て日々

2011年5月


2011年5月31日(火)はれ

火曜日は午前中に4年生のセミナーをやり、午後には3年生のセミナーがある。急いでも仕方がないので少々ノンビリめにやる。

明日の授業の段取り。二週間前に提出してもらったレポート、先週は「まだ見れてません。ごめんなさい」と言ってお茶を濁したが、明日はなんとしても返してやらねばなるまい。丑三つ刻までかかって採点を済ませる。先週の小テストではやはり「集積点」の概念のあたりで混乱が生じている様子が見えたので、明日の授業では教科書にない具体例を示しながら定義の確認をしてやろう。自ら設定したノルマはあるが、無理してこのまま次のセクションに進んだところで、受講者にとっては、消化不良でなにも身につかず終わるかもしれない。

歩数計カウント11,345歩。


2011年5月30日(月)あめ

マクレーン本 (S.マックレーン著『圏論の基礎』三好博之・高木理訳, シュプリンガー・フェアラーク東京) の第I章を読んで、圏論の形式的体系についての演習問題(キューネン本第I章演習問題[21])の解答をアップロードした。圏論はなにしろデカすぎて、群論や位相空間論のようには集合論の枠内に収めきることができない。それでもなんとか集合論の内側に圏論の (集合サイズの) モデルを作ろうとすると、到達不能基数の存在を仮定して集合サイズの小宇宙を作り、圏論の言及の範囲をそこへ制限することになる。集合論の宇宙 \(\mathbf{V}\) のすべての対象に圏論で言及したければ、集合論の言語に高階の変数を付け加えた拡大理論を作るという手がある。どちらもZFC集合論の枠をはみ出さざるを得ないけれども、そんな圏論の定理のうち、言及の範囲が (小さな) 集合 だけに制限された 初等的な命題になっているものについては、それが ZFCから証明できることも保証したい。それにはどうするか、というのがこの問題の主旨だと解して、それなりの解答を書いたが、しかしこれでいいのかどうかまったく自信はない。あとの演習問題 [23] で扱う集合論の部分体系 \(\mathrm{ZF}^{-}-\mathrm{P}-\mathrm{Inf}\) が初等算術 \(\mathrm{PA}\) と実質的に同等であることが、両理論が相互に解釈しあえることで証明できるのと同様、集合論と圏論を、互いに相手と実質的に同等であるように (しかもZFCと同等以上の強さをもつように) 定式化できればよいのだけれど。

歩数計カウント10,452歩。


2011年5月29日(日)あめ

一日じゅう雨で、家にこもりきり。朝と昼の飯の用意をし、キューネン本の演習問題の解答を入力する。

嬉しいことに、きょう初めて解答の寄稿があった。日大の志村さんから第I章の[12]の解答を頂いたのだ。これ、どう書こうかと思っていたところなので、よけいに嬉しい。自分でも [11] [13] [14] [15] [24] と5問片付けた。きょう一日でだいぶはかどったので、第I章の演習問題はあと [21] [23] [25] [26] を残すのみとなった。ただ、こいつらはなかなか厄介だ。

[21]は真のクラスに言及する圏論をZF集合論の枠内で形式化しろというもの。圏論にはにも疎い俺としては「マクレーンを読め」とか言って逃げたいところだが、そうもいくまい。[23]はゲーデルの不完全性定理とタルスキの真偽の定義不可能性の定理が \(\mathrm{ZF}^{-}-\mathrm{P}-\mathrm{Inf}\) の任意の再帰的(recursive)な拡張について成立することを示せというもので、これを真っ正直にとれば、\(\mathrm{ZF}^{-}-\mathrm{P}-\mathrm{Inf}\) をベースにして不完全性定理の証明をやってみせろというに等しい。きちんと書くのはものすごく大変そうだ。[25]と[26]はモースとケリー集合論MKがZFの保存拡大でなくまた有限公理化可能理論でもないことを示せというもの。MKにしてもNBGにしても本文で公理系が紹介されているわけでもないので、そこを補いつつ、ちゃんと書かねばならない。しかし考えてみれば、そもそもZFが有限公理化不可能なことも第IV章で反映原理を勉強して、初めて理解できるんじゃなかったろうか。まあ、ちゃんと勉強して書くしかあるまい。

きょうはその他に kururu_goedel こと石宇哲也さん、かが☆みんこと鏡弘道さん(kagami_hr)、つくばのエヴィン・ラティエさん(evinlatie)、それに日大の志村さん(ta_shim_at_nhn)が解答づくりについて意見や提案をしてくれた。むろん最終の責任は自分がもたねばならないが、関心を示してもらえるだけでもありがたいことだ。そろそろ第I章のゴールが見えてきたので、表ページを改訂して、第II章以降の目次も掲載した。


2011年5月28日(土)あめ

一昨日の夕食をうどんにするつもりで買った乾麺がある。ダイソーで陶器のどんぶり鉢を4つ買ってきて、昼食にきつねうどんを作った。なかなか好評だった。うちで料理すると、【息子】が完食したら成功のシルシなのだ。そして夕食には【娘】と協力してカレーを作る。これまた好評だった。【娘】は来月開催される学校主催のキャンプが楽しみで仕方がないらしいのだ。

キューネン本の第I章の演習問題で選択公理がらみのところをやっている。ティコノフの定理の証明には超フィルターやらなにやら、第I章で扱わない道具が必要になる。ツォルンの補題を使えば超フィルターの存在証明くらいなんでもないのだが、選択公理からティコノフの定理を導きなさいという問題で、それらと同値なもうひとつの重要命題であるツォルンの補題を証明なしで用いたのでは答えにならないだろうから、整列定理を使って超フィルターの存在を示す形で 解答 を書いた。しかしこうやってみると、ツォルンの補題が必要なところは同じように整列定理で代用できそうだとわかる。実際、ツォルンの補題が知られるようになる前には普通の数学でたとえば極大イデアルの存在証明やハーン・バナッハ定理の証明などにも整列定理が使われていた。ツォルンの補題は選択公理の典型的な応用法の数々からパターンをうまい具合に抽出したものだといえるが、おかげで「普通の数学」の研究者が整列定理や超限帰納法を知らずに済ませられるようになり、数学者をめざす学生さんたちが集合論の勉強をあまりしなくなったという副作用もある。

今回は松坂和夫『集合・位相入門』(岩波書店)を調べてその線で解答を書いた。キューネン本の演習問題には、このティコノフの定理の証明のほかにも、ハウスドルフ・ギャップの構成やらなんやかや、並大抵でないものがいろいろ混っていて、なかなか大変だが、勉強にはなる。


2011年5月27日(金)くもり

家族そろって寝坊したので、朝は妻の車で出発。それと、ピアノ教室への移動と、その後の帰宅には電車を利用したので、歩数計カウント6,621歩とふるわない。演習の授業や来週末の学会の打合せがあったので、ただ部屋に詰めているだけのときよりは、これでもまだ歩いているのだ。

【息子】のいたずらがパワーアップしている。いたずらといっても周りを困らせて喜ぶのではなく、家のなかのいろいろなものを使って勝手な実験くんをするのだ。きょうは知らないあいだにチーズとバナナをミキサーにかけていた。キッチンに入るなと言っても聞きゃしない。まあしかし、俺の子供時代を思えば、まあこんなもんかもしれない。他の人々への関心が薄いこととかも似ているし。それでも、【息子】の場合は、お姉ちゃんとぶつかりあいながら成長しているぶん女に対する余計な幻想を持たずにすむように思う。この点ばかりは、男3人兄弟の俺と違うところだ。


2011年5月26日(木)あめ

きょうは先日の休日出勤の代休で、夕方に医者に行ったほかはろくに外出しなかった。深夜になってから、カントール標準形とイプシロン数の問題の解答を書いてアップロードした。このテーマでものを考えるのはかなりひさしぶりだ。きのう、一つの無限集合の上の二つの整列順序づけについての組合せ論的な問題を解いてアップロードしたときも、久々に「集合論的な」議論をした高揚を感じたが、きょうも、これまですっかり忘れていた問題を十数年ぶりに自分で解くのがとても楽しかった。


2011年5月25日(水)くもり

きょうからまた歩数計をつけて歩くことにする。で、歩数計カウント11,242歩。講義のあった日のわりに伸びないな。動きが地味になったのかもしれない。

帰宅すると、どうやら【息子】が塩を撒き散らしたり水に溶かしてDVDのうえに注いだり、面白半分にいろいろ実験くんしていたことが判明。さすがに火にかけることまではしていなかったようだが、食品をおもちゃにしたことを、パパは厳しい口調で咎めなければならなかった。妻が仕事で遅くまで外出していたこともあり、12回目の結婚記念日だというのにそれらしいことは全然できなかった。まあ、うちら夫婦の場合、結婚記念日というべき日は、5月25日をはさむ二つの土曜日のあいだの8日間である。というのも、ふたりの実家が遠く離れているせいで、結婚披露宴を一週間あけて2回やったからだ。自分たちは少しも記念日らしくなかったが、妻の仕事仲間が記念にとお菓子 (バウムクーヘン) をくれた。ありがとう。


2011年5月24日(火)くもり

先日、「てなさく世界」のとなりに学術情報レポジトリもどき(ただし全部手作業)を作った。名付けて「なげやりアカデミア」という。キューネン本の演習問題はひとまずHTMLで書いてここへ集めてしまう。きょうも第I章の演習問題を3題解いてアップロードした。しかし一人でやっていては、例によっていつまで続けられるかわからない。kururu_goedelこと石宇くんにも薦められたとおり、このレンタルサーバでWikiを立てて皆で寄ってたかって解答を作れればいいとは思う。MediaWikiならMathJaxも使えるというし。しかし、SQLの設定がやっかいそうで、いまのところ手が止まっている。


2011年5月23日(月)あめ

日中ぜんぜん調子が出なかったが夕方から少し生き返る。キューネン本の演習問題の解答編を作ろうという話が再燃。今度はWikiを利用してコミュニティベースでやってはどうかという話になってきている。テストケースとして3題ほどHTML直接入力で解答を作ってみたのと、雨が止まなくてなかなか仕事部屋から出る気になれなかったのとで、帰宅が夜10時半くらいになった。これは俺にしては例外的に遅い。妻子に心配をかけて済まない。いや、帰宅したときには妻子はすでに寝ていたんだけどね。


2011年5月22日(日)くもり

妻が家で学会発表の準備をしたいというので【娘】を連れて教会学校にいく。こども礼拝のお説教で、悪い蛇がイブさんを騙して云々とかの創世記の話になったので俺は退席。サンマルクカフェで一息入れる。いつものように11時まで【娘】を遊ばせて、それからローソンに寄り、ジュンク堂書店に寄って帰る。昼食はそうめん。午後、妻子が子供会の映画鑑賞会に行っている間、俺はひたすら昼寝。


2011年5月21日(土)くもり

今日と明日、一年生の『新入生セミナー』というリテラシー教育の授業の一部としての宿泊研修が 大洲青少年交流の家 で開催される。俺も教員スタッフとして参加してきた。

最初この構想がアサダ先生から出たときには全学科全教室からの猛反対に遭った。アサダ先生はそれでもあきらめず学部の教育コーディネーター会議を説得し運営委員会を説得し、しまいには「わたくしも今年度で定年ですので最後に花をもたせてください」とまで言ってようやく実現にこぎつけた。当然、準備段階では学部の教員はほとんど協力していない。俺たちも「各学科できれば2名ずつ教員にも参加してもらってください」と頼まれてやってきたのだ。結局、アサダ先生は上級生10数名の学生サポーターを組織し、全学共通組織である教育企画室に協力を仰いで、研修プログラムを企画・実行。俺たち学部のスタッフは、ひたすらお客さんである。今回はアサダ先生の不屈の精神力の勝ち。(だけど来年度からどうするの?)

ただ行って遊ぶという企画ではなく、ちゃんと実習の授業をやる。きょうのテーマはノートテイキング。題材として使われたのはテレビの料理番組のビデオクリップで、品物は「じゃがいもとベーコンのお好み焼き風」だ。ノートなんか取らなくても作り方はちゃんと覚えたから、こんど子供に作ってやろう。

夕食のバーベキューは準備の手際こそ悪かったが、いざ始まってみれば一年生たちもちゃんと自発的に協力しあっていた。教員や上級生が気を利かせて席をはずしてからの、楽しそうに食いつつ話す一年生の様子を見ていると、俺たちにもこういう若いころがあったなあという懐かしいような切ないような気持ちになる。若い人たちの楽しそうな姿に目を細めつつ奥の席でウィスキーを飲むジジィの役にでもなりたかったが、どっこい今回はアルコール持込厳禁だ。

日帰りスタッフの俺は、化学科の高橋先生の運転で19時過ぎにJR伊予大洲駅まで運んでもらう。土曜の夜だというのに大洲の町はゴーストタウンみたいだった。


2011年5月20日(金)はれ

ピアノのレッスンが済んでからマツモトキヨシに行って養命酒と歯ブラシを買った。駅に戻って売店でお酒を買っていたら、時刻は午後7時29分。30分発の電車は向かい側のホームにすでに到着している。「こりゃ間に合わんなあ」とつぶやいたら、どこからともなく「まにあう!」という知らないおばちゃんの断言が聞こえた。そう? それなら ちょっとがんばってみましょう と思って地下通路の階段を走って降りて昇って、実際タッチの差で間に合った。もちろん、間に合わなければ間に合わないで、読書時間が増えてよいと思っていたのだけど、こういうのも気分がいい。あきらめずにやってみるものだ。ありがとう、知らないおばちゃん。


2011年5月19日(木)はれ

子供たちの遠足の日。とてもいい天気になった。まことに結構。

午後、市民コンサート事務所に顔を出し、一昨日作った機関誌原稿の印刷を試みる。一昨日は従来どおりにやると宣言したが、その後、原稿の文章が5行も落ちていることが発覚するわ、例会の伴奏ピアニストが急遽変更になるわ、俺のミスでヴァイオリニストの名前の表記が間違っているわと、手直しが必要な箇所がいっぱい出てきて、キヨミさんがWordで原稿を作りなおしてくれたそうだ。それなら、と、新しい輪転機のUSB入稿を使ってみる。切り貼り原稿のコピーを写植原稿につかうより、よほど仕上りがいい。とくにグラフィックや写真がきれいだ。もっとも、それはあくまで、前回までと比較して、という意味で、客観的には普通の輪転機にかけた普通の印刷物である。いずれにせよ、次回からは、原稿はテキストデータと画像ファイルで揃えてパソコン上で編集しUSBメモリディスクで輪転機にかける、というワークフローにシフトするぞ。

一段落して事務所を辞し、ジュンク堂書店へ行く。話題の新刊、新井敏康先生の『数学基礎論』(岩波書店) の発売日なのだ。Amazon.co.jpで予約している分がまだ出荷準備にも入っていないのに、ジュンク堂の4階には現物がある。同じ値段なのだから、Amazonのをキャンセルしてジュンク堂で買うことにした。それと、結城浩『数学ガール 乱択アルゴリズム』(ソフトバンククリエイティブ, 2011年)と戸田山和久『論文の教室 - レポートから卒論まで』(NHKブックス, 2002年)を購入。

新井先生の本を手にした興奮と焼酎の酔いのせいで、Twitterで喋りすぎた。恥ずかしい。


2011年5月18日(水)はれ

月曜日の平野教授の授業を参観して、俺も見習おうと、授業の準備をいままでよりきちんとやったら、ふだんA4レポート用紙4枚ぶんになる講義ノートが3枚に収まった。ただし、丁寧に書いたぶん3枚の密度は高い。授業の最初に先週課したレポート課題の提出を求めたこともあって小テストをやらなかったにもかかわらず、2枚半こなすのがやっとというところだった。次回からは、この密度でレポート用紙2枚分の準備をして講義に臨むとしよう。

手書きの講義ノート
毎回せめてこれくらいには用意せにゃならんね


2011年5月17日(火)くもり

三年生ゼミで、二進表記された数の引き算ができないと、ある学生が訴えた。もちろん十進表記の筆算はできるので、やりかたがわからないわけではない。どうやら繰り下りの処理が腑に落ちないということらしい。いろいろ説明を試みたが、最後は自分で手を動かして計算してもらうしかない。

夕方から、市民コンサートの機関誌作業。今年から輪転機が新しくなっていて、パソコンの印刷ダイアログからUSBメモリディスクにプリントジョブを保存して、それを輪転機にかけることができる。前回までその機能を使ってはいなかったのだが、今回ぜひそれをやろうという話をキヨミさんが出してきた。ところがその話と、これからは紙面の割付け作業をMicrosoft WordなりOpenOffice.org Drawなりでやろうという相談と、その他の相談がごっちゃになって、しまいには全員が自分の意見を口々に言ってお互いに擦り合せをしないという状態が現出。事務所の引越し作業のテンヤワンヤ (→2005年3月1日の「て日」) を思い出す。俺はシビレを切らしてしまい、もう今回は従来どおりの方法でいきましょうと機関誌部長権限で宣告。そんなこんなで、このごろはたいてい9時には終っていた作業が10時半までかかった。


2011年5月16日(月)くもり

給料日前日とて、ぜんぜんお金がないのでおとなしく過ごす。午前中、FD(ファカルティデベロップメント)活動の一環として、平野教授の代数学の授業を参観させてもらう。単純に比較はできないが、テーマの難易度や進むペースは俺の講義と同じくらい。しゃべる速さは、授業アンケートで早口だと指摘されたというわりに、俺よりは落ち着いている。つまり、俺はそれどころじゃない早口なわけで、気をつけないといけない。なにより、評判どおり板書の準備が周到だった。これは見習わないといけない。

午後は古い文献を少し読む。英語は普通に読み書きし、フランス語も少しは読めるが、かねてからの構想を実行を移すには、ぜひともドイツ語の文献が読めるように語学の勉強をせにゃならん。がんばりましょう。ちょっとずつでも前進しましょう。


2011年5月15日(日)くもり

夕方になってからだけど、妻が車で買い物に行っているうちに表の駐車スペースの草引きをした。うちの駐車スペースはコンクリート引きで、その一部に石を敷き詰めた小さな溝がある。そこへ、いつのまにか土や砂が溜まり、雑草が生え、小さな虫たちが生活する小さな世界ができている。「ここは俺の土地だ」なんて主張は雑草や虫たちには通用しない。雑草は自分がどこに生えたかには関係なく、可能な限り深く根を張り、可能な限り枝葉を伸ばし、力の限りに生きる。ひとつこの世界を良くしてやろうなんて思惑もないし、物質を構成する究極の素粒子とその相互作用の法則は何だろうかだの1970年代に研究されていた絶対的\(\mathbf\Delta^1_2\)-集合の理論は普遍ベール集合の理論にどの程度移植されうるだろうかだのの浮世離れした疑問ももたない。俺は何のために生まれたのだろうという疑問すら持たない。雑草は所を選ばず生えた場所でただ一生懸命に生きる。この一点だけは、俺もなんとしても見習うべき点だと思う。

俺はそんなわけで雑草が嫌いではない。だが昨日の散歩で他の人の家の庭先を見るともなく見ていると、やはり、家の顔というべき庭先や駐車スペースはきれいにしておいたほうがいいと思った。家の外まわりを見れば、どうしても住む人の人となりが偲ばれる。家の周りにモノをゴチャゴチャに放り出してある家と、きちんと片付けて花で飾られている家とを見て、それぞれどんな人が住んでいるか想像し、さらに、自分がどちらのタイプの人と思われたいかを考える。そうすると、やっぱり家の一番外側の目につきやすいところの雑草くらいは抜いといたほうがええぞ、という結論になった。


2011年5月14日(土)くもり

妻は一日中、少し遠い街へ仕事に行っている。昨日作業した内容で少し具合の悪い点があったので、【娘】がお絵かき教室に行ってる間、【息子】を連れて仕事場に行って修正。どうやら、Mac OS X版FirefoxでPDF文書をダウンロードするとアクセス権が600になるようだ。これをそのままMac OS XのWeb共有で公開すると、Webサーバがアクセスできないからエラーになる。修正は一瞬でできるが、自宅からファイアウォールを越えてWebサーバのシェルにログインすることはできないから、面倒でも職場まで出むかないといけない。

お絵かき教室に【娘】を迎えに行った帰り、病院の横のいつもは通らない草ぼうぼうの横道に入ってみた。最初はケモノ道みたいだったが、途中からいろいろな花や果樹が植えられていて、お花畑みたいになっていた。きっと近所の人が丹精して花を育てているんだろう。そのまま病院の裏の通りに出てしばらく歩くと、家の近所にできた新しいスーパーへ裏側からたどりつく格好になる。なかなか愉快な散歩コースだった。「知らない道をどんどん歩いたらいつのまにか知ってる所に出た」というのが【息子】にはとても面白かったようだ。


2011年5月13日(金)くもり

昨日に引き続きお金がないので昼食に手作り弁当は必須条件だ。今日は妻が弁当を届けてくれるという。いまから行くよと連絡がきたので職場の門前で待っていたがなかなか来ない。あれれと思って部屋に戻り、昼休みに突入してもまだ来ない。うーん午後には演習の授業があるのにどうすべか、と思っていたら、アベ准教授がきて「このお弁当フジタさんのと違いますか」という。なんてこった。妻は3階のアベさんの部屋のドアノブに俺の弁当をひっかけて帰ったのだ。アベさんは午前中の講義を終えて部屋に戻ったらドアに不審な荷物がひっかけてあったので怖くなってみんなに心当たりがないか聞いて回っていたという。ごめんなさい。で、妻にそのことを問いただすメールをしても返事がなく、だいぶ経ってから「明日は8時半出発ね」という、まるきり別件のメールをよこす始末。妻の言うに、これぜんぶ天然だったそうだ。そのときちょっと急ぎで行かなければならない場所があったそうなのだが、こちら側からみた物事の経過は上述のとおりで、そりゃあ、こいつ何か俺に言いたいことでもあるんじゃないかと心配にもなろうというものだ。まあしかし、お弁当を作って届けてもらえるのがどれだけありがたいか、それを思えば、あまり文句を言うわけにいかない。それにしてもアベさんごめんなさい。

おかげで午後の授業には昼飯を食わずに出発。授業は普通に終わり、やれやれと思いつつ弁当を食べる。その後は例によってウダウダと書類作りやメールのやりとりの作業。それから数学の本を少し読む。とにかくずっと勉強をサボっていて感覚が鈍ったところをリハビリせにゃならん。 K.J.Devlin and H.Johnsbråten “The Souslin Problem” (Lecture Notes in Mathematics, Volume 405, Springer, 1974) という古い本の, よほど最初のほうに証明抜きで書いてある命題: «\(X\prec L_{\omega_1^L}\) のとき, ある順序数 \(\beta\leq \omega_1^L\) について \(X=L_\beta\) となる» を見て, なんじゃこりゃ…と思う程度には, 集合論の感覚が鈍っている.

帰宅後しばらく考えてやっとわかった: \(\alpha\) が \(\omega\) より大きな極限順序数で \(L_{\alpha}\) が «すべての集合は可算である» という文のモデルになっているなら, 関数 \(G:L_{\alpha}\times \omega\to L_{\alpha}\) を, 各 \(a\in L_{\alpha}\) について \(a=\{\,G(a,n)\mid n\in\omega\,\}\) となるように \(L_{\alpha}\) 上で定義できる. ということは, \(L_{\alpha}\) の各メンバー \(a\) の要素はすべて \(a\) をパラメータとして \(L_{\alpha}\) 上定義可能ということになる. いま, \(X\prec L_{\alpha}\) とすると, \(G\) が \(L_{\alpha}\) 上定義可能であったことにより \(G^{\prime\prime}(X\times\omega)\subset X\) で, 各要素 \(a\in X\) のすべての要素がまた \(X\) に入ってくることになり, \(X\) は推移的集合である. ゲーデルの圧縮補題により, このときある極限順序数により \(X=L_{\beta}\) となる. 証明終. うーん, これくらいはすぐ出してこれる「引き出し」がないと, 論文もろくに読めないしディスカッションにも参加できないな.


2011年5月12日(木)くもり

お金のない時期なので昼食に手作り弁当は必須条件だ。昨日は俺の職場まで妻が弁当を届けてくれたのだけど、今日は妻はNPOの仕事に出かける。ただ、出先の事務所は俺の職場から歩いて五分くらいの近所であり、市民コンサート事務局から引きとってNPOにお嫁入りさせた中古VAIOの設定のためにいったん俺のパスワードでログインする必要もあるから、お昼前に妻の出先に俺も出向く。書類書きをする妻の傍らで俺はVAIOの接続をチェックして正常に起動することを確認し、古いアカウントを削除し管理者権限を妻のアカウントに移譲する作業。それが一段落してから二人で弁当を食う。事務所はなんだか物置き部屋の一角といった趣きのところであり、今日はどういうわけかそこに詰めているのは妻だけだった。密室に妻と二人きりなんて、ものすごく久しぶりだ。この時間って貴重かもしれんねと妻と語り合ったが、だからといって、まさかいまここで “夫婦ならではの活動” をおっ始めるわけにもいかない。食後に最小限必要なソフトウエアのインストールをして、俺は退散。

この事務所の近所にはひっそりとした禅寺がある。普通の人の感性でいえばひとけのない寺や墓地なんて気味悪いだけなのかもしれないが、竹林を背景に霧雨に煙る寺の伽藍と墓地の石塔のようすは、なんというか、侘び寂びを感じさせて美しかった。

門前の石柱に「不許葷酒入山門 (葷酒の山門に入るを許さず)」と字が刻んであった。あとで調べて見たところ、葷(くん)とはニンニクやニラやネギのようなニオイの強い野菜のことだ。仏教では呼吸・調息ということをたいへん重視する。たとえば、お灯明の蝋燭を吹き消すのも厳禁だ。ましてや葷や酒なんかを摂ると息が臭くなっていかん。仏道の修行には相応しくない。この石柱は、そういうクサイものを寺に持ってくるんじゃないぞ、という警告で、この言葉は結構あちこちの禅寺の門前に掲げられているらしい。

これも本で読んで知ったことだが、ニンニクやニラを食すなというのは、他ならぬお釈迦さまご自身の定められた戒律であるらしい。葷も酒も大好きな俺はいつまでも門外漢でいるしかない。困ったものだ。こうなったらもう門外漢に居直っていい加減なことを言うからそのつもりで読んでほしいのだけど、禅の修行ではまず住まいを調え、次に座席を調え、姿勢を調え、息を調え、それができてようやく心を調える段階になるのだという。近代人はこの順序をどうしても逆に考えたがるけれども、「まず手始めに心を調える」なんてことができるはずはない。調えてやるから心をここへ出してみろ、とは禅の初祖達磨さんが二祖慧可さんを接心した時の言葉。この時、なんと慧可さんは達磨さんに固い求道の決意を示すために自ら肘を切断し、「わたくしの心はどうしても調いません」と迫ったのだそうだ。門外漢には窺い知れぬ命がけの挨拶だが、「その心を出してみろ」という達磨さんの言葉に慧可さんはハッと悟って「出そうと思いましたが、心が見つかりません」と答え、その悟りを認めた達磨さんが「ほれ、お前さんのために調えてやったわい」とおっしゃったとか。ともあれ、心を調えようとするならば、とらえどころのない心を追いかけて右往左往するより、まず調えるべきは具体的な行動であり、生きる姿勢を正すには、文字どおり身体の構えという意味での姿勢をまず正すべきなのだ。

さてさて、今日の自分の本来の仕事としては、6月4日〜5日の科学基礎論学会で俺がオーガナイズすることになっているワークショップの計画についての作文をし、10月に来日するタマちゃん(Tamás Mátrai)のためのグラント申請の手続きをして、あとは記述集合論の初期の展開についてのカナモリさん (日本生まれのアメリカ人 Akihiro Kanamori, ボストン大学の元教授)の論文 ("The Emergence of Descriptive Set Theory." Synthese (1995), 251:241-262. Reprinted in Jaakko Hintikka, ed., From Dedekind to Gödel: Essays on the Development of the Foundations of Mathematics, pp. 241-262. Synthese Library, 251. Dordrecht: Kluwer, 1995.) を読んだ。これは、《普通の数学》における超限順序数の必要性と有用性が、記述集合論によって歴史上ほとんど初めて明らかになる様子をあとづける論考で、とても面白かった。俺のために書いてくれたんじゃないかって思うくらいだ。

この論文や、巨大基数公理の理論のサーヴェイとして名高い Solovay-Reinhardt-Kanamori "Strong axioms of infinity and elementary embeddings." Ann.Math.Logic vol.13 (1978) pp.73-116 などの貴重な文献が、カナモリさんのホームページからPDFファイルとしてダウンロードできます。"The emergence of descriptive set theory"2.pdf, "Strong axioms of..."d.pdf です。


2011年5月11日(水)あめ

水曜日は距離空間の講義。いつもながら時間配分が少々苦しい。


2011年5月10日(火)あめ

そろそろ水不足が心配になりだしたところなので、久々にまとまった雨が降ってうれしい。

四年生のゼミを二つのテーマでやると、当然それぞれの進行のペースは半分になる。昨年度、まる一年かかって前原先生の本をやっと仕上げたことを思うと、今年のゼミを昨年度と同じ頻度でやっていたのではあとあと苦しくなる憂いがある。しかし、昨年度の記録を見て比較するに、今年前原本を読んでいるkくんの進捗は結構早いから、もうしばらく様子を見ることにする。もう一人のoくんのテキストは渕野先生の「構成的集合と公理的集合論入門」(田中一之編『ゲーデルと20世紀の論理学<ロジック>』第4巻「集合論とプラトニズム」(東京大学出版会, 2007年) 所収)で、これでゼミをするのは初めてだから、こちらもまた、様子を見ながらペースを調節するしかない。

夜は市民コンサート機関誌の作業。蕪をたくさんもらって帰った。


2011年5月9日(月)くもり

朝しかピアノの練習ができないからと思って弾いているうちについ時間がすぎて、朝飯を食わずに出てしまった。お金のない時期だが朝食抜きはさすがにつらいので出勤前にサンマルクカフェでチーズクロワッサンなるものを食った。

夕方、一年生向けのリテラシーの授業に担任として顔を出す。きょうの内容はレポートの書き方という話だった。大学に来たからには、子供の作文の「ぼく/わたし」から、大人の文章の書き手へと成長してもらわないと困るわけで、俺もそうした授業の意義を評価するにヤブサカでない。「意見」と「事実」の区別、というトピックひとつとっても、学生たちには目から鱗だろう。

だけど、文章のスタイルの話については、やっぱり「なんでやねん」と言いたくなった。「です/ます」を使わず「だ/である」を使えとか、感覚的な「ざらざらしている」といった表現を言わずに、同じことでも「表面は顆粒状の微細な起伏に富んでいる」と言えとか。そう言わないと通用しないことはおそらく事実だし、「シキタリだから」と言ってくれればまだいい。けれども「です/ます」をやめて「だ/である」を使うことまで「論理的な表現のため」と理由づけするのは、かえって論理を欠いておりはせんか。まあ、この授業は大学に入りたての一年生たちのためのものであり、いわゆる「客観的な記述のための文体」の訓練というのは、彼らが一度は踏んで行かにゃならぬステップである。それを早い段階ではっきりとした形で伝えることの意義は大きいとせにゃならん。それでも「その《事実》いうのんは、ホンマに《事実》でっか」と口を挟みたくなる、なんとも哲学癖を刺激する授業だった。

ここでは、ある種の権力が己を貫徹しようとミクロな作用を施している。われわれは「正しいスタイル」という権力の作用を内面化し、それによって、みずからを権力に参入させる。否も応もない。学校というのは、そもそもそういう所なのだ。先日、閣僚が自衛隊が暴力装置であると発言して騒ぎになったが、見方を変えれば、学校だって立派な暴力装置なのである。

さて、この授業の出席カードにはコメント欄があり、出席した学生が二言三言コメントを書いて、担任に提出する。言ってみりゃ、俺はこの「コメントシート」の回収のためだけにそこにいるようなものだ。たいていの学生は「とても有意義な授業だった」「レポートの書き方に活かせればいいなと思う」とかの、あたりさわりのないコメントを残すが、ある学生が

「です・ます」を使ってはいけないって
知ったのである

とコメントしていたのが、とても愉快だった。こういうセンスは大好きだ… じゃなくて、《当該学生の学生生活担当教員は、当コメントに示された諧謔のセンスに対し有意な選好の傾向を有する。》

やる気のないあひるやる気のないあひるやる気のないあひる

というわけで、話は変わる。

Kunenの『集合論』で導入された En 関数の方法で、構成可能的集合のクラス \(L\) の理論をどの程度まで展開できるだろうか。Kunenの本では \(\mathcal{D}\) 演算の定義から出発して、 \(L\) の定義、\(V=L\) からの 選択公理と一般連続体仮説の導出、\(\diamondsuit^+\) の証明まで述べている。En 関数の定義を丁寧に読めば、これが \(\Delta_1\)-関数であることがわかるから、再帰理論的な側面からのアプローチに使えるようにも思う。一方、ジェンセン流の微細構造論の展開には En 関数の定義をしかるべく変更する必要があるだろう。


2011年5月8日(日)はれ

母の日である。きょうは教会学校でクッキー作りをすると予告されていたので、子供らはずいぶん楽しみにしていたようだ。それで普段より早めに教会へ行ったら、【娘】に献金当番 (礼拝のときに籠を持って献金を集め、祭壇に捧げてお祈りを唱える) が当った。教会学校に通いだして6年目にして、初めてのことだ。はじめ【娘】は恥かしがってお祈りを読むのを渋ったようだが、なに、本の朗読の上手な【娘】ちゃんのことだから心配はない。先生が書いてくれたお祈りの言葉が母の日にちなんだものだったから、俺と妻は大感激だ。あとで妻に「涙がチョチョギレたんじゃない?」と聞いたら「涙こらえて、ハナミズが出た」とのこと。

妻の観点からは、以上の話は→このようになるらしい。妻のブログ「らっぱぴょんの学びな日々」も愛読してやってください。

その後はコミセンに移動。図書館の本の返却期限で、最初からコミセンに来る予定だったので、出掛ける前に弁当を用意して、企画展示ホール前の広場でピクニック。日曜日でもお昼過ぎだと、こども館の人出も少なめだ。

金曜日に書いたようなわけで、MoschovakisとKunenを読みなおすところから始める。訳者の俺が言ってはいけないのかもしれないが、Kunenの訳本を見ると必ず誤植が見つかる。逆に原書の間違いを訂正した箇所だってないわけではないが、数式の誤記をずいぶん増やしてしまったのは読者と原著者に本当に申しわけない。半年ほど前に初めての正誤表を公開したが、そのときは MathJax なんて便利なものの存在を知らなかったから、TeXで書いてPDFで公開した。だが、もうこれからはWeb上でやる。それも、職場に行かないと更新できない仕事用Webサイトではなく、アップロードの楽な個人サイトでやることにする。というわけで

Kunen著『集合論; 独立性証明への案内』(日本評論社 2008年)正誤表Web版


2011年5月7日(土)はれ

午後、とても天気がよいので4人そろって散歩。近所の神社へ歩く。街道のすぐそばだが小高い丘の上で森に隠れるように建っているこの神社とその周辺の集落は、なんだか「となりのトトロ」の世界に取り残されているような趣きで、古い時代からの、経済指標に乗らない豊かさというものを感じさせる。そのままディスカウントスーパーへ食材を買いに行ったが、夏のような暑さで、子供たちは迷わずアイスキャンデーをおやつに選んでいた。


2011年5月6日(金)くもり

大型連休にポコっと挟まった平日なので演習の授業をする。隣のクラスの先生が出張中のため、進度がマチマチな2クラスの合同授業だし、対応する講義はゆっくりペースだし、ゴールデンウィークもあと二日あるしで、あまりゴリゴリ進めたりはしない。

昨日までの連休中はすっかり投げやりな気持になっていたが、平日の夕方になってようやく前向きな気持をとり戻す。いつもそうなのだ。長い休みなど取るもんじゃない。あいかわらず金欠で大変だが、貧乏のまま死ぬのはまだしも「仕方がない」と受け入れられる。そもそも受け入れ難いほどの極貧ではなく、定職があるだけ恵まれているのだ。それでも、馬鹿のまま死ぬのはイヤだ。何もわからずに死んでいくのはイヤだ。やっぱり勉強しよう。モタモタしている場合ではない。昔勉強したいろいろのことを忘れたなら、思いだすまで本を読みなおそう。

夕方は三週間ぶりにピアノのレッスン。先生が「いや、もっと大幅に崩れているかと思ってました」とおっしゃった。はいはい。わたくしもそう思ってましたよ。しかしいずれにせよろくすっぽ弾けちゃあいないので、これからまた頑張るだ。

夜、高校のブラスバンドの後輩でクラリネット奏者の岩田 直樹とSkypeでビデオ通話。Skypeのアカウントは半年前から持っているが、ちゃんと使うのは初めてだ。まあ、4年前にイタリアに行ったときに、大分大学の家本先生がEeePCで日本にSkypeするのに便乗して自宅に電話させてもらったことがあるが、それは家本先生の機材とアカウントで自宅の固定電話にかけたのだから、Skype利用経験としてカウントされるまい。


2011年5月5日(木) こどもの日はれ

こどもの日にちなんで「屋根より高いお父さん♪」とアホ歌を歌いながらフェリーに乗って松山に戻ってきた。


2011年5月4日(水) みどりの日くもり

朝食は昨日のイカスミを使った雑炊。まさにヘドロみたいな仕上がりで、最初のうちは【息子】が食うのを嫌がったが、無理やりに一口食わせたら納得して完食。昼食は例によってパパラーメンにしようかと思ったが、子供らに「ラーメンと蕎麦とうどんと焼きソバとスパゲティと、どれがいい?」とマーケティングしたら二人とも焼きソバがいいと言うので、蒸し麺とタコとアサリとホタテとエビを買ってきて海鮮焼きソバなるものを作った。

昨日の朝、駅から港に向かう途中の三津浜商店街でも感じたが、日本中を目に見えないブルドーザーがひっくり返して回っている。妻の郷里のこの町も例外ではなく、マックスバリュー以外の小売店はほぼ壊滅状態だ。ただ、マックスバリューでは衣料品を扱わないから、妻の子供の頃からあった日用の衣料と雑貨の店だけは、まだしも元気に営業している。【娘】が近々合宿に行くというので、リュックサックを買いに行った。


2011年5月3日(火) 憲法記念日くもり

普段より早起きして6時半ごろの電車に乗る。7時20分の船で柳井に渡るつもりだったのだが、なんと連休特別ダイヤとかで、8時まで待たねばならん。仕方がない。家で用意した朝食を食べ港の待合室で食って待つ。

なんだかこの頃は連休のたびに捕虜になった気分である。(もっともふつうの日に自宅にいれば自由人なのかと言われるともう返す言葉がない。)なにかしら楽しいことを見つけないとやってられないが、妻の実家にいる間は、俺にできて自主性が発揮できることといったら料理くらいである。真イカが手に入ったら墨煮を作ってやろうと思っていたら、お誂え向きにマックスバリューに魚市が出ていて、近海の紋甲イカを手に入れることができた。それで夕食にイカの墨煮(と牛すじと大根のすき焼き風の煮込み)を作った。

妻の実家の近くのマックスバリューは、俺たちが休みのシーズンにしか行かないからかもしれないけど、なにかにつけ「君たち庶民はどうせこれを食うんだろうが」みたいな売り方をしていて気に入らない。年末には中華麺やうどんを駆逐して日本蕎麦ばっかり並ぶし、今回だって、魚市が出ていたのは「君たち庶民は、5月の連休に手巻き寿司とか刺身とか食うんだろ、どうせ」という発想に違いない。そういう大型スーパーばかりが立ち並ぶジェネリックな空間になってしまった田舎町でいかにクリエイティブに暮らすか、そこは俺たちの腕の見せ所だ。いずれにせよ、墨のとれないスルメイカではなく真イカが手に入ったのはまったくラッキーだった。


2011年5月2日(月)くもり

インフルエンザでたっぷり一週間休んだあと、ようやく出勤日だと思ったら、連休の中日。まあキャンパスの静かなこと。ふにふにと溜まった仕事を済ませる。

明日からの三連休にはまた妻の実家に手伝いに行くことになっている。いつものことだが、イヤもオウもない。連休には久しぶりにハンダコテ持ってなにか作って遊ぼうなんて思っていたが、そういうオッサンの道楽の場所はこの世には用意されていないようだ。ただまあそれは一方では、俺の薄志弱行、発想の乏しさ、計画性のなさのせいでもある。自分のダメさ加減を呪いながら夜の道を帰途に着く。膝が痛いから、明日は天気が悪いのかもしれぬ。


2011年5月1日(日)はれ

日中、妻がいない。午前中は子供らを教会学校に連れていき、昼食に冷やしうどんを食わせ、妻が用意していたDVDのアニメを見せる。妻が戻ってから独りで散歩に出て、「お国言葉のようなものは保存すべきか、または滅んでもかまわないか、滅んでもかまわないとしたら、保存してもかまわないか、または積極的に滅ぼすべきか」とかなんとかいうテーマについて考えながら (って、一所懸命考えたところで、こんなことは、どうせなるようにしかならないんだけど)、書店に行き、中村元・三枝充悳『バウッダ』(講談社学術文庫)を買ってきた。

「DVDのアニメを見せる」「アニメのDVDを見せる」どちらもあまり適切とは思えない。見せたのはアニメだが、「DVDのアニメ」ではなく「こまねこのアニメ」「かいけつゾロリのアニメ」「ドラえもんのアニメ」である。「ほーらこのアニメの主役はDVDだよ」なんてことはない。だから「DVDのアニメ」ではない。さりとて、「ほーらこれがアニメのDVDだよ」と言ってDVDメディアを見せたわけでもない。ということは、これはDVDではなかったのか。いや、やっぱりDVDなのだ。妻がツタヤで借りてきたのは間違いなくDVDだ。では、俺はどう言えばいいのだろう。

そういえば、教会学校に行く途中の市内電車の車内で「法テラス」の広告が流れていたのだけど、業務内容を「法的トラブルの解決」と言っていたのは、これ、立法権を僭称しているのではないだろうか。「法的トラブル」すなわち法律まわりのトラブルを解決できるのは、法律を改正する権限をもつ国会だけだ。そして、「トラブルの法的解決」ができるのは司法権をもつ裁判所だけ。法テラスの業務は「トラブルの解決へ向けて、とくに法的条件について助言する」ということのはずだ。とはいえ、車内放送の限られた時間内で「トラブルの解決への法的条件について助言する」とか言っていたら、もっと大事な事業所名や所在地が言えなくなる。なんというか、世の中本当に不自由だ。

まつちかのカッパ
まつちかの噴水んところに、このごろカッパがいる

そのようなわけで、今月から「て日々」はHTML5だ。いまのところ、HTMLソースのタグの閉じかた以外には何の違いもないけどね。