞かれた意見は「子供の携帯に親がインストールするものと位置づけたとたんに、熱狂的に受けいれられたりして…」というものだった。そして、「子供のためと言えば受け入れられ、逆に夫が妻の携帯にインストールするべきものという位置づけにしたら大バッシング必至であることを合せて考えると、女たちの権利に比べて、男たち、さらに子供たちの権利というものが、むしろ低く見られるようになっているということではないか」という指摘もあった。とはいえこれは俺の意見ではむろんない。俺だっていまの世の中の男の立場というものについていろいろと思うところはもちろんあるが、スパイウェアを仕込む立場の人間が、仕込まれる立場の人間と比較してより多く権利を認められているとは考えない。「カレログ」の話を含め、ひとまず子供についても男女のことについても、世間がウルサすぎる、皆でお互いに不安を煽りすぎると思うばかりだ。いつも言っていることだが、早い話が、恋愛なんかしなくてもいいのである。


2011年8月29日(月)はれ

Matthew ForemanAkihiro Kanamoriが編纂した Handbook of Set Theory (Springer) は3分冊で2,000ページを超える巨大な書物だ。これをハンドブックとはちょっと言いにくいが、ともかく、豪華な執筆陣が現代の集合論研究の最先端を解説してくれているので、これから集合論を学ぶ人はこの書物の存在を前提としていろいろの勉強をすることになるだろう。というわけで俺も一度は目を通しておこうと思った。序文 (Preface)Foremanさんが書いているのだけど、現代集合論の金字塔というべき大著の序文だけに、普通の学術論文とはちょいと語り口が違うようで、英語の苦手な俺の見たこともないような単語がちょくちょく出てくる。第1章の Kanamori さんの文章もそうだ。普段、論文などの英語を読むときは、わからない単語を適当にスッ飛ばして読んで文脈から大意をつかんでよしとするのだけど、このさいだから読んでいて“?”マークの点灯した単語を昔ながらの単語カードに書き出しながら読むことにした。そしたらまあ、あるわあるわ。conundrum とか recapitulate とか purview とか bolster とか、初めて目にする単語だらけ。俺はこのテの無知を恥かしいとはあまり思わないので、辞書を引きながら「へえーなるほどねえー」を連発したが、さすがに syllogistic (三段論法の) を知らなかったのは、集合論を研究する者として恥としなければならないだろうなあ。この本を、とにかく毎日数ページずつでも読んでいくことにしよう。

あと、後期には大学院向けに「選択公理とバナッハ=タルスキの定理」というテーマで講義をすることになっているので、その参考にとワプナーの『バナッハ=タルスキの逆説 豆と太陽は同じ大きさ?』 (佐藤かおり+佐藤宏樹訳, 青土社2009年)を読みはじめる。訳のテニヲハがところどころ変なほかに、気になる部分がいろいろあるが、これについては、全体を読んでから改めて書くことにする。

「てなさく読書欄」を閉鎖してから少なくなったけれど、今年も「読書感想文」というキーワードで検索して「てなさく世界」にたどりつく人が散見されるシーズンになってきた。ええっと、感想文の参考になるようなデータはここにはありませんからね!!


2011年8月28日(日)はれ

町内のアニメ上映会で「借りぐらしのアリエッティ」をやるので、【娘】を集会所へ連れていった。最初の三十分だけ見て俺だけ先に帰ったのだけど、ああいう物語を見ると、普通に外を歩いているときでも周りを見る目が変わりそうな気はした。俺はこのごろあまり映画を観ないが、学生のころに「ベルリン天使の詩」を見たときも、映画館の外の曇り空のどこかに天使が隠れているような気がしたものだった。

玄関先のシマトネリコの木の枝がちょっと邪魔になってきたので、ダイキで棕櫚の縄を買ってきて矯正した。夕食にラーメンを作った。

これまでもツイッター名をコロコロ変えてきたのだけど、今後は原則として毎週日曜日に改名することにする。今度の名前は、荒井由実の古い歌からとった「ゆく夏に名残る暑さはゼルプスト殿下」だ。これまでにつけた名前を全部は思いだせないけど、Google検索の結果などから

ひょっとしてあのゼルプスト殿下ですか?
そうですそのゼルプスト殿下です。
どこのご家庭にもあるゼルプスト殿下
あのゼルプスト殿下とかいうやつ
ゼルプスト殿下と呼び給へ
夜をこめて鶏のそら音はゼルプスト殿下
国は破れて山河はゼルプスト殿下
飛んで火に入る夏のゼルプスト殿下
糸瓜と朝顔と茄子とトマトとゼルプスト殿下
歯の治療中であるところのゼルプスト殿下
天網恢恢疎にしてゼルプスト殿下
人間万事塞翁がゼルプスト殿下
一寸の虫にも五分のゼルプスト殿下
吾泣き濡れて蟹とゼルプスト殿下
熟田津に舟乗りせむとゼルプスト殿下
秋来ぬと目にはさやかにゼルプスト殿下
権兵衛が種まきゃ烏がゼルプスト殿下

というのが確認された。


2011年8月27日(土)はれ

郊外電車が一日乗り放題の伊予鉄道電化百周年記念乗車券というやつを使って、郡中線に乗って郡中港駅まで行ってきた。通学に郊外電車を利用している【息子】が、自分が普段乗っていない路線に興味津々だったので、何事も経験だからと連れていったわけだ。郡中港駅のすぐ向かいの 「町家」 で昼食を取り、旧商店街を通って五色浜まで歩き、海辺でしばし遊んだ。古い町並みのタイムスリップ具合が好ましい。海水浴場にはまだ何組か遊泳する人たちがいた。子供らが貝殻や石を集め宝物のように大事にバッグにしまっている。ちょうど何かイベントがあるらしく、特設ステージみたいなところで、バンドがリハーサルをしている。全体に地味にほのぼのと幸福感に満たされた午後だった。ふたたび郡中線で松山市駅に戻り、こんどは高浜線に乗り、高浜駅から夕暮れの海辺を歩いて松山観光港へ。その後、子供たちのリクエストに答えて キスケの湯 へ行くのにも電車を利用して、一日乗車券をフル活用。

キスケの湯はけっこう繁盛していた。湯の温度もちょうどよくて、熱い湯をいやがる【息子】も楽しんでいたようだ。俺たちが風呂から上がって、そろそろ「湯けむり亭」で晩飯でも食うか、と思っているころ、大学のワンゲル部員ご一行のような男女のグループが大きな荷物を背負ってやってきた。まず女子4名がチケットを買ってフロントを通過し、すぐ後に男子4名が入場したのだけど、先に行く女子たちに男子が一列になってついていき、もうちょっとで女湯の暖簾をくぐりそうになっていたのが面白かった。信頼できるメンバーを先頭としんがりに配置して前後を固めて一列に並んで歩くのがトレッキングの鉄則なのだが、風呂屋ではどうしても男女2グループにわかれないといけない。

歩数計カウント18,810歩。


2011年8月26日(金)くもり

夕方はピアノのレッスン。今週はまあまあ練習に時間がとれたが、本番まであと2月ちょっと、この先も安心はできない。


2011年8月25日(木)くもり

数学ネタ。昨日帰宅してシャワーを浴びているときに思いついた数学の問題。単位区間上で定義され、保測かつ「ほとんど確実に順序保存」であるような写像 \(f:[0,1]\to[0,1]\) は測度1の集合上で恒等写像に一致するだろうか。ここで「ほとんど確実に順序保存」というのは、二次元測度の意味で \[ \mu_2\Big(\big\{\,\langle x,y\rangle\,:\,\big(x<y\land f(x)<f(y)\big)\lor\big(x>y\land f(x)>f(y)\big)\,\big\}\Big)=1 \tag{*1} \] という意味だとする。

結論を先に言えば、答えはイエスである。というのも、上記(*1)式をみたす可測関数は測度1のある可測集合上に制限して順序保存写像にできるからだ。単位区間の測度1の部分集合上で順序保存、かつ保測となれば、恒等写像の他にはありえない。

証明は次のとおり。 \[ D_x = \big\{\,y\,:\,x<y\land f(x)<f(y)\,\big\}\cup \big\{\,y\,:\,x>y\land f(x)>f(y)\,\big\} \] と書くことにすると、(*1)とフビニの定理により、測度ゼロの集合を除くほとんどすべての \(x\) について \(\mu_1(D_x)=1\) となる。そこで、そのような \(x\) のうちから区間 \([0,1]\) 上で稠密になるように可算無限個の \(x_i\) をとって、\(A=\bigcap_{i\in\omega}D_{x_i}\) としよう。このとき \(\mu_1(A)=1\) である。\(a,b\in A\) かつ \(a<b\) とすると、稠密性からある \(i\in\omega\) で \(a<x_i<b\) となる。\(a\in D_{x_i}\) と \(a<x_i\) から \(f(a)<f(x_i)\)、また \(b\in D_{x_i}\) と \(x_i<b\) から \(f(x_i)<f(b)\) であって \(f(a)<f(b)\) である。したがって、関数 \(f\) は集合 \(A\) 上で順序保存である。そのうえ \(f\) が保測であれば、任意の \(t\in[0,1]\) について \[ f(t)=\mu_1\big((0,f(t)]\big) = \mu_1\Big(f^{-1}\big(\{\,y\in[0,1]\,:\,y\leq f(t)\,\}\big)\cap A\Big) = \mu_1\Big(\big\{\,x\in A\,:\,f(x)\leq f(t)\,\big\}\Big) \]となるが、\(A\) 上で順序保存であることから、\(t\in A\) のとき \(\big\{\,x\in A\,:\,f(x)\leq f(t)\,\big\}=(0,t]\cap A\) したがって \(t=f(t)\) となる。

この証明を見ればわかるように《ほとんどすべての \(x\) について \(\mu_1(D_x)=1\,\)》という仮定は《ある稠密集合上の \(x\) について \(\mu_1(D_x)=1\,\)》と大幅に弱めることができる。

この場合、実数の順序の可分性が効いている。可測な二項関係 \(R,S\subset[0,1]\times[0,1]\) が「ほとんど確実に同値」すなわち \(\mu_2(R\cap S)+\mu_2(R^c\cap S^c)=1\) という仮定だけからでは、測度1の可測集合 \(A\subset[0,1]\) 上で両者が一致する、すなわち \(R\cap (A\times A)=S\cap (A\times A)\) となることは保証されない。反例としては、\(R\) を空な関係、\(S\) を 《\(\,x-y\) が有理数》という関係にすればよい。実数の可測集合 \(A\) の測度が正であれば、\(A\) の要素の差の全体は区間を含むから、\(S\cap (A\times A)=\emptyset\) をみたす可測な \(A\) は測度零の集合しかありえないのである。

もとの順序保存写像の場合に話が特別にうまくいったのは、もとの二項関係が《潜在的に開集合》 (potentially open) であったことが効いているように思われる。

(翌日追記) 効き目があったのは \(\mu_1(D_x)=1\) をみたす \(x\) が稠密集合をなしていたことだ。そこを外すと、次のような例が考えられる。いたるところ非稠密な閉集合 \(E\subset [0,1]\) が与えられたとしよう。必要なら \(0\) と \(1\) を要素として追加して \(0,1\in E\) とする。補集合 \([0,1]\setminus E\) は互いに交わらない可算個の開区間の和集合になっている: \[ [0,1]\setminus E = \bigcup_{i\in\omega}\big(a_i,b_i\big). \] そこで、関数 \(f:[0,1]\to[0,1]\) を、各開区間 \((a_i,b_i)\) で天地をひっくり返すように定める: \[ f(x)=\begin{cases} a_i+b_i-x,~~&\text{if }a_i<x<b_i,\\ x,~~&\text{if }x\in E. \end{cases} \] このとき \(f\) は保測な全単射で、\(x\in E\) のとき \(D_x=[0,1]\) であり、なおかつ、なんらかの区間で稠密となるような集合の上では決して順序保存とならない。このような \(E\) は、測度をいくらでも1に近く (ぴったり1にはできないが) とれる。


2011年8月24日(水)くもり

子供たちが町内のラジオ体操に行っているあいだ、俺は少しピアノの練習をして、朝食の段取りをして待つ。

きょうも【息子】のリカ先生訪問。鉄砲町で電車を降りて、工学部側の門から大学に入った。弓道場の横を通ったら、ちょうど弓道部のお兄ちゃんが射場に立ち弓に矢をつがえたところだったので、【息子】に「見ててごらん。あ、声を出しちゃだめだよ」と言って、射るところを見せた。あたりには蝉時雨。ゆっくりと動き無言で弓を引く射手。ビンと鳴る弦、シュッと風を斬る矢、ほんの一瞬遅れて、バシンと音を立てる的。こんなに静謐なスポーツは他にない。【息子】と「かっこいいねえ」と話す。

例によって、大学で家族4人で昼食。今回は学食ではなく えみか (リンク先は愛媛大学生協のサイト) でお弁当を買って、共通教育講義棟前のベンチでピクニックだ。こういうのも楽しい。俺は麻婆ハンバーグ丼というのを食った。思いのほか辛くて、わりかし好みの味。

俺達の足元ではアリさんたちがランチタイム。クマゼミの死骸や、【娘】がうっかりこぼしたごはん粒がアリさんたちのご馳走というわけだ。なんという種類のアリなのか、ふだん見掛けるアリと比較して、小さいが動きが速い。【息子】がひっくり返してしまった唐揚げ弁当の食材を求めて、無数のアリが次から次に巣穴から出てきたので、アリ嫌いの妻はちょっとパニックになっていた。

昨日夜からきょうの夕方にかけて、metaphusika こと三好さんと、こんなやりとりがあった。いや、やりとりというより、俺の無知な発言を三好さんがたしなめているという趣で、なんとも恥かしい。


2011年8月23日(火)くもり

きょうは【娘】と【息子】の二人ともがラジオ体操に行った。俺はことさらにのんびり構えて、自宅で昼食に鶏肉のカレーを作った。それから電車で出かけ、ジュンク堂で本を2冊買い、千舟町のCafé OneTime (リンク先は グルメこまち) でコーヒーを飲みながら、大学の数学教程のこととか、本の構想のこととか、いろいろと考えたことをノートに書きとめていった。夕方になってから大学に行き、メールをチェックする。タマちゃんが業務連絡のついでに「お前さんオーケストラでクラリネット吹いてたよね? クラシックだっけジャズだっけ?」なんて言うもので「吹奏楽でフルートとサックスだよ。でももう辞めていまはピアノばっかり」と返事した。


2011年8月22日(月)くもり

今週は子供たちが朝6時半から町内のラジオ体操にいく。【息子】は起きられなかったので、【娘】がママに連れられて行ってきた。【息子】のリカ先生訪問第3回。


2011年8月21日(日)あめくもり

生パスタがもう一袋あったので、ありあわせの材料でアーリオ・エ・オーリオを作って昼食。夕方の船で松山へ戻る。帰りも、昨日同乗した野球少年さま御一行と同乗。昨日のママさんたちも帰りは行きと比較してはるかに静かだったが、子供たちの元気さはあいかわらず。うちの子供らも負けずにはしゃいでいたけどな。

帰宅後、妻の実家から持ち帰った焼きそばの麺を使って簡単な夕食をつくる。このごろはめっきりクッキングパパである。


2011年8月20日(土)くもり

朝のフェリーで妻の実家へ今月三度目の訪問。もともと妻子は明日には帰ってくる予定だし、どうしても行かなければならない用があるわけではないが、一人で寝起きし誰とも口をきかずに過すのもいいかげん飽きたからね。船ではどこかのスポーツ少年団かリトルリーグのチームの御一行と同乗。きっと、親子ともども楽しみにしていた遠足なのだろう。ママさんたちのハイテンションなギャルズトークにたちまち包囲される。楽しそうだが首をつっこむにもいかず、ゲーデル全集第2巻のソロヴェイによる解説文を読みながら過す。

柳井の港で妻子と合流。名高い白壁の町並みに立ち寄り、【娘】や【息子】が学校の先生に出す絵葉書や、お友達にプレゼントするお土産を探す。郷愁を誘う古い町並みは魅力的だが、ここでのんびりしてしまったおかげで、その次の予定が少々慌しくなった。昨晩妻とメールで相談したとおり、フェットチーネの生麺を持って行き、茄子とベーコンを入れたトマトソースを作って昼食にする。義母は喜んでくれたが、ソースを煮込む時間を惜しんだためなんとも未熟な味になってしまった。くやしいから今度また作りなおそう。

なぜ時間を惜しんだかというと、午後1時から町の社会福祉協議会のイベントホール「ふれあいまちづくりセンター あいあむ」で妻の友人であるホルニストのHANAちゃんが演奏するのを聴きに行きたいからだった。なにしろ、アルプホルンの音を生で聴くのは初めてだ。木をくり抜いて作られる、ロータリーもピストンもない素朴な楽器だが、発音の原理はいわゆる狩の角笛つまりナチュラルホルンと同じで、アンブシュアの操作でメロディーも吹ける。HANAちゃんが演奏した «à bout de souffle» (訳:息切れ) という曲などは、羊飼いが羊を追いかけて走る様子をあらわす、かなりアップテンポのポルカで、どうやって演奏しているのか一同びっくり。

ところで、俺は子供のころ、あのアルプホルンというのはマンモスの牙を削って作ったものだと信じていた。巨大マンモスの牙が必要なため、アルプスの高山の氷河にまで分け入らないと作れない、ものすごく貴重で高価な楽器に違いないと思っていた。さすがに高校生くらいになって薄々「あ、そんなわけないかも」と思いはじめたが、なにしろ日本で普通に生活している限り、アルプホルンのことが意識に上ることなどめったにあるわけではないから、誤解が修正されるのにも時間がかかり、真相が決定的にわかったのは、数年前にHANAちゃんがブログで自分の楽器を写真入りで紹介してくれたおかげだ。そういう俺のような者たちのために、今回のステージでも、アルプホルンの由来を紙芝居で説明するコーナーがあった。

午後3時ごろ少し雨が降ったが、夕方には上がり、夜は町の盆踊り大会。スーパーで買ったお寿司と、妻の揚げたてんぷら。


2011年8月19日(金)くもり

昨晩飲みすぎたようで、胃が気持ち悪くて朝飯が喉をとおらない。きょう一日はアルコールを抜く。普通に仕事し、夕方はピアノのレッスン。ある重音のパッセージで、指を伸ばし気味に掌を低く平らにして弾いてはどうか、と指示をもらった。ここ、どうしても薬指が硬くなってしまうのだ。手の構えを修正して練習しなおさないといけない。歩数計カウント9,405歩。


2011年8月18日(木)くもり

一日じゅう家にこもって、ひたすらグータラする。少しだけ、定義可能性と連続体問題について考える。

考えたのは数学的対象の存在論であってそれ自体は数学ではない。自然数全体の集合 \(\omega\) の部分集合のうちに、いかなる意味でも有限の言葉の特徴づけを拒む絶対的な意味で定義不可能なものがあってしかるべきか、という問題。リシャールのパラドックスとか真偽の定義不可能性にかんするタルスキの定理などを考えると、定義可能性というものは一枚岩のものでなく階層をなすと考えるべきだ。自然数の集合や、自然数に自然数を対応させる関数などは、その定義可能性あるいは実効的計算可能性(あるいはむしろ計算不可能性なのだが)にかんして階層を形成する。再帰理論 (Recursion Theory) (あるいは最近の言いかたでは計算可能性理論 (Computability Theory)) では、その階層を低いところから探査していき、徐々に究明していこうとする。

いっぽう、定義というのは有限の言語表現による指定であり、そのようなものは高々可算とおりしかありえないのだから、集合論的な観点からいえば、自然数の集合 (冪集合 \(\mathcal{P}(\omega)\) の要素) のうちに、定義不可能なものがあっても全く構わない。通常の意味での定義可能性を免れた “ジェネリックな” 要素を \(\mathcal{P}(\omega)\) に多数つけ加えてやることで集合論の宇宙を拡大し、連続体の濃度を変えてやろう、というアイディアが、コーエンによる連続体仮説の独立性証明の鍵になっている。いま連続体仮説が成立している \((2^{\aleph_0}=\aleph_1)\) として、\(\omega_2\) 未満の順序数ひとつひとつにコインを持たせ、それを \(\omega\) 回 (可算無限回) 投げてもらうことで \(\omega\) の部分集合を \(\omega_2\) 個作る。もちろん、現在の「この宇宙」では仮定により連続体仮説が成立しているので \(\aleph_2\) 個の実数を決めるといっても実際には重複を除けば \(\aleph_1\) 個以下の実数しかないことになるのだけど、この試行に対応した確率空間 (\(2^{\omega\times\omega_2}\) に直積測度を与えたもの) の事象の全体を真偽値のブール代数とする「新しい集合の宇宙」を作ると、そこでは確率1で等式 \(2^{\aleph_0}=\aleph_2\) が成立していて、連続体仮説の否定が “強制されて” いる。強制法のアイディアは、うんと大雑把に言うとそういうことだ。このようにして多数のランダムな実数を添加されて作られた世界には、たしかに \(\mathcal{P}(\omega)\) の定義不可能な要素がたくさん存在することになる。

集合論の真の宇宙は人間にとって超越であるから、\(\omega\) の部分集合のなかには、いかなる定義をも絶した言語道断なものがあってもおかしくない、という考えが一方にあり、また、真に絶対的に定義不可能な集合なんて、そんなもんあってどうすんだよ、という考えもある。

ここで念のために付言すれば、これはいわゆる「実在主義 vs 構成主義」の対立とは少し違う。というのも、ここで問題にしている、集合論の宇宙の真の相貌とか \(\mathcal{P}(\omega)\) の真のサイズとかいうことは、構成主義の立場にたてば、まったくお話にならないタワゴトのはずだからだ。いまここでは、実在主義の立場をいったん認めて、その実在する数学的対象の世界がどのようであるべきかを議論している。

そこで、こんどは、絶対的な超越など考える必要はないと割り切ったとしよう。定義可能性の階層を積み上げていくことで、やがては \(\mathcal{P}(\omega)\) のすべての要素を回収することができるんじゃないだろうかという考えをストレートに追求していけば、ゲーデルの構成可能的集合の世界 \(\mathbf{L}\) の着想へと自然に導かれるように思われる。そのように考えると、こちらの立場 (絶対的な定義不可能実数などない) に立てば、連続体仮説というのは実に自然な仮説となる。というのも、各実数が定義される層においては、いつでも高々可算個の実数のみが定義されるだけだからだ。\(\mathcal{P}(\omega)=\bigcup_{\lambda\in\Lambda}A_\lambda\) で, 集合族 \(\{\,A_\lambda\,:\,\lambda\in\Lambda\,\}\) が鎖 (包含関係のもとで全順序) であり、しかも各 \(A_\lambda\) が可算集合であるならば、鎖 \(\{\,A_\lambda\,:\,\lambda\in\Lambda\,\}\) から共終な整列部分集合を取り出してみればわかるとおり、そりゃ \(|\mathcal{P}(\omega)|=\aleph_1\) である。

ただし、この立場に立ったからといって、ゲーデルの公理 \(\mathbf{V}=\mathbf{L}\) を真とせねばらなんわけでもない。あのゼロ・シャープを考えてみよう。 \(0^\sharp\) そのものは \(\omega\) の定義可能な部分集合なのだが、これがあれば \(\mathbf{V}\neq\mathbf{L}\) となってしまう。 \(\mathbf{V}=\mathbf{L}\) は整合的な仮説ではあるが、定義可能な実数を数え尽すためにしても、\(\mathbf{L}\) はどうも狭過ぎるようなのだ。そこで、ゼロ・シャープを追加して階層を拡大してみたところで、\(\mathbf{L}[0^\sharp]\) に対して \(0^{\sharp\sharp}\) があり、 \(\mathbf{L}[0^{\sharp\sharp}]\) に対して \(0^{\sharp\sharp\sharp}\) があり…と、きりがない。このシャープの階層はDodd-Jensenコアモデルの構成部品であるマウス (mouse) の階層に拡大される。その全体を貼りあわせて得られるDodd-Jensenコアモデル \(\mathbf{K}\) はすべてのシャープを含む \(\mathbf{L}\) の類似物だけれども、さらに一歩を進めて、\(\mathbf{L}\) に対する \(0^\sharp\) のような役割を担うものを \(\mathbf{K}\) に対して考えることで、可測基数の存在するモデル \(\mathbf{L}[\mu]\) が得られる。以上、これまた大雑把な紹介だが、このように、定義可能性の階梯をどこまでも追いかけていくことで可測基数の概念くらいまではとらえられるわけで、ゲーデル自身が認めているとおり、ゲーデルの公理 \(\mathbf{V}=\mathbf{L}\) は、本当であるにはあまりにも狭量すぎる。ともあれ、\(\mathbf{L}\) にせよ \(\mathbf{L}[0^\sharp]\) にせよ \(\mathbf{K}\) にせよ \(\mathbf{L}[\mu]\) にせよ、この定義可能性の階梯に付随してあらわれる集合論の内部モデルにおいては、実数全体の \(\mathit{\Delta}^1_3\)-整列順序づけが存在し、かつ、連続体仮説が成立している。

まだ準備不足でじゅうぶんに語れないのが歯痒いが、実数の定義可能性の階層の問題、連続体の定義可能な整列順序づけの存在の問題、それと連続体濃度の問題、この三つはもともと一つのことなのではないかと、俺には思われる。連続体の定義可能な整列順序づけが存在しないとすれば、連続体濃度 \(2^{\aleph_0}\) をアレフ系列に位置付けるためには選択公理の力を借りるしかない。ところが、定義可能な整列順序づけをもたず、ただ選択公理によってようやく整列可能性が保証されるような集合についてまで、その濃度のアレフ系列における位置付けがアプリオリに定まっていると想定する、その根拠が、俺にはどうしてもわからない。連続体濃度の問題よりも、連続体の定義可能な整列順序づけの存在という問題のほうが、より根本的なのではないだろうか。

ここで不思議なことに、ゲーデルにおいては、連続体仮説が正しくないという信念と、絶対的なランダム性などはありえないという信念とが同居していたようだ。ここまで考えてきたように、絶対的なランダム性の拒否は連続体仮説の容認にこそ結びつきそうに思われるので、ゲーデルがいかにしてこの二つのことを整合的に確信していたのか、そのあたりは切実に興味深い。


2011年8月17日(水)はれ

きょうの仕事は、12時20分から100分間の講義。普段と違う客層(という表現は変だけれども)で、そういうときは、先に昼食を済ませといたほうがよいのだろうけれども、どうも緊張して食欲が出ない。一昨年の日記を見たら、やっぱり同じようなことが書いてある。

Mac OS X が 10.7.1 にマイナーアップデートされた。リリースノートに「Wi-Fiの信頼性を向上」なんて書いてあるが、うちの無線LANにつながらない問題はこれで解消するのだろうか。しかし、今週末もあまり時間がとれない見込みでもあり、平日に重い荷物提げて帰ってダメだったらショックがでかいから、どうもしばらくは試す気にもならない。

辛くてうまい豆板醤もやし炒め

普段は子供が食べられないようなものをわざわざ自分のためだけに作る気にはならないのだけど、妻子のいないときくらい、夕食に辛いものを作ってみようと思って豆板醤もやし炒めを作ったら、辛かったがうまかった。そもそも自分だけのために料理をするなんて面倒なだけなのだが、そんな日こそ普段食えないものを作るほうが動機付けになるってもんだ。

歩数計カウント10,673歩。


2011年8月16日(火)はれ

一昨年の8月にも請け負った仕事。そのときは新居浜と大学の二箇所でやったけど、今年は大学で一回で済ませる。それが明日で、きょうは明日に備えて印刷すべき書類がある。ところが、分担者の一人D教授のデータがなかなか届かない。D教授は出張先のチェコから昨日帰国したばかりなので、きっと暑さと時差ボケで仕事にならないのだろう。今朝干してきた洗濯物のことは気になるが、印刷が済むまでは帰れない。

夕方5時半を回っても届かないので、いったん夕食のために外出。大学周辺の食堂は日が日だけに休んでいるところが多いので、松山市駅前まで行き、どこでメシを食うか考えつつ、ジュンク堂で文庫本を二冊買った。結局、久々に炎やラーメンを食ってタリーズでコーヒーを飲んで8時過ぎに大学に戻った。それでやっとデータが届いており、ほどなくD教授本人も登場した。それで家に帰ったのは夜11時前。その後、ウィスキーを飲みつつ iPad でツイッターをして、酔ったイキオイでいつもの「恋愛不要論」をぶってしまった。

買った文庫本は阿満利麿『行動する仏教』(ちくま学芸文庫)と下平和夫『日本人の数学 和算』(講談社学術文庫)だ。タリーズでアイスコーヒーを飲みながら、『行動する仏教』のパラっと開いたところから読み始めて、その議論の粗さに「しまった1,000円損したか」と思ったが、最初に戻って「はじめに」を読んで気をとりなおした。まあ、全体読んでから判断を下しましょう。


2011年8月15日(月)はれ

昼食にチャーシュー丼を作り、午後の船でひとり松山に戻る。船はそこそこの混雑。いつもこうだったら減便にもならないだろうに。船では iPad の i文庫HD青空文庫版の幸田露伴「五重塔」を読んだ。江戸か明治のある時のある寺で、五重塔の建造という事業をめぐって対立する対照的な気質の二人の職人とその周囲の人々を描く人間ドラマだが、俺は以前この作品がNHKの朗読の時間に読み上げられるのをたまたま部分的に聴いたことがあり、それがたまたま嵐のシーンだったもので、この作品を風神雷神とその眷属が五重塔に襲いかかる怪異譚だとばかり思っていた。思いこみとは恐しいものである。ともかく、この小説の文体はなんだか講談みたいな趣きがあって音読向きだと思う。


2011年8月14日(日)はれ

【娘】の夏休みの自由研究のため、昨年の正月に行った大星山の公園へ風力発電機を見に行く。【息子】は昆虫採集。セミやバッタの標本を作るんだという。俺も子供のころにそういうことは散々やってきた。だが、心を通わせようもなく喜ばせようもない昆虫の人生を人間の興味本位で捻じ曲げることに、今ではまったく気が進まない。だから、蚊やムカデを駆除するのは已むを得ないと認めても、不快なだけでさしたる害もないというからたとえばゴキブリなどを俺は殺さないのだ。それでも子供らにつきあって、トンボやチョウやセミを追いかけていると、童心に帰って虫たちがお宝に見えてくるから不思議だ。キアゲハやシオカラトンボやバッタを捕虫網で捕えて、しばらく子供に見せてから、もとどおり放してやる。そういうことを繰り返していたのだけれども、ヒョウモンチョウを捕えようと網を振ったときに、誤ってチョウを網の枠で打ち殺してしまった。むろん捕えても後で放してやるつもりだったくらいで、殺すつもりはさらさらなかったのだが、悪いことをした。それで俺はそのあとは網を使うのをやめた。

まだ若い(?)トノサマバッタの子
このバッタも写真をとっただけで、捕まえていない

夕食にはホタテとエビの入った塩バター味のラーメンを作った。


2011年8月13日(土)はれ

一昨日、ジュンク堂で本田欣哉・永田雅宜『復刊 アーベル群・代数群』(共立出版)を買った。先日から数年ぶりに取り組んでいるあの問題に関連して、アーベル群の理論の概要を知りたいと思ったからだ。本を読むときは、著者の波長に合わせた調子で頭が回転しだすまでにかなり時間をとられる。専門外の分野ならなおさらだ。それで、今回も最初のほうに出てきた「本部分群」とか「粋部分群」とかの定義が飲み込めなくて困ったが、夜中になってiPad の Note Taker HD にメモをとりながら有理数の群などの具体例を考えているうちに、急にいろいろアイディアが繋りだして、やめられなくなって翌朝3時くらいまで目が冴えて困った。


2011年8月12日(金)はれ

朝のフェリーで再び妻の実家へ。現在は義父母の二人ぐらしだが、義父はなにしろ多忙で義母はなにしろ体が不自由だ。それで普段はホームヘルパーさんの厄介になってもいるが、このごろは機会があるごとに妻が帰って介護を手伝っている。俺も時間が許せば行って食事の用意を手伝ったりもするのだ。夜には博多でコックさんをしている義弟のヨースケくんも登場。お盆の書入れ時の前に一晩だけ休みを取って、父親に何か折り入って話をしにきたようだ。頭を丸刈りにしていたが、生え際のちょっと上のあたりに、子供の頃の怪我の跡が4cmばかり横一文字に走っているのが目を引く。そのヨースケくんの姿を見て【娘】が「なんか貯金箱みたい」と言ったのに一同大ウケで、ヨースケくんも「その一言のためだけでも、帰ってきた甲斐があったわぁ」とのこと。


2011年8月11日(木)はれ

12日から16日までお盆の年休を取れ、というお達しだったのだが、16日は資料の印刷のために出勤せにゃならん。それで、予定を一日早めて、きょうから15日までを年休とすることにした。昼飯を食ってから皆で電車で出かけ、 繁華街を散策しながら三越へ。【娘】が書いたイヌの絵が展示されているからだ。岩合光昭の「いぬ」の写真展に【娘】が通うお絵描き教室が協賛したのだけど、絵が掲示されているフロアは写真展の開催されている7階ではなく、5階の子供服売り場だった。これは商売が上手いというより、むしろあざといな。こちとら、もとより三越で服を買う柄ではないから、絵が展示されているのを確認して、さっさと退散。帰り道では、子供らにソフトクリームを買ってやり円光寺で食べさせ、皆でジュンク堂書店へ行った。


2011年8月10日(水)はれ

今月4日に引き続き、リカ先生の指導をいただきに【息子】を大学へ連れてくる。なぜか今回も一家総出で来て、一家で学食で昼食をとって、妻子は愛大ミュージアムの昆虫展へ。俺は普通に仕事に戻った。


2011年8月9日(火)はれ

週末から今朝までに、妻の実家で作った料理一覧:

すだちおろしうどん、
塩だれ焼きそば、
冷し中華、
れんこんのきんぴら、
しめじの佃煮、
ゴーヤと豚肉の味噌炒め、
かみなりこんにゃく、
きゅうりとなすの浅漬け、
オクラと海苔の和えもの、
ハムエッグとコールスローのプレート。

こう改めてリストアップすると、いろいろ作ってるもんだねぇ。麺類も出来合いのスープなどを使わず、たとえば塩だれなども、半ねり中華スープの素を使って自作した。

昼過ぎの船で松山に戻った。フェリーには子供づれが多かった。【娘】がおねえさんらしく一年生くらいの女の子と遊んであげたり、【息子】があかちゃんを抱っこしたがったり。楽しかったのだが、例によって【息子】が傍若無人にはしゃぎすぎて困った。

夕方からは市民コンサートの機関誌作業。暑いし靴下が品薄だしで、下駄を履いてでかけた。今回はじめて最初から最後までMicrosoft Wordでパソコン上で作ろうという話になったのだが、これが意外に難しく、悪戦苦闘のすえ結局挫折して、以前と同じやりかたでやることにした。すったもんだで作業を終えたときには終電の時間を過ぎていて、下駄履きで40分歩いて帰宅。歩数計カウント9,977歩。


2011年8月8日(月)はれ

本当なら、きょう妻子より一足早く松山に戻るつもりをしていたのだけど、朝起きてみるとなんだか目まいがして体調が思わしくなかったので、もう一晩やっかいになることにした。とはいえ病人扱いをさせたわけではない。昼食も作ったし、夕方から【娘】と【息子】を小一時間散歩に連れだしもした。しかも、散歩から戻る途中で【娘】の下駄の鼻緒が切れてしまったので、【息子】が履いていた下駄を【娘】に履かせ、俺が【息子】をおんぶして帰ることになった。そんなこともあって、歩数計カウント10,415歩。


2011年8月7日(日)はれ

妻の実家の台所の模様替えを手伝った。夕食はホットプレートで鉄板焼。


2011年8月6日(土)はれ

未明の2時すぎに目がさめた。そのまま二度寝せずに旅行の支度をして6時半に家を出る。フェリーで柳井に着いたのが9時50分。妻の運転する車で妻の実家に行く。行って真っ先にしたことが、昼食の材料の買い出しである。なにしろ、妻の実家に行ったときには、俺が昼食担当なのだ。

平生町十七夜の花火

夕方、町役場前広場での十七夜祭に行き、夜は海辺の堤防に座って花火を見た。歩数計カウント13,221歩。


2011年8月5日(金)はれ

某所からの依頼原稿、〆切は20日だがそろそろ目鼻をつけないといけない。昼間はほとんどその作文(と作図そのほか)に費した。妻子は一足早く帰省。俺は仕事とピアノのレッスンを休みたくないから、明日の朝追いかけることにする。

頂戴したのは言いたいことがいくらでもあるテーマ。だが、経験の乏しい俺に見開き2ページで存分に自説を開陳する力量もなく、なんとも不完全燃焼である。しかも、読者の視点というものを考えれば、これでもまだ《難しすぎる》かもしれない。

歩数計カウント11,722歩。


2011年8月4日(木)はれ

教育学部の研究生で、【娘】と【息子】の通う小学校へ研修およびヘルプに来てくれているリカ先生が、【息子】の字の書きかたの指導をしてくださるというので、【息子】を大学に連れて来た。理学部と教育学部は隣りどおしで、いまは夏休みで講義もなにもないのだから、俺が出勤のついでに連れて来れば済むのだが、なぜか妻が自分が連れていくものと勘違いしていたようで、結果として、4人総出の大げさな出動となってしまった。で、【息子】がリカ先生の指導を受けている一時間半くらいのあいだ、妻は大街道で自由時間。俺は自分の部屋で【娘】を遊ばせつつ、文献を読む。その後、家族で大学の食堂で家族そろって昼飯。午後には、採点済みのテストを受けとりに、学生さんがたくさん来た。夕方はいつもの医者へいつものバカにつける薬をもらいに行った。


2011年8月3日(水)はれ

先週のテストの採点を済ませた。夕食に中華つけ麺を作った。

自宅から職場への往復、職場から歯医者への往復、帰宅後のスーパーへの往復で、あわせて歩数計カウント12,871歩。


2011年8月2日(火)はれ

基本的に天気はよかったのだが、午後一時的に激しい雨。夕方、市民コンサート機関誌作業に行く。歩いて行こうと思ってたら、一番町の路上で観音寺市立図書館の貸し出しカードを拾得。交番に届けたのがロスタイムだったので、大街道電停で市内電車に乗りなおす。帰りは黒幕キヨミさんの車で送ってもらう。


2011年8月1日(月)はれ

歩数計カウント10,500歩。