て日々

2010年9月


2010年9月30日(木)あめ

大した降りではないが朝から雨。こういう日はどうしても物憂くなる。竹内外史『新版ゲーデル』(日本評論社1998年)と『数理論理学 語の問題』(培風館1973年)を読む。だが、頭が働き出す前に眠くなる。これはこの稼業にとって死活問題だ。

プレゼンテーション演習一回め。受講者は10人。このごろの学生さんはみなノートパソコンを使っているかと思ったが、半数がデスクトップ派だった。となると、授業の進め方にも工夫が必要だ。

夕方、雨が止んだ。もう9月も終わり。すっかり秋だなあ。


2010年9月29日(水)くもり

夕方には東北大の藤原先生の談話会講演を聴いた。トポロジーと微分幾何と群論を横断する《曲面の写像類群》の話で、門外漢の俺にも面白かった。位相的な分類が完全に終わっているはずの向きづけ可能な閉曲面についても、高次の構造についてはわからないことがまだまだあるようだ。

門外漢といっても一から十まで無関係というわけでもない。「二つの群の有限表示が与えられたとしてそれらが同型な群を定めるか否かの判定手続きを見つけよ」という《群の同型問題》は、実はロジックというか計算理論の問題だ。《群の語の問題》(二つの群の語がある有限表示のもとで同じ元を表すか否かを判定する手続きを求める問題)と同様、これには一般解は存在しない。こうした解の不存在の証明は、チューリング機械の停止問題を群の語の問題に帰着させるという形をとる。つまりその問題のチューリング次数が \(\bf{0}^\prime\) 以上であることを示すことになっている。そこで、有限生成群の与えられたクラスに限定した同型問題のチューリング次数がどうなるか、という問題が考えられることになるが、この問題へのアプローチは、その群のクラスを定めるに至る数学の分野とロジックの共同作業という形をとるだろう。

たとえば有限生成冪零群のクラスなどには同型問題の解があり、有限生成可解群のクラスに対しては解がないという(岩波数学辞典第4版による)。詳細はちゃんと調べないとわからないが、こういう結果の場合やはりチューリング機械の停止問題を当該の問題に帰着させる形で証明されるはずだ。では、同型問題のチューリング次数が \({\bf 0}\) と \({\bf 0}^\prime\) の中間に位置するような群のクラスの自然な例があるか。また、必ずしも自然な例でなくても、群の有限表示の定義可能なクラスに対応する同型問題のチューリング次数がどのように分布しているか、など、興味ある問題はいくらでも考えられる。

きょうの藤原先生の講演との関連でいえば、 \(GL(n,{\bf R})\) の格子部分群(商空間がコンパクトになるような離散部分群)のクラスの同型問題にチューリング機械の停止問題を帰着させられるだろうか。また、冪零群のクラスのように同型問題に解がある場合には、今度はその解の計算量クラスはどうなっているだろうか。などなど、いろいろと妄想は広がっていくのだった。

明日から始まる授業はプレゼンがテーマ。TeXでスライドを作って口頭発表するのが目標なので、指導するこちらもスライドを用意して表示して見せるということくらいはしないといけない。このさいだからBeamerクラスの使い方を覚えよう。それとは別に、TeXでの文書の作り方も教えるべきことの一部なので、専用サイトにサンプルや雛形を用意してやろうと思う。自分が授業のために作ったスライドのTeXソースを公開するのがちょうど良いかもしれん。

夜おそく、娘の宿題を見てやった。ホワイトボードがわりのiPadの画面(neu.Notes使用)に、●を並べて、割り算の商と余りの意味や検算のしかたを解説。38個のお菓子を7個ずつ箱に入れていくとどうなるかな、とかなんとかね。【娘】は真夜中近くまでよくがんばったが、宿題はできれば明るいうちに済ませといてほしい。


2010年9月28日(火)はれ

きょうはなんだか一日低調。まあ、そんな時もあります。悪あがきはすまい。後期には、院生向けにTeXでの論文の入力とスライド作成の実習をする。その準備を少しやった。iPodをスピーカーシステムにつないで、久しぶりにシベリウスの交響曲を聴いた。ベルグルンド指揮のヨーロッパ室内管弦楽団。五番、七番、二番と聴いて、四番の途中で帰る時間になった。シベリウスの交響曲というと、世の中では二番の人気が高いけど、五番や七番もとても素敵だ。そして、虚心に聴けば、二番が他と比べて特にわかりやすいわけでもない。まあ、四番は格別に難しいとは思うけどね。

ゼミ生のtkh-Cくんが向こう岸の大学の教育学系の大学院に受かったとのこと。よかった。おめでとうございます。


2010年9月27日(月)あめ

午後、【息子】が発熱。運動会の代休だった【娘】がよくお世話をしてくれたが、寝ている【息子】に時々ホタエる(じゃれつく)のには困った。雨。夜はけっこう本格的に降った。おかしな夢を見て夜更けに目覚め、しばし迷った末、昨日の日記の記録以外の部分は削除。いい歳をして、経験したことでも学び知ったことでもない、頭ん中からわいて出ただけのよしなしごとを垂れ流しても、誰のためにもならん。やめやめ。


2010年9月26日(日)はれ

少し早起きして、義父母へのおみやげに、きんぴらごぼうと かみなりこんにゃくと しめじの佃煮を作った。義父はブルーカラーのサラリーマンの勤めと町会議員の仕事と義母の介護で毎日大忙しであるから、日持ちのするお惣菜を持って帰ってもらえば、少しは楽をしてもらえるかと考えたのだ。この数年、妻みろりがしばしば帰省するのも、ひとえに手伝いのためだ。そういうときには、俺も一緒に帰って飯の用意を手伝う。

さて、午前中のうち、義父母の観光につきあう。道後ぎやまんガラス美術館に行った。客寄せパンダ丸出しの「ぎやまんの庭」だけではなくて、ガラス工芸品を解説つきでそれなりにきちんと展示していて、思ったより悪くはなかったな。昼間に行ったせいで庭が地味だったのも幸いしているのかもしれないけど。まあ、つぎは夜にも一度行ってみよう。昼食は大黒屋のうどん。義父母と別れて帰宅してから、くたびれて2時間半も昼寝。


2010年9月25日(土)はれ

【娘】の小学校の運動会に合わせて、義父母が瀬戸内海をわたってやってきた。運動会もさることながら、主な目的は、いま大学4年生の親戚の美女かなちゃんがアルバイトしている道後温泉の旅館に宿泊しようという、かなちゃん入学以来の懸案事項を果たすことだ。今回は俺たちは宿泊にはご相伴しなかったが、温泉に入り、能舞台で誰やらいう舞踊の先生が謡曲に合わせて舞うのを観たあと、夕食をご馳走になった。お義父さんいつもすみません。ご馳走になります。

【娘】の運動会では、じいちゃんばあちゃんを加えた家族6人でママの手づくり弁当を楽しんだし、【息子】を巻き込んで綱引きにも参加した。学童対大人たちの綱引き対決は、低学年対ママさん、中学年対パパさん(プラス【息子】くん)、高学年対腕に覚えのある男ども、と三試合を2セットづつで行なったのだけど、何の打ち合わせもないのに、示し合せたように、第一セット大人の勝ち、第二セット学童の逆転勝ち、である。いやあふしぎこともあるもんだなあおとうさんおどろいちゃったよわはははは。(大人って面白いでしょ?)


2010年9月24日(金)くもりはれ

秋分を過ぎて急に涼しくなった。なにかタチの悪い冗談みたいだ。

今日も超現実数について考える。コンウェイの理論では、すべての数はゲームであるが、その逆は一般には正しくない。つまりゲームのうちには数でないものがある。集合論的な同一性のほかに、ゲームの順序づけの意味での「等しさ」が定義されているのもやっかいで、集合論的には同一でない二つのゲームあるいは二つの数が「等しい」場合がある。じゃあ数学での常套手段として「等しい」ものをすべて同一視して解決かというと、そうもいかない。たとえば、ふたつの「等しい」ゲームのうち一方が数だったら他方も数になるかというと、必ずしもそうならないし、「等しい」ゲームどうしの演算の結果が「等しく」ならないケースなど、いろいろ注意が必要なのだ。

コンウェイの定義では、ゲームとはゲームの集合二つからなる順序対として集合論的に実現できる。だから、ゲームの全体がなすクラスΓは《 a と b が Γの部分集合なら (a,b)∈Γ となる 》という条件をみたす最小のクラスである。数の定義はもう少しややこしくて、数の集合二つからなる順序対で、左側成分の要素(左オプション)は決して右側成分の要素(右オプション)より大きくも等しくもならない、という条件をみたすものが、数である。この定義により、全ての数はゲームである。

たとえば 最も単純なゲーム (ø,ø) は数であり(ただしøは空集合)、これが 0 である。次の段階では二つの数 ({0},ø)(ø,{0}) が得られる。これらはそれぞれ +1-1 である。({+1},ø)+2({0},{+1})1/2 という具合に次々と数が増えていく。いっぽう、たとえば ({0},{0}) は数ではない。これが数でないゲームのうちで最も単純な例ということになる。ところが、この数でないゲーム a = ({0},{0}) から b = ({a},{a}) というゲームを作ると、定義上数ではないこのゲームが、0 に「等しい」という事態になる。まあ「等しさ」の定義を言わない状態でこんなことを言っても仕方がないのだけど、日本語で書かれたオンラインリソースはかなり限られている。日本語版ウィキペディアにも超現実数の項目はまだない。できればクヌースの『至福の超現実数』(柏書房)を読んでみてください。

コンウェイの「ゲームと数の理論」は、その中で集合論を解釈できるはず(すくなくとも, 集合論内部に構築したゲームのクラスには, 確かに V を同型に埋め込むことができる)だから、権利上は集合論と同等な数学の基礎理論たりうるものだが、「等しさ」の扱いをうまくしないと、泥沼的に複雑なものになってしまいそうだ。ともあれ、そのあたりを考えるのはかなり楽しそうなので、しばらく腰を据えて考えてみたい。そのためにも、On Numbers and Gamesをきちんと読まないとな。そしてその後にはWinning Ways全4巻もぜひ読みたいところ。だけどAmazonで調べたら、けっこう値が張るのね。


2010年9月23日(木) 秋分の日あめくもり

名古屋3日目にして最終日。朝7時前に宿を出たところで雨が降りだした。キャリーバッグを名古屋駅のコインロッカーに入れ、駅地下のパン屋でコーヒーを飲んでから地下鉄に乗る。今日こそは名城線大曽根まわりで名古屋大学に行ってやろうと栄で東山線から降りたのだけど、なんとそのとき、名城線は停電で不通になっていた。これでは仕方がないので東山線に乗りなおし、どうせ名城線が止まっているならと今日も覚王山で降りたら、これが大失敗。車軸を流したような雨と雷。30分ほど地下にいるあいだにひどい天気になっている。覚王山の駅近くの普段は7時から営業しているスタバは祝日とて8時開店。いくところがないのでしばらく商店のビルのガレージで雨宿りしていたが、思い直して日泰寺へ移動。日泰寺の山門にたどり着くころがいちばん雨のひどい頃だったようだ。本堂に向って手を合わせ、山門で雨足が弱まるのを待った。30分ほどして雨が小降りになった頃、本堂に行って再び手を合わせてお釈迦さまを礼拝してから、歩いて大学へ。定刻の9時ちょうどくらいに会場へ到着。雨はその後もしばらく降ったり止んだり。

いや、昨日えいこく屋に行ったときに「ここまで来て日泰寺にお参りしないのはよくないなあ」とチラっと思ったのよね。まさか因果関係はあるまいけど、よもや翌日に大雨に連れられてくることになるとは。

分科会のセッションが終ってから、吉信くん嘉田くん薄葉くんと俺の4人で本山の西原珈琲店に行った。小一時間談笑し、それから地下鉄で名古屋駅、新幹線で岡山、特急しおかぜで松山に戻ったのが、夜の9時半ごろ。帰りの電車では、コンウェイのゲームの理論で多用される帰納法による証明や再帰的定義の正当性を検証できた。つまりは、「順序数のn組の項の順番を任意に並べ換えたうえ任意の一項をより小さい順序数に置きかえる」という操作が無限に反復適用できないことを証明すればよい。最大の項に注目すればnに関する帰納法でなんなく証明できる。わかってしまえばなんでもないのだが、単純な∈階数に関する帰納法ではないので、得心するまで時間がかかった。


2010年9月22日(水)くもり

名古屋駅前のジュンク堂書店と覚王山のえいこく屋に寄ってから名古屋大学へ。えいこく屋では妻へのお土産に紅茶を買った。

数学会に行って、もと自分のゼミ生でいまは名古屋にいるI君をヨリオカくんに引き合わせ、ある人に仕事を頼み、またある人から仕事を頼まれ、引き受けてもらい、かつ引き受けてきた。俺は日本数学会の会員ではないのだが、こういうことをするためだけに秋の学会には毎年顔を出している。

タリーズのミニテディ(ちびクマ)たち

夕食はヨリオカくんカダくんと三人で栄のきしめん屋。その後タリーズでコーヒーを飲みながら雑談。タリーズのすぐ横のスペースでAKB48がらみのイベントをやっていて、若い男たちが盛り上っていた。AKB48本人たちがいるわけでもなく、スクリーンにビデオを流しているだけ。それでも男たちは音楽に合わせ皆で掛け声をかけ、タテノリでぴょんぴょん跳びはねる。俺にはちょっと理解しかねる光景だと思ったが、しかしこれは要するに集まった者どうしの連帯感というか仲間意識が嬉しいってことなのだ。そう思って考えてみれば、昔ながらのお祭りにしても、神さま本人が姿を見せるわけじゃなく、誰か人間が代理で神さま役を演じているところで、あたかも神さまがそこにいらっしゃるかのように、集まった者どうしタテノリでぴょんぴょん跳びはねたりワッショイワッショイ掛け声をかけたりしているわけだ。なんというか、単に神さまが代替わりしただけのことなのだろう。


2010年9月21日(火)はれ

明日からの日本数学会の秋季総合分科会に備えて名古屋にやってきた。宿はいつものクラウンホテル。予讃線の電車でクヌース『至福の超現実数』を読了。学生時代に好田順治訳の海鳴社版『超現実数』を読んだときには、もっと長い話だと思っていたが、思いのほか早く読めた。

今年6月1日の日記で、大阪出張のとき新幹線車内でiPadをYahoo!BBにWiFi接続しようとしてうまくいかなかったと書いた。そのときはわかっていなかったのだけど、あのとき接続できなかったのは、俺が手順を覚えていなかったからではなくて、なんとそのサービスが東京-新大阪間限定だったからなのだ。つまりJR東海管区限定のサービスだったわけで、それでは岡山-新大阪間で使えないのも無理はないのだった。今日は新大阪から名古屋までの約1時間のあいだ無線LANに接続してメールチェックをしたりTwitterでさえずったりできた。いっぽう、宿はいつものところなのだが、LAN設備のない部屋なので、現在はPocket WiFiで接続中。


2010年9月20日(月) 敬老の日はれ

きょうも昼食と夕食を作った。昼食はうどん。夕食は昨日使い切れなかった牛すじの残りを大根と一緒に煮物にした。それに、きんぴらごぼう。もやしの和えもの。冷奴。そういうお惣菜的なものはけっこう得意なのだ。

先日からコンウェイの超現実数のシステムについて考えている。コンウェイの数とゲームの理論は一応は集合論の枠組みのなかで叙述されるが、どうも集合論と等価なもののように思われる。つまり、ゲームを集合論の宇宙の中で集合として実現することが可能であるように、集合をゲーム論の宇宙の中でゲームとして実現することができるように思うのだ。具体的には、右オプションが空なゲームが集合で、そのうちとくに、左オプションがすべてまた集合であり、そのまた左オプションもまた集合であり、以下同様にどこまで掘っても集合(右オプションが空)であるような「純集合」とでもいうべきゲームの全体が集合論の宇宙Vをなす。コンウェイの意味で数であると同時にこの意味で純集合であるようなものが順序数である、という具合だ。これをきちんとやるには、ZF集合論と等価なコンウェイのゲームの理論を、集合論の枠組みを借りることなくそれ自身として記述する必要がある。それはどんな理論になるだろうか。しかし、いまのところ、まだまだ自分にとってコンウェイの理論の理解が十分とは言えないから、ひとまず(集合論の枠内においての)数とゲームの理論をきちんと習得することが先決だ。


2010年9月19日(日)はれ

朝、子供たちが教会の日曜学校で過しているあいだ、俺は大街道一丁目のCafé One Timeで考えごとをする。いつもの三番町ガーデンプレイスカフェもいいが、ここもなかなかいい。

その後、三番町あたりで「大街道にも多目的トイレを」という請願のための運動をしていたので署名し、井上真珠店松山店の前を通って、教会に戻る。先日から、妻が井上真珠店楽天市場店 で売ってる何だったかを欲しがっている。高価なものではなく、いま財布にあるナケナシの小遣いでも買えそうな話だった。楽天市場店の運営はこの松山店の井上店長がやっているはずだから、松山店に現品がある可能性は高い。こっそり買っていけば妻がよろこぶのも間違いない。だが、あいにく妻の話を片耳で聞いていた俺には、それが指輪だったかペンダントだったかブローチだったか、肝心のところが思いだせない。店に行ってヤミクモに「妻が欲しがっているやつを下さい」と言っても通じるはずがない。それでまあ、井上真珠店には寄らずに家族と合流。

多目的トイレの請願については妻も喜んで署名するはずだし、そもそも署名を募っていたのは妻の知り合いだったと思ったので、家族を引っ張って大街道へ戻る。妻に署名をさせ、「のまのま」のジューススタンドで子供たちにジュースを飲ませ、それから俺が【息子】を連れて一番町方面へ行っているあいだに、妻と【娘】は井上真珠店に行って、念願の指輪をさっさと買ってきてしまった。妻の手に指輪をはめて写真も撮ったが、同じものを親戚のあの方へのプレゼント用にも買ったというので、ここへ写真を貼るのはやめておく。

昼食はパパラーメン。午後は俺ひとりで電車でコミセンの図書館へ。クヌース『至福の超現実数』(松浦俊輔訳, 柏書房2004年)などを借り出す。夕食も担当。牛すじを使った牛丼。オクラの和風サラダ。シメジの佃煮。

どういうわけか、子供たちがソフトバンクのCMの「ケータイもってないブラザーズ」篇を観たがった。ブラザーズが歌っている歌は麻丘めぐみの「私の彼は左きき」というヒット曲の替え歌だ。それでYouTubeで元唄を試聴したついでに、ユーミンの「まちぶせ」を検索。三木聖子と石川みゆきのカバーを比較して、同じ歌なのに醸し出される世界が大きく違ってくることを確認。ひたむきな感じの漂う別嬪の三木聖子が歌うと《片想いの彼が自分の友人とお茶しているのを見てショック!!》という世界なのだけど、典型的アイドル顔の石川ひとみが歌うと《わたしの魅力には足元にも及ばないチンケな友人が生意気にもイケメンの彼とお茶しているのを見てムカッ!!》という世界になってしまう。それで、三木がやっとの思いで振り向かせた彼に「やっと気がついてくれたのね」と喜びの涙を流しているころ、石川があの手この手で振り向かせた彼に「けっこう手こずらせたわね。わたしが一番だってこと、これでわかった?じゃあねバイバイ」と背中を向けていそうなのだ。もちろん、これは偏見であり、フィクションであり、三木聖子や石川ひとみの人格にはなんの関係もない妄想である。しかし、この歌は、(とくに「ほかの人がくれたラブレター見せたり」のあたり) 俺には "ラフレシアン" の歌としか聞こえないのだ。そのように妻に言うと、妻はたちまち強く賛同。なんというか、妻のラフレシアンに対する攻撃はいつも容赦なく厳しいのだが、ラフレシアン心理を描写するとき、妻がどこか嬉々としているのを、俺は見逃さない。ユング心理学でいうところの「影」の働きにちがいない。


2010年9月18日(土)はれ

午後、【娘】と二人で県立図書館へ。自分が借りていた本を返すのが主な目的だが、ついでに【娘】が読む本を借りる。自分は何も借りず。【娘】も【息子】も本好きな子になりそう。うれしいことだ。日切焼を買って帰宅。


2010年9月17日(金)はれ

音楽にせよ何にせよ、全体が頭に入ってしまうと、ついどうしても見る目が大まかになってしまう。離れた位置から全体の成り立ちを俯瞰する視点が得られるのはよいことだけれども、細部に神経がゆきとどかなくなると、たとえば音楽の場合は演奏が崩壊してしまうし、思想や知識などの場合はトンデモさんと区別がつかなくなる。「木を見て森を見ず」という諺があるが、だからといって、森を見て木を見ないほうが常に優れているわけではない。

というわけで、発表会に備えていま練習している曲をもう一度しっかりさらい直そうと思う。


2010年9月16日(木)はれ

この夏は残暑がきびしかった。暑さ寒さも彼岸までというが、このごろは世の中がこぞってお役人的に杓子定規だから、天気の神さままで《コトワザのこの条文は、彼岸まで暑さを継続できるということだと認識しております》なんて言いだしたのかと思った。しかし、おかげさまでこの数日だいぶ秋らしくなった。

夕方、帰宅と同時に飛脚のトラックが来て On Numbers and Games を届けてくれた。2000年刊の第二版だ。初版にない序文と跋文がついている。序文では「仰天ものだけど、碁を数学的に理解しようという試みが超現実数の発見につながったんだ!」なんて書いている。それに、もっと浩瀚なゲーム論の本 (Winning Ways) を同僚と書く計画が進行中だった時に、自分の着想だけを一週間で書き下ろしたのがこの本で、「おかげで同僚とは訴訟沙汰になりかけたぜ」とも。跋文はもっと数学的な話で、超現実数研究のその後の主な動きを紹介するとともに、超現実数を符号の超限列として表現する広く行き渡った方法に批判的にコメントしている。

コンウェイの懸念を裏付けるように、符号の超限列の方法とコンウェイの再帰的定義は計算論的観点からは同等でないことがリュリー(Jacob Lurie)の1998年の論文で示されている。

また、アーリング(Norman L. Alling)は、全順序の切断を付け加える操作を超限的に反復して超現実数を生成するという定義を提唱している。これにも(順序数を特別扱いし、超現実数に先立って順序数の構成を必要とするとの)コンウェイの批判は当てはまるのかもしれないけど、アーリングの定式化からは、超現実数の階層が整礎集合の累積階層に酷似していることが見てとれる。俺としてはこの観点をもう少し追及してみたい。といっても別段アーリングの定式化を正統視するわけではなく、ひとまずコンウェイのオリジナルの定義を採用し、集合論のモデルへの相対化と絶対性という側面から、他の定式化と比較してみる。ひとまず On Numbers and Games と、その第二版の巻末に紹介されている一連の文献を読もう。とくにリュリーの論文は自分の問題意識に近いところを扱っているようで要精読。先人の業績を一通りフォローして、話はそれからだ。

はからずも一緒に注文してしまった『ぼくのしょうぼうしゃ』はすでに家にあった。妻か俺が【息子】のために書店で買っていたらしい。不覚である。いっぽう Burgess の "Philosophical Logic" は存外いい本みたいだ。


2010年9月15日(水)くもり

超現実数の理論が面白いので、お金のない時期ではあるが "On Numbers and Games" をAmazonで注文。そしたら、『ぼくのしょうぼうしゃ』John P. Burgess "Philosophical Logic (Princeton Foundations of Contemporary Philosophy)" の二冊も一緒に発注してしまった。だいぶ前にカートに入れっぱなしにして、すっかり忘れていた。『ぼくのしょうぼうしゃ』は【息子】が喜ぶからいいとして、Philosophical Logic はどうだろうなあ。「お急ぎ便無料」オプションなんかついてるもんだから、たちまち発送されていまさらキャンセルもできないけど、それよりは他に読みたい本はいろいろあるんだよなあ。まあ、記述集合論への貢献も少なからぬ Burgess の本だから、敬意を表しつつ読むことにしよう。


2010年9月14日(火)はれ

これまでと比べるとだいぶ涼しい日になった。それでも書庫で本を探しているときなど、じわっと汗がでる。書庫で探しだしたのは、ジョン・ホートン・コンウェイの On Numbers and Games という本だ。クヌースの『至福の超現実数』という小説で一般に知られるようになったコンウェイの数の理論の、これが原典である。コンウェイの数は真クラスサイズの実閉体をなし、すべての実数とすべての順序数を含むばかりか、およそ順序体と呼ばれるもののうち集合サイズのものをすべて包含しているというとんでもないものだ。このコンウェイ数のクラスの再帰的定義をみると、こいつの構造を詳細に調べるというのは集合論の宇宙の累積階層を詳細に調べることとほとんど等価であると思われる。そのあたりでなにか面白いことが言えないか、ちょっと考えてみる。

今日のお昼に、妻が執筆中の論文にグラフを挿入したいといって俺に聞いてきたツイートがこれ

てなぴ てなぴ わっかふたーつかさなってるグラフ 要素Aの集団が20人 要素Bの集団が30人とかでわっかかいて AかつBがわっかかさなってて5人っとかあらわすやつってなにグラフって言うん?集合グラフ?

宛先を @ で指定するのを忘れてるのもどこか妻らしいし、「てなぴ てなぴ」とか「わっかふたーつ」あたりに妻の肉声が感じられて面白かった。が、それはグラフというよりベン図 (Venn Diagram)というのが正しいと思うよ。


2010年9月13日(月)くもりあめはれ

曇り空の月曜の朝。外が暗いもので、家族そろって寝過す。お昼前後、久しぶりに本格的にざあざあ雨が降った。それで午後は洗いたての空気にしみわたるような陽光が眩しかった。おかげで日記の見出しが旧MacOSのアイコンパレードみたい。

球面のホモロジー群の計算をするが、計算ミスが多くて話にならない。だがあきらめずに繰り返すうちに、計算の手順に多少は習熟してきたように思う。定義からの直接計算の練習はこれくらいにして、そろそろ先へ進もうかな。

普段より五分ばかり早く愛妻弁当を食っていたら、携帯のアラームがなった。今日はゲストの先生を囲んでの昼食会のある日だったのだ。愛妻弁当と仕出し弁当で昼食を二回食うことになってしまった。


2010年9月12日(日)はれ

朝は教会の日曜学校。日曜学校の礼拝は子供向けで、キリスト教の信仰箇条(クレド)は言わなくていいのだが、俺は「体のよみがえり」を信じるとはこれから先も決して言わないだろう。だから、俺は決してキリスト教徒にならない。体のよみがえりどころか、霊魂の不滅も今では信じていない。それなのに毎週のように子供を教会学校に連れていっている理由は、教会附属の幼稚園にかつて【娘】が通い、いま【息子】が通っていること。そのおかげで日曜学校に行けば子供がお友達と会えるということ。出掛けるところがあれば朝寝坊をしないし、それとまあ、礼拝で歌をうたえるのも楽しみのひとつではある。俺はそういう不心得者なのだが、教会や幼稚園の人たちの心の広さに甘えて受けいれてもらっている。

【息子】のチャイルドシートを背もたれのないジュニアシートに変更。視点が低くなって見晴しが悪くなると不満かと思ったが、みんなと同じシートベルトのかけ方で乗れるのが嬉しいらしく、【息子】は大喜び。昨日はうちの片付けをがんばってくれた【娘】さん、きょうはママの車の車内清掃に積極的に協力。今日は昨日と違って、お出かけやおやつで釣ったりしてないのに、自発的に協力してくれて感心だ。

午後、くじらんやRingo師匠と、神とDNAと戦争についてTwitterでしばし議論した。


2010年9月11日(土)はれ

午前中、クリーンセンターへ粗大ゴミを少し持っていった。少しずつ持っていくのがポイントで、大量に持ち込むと料金が発生するのだ。こまめに運ぶに限る。それから古川のフジで油揚げを買って帰り、昼飯にきつねうどんを作った。午後は【娘】が家のお掃除をずいぶん熱心に手伝ってくれた。早く掃除が済んだらみんなで総合公園へ遊びにいこうね、という約束だったからだ。それで、お世辞にも早く済んだとは言えない時刻にはなったが、総合公園へちょっとだけ行って子供たちを遊ばせた。


2010年9月10日(金)はれ

簡単な二次元複体のホモロジー群の計算をしてみる。定義を見ただけでは何のことやらわからない輪体群とか境界群とかは、実際に計算してみて初めてその意味がわかってくる。輪体群の生成元を計算すると、輪体つまりサイクルが見えてくる。境界群はそうしたサイクルのうち、中身のつまった単体の表面と一致するため潰してしまってよい部分によって生成される。潰してしまってよいサイクルをすべて潰してしまうと、潰すことのできない本当のサイクル、その図形の形態的特徴である本当のサイクルだけが残る。そうした本当のサイクルの情報をホモロジー群が体現している。ここで、1次元のサイクルは「ぐるっと一周して戻ってくる道」というわかりやすい意味づけがあるが、高次元のサイクルには図形的な意味づけは困難であり、むしろ逆に、輪体群やホモロジー群のほうが高次元のサイクルの意味づけになっていると考えないと仕方がない。このあたりを授業で伝えたい。きわめて抽象的な定義とその背景にあるアーベル群の理論も含めて、すべてを手を動かして自分で計算して確かめてもらう時間を、たっぷりと取らないといけない。あまり多くのことは盛り込めないだろう。定義に従って計算してみると本当に図形の特徴が析出されてきて、じつに面白いので、今回は、そこのところを経験してもらうことを一番の目標としよう。

しかし、簡単な平面グラフのゼロ次元境界群でも基底の計算がこんなにやっかいなものだとは思わなかった。ゼロ次元の境界っていえば要するに線分の両端で、そんなもんが難しいはずはないと侮っていたのだが、大間違いだったようだ。


2010年9月9日(木)くもり

朝、例によってピアノの練習をするが、全然だめだ。まあ、たまにはそういう日もあるか。

いつもの店でコーヒーを飲みながらトポロジーを勉強していたら、いつの間にか出勤前のビジネスマンの時間は過ぎて、老若の女性たちのギャルズトーク時間になっていた。彼女らの無限おしゃべりの中にときおり「全然オッケー」とか「大丈夫ですよ」という言葉が混じっている。「OKである/さしつかえない/了解した」という意味の表現に、かつては否定文に限って使われていた「全然」や、不安や危険の存在を想定した「大丈夫」が使われるようになったのは、きっと世の中の人がみなお互いに気を使いすぎて疲れているということなのだろうと、例によってボンヤリとした頭で考えた。

夕方、ジュンク堂に行った。黒川信重・小出信也『絶対数学』(日本評論社)という本があった。絶対数学というのは、《一元体F1上の数学》によってリーマン予想など整数論の数々の大問題を見通す視点を確保しようという大理論で、現時点での数学の最先端といってよいものだ。すごくカッコよいと思ったが、自分には歯が立たない。数学という山の登山口あたりでウロウロしている俺は、はるか先のほうを行く人々の「八合目に来るといろんな景色がよく見えるようになった。きれいな花も咲いているよ。だけどここから上は雲の中で、まだ頂上は見えないんだ」という話をどう受け取ればいいのかわからない。それでまあ、買ってきたのはノースコットの『ホモロジー代数入門』(共立出版)である。


2010年9月8日(水)くもり

あいかわらずトポロジーの授業の準備。午前のうちに第3章を読んでしまうつもりだったが、一箇所確認に手間取ったところがあって、写像がwell-definedであることの確認に午前中いっぱいかかってしまった。それでも、夕方までに第3章の本文を読み終え、晩飯のあとに演習問題を済ませて、明日は第4章、単体的複体のホモロジー群を扱う本題に入る。

代数に関しては、俺はこれまであまり勉強してこなかったため、まったく見通しが利かない。演習問題を解くにしても、一歩づつ手探りで慎重に進むしかない。解答もどうしても歯切れが悪くなる。こりゃもう少し問題数をこなさないと感じがつかめないな。

第3章の内容は純然たる代数学だが、「輪体群」「境界群」「鎖ホモトープ」といった幾何的なニュアンスの用語の意図はなにか、鎖複体やホモロジー群という代数的対象があのような妙ちきりんな定義なのはどうしてか、また、それを研究するのはなんのためか、そうしたことの説明は、ここでは与えられない。次の第4章を待たねばならんわけだが、講義だと第3章の内容に二三回はかけることになりそうで、そうなると前もってなんらかの見通しが立っているほうがよい。さて、どうするか。


2010年9月7日(火)くもり

村上・田中『トポロジー入門』の、きょうは第3章を読む。この章のテーマはアーベル群の系列で、これは言ってみれば《線形代数の整数係数版》である。代数に対してはどうも苦手意識が強いが、線形代数の演習を長年受け持ってきた経験でなんとかなりそうだ。どうも学生時代のツケをいま払っている感じである。

朝、 Twitterで誰かがつぶやいた。電車で本を開いてフーリエ変換や重積分の勉強を始めたら、奇異な目で見られるという事実。ビジネスやなんかと関係ない勉強をしちゃいけないってことなのだろうか、と。気持ちはわからないでもない、というより、とてもよくわかる。だがそれは 文字通りの事実 ではあるまい。

かがみさんはこのツィートに反応して、自分は電車で集合論の勉強をするけど、英語の本だからか、あまり変な目では見られないよ、と言う。俺は言った。自分が他の人を奇異な目で見ていないか自問してみよう。たとえばその人が電車で楽譜を読んでいたり昆虫図鑑を見ていたりしたらどうか。もしも自分がそういう人を奇異な目で見ないというなら、電車で数学の勉強をしたくらいで他の人が自分を奇異な目で見ることもないと合理的に判断できる。そして、それでもどうしても他の人に奇異な目で見られているとしか思えないとしても、それはそれでよいではないか、と。

これは過剰な自意識を戒めるために常々自分に言い聞かせていることだ。というのも、他人の無言の視線が痛いというのは、本当は自意識が痛いのだからである。人に見られて恥ずかしくないように振る舞うことももちろん大切だが、本来恥じる筋合いでないことで他人の視線が気になるという考えは、合理的に反駁するに限る。

旧「て日」の2004年3月31日分に書いたことだが、つくばで学会に出席した帰り、俺はヨリオカくんと二人で平日昼間の常磐線上り電車の中でノートを拡げて集合論のディスカッションをしていた。しかもそのとき、俺は缶ビールを飲んでいた。これは、さすがにとっても奇異な目で見られていたはずだ。が、ディスカッションが楽しかった俺は、そんなこと全然気にならなかった。まあ、この場合はすこし気にしたほうがよかったのかもしれないね。

かがみさんが、むしろ「なに変なもの読んでるの?」って覗きに来てもらいたいくらいだと言い、それをきっかけに話題はそれて、電車で数学の難しい本を読んでいる女子中学生だか女子高校生だかとディスカッションして萌え死ぬのはどうだろう、いやむしろディスカッションしたいが話しかけることすらできず絶命する「ベニスに死す」路線はどうだ、という、もーどーしよーもないアホ話に移行していった。最後は、その挙句に思いついたアホネタ:

彼女は続ける。次の問題だ 。《1, 10, 2, 1, 9》今度は五つの数。僕はしばらく考える。でたらめな数字みたいだけど、いち、とお、に、いち、く……わかった!「続きは8,10,8それから 4,1,2,6…これはひどい問題だよ」と僕。「そう?でも、わかったじゃない、きみ」

元ネタはもちろん、http://hyuki.com/girl/http://www.hatoyagroup.jp/ である。


2010年9月6日(月)くもり

一日じゅう、いまにも雨が降りそうな雲の様子だったが、結局降らなかった。午後から、村上・田中『トポロジー入門』(サイエンス社, 別冊数理科学)の第2章を読んだ。この章のテーマは多面体間の連続写像を複体間の単体写像で近似する単体近似定理の証明だ。最初は途中の補助定理がなんだか難しげでメンドクサそうと思ったが、実際手を動かしてノートを取りながら読んでいけばちゃんと理解できた。やはり数学は手で考えるものだ。


2010年9月5日(日)はれ

子供を教会の日曜学校へ連れて行く。その後、電車で道後へ行き、道後公園でおにぎりを食べる。道後へ行ったのは妻の提案。今月下旬の【娘】の運動会の日に義父母が遊びに来て道後 (に数ある温泉旅館のうち親戚の美女かなちゃんが大学入学以来4年間にわたってバイトしている老舗) へ宿泊するので、公開の足湯で車椅子でも利用できるところがあるか、とか、前もっていろいろなことを調べておき、ついでに観光マップをもらってきて義父母に送ってしまおうと考えたのだ。

道後から電車で大街道へ戻る。地産地消キャンペーンのイベントをやっていて、いろいろのブースが出ていた。アンケートに答えて、いよかんの香りの入浴剤というものをいただいた。

帰宅後、夕食はパパラーメン。八丁味噌と粒コーンとひき肉を入れた味噌ラーメンにした。またしても子供たちに好評。少し残ったひき肉炒めは白ごはんに乗せて食べてもそれなりにうまかった。

さらにその後、子供たちが寝静まってからのこと。ツイッターで誰か(30歳代の学校の先生だそうだ)が「いまから寝て、目が覚めたら、これまでの記憶を持ったまま高校入学時に戻っていたらいいな」とかなんとかつぶやいていた。人生をやり直せたらいいなというのは、俺も時々思わないでもない。「寝て、高校生に戻って、それから目が覚める」という順番、要するに夢で高校生に戻っているということも、時々ある。だけど、現在の記憶があろうとなかろうと、俺はそういうふうに時間を巻き戻そうとは思わない。いま急に目がさめて高校生に戻っていて、いま現実だと思っているすべてのこと、苦しみと後悔、出会いと喜び、そういうすべてが夢デシタとなったら、残念がるだろうと思う。ガックリくると思う。

なかったことにしたい過去のアヤマチは無数にある。思い出したくもない失敗もある。なんの落ち度もない人を酷く傷つけた悔恨もある。逆に酷い目に遭わされたこともある。現在までの記憶というか予見があの時あったとしたら、もう少し賢明に生きてこられたかもしれないとは、そりゃ俺だって何度思ったか知れない。

それでも、予見というものが必ずしもいいものかどうかは、俺にはわからない。初めて妻と出会ったとき(共通の知人の家での小さな飲み会の夜だ)、天使だか悪魔だかが来て「あんた、3年後にこの人と結婚するねんで」と言ったら、俺はきっと「このキノコ娘と俺が結婚? 冗談も休み休み言いなはれ」と言ったと思うのだ。あとで聞いたら妻も同じようなことを俺に対して思っていたらしい。お互い自分がまさかこの相手と結婚するなんざ、その後しばらく、夢にも思ってなかった。だがいろいろの偶然必然の積み重ねで俺は現在の妻と結婚し、その後11年、多少の波乱を含みつつ、さりとて離婚もせず、そこそこ幸せに暮らしている。いまでもお互いにいろいろ苦労させたり苦労させられたりはするが、あの時のキノコ娘がこうして心やさしい伴侶となってそばにいてくれることを、俺は本当にうれしく思っている。子供たちの寝顔を眺めながら妻としみじみと静かな時間を過ごしているいまこの瞬間の現実を手放してしまうのは、あまりに惜しい。

完璧からは程遠いとはいえそこそこ幸せな現在、それを手放すリスクを冒してまで、時間を巻き戻したいとは思わない。それに、そうまでしてやり直したい本当に大切なことが何かあるなら、いまのこの自分という場所から改めて始めればいい。

歴史の進行なんてものはまさにバタフライ・エフェクトで、くしゃみひとつの違い、蛇口の締め具合ひとつの違いで、その先の事態の進行は予測不可能なくらい撹乱されるはずだ。とすれば、過去をどの時点からやり直すにせよ、その時点で、自分のそれ以後現在までの記憶は実際にはなかったことの記憶という不条理なもの、すなわちマボロシとなる。また、自分が過去に戻ったとしても、なんら異なった行動を起こさず、あるがままの過去をたどり直すしかなかったとしたら、時間を遡る意味なんか何もない。ということは、過去に戻ることが仮に可能であったとしても、現在までの記憶を持って戻る意味はほとんどない。もって戻りたいのは、年齢と共に身につけた分別のほうだろう (かく言う俺に分別が備わっているかどうかはこのさい別問題として)。だとしたら、俺は時間を巻き戻すことなく、高校や大学の勉強をやり直すでもなく、ただ高校生のころの体力と健康がいま現在欲しいとだけ思う。高校生や大学生に戻らない限り自分にはもう機会が与えられないと思えば、自分で自分を見限ることになってしまう。


2010年9月4日(土)はれ

昼食は素麺。午後、家の掃除をして、それから皆でジョープラへ向かう。夕食は秋刀魚。大根おろしとすだちを添える。


2010年9月3日(金)はれ

ピアノのレッスン。全然音の粒が揃わない。そらで弾けるつもりだった曲の流れの自明性が崩壊してしまう。吹奏楽をやっていた経験で学んだとおり、一年以上のスパンで同じ曲を練習し続けていると、本番二ヶ月前くらいに一度こういうことが起こる。褌を締めなおして練習してこれを乗り越えると、次に、本番二週間前くらいに同じようなことが起こる。それを一段高いレベルで乗り越えて、ようやく本番のステージに立てる。そういうことがないと、本番二日前くらいにひどいスランプになったりして、この場合、家族に迷惑をかけてしまう。


2010年9月2日(木)はれ

こういうネタで日記を書くのは本当にひさしぶりだ。

何度か(とくに今年2月ごろ)話題にしたオープンソースのレイトレーシンググラフィクスエンジン POV-Ray は、いまだに公式には MacOS 9/X 兼用のPowerPC用バイナリをRosettaで動かしている状態のようで、Intel Macネイティブの公式版がない。UNIX系OS向けバイナリの公式リリースはx86系CPUのGNU/Linux版のみ。ただし、一般的なUNIXではソースからビルドすれば使えるはずだという。そこで、Snow Leopardで64ビット動作するPOV-Rayをソースからビルドすることを試みた。ダウンロードしてきたソースそのままではコンパイルできなかったが、少し手を打ってどうにか使えるものができたので、手順を報告する。

後日追記: かがみさんからの情報によれば、POV-Rayの64ビットバイナリは MacPorts でパッケージ化されているそうな。ならば、ソースからのコンパイルがことさらに好きな人以外はそちらを利用したほうがよいだろう。(2010年9月6日) てにおはのおかしいところを修正し、誤解されそうな表現を改めた(2010年9月7日)

使用したマシンは、MacBook Pro, Core2 Duo/2.53GHz, 4GB RAM. OSはSnow Leopard すなわち Mac OS X 10.6.4.

要点を簡単に言えば、ソースツリーに含まれているサポートライブラリを最新のものに変更することと、Core2用のコードを吐くように Makefile をエディタで修正すること。

サポートライブラリはzlib, PNG, JPEG, TIFFの四つ。PNGライブラリはそのまま使ったが、あとの三つは最新のものに変更した。というのも、そもそもIJGのJPEG v6はMac OS X以前のリリースで、そのままではコンパイルできないのだ。最新のJPEG v8は何の変更もなしにMac OS Xで普通にコンパイルできる。TIFFはJPEGに依存しているので、これも念のため最新のものに替えてしまう。それぞれの最新バージョンは、自分で見つけてください。

まず、povray-3.6/librariesディレクトリの jpeg, tiff, zlib という3つのサブディレクトリをそれぞれ jpeg.orig, tiff.orig, zlib.orig という名前に変えて退避。同じ階層にjpeg-8b, tiff-3.8.2, zlib-1.2.5という最新バージョンを展開。さらに、それぞれに jpeg, tiff, zlib という名前のシンボリックリンクを張った。

PNGはzlibに、TIFFはJPEGに依存しているので、zlib、JPEG、PNG、TIFFの順に、コンパイルとインストールを繰り返す。先にこれらのサポートライブラリのインストールまで済ませてから、あらためてPOV-Ray本体の configure スクリプトを走らせるのがよいと思う。

configure の引数は、俺の場合は次のようにした。これは実際には \ とそのあとの改行のない、長い一行。COMPILED_BY 環境変数は非公式にコンパイルするさいにはライセンス上必須なのだそうだ。

COMPILED_BY='Hiroshi Fujita <tenasaku@gmail.com>' ./configure --without-svga --with-x \    --x-libraries=/usr/X11/lib --x-includes=/usr/X11/include

これで configure 自体は問題なく済むが、このあとが面倒だ。というのも、そのまま make すると、「そのCPUは x86_64 のインストラクションを理解しないから駄目だよん」というエラーが出てコンパイルできないのだ。ターゲットCPUが i686 に設定されているのに、64ビットのコードを吐かせようとしているらしい。

ここを切り抜けるスマートな方法が思いつかなかったので、エディタで Makefile を直接編集することにした。ソースディレクトリのトップ(povray-3.6)と、その下の unix, source, source/base, source/frontend, の各サブディレクトリにある計5つの Makefile に細工をする。

細工の内容としては、MakefileCFLAGSCXXFLAGS を書き変える。具体的には

... CFLAGS = -pipe -O3 -march=i686 -mtune=i686 -malign-double -minline-all-stringops ... ... CXXFLAGS = -pipe -Wno-multichar -O3 -march=i686 -mtune=i686 -malign-double -minline-all-stringops ...

とかなんとかなっている部分を探し出して、これを

... CFLAGS = -pipe -O3 -march=core2 -minline-all-stringops ... ... CXXFLAGS = -pipe -Wno-multichar -O3 -march=core2 -minline-all-stringops ...

と変更するのだ。これでコンパイルが通るはず。普通に makesudo make install すればインストール完了。

できあがったプログラムはコマンドラインツールなのでターミナルで操作する。また、レンダリングの進行状況をプレビューするために X11 を使う。そのあたりの操作性は、Windows版や旧MacOS版と比較して見劣りするかもしれない。動作速度は Windows版と比較して遜色ない。たとえば、このソースファイル(20100213a.pov)をアンチエイリアス0.3, 幅1280px, 高さ1024pxでレンダリングするのに、公式Windows版 (Windows XP, Core2 Duo 3GHz) で16分44秒に対し、この非公式版 (Snow Leopard, Core2 Duo 2.53GHz) で16分53秒だった。単純にクロック数に反比例した時間がかかったとすれば19分51秒必要になっても不思議はないところだ。

20100213a.povのレンダリング結果
上記サンプルpovファイルのレンダリング結果はこんなふうになる(縮小版)

あと、ターゲットCPUを手作業でCore2に変更したくらいだから、当然64ビットプロセスとして動作している。

報告は以上。POV-Rayはけっこう面白いので、Snow Leopardで64ビットネイティブのPOV-Rayを試したい方は(自己責任で)どうぞ。そして、 Makefile の編集なんて泥くさいことをせずに済むスマートな方法をご存じの方は、教えてくださると嬉しいです。


2010年9月1日(水)はれ

さて9月になった。後期の授業の準備にとりかからんといかん。

昨日の続きで、自分のiTunesライブラリから「亡き王女のためのパヴァーヌ」ばっかり8トラック集めたプレイリストを iPad 上に作った。これは妻へのサービス。ピアノ版はクララ・ケルメンディ。オケ版がアンセルメとオーマンディの2トラック。あとはブランフォード・マルサリスのソプラノサックス、冨田勲のシンセ、平原綾香の歌、エンパイヤブラスの金管五重奏、それとラルデとジャメのハープ二重奏。なんかこんな企画物のCDも作られている。うちには「亡きパヴァ100%」はないけど、「ババ弦100%」つまりサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」の各種編曲を集めた企画物CDがある。