て日々

2010年12月


2010年12月31日(金)くもり

年末恒例妻のプリウスの車内清掃。しかし空気が冷たく風が強くて、とても寒い。あまり念入りにはできなかったが、【息子】が赤ちゃんの頃と比べるとそれでもゴミやヨゴレはずいぶんマシになった。料理は昼のカレーライスを担当。夕食が一段落しようという時分に義弟のヨースケくんが登場。いよてつ高島屋の地下で秋のうちに買っておいた「蔵王蕎麦」を茹でて、年越し蕎麦を作った。お世辞にも実り豊かな一年だったとは言えないが、どうにか無事に年を越せるのはありがたいことだ。


2010年12月30日(木)くもり

例年どおり【娘】はじいちゃんと二人で油谷のじいちゃんの実家へ日帰りドライブ。夏に意気投合した親戚のミーちゃんに会えると【娘】は期待していたが、まあ、あちらさんにも都合というものがあり、残念ながら会えなかったそうだ。俺は今日は朝食のオムレツと昼食の野菜炒めを担当。午後、【息子】一人ならまだしもおとなしいので、妻は修士論文の作表をし、俺はボレルの本を読んで、それぞれけっこうはかどった。


2010年12月29日(水)くもり

昼食にはトマトソースのスパゲティを作る。昼食後、隣の市のマクドナルドへ行ってiPadで仕事メールをチェック。妻の実家のある町にはマクドナルドもないので、まあ仕方がないのだが、ネットワークにアクセスする必要に迫られるたびにマクドナルドまで出向いてコーヒーなりハンバーガーなり食うくらいなら、Pocket WiFiをソフトバンク回線に切り替えて従量制で接続してもいいように思えてきた。とはいえ、際限なくパケット代を払うのもイヤなので、できるだけネットワークなしで作業しよう。それで、今日はまだ日記の更新もしない。

夕食には牛刺しと赤ワインをご馳走になった。深夜、ボレルの本の視写を少しだけ進める。


2010年12月28日(火)くもり

妻の実家はネットワーク常時接続環境ではないし、イーモバイルのサービスエリアでもないので、ツイッターもできないし、仕事のメールも読めない。本を読んだり子供の相手をしたりする他は、たいてい何を食うかということばかり考える。義父は仕事があり、義母は少し身体の自由がきかないので、自然、俺や妻がオサンドンになる。朝食の味噌汁とおひたしを作り、昼食のラーメンを作った。ラーメンに入れた味玉は一昨日の深夜から仕込んでおいて密閉容器に入れて持ってきたものだ。夕食はアイディアだけ俺が出して調理は妻に任せたが、夕食後、明日に備えて牛すじと大根の煮物を作った。

ボレルの本はひとまず第1章のしまいまで読んだ。「不可算な集合が実効的に (effectivement) 存在する (il existe) ことを証明する」と言って、実数の単位区間が不可算集合をなすことの区間縮小法による証明を述べ、そのあとで、

この (連続体という) 観念の起源と本性について, 正整数の集合 \(E\) についてした以上に長々しく語ることはよそう; \(0\) と \(1\) の間にある数の集合 \(C\) が 《与えられている》 (étre donné) と認め, そのことがいかにしてなされうるかについては追求しないでおこう. (E.ボレル『函数論講義』, 原書15-16ページ)

と宣言する。ここで「存在」と「与えられる」の区別を重視しているように見受けられる一方で、その区別についての十分な説明はない。だいたい、可算集合の個々の要素が「与えられる」のと同じ意味で連続体の個々の要素が「与えられる」とは思えない。最終的な判断は全文を読み終えてから下さないといけないが、ここまでのところ、ボレルのやり方からは、ややご都合主義的な印象を受ける。哲学的にはまったく不徹底だが、これはこれで、実践的な態度と言えないことはない。


2010年12月27日(月)くもり

午前中は、先週火曜日に受講者の都合でキャンセルになった三年生セミナーの補講をする。その後、船で柳井に渡る。曇り空の下、静かな瀬戸内の航海。船中ではiPadにイヤフォンをつないでトミタのシンセサイザーを聴く。「アランフェス」に始まり「ソラリスの海」で終わる『宇宙幻想』のB面がぴったりだ。妻の実家に着くなり、一息もつかせずまた妻の車に乗って出発。義父の車に先導されて、山沿いの道を走る。クリスマスに派手な電飾をしていた家がたくさんあるので、それを見て回ろうというのだ。家をLEDで飾り立てるのも関心しないが、見て回るのもどうなんだか。帰宅して寿司を食って酒を飲んで就寝。


2010年12月26日(日)くもり

四人でパルティ衣山のお好み焼き「徳川」で昼食。その後、妻子は一足早く帰省。俺は明日の仕事があるのでもう一晩松山に残る。夕食は自宅でひとり湯豆腐。

くまごろーとむうむうたん
くまのむうむうたんとパソコンのくまごろーはお留守番

ボレルの本の序文にある次の一文:

il y a toujours avantage, pour le lecteur qui désire approfondir une question, à recourir lui-même au Mémoire original.

今年の8月に序文だけ読んだときは、これを「問題への理解を深める手がかりを原論文に求める読者には、かならず収穫がある」と読んだのだけど、今日になって辞書で approfondiravantage の成句を調べてみたら、どうもこれは「どんな場合でも、問題を深くきわめようとする読者は原典に当たるほうがいい」と読んだほうがいいようだ。それで、「どんな場合でも、外国語を正確に理解しようとする読者は辞書に当たるほうがいい」という教訓を得た。


2010年12月25日(土)くもり

いつもの医者に書類をとりに行った。受付のお姉さんに「あ、はいはい。ちょっと待ってくださいね」と言われて待合室の椅子に座る。一時間ほど本を読みながら待った。最初のうちこそ椅子が足りないくらいいっぱい待っていた診察の患者さんは、診察終了時間が近づくにつれて、どんどん捌けていく。俺はどうやら全員の診察が終るまでステオカレるようだ。きっと、なにかよほど説明に時間のかかる書類なんだろう。自分にそう言い聞かせつつおとなしく待つ。それにしても、ただでさえ辛気臭い精神科の待合室でこうしてずっと読書していたのでは、肩ばかり凝ってかなわん。可能ならば一度外へ出よう。それで、さっきの受付のお姉さんに「これこれの書類ですけど、まだ時間かかります?」と聞いたら「あっ、すみません!!」…単に忘れられていただけだった。すでに用意されている様式と診断書を受けとり、簡単な説明を受けて、診断書の料金を払って、トータル1分で片付く話だった。

夕方は、集中講義をお願いしている二人の先生との懇親会に出かける。スペイン料理の店 Vaso de Oro (店舗情報: グルメこまち, ホットペッパー.jp, 食べログ)。 料理もワインもうまかった。とはいえ、あまり飲まなかったのと、野倉副学長とゲストの服部先生とのやりとりが面白くて長居してしまったため、酔いはすっかりさめている。それで、歩いて帰ることにする。えらく寒いと思ったら、空に粉雪が舞っている。


2010年12月24日(金)はれ

もう冬休みなのだが、学部と大学院に集中講義が入っている。このごろは開講期間中にゲストの先生を呼んで集中講義を開くことが許されないので、23日の祝日からクリスマスをまたがって26日までというスケジュールでやらざるを得ないのだ。きょうはゲストの先生二人を囲む昼食会と数学談話会。談話会会場の片付けをして外へ出ると、この時間には大学の前の道を沢山連なって通っているはずの車が、いつになく少ない。寒い上に荷物が多いので、歩くのはやめて電車で帰ることにした。

クリスマスイブなので、夕食後にみんなでケーキを食べた。妻へのプレゼントはハロッズのベア柄のエプロンと、Mary'sのクリスマスオーナメントの形のチョコレート。【娘】には『黒魔女さんが通る』シリーズの本4冊。【息子】にはカシオのミニキーボードと、100均で買ったラッパのオモチャ。妻が俺に無印良品のノートカバーとペンをくれた。どうもTwitterで俺がフォローしている若い人たちの中にもクリスマスが近付くと言動がおかしくなる人たちが増えるようで、見ていて痛かった。


2010年12月23日(木) 天皇誕生日くもり

【娘】と二人でフジグラン松山に行った。かつて吹奏楽団で並んでサックスを吹いていた宇宙物理学者のイデウエお姫さまに遭遇した。何度か顔を合せているはずだが娘はイデウエお姫さまを知らないというので紹介した。「このお姉さんは、パパの大学で宇宙のことを一生懸命勉強している人なんだけど、きょうは空が曇っているから、お仕事がお休みなんだよ」って、そりゃ昔の天文学者だよ。いまの宇宙物理学は、可視光線に限らず、電波からX線やニュートリノまで、宇宙空間から飛んでくるあらゆる種類の情報に目を向ける (ただし、紫外線に目を向けたら目がやられるから、良い子はマネしない!) だから、必ずしも望遠鏡で空を覗く仕事ではないし、雨だからといって休みになるわけではない。

いや、そんなことはともかく、フジグラン松山で、料理酒と白だしとビールと、明日のためにクリスマスプレゼントを入れる袋を買った。ほかに宮西のブックオクにも行き、【娘】の読みたい本を一冊と、【息子】に読ませる本を二冊買った。


2010年12月22日(水)くもり

昨晩おそく、妻が喘息の発作を起こした。いままでにもあったことらしく、自分で車を運転して急患センターへ行って点滴を受けて帰ってきたが、修士論文の追い込みの時期だけに心配だ。

午後、ほんの少し早めに仕事を切りあげて散髪に行った。

日記のネタもあまりないので、古い話を書こう。いま、志賀先生の『無限をつつみこむ量 - ルベーグの独創』(紀伊国屋書店 2008年)を読んでいるので、ちょっと昔話を思いだした。

後日追記:次のパラグラフの意味がわかりにくかったので、書き直した。両大戦間にポーランドで学生だったと誤解されても困るからな。(2010年12月26日)

集合論を応用した新しい数学の発展に大きく貢献したのが、シルピンスキ、クラトフスキ、バナッハといったポーランド学派の数学者たちだ。そのポーランド学派の数学者たちのプロフィールを語った、志賀浩二先生の『無限からの光芒』が、雑誌「数学セミナー」に初出したのは1986年。俺は立命館の理工学部数学物理学科の学生だった。志賀先生のこの文章に魅了されたことが、のちに俺が大学院で記述集合論を研究するきっかけになった。『無限からの光芒』の「数学セミナー」への連載は比較的短い期間で終ったが、2年後の1988年にはずっと内容を拡充した単行本となって出版された。この本の140ページに奇妙な命題がある。バナッハの証明した定理だという

定理10. 連続体仮説を仮定する. そのとき, 数直線上で定義された非可測関数 \(\varphi(x)\) で, 高々可算集合を除いて連続となるものが存在する. (志賀浩二『無限からの光芒』(日本評論社1988年), p.140)

この記述に気付いたときには慌てた。もしも本当なら一大事で、ルベーグ測度論をイチから勉強し直さなければならない。1991年にすでに愛媛に来ていた俺は、愛媛大学にないバナッハ著作集を読むために広島大学理学部を訪ねてバナッハの「定理」の原典を探したが、もちろん見つからない。ひょっとしたらシルピンスキの著書 «L'Hypothèse du Continu»にあるかと思って探したりするうちに、結局この命題が間違いであることに気がついた。

《命題: 高々可算集合を除いて連続であるような実関数はルベーグ可測である》
(証明) 実関数 \(\varphi(x)\) は可算集合 \(D\) を除く各点で連続だったとしよう. すると, \(\varphi(x)\) を補集合 \(\mathbf{R}\setminus D\) に制限した関数は \(\mathbf{R}\setminus D\) 上の連続写像である. ターゲット空間の開集合 \(U\) が任意に与えられたとする. 連続写像 \(\varphi|_{\mathbf{R}\setminus D}\) のもとでの \(U\) の逆像 \((\varphi|_{\mathbf{R}\setminus D})^{-1}(U)\) は \(\mathbf{R}\setminus D\) の開集合である. これは \(\mathbf{R}\) のなんらかの開集合 \(W\) について \[ (\varphi|_{\mathbf{R}\setminus D})^{-1}(U)=W\cap(\mathbf{R}\setminus D) \] となることを意味する. いっぽう \[ (\varphi|_{\mathbf{R}\setminus D})^{-1}(U)=\varphi^{-1}(U)\cap(\mathbf{R}\setminus D) \] である. したがって, 開集合 \(W\) と逆像 \(\varphi^{-1}(U)\) のあいだには, \[ \big(W\setminus\varphi^{-1}(U)\big)\cup\big(\varphi^{-1}(U)\setminus W\big) \subset D \] の関係がある. すなわち, 開集合 \(W\) に集合 \(D\) の要素をいくつかつけ加えたり, またとり除いたりして, 逆像 \(\varphi^{-1}(U)\) が得られることになる. \(W\) はルベーグ可測集合, \(D\) は可算でルベーグ零集合なので, \(\varphi^{-1}(U)\) もルベーグ可測集合である. 任意の開集合 \(U\) の逆像がルベーグ可測集合となるので , \(\varphi(x)\) はルベーグ可測関数である (証明終)

俺はこの年(1991年)の夏の終わりに、この証明を添えて、あの定理10はどうも間違っているようだが、確認したいので出典を教えてほしい、と志賀先生に手紙を書いた。秋になって、丁寧な返事をいただいた。この定理は、バナッハの業績について述べた他の人の論文を見て奇妙な結果だと思って書き写したもののようだ。あるいは自分の誤記かもしれない。バナッハ自身がこれを証明したということの裏づけが執筆時にあったわけではないし、いまその裏づけをとる作業にあてる時間もないので、いずれ調べてみる。そういう内容だった。その年の暮れに愛媛大学の教育学部に志賀先生が集中講義にいらっしゃったので、お目にかかってお話をうかがい、著書にサインもいただいた。いまとなってはいい思い出だ。


2010年12月21日(火)あめ

卒業研究セミナーでは、まず「チャーチの提唱」について俺が小一時間レクチャーした。

まず「チューリング機械」と「ランダム・アクセス機械」という二つの計算モデルの概略を示した。次に、これらの計算モデルの範囲での「計算可能関数」の範囲が「帰納的関数」の範囲と一致することをざっと説明した。さらに、現在までに提示されたおよそいかなる計算モデルも帰納的関数の範囲を越える計算可能関数の例を出していないこと、明示的に数学的に定義されたなんらかの計算モデルにゲーデル数化の方法を適用して「表現可能な関数」(その範囲は1階自然数論の無矛盾性の仮定のもとで帰納的関数の範囲と一致する) へ還元できないという事態はきわめて考えにくいこと、そうしたことをも指摘し、このさい「帰納的関数」ということを、本来は定義のしようがない「計算可能関数」の定義にしてしまおう、というのが「チャーチの提唱」なんだよ、と説明。それから、「チャーチの提唱への反例が提出される可能性はないわけではないが、しかしそうした可能性は現在マトモに相手にされていないよ」とつけ加えてしめくくった。

それから学生さんが11.5節の講読をして第11章を終えた。午後の部はお休みにして、年内の卒研セミナーはこれで終わり。その後、4限の3年生セミナーの唯一の受講者からメールで体調不良のため休ませてほしいとの連絡がきて、午後はまるまる空き時間となったので、E.ボレル『函数論講義』(1898年)の続きを読んだ。

ボレルは、集合論の解析学への応用を論じたこの本で「三つの自然数を添字としてもつ要素 \(u_{m_1,m_2,m_3}\) の集まりが可算集合であること」の幾何学的な証明を紹介している。概略つぎのような話だ:

このような集合は三次元の座標空間中の、成分がいずれも整数であるような点のなす集合と同じ濃度をもつ。座標原点を中心とし半径が正の整数 \(1\) であるような球 \(S_1\) をとり、その内部に入るこの(格子点の)集合の要素を数えると、その数は有限 (limité) である。それらに \(1,2,3,\ldots,p\) という番号をつけよう。次に中心が \(S_1\) と同じで半径が \(2\) であるような球 \(S_2\) の内部にあるこの集合の要素で、まだ番号がついていないものに、\(p+1,p+2,\ldots,q\) と番号をつけよう。次には \(S_3\) の内部にあってそれまでに番号づけされていない要素に \(q+1,q+2,\ldots,r\) と番号をつけよう。以下同様に続ければ、この要領ですべての要素にいずれ一意的な整数の番号がつくことになるので、この集合は可算集合である。

いわゆる abstraction の記号 \(\{~|~\}\) や座標の \(\langle x_1,x_2,x_3\rangle\) という形の表示が普及していない時代のことだから、言っていることは少々読みとりにくいが、数学的内容はむしろ明快だ。この証明で、ボレルはおそらく無意識に選択公理を使っている。しかも、この文脈では、その使用は避けようと思えば避けられる。同じボレルが数年後に選択公理を明示的に採用したツェルメロを強く非難したことを知っているわれわれには、これはいささか軽はずみなことにも見える。さてそれでは、これをボレルの迂闊さと取るか、それとも、集合論が数学の基礎となっていく転換の過程のごく初期における、集合観の深浅を測るひとつの事例と取るか。いや、まだ結論を出すときではない。先に進もう。


2010年12月20日(月)はれ

セーターの上に革ジャン着て出かけたら汗かいた。

夕方には談話会。多様体列の収束という自分にとっては初めて耳にする話題の話だったが、講師の本多さんのしゃべりが上手だったこともあり、楽しかった。

引き続きE.ボレルの本を読む。それとルベーグ積分論の復習を開始。ただし、まだ「ルベーグの積分論」ではない。


2010年12月19日(日)くもり

昼食にラーメンを作り、午後から県立図書館に行き、ジュンク堂に行き、ミスドに行って帰った。妻のためにNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の公式ガイドブック(1&2巻)を買い、【息子】のために壁に貼るタイプの五十音表を買った。【娘】のための買いものもあったがそれは《秘密》だ。自分のためには中根美知代『ε-δ論法とその形成』(共立出版2010年)を買った。図書館で借りたのは、アダマール『数学における発明の心理』(みすず書房)、志賀浩二『無限をつつみこむ量 -- ルベーグの独創』(紀伊国屋書店)、高木貞治『定本 解析概論』(岩波書店)、佐々木力『数学史』(岩波書店)。以上は中根の本を含めて、ルベーグ積分の形成に関する資料として利用する。それと少し系統が違うが中世哲学史に関する本を一冊借りた。年末年始に読む本はもうこれで十分。


2010年12月18日(土)くもり

幼稚園のクリスマス祝会。【息子】が生誕劇で「博士その2」をやる。それで俺と妻と【娘】が見に行くはずだったのだけど、どうも俺は朝からダメダメで、人がいっぱいの礼拝堂に入って行けなかった。こんなことで妻子に心配をかけちゃいけないと思ってはいるのだが、やっぱりダメなのだった。ごめん。

礼拝のあとのパーティーには園児と保護者一名しか参加できないので俺が【娘】を連れだす。三越の地下で《妻に内緒の買い物》をして、トマティナ(店舗情報: 食べログ, グルメこまち, ぐるなび)で昼食。トマティナはリーズナブルな値段でうまい生パスタを出す。おすすめの店だ。

【娘】は午後はユーリちゃんと遊ぶ約束をとりつけている。パーティーがお開きになって、妻と【息子】が幼稚園から出てくる。俺たち一家&ユーリちゃんが三番町「じい家」の前に集結。ここでは土曜日の午後に無農薬野菜や天然魚の市をやっているのだ。野菜とイカを買って俺と妻と【息子】は家に帰る。【娘】はユーリちゃんと遊んで、夕方にはちゃんと自分で電車に乗って帰ってきた。


2010年12月17日(金)くもり

ボレルの本を開くが、フランス語の文章がぜんぜん頭に入ってこない。仕方がないので、パラグラフごとに、一字一句残さず全部紙に書き写す。初めて見る単語は案外少ない。書き写してから理解のあやふやな単語を辞書で確認すると、ほどなく文意がつかめてくる。なんのことはない、頭に入ってこないのではなく、ゆっくりていねいに読む根気を失っていただけだ。しばらくこの視写方式で読み進むことにしよう。

午後の卒業研究セミナーは前原本第11章。「帰納的関係」と「表現可能な関係」と「計算可能な関係」の外延の一致について論じる。しかし「計算可能」ということについては、チューリング機械にせよ何にせよ、計算モデルへの言及が一切ないので、なんだか雲をつかむような話になってしまっている。こういう、セマンティクスへの言及の足りなさが、この本の弱点といえば弱点で、そういえば、全体のテーマが「不完全性定理」であるのに「完全性」とは何かという説明もない。それで「チャーチの提唱」についてはこちらで少し説明することにして、11.4節は飛ばし、来週火曜日に11.5節をやって、年内に第11章を終える予定にした。このさいだから1月のうちに第12章を終えて、大雑把ながら全部を通読してから卒業してもらおう。

今年最後のピアノレッスン終了後、市内電車で大街道へ舞い戻る。ゼミ生との忘年会である。「もつ鍋専門店かない(店舗情報: グルメこまち, ホットペッパー.jp, イーノ, グーチョキ)」で 安くてうまい もつ鍋を堪能し、二次会は例によってボウリングだ…、と思ったけど、クリスマス直前の週末とあってボウリング場では待ち時間発生。まあ、待ってまでボウリングに拘る気もないので、マクドナルドの3階に席を占め、iPadのエアホッケーで総当たり戦。宴会の前にコンビニで買っておいた缶入りのお酒が今回の賞品だ。ところがiPad所有者に一日の長があったか、俺が優勝してしまったので、学生さんたちだけで二部リーグを開催して受賞者を決めた。その後、パズルゲーム「Floe -- a little bear needs your help」を教えたら学生さんたちはずいぶん熱中した。さすが数学科だ。


2010年12月16日(木)くもり

ずいぶん寒くなった。砥部や中山では雪も降ったそうだ。珍しく、妻とふたりで昼食。天一のラーメン定食。

かねてからの構想を実行に移そうとすると、やることに順番をつけないといけない。まず調べるべきなのが、ルベーグの1902年の学位論文と、1905年の論文『解析的に表示できる函数について』。両者の間の1904年に、ツェルメロの整列定理をめぐるアダマールとの論争が入る。いや、決して数学史をやろうというのではない。ひとつのトピックを軸に数学のいろいろな話題をまとめていこうという試みだ。たとえて言えば、歴史小説は史学を無視できないが、史学ではない。

こんにち、測度論は \(\sigma\)-加法的集合代数の一般論から説きおこし、そこで定義された\(\sigma\)-加法的集合函数という抽象的なセッテイングで測度を論じて、可測函数・積分・収束定理という順番に進む。これは大学での講義などに適した論理的に整理された順序だけど、ルベーグ不可測集合をめぐる集合論の研究成果を云々するという目的にはそぐわない。ルベーグ積分は抽象空間論と並んで、集合論の解析学への応用の初期の顕著な達成である。ルベーグ不可測集合の存在には選択公理をめぐる議論が不可欠だ。ソロヴェイがルベーグ可測性のモデルを作ったさいには、連続体仮説の独立性を示したコーエンの方法を精密化するという手法が持ちいられる。ソロヴェイがそのさいに導入した到達不能基数存在の仮定は、ウラムの測度問題から派生した巨大基数公理研究のなかで得られたものだ。これらすべてのことは、抽象的なセッティングで理論を経済的に展開するために集合論を用いるというブルバキ的パラダイムには収まりきらない有機的な仕方で、集合論の歴史に絡みついているのだ。

ひとまず、今年の7月に取り寄せたボレルの本を繙いて、19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランス解析学派(というものがあるのかどうかはともかくとして)の集合論の応用についてイメージをつかむことにする。この段階を抜きにして、記述集合論の成立の経緯や、その発端における問題意識を理解することはできないと思うからだ。


2010年12月15日(水)くもり

トポロジーの講義。予定回数の3分の2を費やしてようやくホモロジー群の定義にたどりついた。群論を一通り知っていれば「剰余群 \(Z_n(K)/B_n(K)\) のことを \(H_n(K)\) と書いて \(K\) の \(n\)-次元ホモロジー群という」と10秒で終わってしまう話に、まるまる90分をかけるのだから仕方がない。ホモロジー類が鎖の和についてconsistentであることを複数の観点から説明してホモロジー類の和を定義し、\(H_n(K)\) がこの和のもとでアーベル群になることをちゃんと証明したので、これはほとんど、前期の代数学Iの授業の繰り返しということになる。それで、最初に「代数学Iを完璧マスターしている人は寝ててもいいけど、ちょっとでも《あれ?どうだったっけ》ってところがある人はちゃんと聴いててください」と前置きしたのだった。効率は悪いが、ちゃんと理解してもらうためには、どうやらこれくらいやらないといけないようだ。年内の講義はこれで終わりだから、年明け提出の宿題を出したうえ、前回提出してもらった宿題に数学上のマチガイがあった人や未完成だった人には再提出を求めることにした。


2010年12月14日(火)くもり

かがみさんが「ボレル集合→ルベーグ可測集合」と「有理数→実数」というアナロジーが成立しないだろうか、なんて、なかなかうまいことを言っていた。どちらも完備化であり、また整然たる秩序の世界から混沌と闇の世界への移行でもある。ルベーグの積分論はルベーグ可測集合と可測関数のクラスを設定することで成功した。だが、ボレル集合のクラスと比較すると、ルベーグ可測集合のクラスはまったく正体不明だし、個々のルベーグ可測集合だって何者なのかはわからない。もちろん、積分論にとっては、そうした可測集合の「存在論的身分」はまったく問題にならない。同様に、解析学にとって個々の実数の「存在論的身分」は問題にならない。完備化という操作のアリガタイところオイシイところだけをとって、完備化によって招き寄せてしまった闇の部分を見ないというのが、正しい数学的実践というものなのだ。だが集合論を専門的に勉強するということは、普段見ないことにしている闇の部分にあえて踏み込むことでもある。そして、いわば清濁併せ呑む懐の広さが集合論の面白さだということが、だんだんに判ってくる。

すでに何度か指摘しているとおり、完備化という操作は集合論という枠組みがあってはじめて正当化される。数学が集合論を必要とする理由は実のところそういうところなのだ。もともと世界には存在しなかったかもしれない、コーシー列の(仮想的な)極限値を、そのコーシー列(の同値類)自体を数とみなすことで現実のものとする。それが完備化であり、集合論は、すべてのコーシー列の集合を形成し、つぎにその集合を漸近関係で「割る」という、ふたつの操作を可能にすることで、完備化の存在を保証してくれる。位相空間のコンパクト化や体の代数的閉包にしても同様だ。集合論は完備化の親玉のようなものであり、数学的対象の存在論の最終的な拠り所になるという意味において「数学の基礎」である。とすると、集合論の世界こそ、すべての数学的モンスターの故郷であり、光と秩序の世界を浮べる究極の闇と混沌ということになる。

難波完爾先生は著書『集合論』(サイエンス社)において、順序数全体のクラス:構成可能的集合のクラス\(\mathbf{L}\):全集合のクラス \(\mathbf{V}\) の三者を、有理数体:代数的数の体:複素数体 に類比してみせた。かがみさんのアナロジーに重ね合わせることができるだろう。整然たる秩序の有理数の世界とすべてを包み込む闇をたたえた複素数の世界の中間に、秩序の限界としての代数的数の体がある。これに類比的に、すべての集合のクラス \(\mathbf{V}\) は豊かなカオスで、順序数の秩序の及ぶ限界として構成可能的集合のクラス \(\mathbf{L}\) が考えられる。

(あ、念のために言うと、実数や複素数が混沌だというのは代数学の観点からみた話。函数論的には複素平面こそ秩序の世界。)

だけど、現在の集合論の動向を考えると、\(\mathbf{L}\) が秩序の限界とはさすがに狭すぎる。むしろ \(\mathbf{L}\) は有理数体そのもののような整然とした小さな世界で、カオスの \(\mathbf{V}\) に向かう秩序の限界点としての究極の内部モデルはどんなものか、その答えが模索されているというところだろう。

だから、いまの時点で 有理数体:代数的数の体:複素数体 に類比するなら、構成可能的集合のクラス \(\mathbf{L}\):未だ見ぬ究極の内部モデル:全集合のクラス \(\mathbf{V}\) の3項ということになるか。

ルベーグ可測集合のクラスについて同様なことが考えられる。ボレル集合とルベーグ可測集合の間にある秩序の限界というべき中間項として、かつては《絶対\(\mathbf\Delta^1_2\)-集合》が考えられていた。真の \(\mathbf\Delta^1_2\) はそもそもルベーグ可測性が(ZFC集合論では)保証されておらず、むしろ \(\mathbf{V}\) に近い混沌としたクラスだと考えられていた。この感触は、計算論的観点に立てば、いまでもたしかに間違っていない。だが、巨大基数公理の研究が発展しそれらと記述集合論の関連の知識が増えてきた現在では、違った見方がでてくるのもまた自然なことだ。ベースの理論がZFCであれば、たしかに絶対 \(\mathbf\Delta^1_2\)-集合のクラスが秩序の限界とも見える。しかし、巨大基数公理(とりわけその一種であることがわかった決定性公理の各種バージョン)のもとでは、射影集合の階層にも整然たる秩序が確立されることはモシュコヴァキスの著書に詳論されているとおりだ。そうした観点に立って、現時点で秩序の限界たるべき中間項を求めるとすれば、それはなんといっても《普遍ベール的集合》ということになる。「ボレル集合:普遍ベール集合:ルベーグ可測集合」という3項が、「有理数:代数的数:複素数」に類比的、といえる。


2010年12月13日(月)あめ

朝出かけるときたまたま雨が止んでいたので傘を持たずに出たら、電車を降りたころからまた降りだして、けっこう濡れてしまった。


2010年12月12日(日)くもり

夕食の食材を買いに行ったついでにスーパーの隣りの書店に立ち寄る。といって、いまは読む本がなくて困っている状態でもお金が余って困っている状態でもないので、自分の本は買わない。ただGoodReaderやらiPadやらの解説本やムックなどをパラパラめくってみる。買ったのは【息子】のひらがなドリルだけ。週末をダラダラ過す悪い癖がついてきたので反省しなくてはならない。

ところで、Floe -- a little bear needs your help というiPadのパズルゲームは、かわいくて楽しいぞ。


2010年12月11日(土)はれ

朝食にカボチャの煮物を作ったらうまかった。いつものように【娘】をお絵描き教室へ連れていき、帰りにマルナカで食材を買う。昼食は鮭と豚肉の鍋。それと鶏レバーの煮物。

少し昼寝をしてから妻の車でジョープラへ。「ペヤング超大盛やきそば」はジョープラ1階のママイでも売っていることを確認。しかも大学で買うより10円安い。あと、パン屋で子供たちにコルネを買ってやる約束だったが、そもそも売ってなかったので見送った。子供たちは、コルネもさることながら、メロンパンにカメさんの手足と頭をつけた「カメロンパン」を見つけて、ずいぶん欲しがったのではあるが。

夕食は牛すじ。なんか最近煮物ばっかり作っている。

きょうは芋焼酎を飲みすぎた。


2010年12月10日(金)はれ

朝、西洋哲学専攻の人たちと少しTwitterでやりとりをした。「勉強」という意味をもつ英語の study の語源はラテン語 studium で、これはもともとは「勤勉さ」「熱意」といった意味であったそうだ。それが「勉強」という意味になった経緯は知らないけど、もともとがそうであったからには「勉強」という訳語は適切なものであると俺には思われる。「勉め強いる」ということから「強制」のニュアンスを感じとる人は多いかもしれないが、その感性に (勉強なんてイヤなものヤリタクナイものに決まっている、という) バイアスがないとは、俺には思えない。「勉強」に含まれる(と人が感じる)強制のニュアンスを嫌ってか、お役所言葉では、学生さんは「勉強」ではなく「学習」することになっている。だが俺の感性にも妙なバイアスがかかっていて、「学習」というとどうしても「電極のついたネズミが迷路を走る」イメージ、実験動物のイメージがついてくる。そのように言うと、あるライプニッツ研究者さんが「ぼくはジャ○ニカ学習帳のせいで、学習というと小学校を思い出します…」と言った。

なるほど。でも(…何が「でも」なのか知らんが)、俺が子供のころ定期購読させてもらったのは「学習」ではなく「科学」だった。それで、「小学生だった俺の心に 学習研究社 は人類の叡智の象徴のように見えたもんです(懐)」とつぶやいたら、賛同者多数。いや実際、あの「月刊ムー」が学研の発行だと知ったときの残念感ったらなかった。

まあ、人類の叡智の象徴といえば、学生時代には「英知出版」の刊行物にも世話になったものだが。

4年生ゼミ。前原本10.4節は、ここまでの証明をすべてたどりなおす以外の方法では読みようがない。さすがにそれはやってられないので、話の流れを確認するだけに留めて、さっさと第11章「帰納的関数」へ進むことにした。どうせ、そこでも実質同じことをやるのだ。

ピアノのレッスン。来年の出しものはやはりドビュッシーに決めた。あと、ツェルニー40番をやる。がんばりましょう。

久々に茜屋に夕食に行った。(店の情報: 食べログ, グルメこまち, ホットペッパー.jp)


2010年12月9日(木)くもり

朝飯がもの足りなかったので、職場の売店で「ペヤング超大盛やきそば」なるものを買って食った。よくあるインスタントやきそばなのだけど、麺が普通のカップやきそばの倍くらいあり、売価198円に対して公称エネルギー1099kcalという体育会系貧乏学生様御用達の代物だ。これ、いままでも朝飯が足りない場合に食ってたのだけど、普段は午後2時くらいにはちゃんと腹が減って弁当が食える。ところが今日に限って、月に一回の集中形式の授業があったのを思い出して、その準備などしているうちにすっかり弁当のことを忘れてしまった。午後7時を回ってそろそろ帰ろうと思ったころ、仕事場のテーブルに置いた弁当箱を見て「ありゃ?」と思った次第。せっかく作ってもらった弁当をうっかり持たずに出かけたことはこれまでにもあるが、持ってきた弁当を、朝に食いすぎたからとはいえこんな時間まで食い忘れているというのはいままでになかったことだ。仕方がないから、持ち帰って夕食として食った。

そして、あのインスタントやきそばがいかなる意味において「やきそば」なのか、かねてより俺は疑問に思っているのであった。


2010年12月8日(水)くもり

講義。ようやくホモロジー類の定義をした。公式な定義は「剰余群」とひとこと言えば終わるのだが、授業ではそういうわけにいかない。いつものとおり一次元の例でホモローグのイメージを伝え、ホモローグが同値関係であることをちゃんと証明し、鎖\(c\)とホモローグな鎖全体の集合を\([c]\)と書いて\(c\)のホモロジー類と呼ぶと定義し、\([c]\)が鎖群の分割になることを示してから、「同値関係の性質だけ使って示されたってことは、これはホモロジー類に特有の性質じゃなくて、およそ同値類への類別に共通の話なんだぞ」とやる。計算問題もやってもらわにゃならん。ホモロジー類の全体がホモロジー群という足し算の定義された群になるわけだけど、その話は次回ということになった。7枚書いたノートの4枚分しか喋っていない。それなら、7枚分の手間を4枚にかけて丁寧に準備したほうがいい。次からそうしよう。

授業が済んで自室で一息入れているころ、急に激しい雨と霰。夕方から数学談話会。幾何・代数・位相空間論といった分野を横断した話で面白かった。夜には小学校の社会科見学でポンジュース工場を見学してきた娘が熱心にレポートしてくれるのを聞いた。


2010年12月7日(火)はれ

今年のゼミ生たちはどういうわけか、みな「これから〜する」という意味で「〜していく」という表現を多用する。「計算していきます」「証明していきます」など、とにかくセミナー中やたらイクのである。彼らにとってそれが自然なのだろうから、こちらもとやかく言いはしないが、俺の耳には少々ひっかかる。まあ、日本語も変化しているのだ。

言語は生きた人間の営みであるから、時と共に変化したからとて、なんの不思議もない。もちろん変化する言葉づかいの中にあって変化しない不変項もあり、それを文法として取り出すことはできる。だが文法というものも、皆が《そのように使う》からこそ言葉が通じるというものだから、ひとまずは帰納的に抽出されてきたものと考えなければならない。それに、「これから証明します」というかわりに「証明していきます」と言ったところで、文法的にも意味的にも、なーんも間違っていないのだ。

「耳にひっかかる」の正体は、彼らの慣用が俺の慣用と違っていることがあちらとこちらの間の溝を感じさせる、という程度のことである。まあ、年齢を考えれば、たしかに溝はあるかもしれない。だがそれは埋められる溝である。人間というものは因果なもので、わざと人と人の間に線を引き、あちらとこちらの間に溝を掘ることがある。特定の人たちどうしお互いに仲よくするために、グループ外の人たちとの間にわざわざ壁を作ったりする。Aと敵対関係にあるBとCを鬩ぎあわせ両者を消耗させれば、結果Aが得をするから、そのためにAがBとCの不仲を煽るということさえある。人と人をいがみ合わせようとするなら、言葉づかいの違いはまことに格好の材料になる。だが、そんなふうに引かれた線や溝や壁は、越える気さえあれば越えられる。なによりも大事なのはそのことだ。言葉を使うなら、境界線を乗り越え、溝を埋め、壁をうち破り、人と人を結びつける方向に使いたいものである。


2010年12月6日(月)はれ

けさ気付いたのだけど、毎日欠かさず飲まねばならない薬を昨日どうやら飲み忘れていたらしい。昨晩は疲れていろいろ放棄して寝てしまった。そのせいかどのせいか、今日もあまり調子が出ない。最近こんなのばっかり。


2010年12月5日(日)はれ

妻がNPO法人の仕事に出掛けたので、家で子供の面倒を見る。昨日も今日もとてもいい天気であったが、散歩にも出かけず。もったいない限り。

一晩寝かせたイカの墨煮
夕食に出たイカの墨煮
昨晩作って一晩寝かせたので
味がなじんで なんとも美味


2010年12月4日(土)はれ

中央公論新社版『哲学の歴史』第11巻を読んでいる。いよいよ、カントもヴィトゲンシュタインも読んでしまわねばならない気がしてきた。というのも、カントの数学論を理解したうえで、19世紀の非ユークリッド幾何学が数学の基礎の問題にもたらしたインパクトを正しく評価しないと、数学基礎論のそもそもの動機づけが理解できないということに思い至ったからだ。古代から知られていて、中世の哲学者たちにそれなりに研究もされていた「うそつきのパラドックス」が、20世紀の初頭になって数学の基礎への信頼を深刻に揺るがすと判断されるに至ったからには、それに先立って数学と論理に対する認識の大きな変化があったとせねばならない。おそらく、その変化には非ユークリッド幾何学の確立が大きな役割を果していたはずだ。数と図形の科学だと思われていた数学が、論理的な構築物としてのその仕組みを徹底的に再検討されるに至った理由。フレーゲの論理学とカントールの集合論の、それぞれの動機づけ。さしあたって、そのあたりを理解したい。

それにしても、俺はそもそもいったい何が知りたくて研究なんぞしているんだったっけか。


2010年12月3日(金)くもり

ゼミ。前原本の第10章は案外厄介だ。第二不完全性定理の証明は第一不完全性定理を形式的体系の中で表現した論理式がこの形式的体系において証明可能であるということに基づくのだけど、その証明をするために、まさかこれまでの議論を全部繰り返すわけにもいかない。

ピアノのレッスン。これから何を練習しようかという話になる。


2010年12月2日(木)あめ

午前中はいい天気だったが、午後から空が暗くなり、雨が降りはじめた。夕方、雨の中、歩いて医者に行く。少し早く出てきすぎたので予約の時間より30分も前に医院の近くまで来てしまった。だが、直前に道で近所の運輸業者の業務用のカードらしきものを拾得。交番に持っていった。それで15分ちょっとつぶして、予約時間の5分ほど前に医者に到着。普段は千客万来、30分40分待たされることはザラなのだけど、今回に限って待ち合いにはすでに診察を終えた人が一人いただけで、すぐに俺が呼ばれた。予約時間より少しだけ早い。ドクターも「いやあ今日はヒマなんよぉ」と言っていた。


2010年12月1日(水)はれ

授業。いろいろ手際が悪くて期間中にとれなかった中間授業アンケートを実施してみた。評価は悪くはなかった。ただ、準備をもっと丁寧にして、もう少し余裕をもって臨むべきだとは思う。

このごろはこれといった日記のネタもないので、過去の日記の12月1日へ遡ってみる。昨年はこの日に浦島太郎について考察を始めた。一昨年は三日月と金星と木星が夕空で邂逅し、まるで星がアハハと笑っているみたいだった。3年前は鼻風邪をひいており、4年前はツェルニー百番練習曲の90番台をひいていた。なるほど。しかしそんなことばっかり書いてお茶を濁していると、来年には「昨年の12月1日には、俺は一昨年を回顧していた」なんて、からっきし無意味なことを書かねばならなくなるぞ。もっと今しか書けないことを書かなくちゃ。

とかなんとか言っているうちに思いだした。昨日の朝、「わいなべ先生」こと渡邊芳之さんの著書『性格とはなんだったのか--心理学と日常概念』(新曜社2009年)をAmazonで注文。今日にも届くはずだったので、妻に「Amazonから本が届いたら開けて先に読んでていいよ。わいなべ先生の本だから」と朝のうちに言っておいた。だが、午後に届いた本の包みを妻が開けてみると、出てきたのは別の日に注文していたBarwise&Etchemendyの«The Liar»(邦題『うそつき』)だった。妻はこの展開を面白がってくれたのだが、この場合「うそつき」はAmazonか俺かバーワイズか、はたまた わいなべ先生か...。いや、もちろん誰も嘘をついているわけではないのだが、面白い偶然というものがあるものだ。わいなべ先生の本は夜になってちゃんと届いた。