て日々

2010年7月


2010年7月31日(土) はれ

今週も娘をお絵かき教室に連れていった。その足でダイソーに行ってシャンプーボトルやらガラスのコップやら細々と買う。午後は職場に出向いて採点の続き。夜は土曜夜市の最終日。娘のクラスメートが沢山いて結構な団体になったが、大人は俺と妻だけ。おかげでにわか学童保育所状態。なかなか大変だったが、まだ10歳にもならぬ女の子たちが自分らだけで夜の街に出てきているのを見過ごしにはできんわ。少なくとも親どうしで連絡をとりあえる態勢は必要だと思うが、なにせ最終日だから、今年もこの問題は先送りになってしまうのだった。


2010年7月30日(金) くもり

暑い日が続く。ミネラルウォーター2リットル瓶を買って飲みながら、昨日のテストの採点をする。あとで問題ごとに正答率を算出して自分の反省材料にしようかと思う。

夕方にはピアノのレッスン。左手の指が硬くなりがちなことが気になり出した。ハノンなど弾いている時は、あからさまに左の小指が巻いてしまっている。厄介な癖がついたものだ。まあ、ゆっくり直していくしかない。


2010年7月29日(木) はれ

木曜の講義の期末テストも済んで前記の授業が一段落。あとは成績評価をしたら夏季休暇だ。といっても夏休み中に片付けるべき仕事は沢山ある。後期の講義で自分にとって新しい内容 (といっても位相幾何の初歩) をやると予告してあるので、準備をきちんとせにゃならん。引き受けた論文の査読も片付けにゃならん。先日から始めた文献読みもある。頑張りましょう。

昼休みはテスト直前で学生さんたちへの対応に追われた。昨日に引き続き昼休みに飯が食えなかったので、午後2時40分ごろ、なか卯で遅昼飯。普通に牛丼(並)と小うどんのセットを食ったのだけど、いつの間にか牛丼が《和風牛丼》を名乗るようになっている。ううむ。なんで牛丼にわざわざ《和風》をつけるかなあ。牛丼が和風でなかったら何なんだろう。《洋風牛丼》《中華牛丼》《エスニック牛丼》ってかいな。まあ、世の中には《アメリカンポテト》とか《インドカレー》なんてのがあり、《和風牛丼》もそのアナロジーなのかもしれない。出てきたものはいたって普通の牛丼だった。糸こんにゃくが入っているあたりが和風なんだろうか。結局よくわからない。だいたいがきょう日の《和》流行りには胡散くさいものを感じているが、どうもその実例が増えた。

この頃の《和風》は胡散くさい。ぜんぜん糠味噌くさくないあたりが嘘くさい。なんというか、思春期の少年少女の描く異性像のような、理想的・二次元的な感じがしてイヤだ。むろん、こう言ったからといって、和風が嫌いなのではない。むしろ逆だ。おお失われし世界よ。

靴がボロボロなので、草履で大学に行った。だが、この次改まって人に合わねばならん時とか雨の日とかにたちまち困るのは目に見えている。そこで、夕方には散歩がてら靴屋に行き、GTホーキンスの靴を新調。革靴のように見えるが何かすごい新素材らしい。

本日は休肝日。アルコールを控えてキリンフリーばかり飲んだ。このごろは、俺が時々やっているのを見て、【娘】が味つけしない炭酸水を飲むようになった。砂糖だらけのソフトドリンクよりは健康的でいいかなとは思っている。


2010年7月28日(水) くもり

ひとつひとつは大したことない用事の合わせ技で時間に追われる。水曜日のセミナーでも5章を終えることができ、補講日を設ける必要はなくなった。地味に頑張ってくたびれて帰ったので、晩飯がうまかった。だが今日の出来事について妻と話して、やはり俺は人の心に関わる判断が適切にできないことを思い知る。自分の心の動きをモデルとして他人の心の動きを忖度すると、非常にしばしばおかしな、ときに危険な解釈になってしまうのだ。あまり人の心とか常識とか情緒とかについて考えないほうがよさそうだ。となると、できることはせいぜい数学か養蜂か折句くらいしかないが、仕方がない。

《養蜂と折句》という表現はクリーネ (S.C.Kleene) の著書 Mathematical Logic から借りたもの。クリーネはこの本の序文で対象レベルとメタレベルの区別の大切さを論じ、「対象言語とメタ言語の区別なんかできないよという人は、すぐにこの本を閉じて、養蜂や折句のようなものに専攻を替えなさい」と書いている。しかしこれはあくまで研究の方法論の問題で、価値の上下の話ではないので、養蜂家やクロスワードパズル作者のみなさんは怒ってはいけない。


2010年7月27日(火) くもり

薄曇りで少し蒸し暑い。

朝、4年生のセミナー。前原昭二『数学基礎論入門』の5章まで終わった。明日の組でも首尾よく5章が済めば、後期には第6章「自然数論」から丁寧に読んでいって、ちゃんとゲーデルの不完全性定理を理解するところまで進むことができるだろう。

夜は市民コンサートの機関誌の作業。

やる気のないあひる

アマゾンで注文していたPODの古い本が届いた: Émile Borel «Leçons sur la théorie des fonctions» (Gauthier-Villars, Paris 1898) は、確率論などで使われる「ボレル集合族」や「ボレルとカンテリの補題」にその名を残すフランスの数学者エミル・ボレル(1871--1956) の若い頃の著書。タイトル通り講義のテキストとして作られたのだろう。集合論を解析学に積極的に応用しようという路線をはっきりと打ち出しているのが特色だ。140ページほどの短い本。

目次を見てみよう。

第I章「集合についての一般的諸概念」
第2章「代数的数、そして非共測数の近似」
第3章「完全集合と可測集合」

集合論、実数論、点集合論ということだから、いまでいう「集合と位相」の内容が半分を占めている。後半が解析への応用。

第4章「解析接続」
第5章「ある種の実級数の収束について」
第6章「複素一変数函数の概念」

覚え書きが面白そうだ。

《ノート1:濃度の概念》濃度の等号と不等号、いくらでも大きい濃度の集合を形成できること、函数の集合の濃度。
《ノート2:函数の増大度と第2級順序数》ポール・デュボア=レイモンの定理、増大度の階層階梯の形成、カントール氏の数。
《ノート3:函数一般という概念》不連続な函数、可算個の条件で定義された函数、任意の函数という概念。

ここでカントール氏の数というのは超限順序数のこと。デュボア=レイモンの定理というのは、どうやら、実函数間に

$$ f > g \iff \lim_{x\to\infty}\frac{f(x)}{g(x)}=+\infty $$

で定義された大小関係のもとで、単調増加実函数の任意の可算集合が上に有界だという定理、いま風に言えば \(\frak{b} > \aleph_0\) を意味する命題らしい。

さてそれで、なぜ俺はそんな100年以上も前の本をいまさら持ち出したのかというと、つまりルベーグ積分と記述集合論の始源まで一度は自分なりにさかのぼってみたいと思ったからだ。この本の出版された1898年というのは、集合論のパラドックスの発見(1900年から1904年)、ルベーグの積分論(1902年)、整列定理と選択公理を巡る論争(1904年)といった事件にわずかに先立っている。その時点で、解析学へ集合論を応用する試みがどのようなものであったかという点は興味がある。それに、ルベーグが積分論を作るにあたって与えられていた材料は何であったかということも知りたい。


2010年7月26日(月) くもり

昨晩ソファーで寝てしまったものだから、体調がおかしい。それで情緒不安定になってまたまた妻に心配をかけた。ごめん。

土用の丑の日だもんで、夕食は鰻。今夜はちゃんと布団で寝るぞ。


2010年7月25日(日) はれ

朝飯には昨晩仕込んだイカトマトソースでリゾットを作る。【娘】を教会の日曜学校に連れて行く。今日明日は教会学校の夏季合宿なのだ。礼拝のあとの健康診断を通らないと合宿に参加できない。俺は礼拝が始まる前にいつもの喫茶店に移動し、読みかけの『ヒルベルト』をつづける。検診が終わるころを見計らって教会に戻り、【娘】とまぁちゃんを連れて出る。合宿に出発する前の昼食は、各自でとるのだ。

まぁちゃんの家の前までついて帰ってやってから、県美術館の南館へ。お絵描き教室の展覧会があるからだ。【娘】は最初は「お腹すいた」とかなんとか行くのを渋ったが、いざ行ってみると実に熱心に仲間たちの作品を観ていた。【娘】の作品もいいが他の子たちの作品もそれぞれとらわれのない感覚でのびのびと制作されていて素晴らしい。

堀之内公園で一服中の図
堀之内公園から松山城を臨む

いったん電車で帰宅して昼食をとり、合宿の荷物を持って再度教会へ。【娘】を送り届けてから、俺は一人で堀之内へ。休憩所に席を占めて、ビールを飲みながら『ヒルベルト』の続きを読む。広々した公園の芝生を渡ってくる風が心地よい。それから県立図書館へ。数学史関係の本を読みかけるが、ビールの酔いのせいか眠気に襲われる。さほど空席のない閲覧室のデスクに陣取ってすることが居眠りでは他の利用者に申訳ない。さっさと退散しよう。佐々木力先生の数学史の本二冊と、先日読んだ木田元・計見一雄両先生の本に関連して心理学の本二冊、それとフッサール『論理学研究』の第一巻を借り出して、外へ出る。堀之内公園の、今度は大きな木の蔭に座り込んで、しばらく眼を閉じる。再び頭がスッキリしてきたので、また『ヒルベルト』に戻る。

公園の芝生に、出版社のスタッフとおぼしき数名の男女とカメラマンがやってきて、双子の美人モデル(のはずだ。よく見えなかったが)の撮影を始めた。ミニコミ誌の表紙か広告にでもなるのだろう。スタッフとカメラマンが口々にモデルさんたちを調子よくおだて続け、撮影は滞りなく終わったようだが、あんな風にチヤホヤとご機嫌を取られながら撮影された女たちの画像に俺たちは常々萌々しているのかと思うと、なんだかアホらしくなった。

予定の集合時刻になったのでまたまた美術館南館に出向き、展覧会の撤収作業を手伝う。【娘】の作品を回収し、今回作業にこれない人に代わって他の人たちの作品の片付けもする。子供の作品とはいえ美術品なので気を使う。だがこういう風にたくさんの人と共同作業をするのは嫌いではない。

撤収作業が済んで、妻が車で迎えにきた。サニーマートで食材を買って帰宅。【娘】のいない夕食の時間は、もう【息子】の一人舞台だ。【娘】と【息子】と妻が一斉にしゃべりたがる普段と違って、【息子】は機嫌よくそれなりに意味のあることをしゃべり続けた。いつもは自分が会話のイニシアチブをとることを最優先して手当り次第に意味のない思いつきの発言ばかり繰り返しているように思われるのだが。

夕食後はもうひと頑張りして『ヒルベルト』を読み終えた。そんなこんなで、きょうは丸一日けっこう充実していた。歩数計カウント14,342歩。

夕方に、一刀斎こと森毅先生逝去のニュース。京都大学教養部で長年数学を教え、数学教育をめぐって数えきれないくらいの著書をものし、ややもすると硬直しがちな学校関係者のアタマを揉みほぐし続けた人だ。ノラリクラリしたやわらかな物腰の中に、ときおり一撃で人を倒す一刀斎の刃が光る、そんな文章が好ましくて、俺も学生のころよく読んだ。安野光雅さんとの共著『すうがく博物誌』は今でも愛読書だ。慎んで御冥福をお祈りする。


2010年7月24日(土) はれ

今日も快晴。朝から散髪に行った。散髪から戻ってお絵描き教室に【娘】を迎えに行き、その足でダイキに寄って風呂のスノコと玄関先のデッキブラシを新調。天気がいいので、浴槽の蓋、洗面器、手桶など、浴室のものをひととおり天日干し。たまには日光消毒だ。

午後、スーパーに行ったらスルメイカが値引きされていた。夕食の後始末が落ち着いてから煮物を作る。


2010年7月23日(金) はれ

きょうの演習の時間はドミトリ教授のクラスと合同で、午前中の期末テスト問題の解説を俺がする。開区間と閉区間の濃度が等しいことを証明せよという問題には、二つの解を示した。一つはシュレーダー・ベルンシュタインの定理を使って簡単に済ませるもの。もう一つは全単射を具体的に与えるもの。俺としては後者の解答が好ましいが、ドミトリ教授の用意した解答用紙の記入欄のサイズを見ると、どうやらシュレーダー・ベルンシュタインの方法で簡単に済ませることを想定しているようだ。二つ以上の解法を示したときには、必ず「どちらが正しいとかいうのはなくて、この問題が出るに際して我々に何が要求されているかに応じて、とるべき解法が違ってくるんだ」と話すことにしている。この問題にえらく興味をひかれたらしい学生さんが一人、閉区間[0,1]から開区間(0,1)への全単射の構成を説明した黒板の図の前で、授業終了後にいろいろ質問、というより、証明の鑑賞とでもいうものをしてくれた。授業では時間の都合もあって触れなかったが、これにはヒルベルト・ホテルとか「ジンジャーエールの瓶」のトリックとかも関連する。そのあたりに興味を持ってもらえると、俺としては非常に嬉しい。

ヒルベルト・ホテル?ジンジャーエールの瓶?そりゃ一体なんの話じゃ?という方はぜひ、拙著『魅了する無限』(技術評論社)をお読み下さい。

とある事情で昼休みに食いそびれた弁当を授業が済んでから部屋で食っていた14時27分ごろ、地震が来た。強くはないがゆらゆらと長く揺れた。なんら被害はなかったが、やっぱし地震は怖いぞ。震度2くらいやったけどな。

ピアノのレッスンに行く前に一旦帰宅してシャワーを浴び着替えて再出発。レッスン後はジュンク堂書店に寄ってから帰宅。21時まで開いているのがありがたい。レッスンの行き帰りの電車ではずっと岩波現代文庫版『ヒルベルト--現代数学の巨峰』を読んでいた。歩数計カウント11,592歩。


2010年7月22日(木) はれ

夕方医者に行ったら待合が妙に混雑していた。お客さん、じゃなくて患者さんが増えたのかもしれない。いや、普段から予定時刻より30分くらい待たされることはザラなので、ただタイミング的なものなのかもしれないが。ドクターに近況を話して薬をもらって、電車で帰宅。夜、エアコンの不調か、冷房がぜんぜん効かない。寝苦しくて困った。

木田元・計見一雄『精神の哲学・肉体の哲学』(講談社)を読み終えた。たいへん面白かった。この本の話の流れでは否が応でもそうなるという面もあるのかもしれないけど、すべてを意識の構成によって説明しようとするフッサールより、世界に入り込んだ身体が構成されつつ構成するようすを語るメルロ・ポンティのほうを木田先生が高く評価していて、それが意外というか、興味ぶかい。数年前にアフォーダンスに関する佐々木正人先生の本を読んで「これ、現象学やんか」と思ったものだが、そもそもかのギブソン本人もちゃんとそのことを意識していたらしい。そしてそれはフッサールの現象学というよりメルロ・ポンティの現象学であるらしい。ふむふむ。


2010年7月21日(水) はれ

小学校が休みになると、朝に東向き、夕方に西向きに歩く向日葵通勤になる。梅雨があけてスカっとした青空が広がるようになった。ムクムクと立ち昇る積乱雲。外出には帽子が必須。夏だなあ。セミはどこだ。もっと鳴けもっと鳴け。歩数計カウント10,454歩。久しぶりにそれらしい数値が出た。

代わり映えしないが夕食にラーメンを作る。炒め野菜をたっぷり乗せてチャンポン風に仕立てた。思いのほか美味かった。

なんでも「健康作文」のコンテストがあるとかで、【娘】の作文が学校代表として選ばれたという知らせを先日受けていた。読んでみると、食い物の好き嫌いがどうしたこうしたという内容。なんだかいい子ちゃん過ぎてウソくさいような感がある文章で、そのあたりがコンテストの趣旨に合致したということなのだろう。もちろんそんなことは作者である【娘】のあずかり知らぬことだし、何はともあれ入選したのはメデタイので、きょうの夕食後に皆でケーキを食ってお祝い。もっとも、同じ炭水化物なら蔗糖よりエタノールを好む俺の分のケーキは妻子に食ってもらったんだがな。


2010年7月20日(火) はれ

ルベーグ (Henri Léon Lebesgue, 1875-1941) の手紙の中の一文《Excusez moi d'être long, j'ai essayé d'être clair.》を、丸山文綱先生 (A.コンヌ著『非可換幾何学入門』岩波書店1999年, 86ページ) は「少々長くなるがお許しいただこう。明白にしようとしていることなのだから。」と訳し、田中尚夫先生 (『選択公理と数学』遊星社1987年, 67ページ) は「長くてすみませんが、それを明らかにしたいと存じます。」と訳した。だが原文は複合過去時制で書かれているのだから、「明瞭にしようと努めました」と過去の行為を言っているとせねばなるまい。とすると、これは「長くなって済みません。明瞭にしようと頑張ったもんで。」とかなんとか (これでは vous で話しかけているわりにざっくばらん過ぎるのかもしれないが)、明瞭 (clair) にしようと努めた (essayer de ...) ことが長くなったことの理由であるように解するのが正しいように思われる。

で、ここでは何を être clair にしようとしているのだろう。丸山先生の訳のように、問題を明白にしようとしていると解することもできる。田中先生は意見をはっきり表明するという意味に解しておられるようだ。しかしここでは、ルベーグ自身が明瞭であろうとしているととろう。

フランス語の long は英語と同じくフランス語でも距離的・空間的長さと時間的継続の長さの両方をあらわし「時間がかかった」という意味にも取れてしまう。こうしたことを考慮して、「明瞭であろうと頑張ったら、時間がかかってしまいました。ごめんなさい。」と訳したら、さすがにまずいだろうか... たしかにこの手紙は、先立つアダマールやベールの手紙、さらにその発端となったボレルの論稿と比較して、ずいぶん長い。だからやっぱり long は手紙の長さと解して、さしあたり「明瞭であろうと努めたので長くなってしまいましたがご容赦ください。」と訳しておこう。

この文は Google翻訳では「長いされてしまってすみません、私は明確にしてみました。」と変換される。「長いされる」って何だよ。「長居される」ならわかるけど、誰かに長居されて、しかもそのことを謝らにゃならんのでは立つ瀬がない。Infoseekマルチ翻訳ではこれが「長いために、私を許してください、私は明白にしようとしました。」となった。ふむ。この文に限っては、Google より Infoseek のほうが上手に訳したな。

機械翻訳の日本語はヘンな感じがする。それはもう、さっきのルベーグの手紙の一文を和訳するのにどれだけのことを考えに入れなきゃいけないかを思えば、そう簡単に機械的な変換で答えがポンと出てたまるものかと思う。

いっぽう、日本語を覚えたての外国人がおかしな言葉を話しても、それは決して笑ってはいけない。だって、考えてみれば、俺たちが必死で辞書を引き引き書く外国語の手紙だって、ねいてぃぶすぴいかあノまなこニハ変ノアル言葉ニ映ッタトコロノ可能ナ可能性ハ覚悟ノ必要デアル存ジマスのだから。人間同士ならば、お互い広い心でコミュニケーションを図ろう。


2010年7月19日(月) 海の日 はれ

いい天気だし海の日だし、海水浴に出かけた。行き先は大浦海水浴場(Googleマップ)。車の置き場所に難儀することは容易に予想できたので、JRで出かける。JR予讃線大浦駅は山中の無人駅。なんというか、「正しい日本の夏休み」みたいな駅で、すぐそばに海水浴場があるなんて、にわかには信じられない。だが、玉ねぎ選果場の横を通ったりしつつ歩いて15分。国道196号線沿いの海水浴場に着く。予想通り、けっこうな人出だ。駐車場からあふれた車が側道を埋めて警察のご厄介になっている。JRで来て正解だった。海の水はまだ少し冷たかったが。天気が良かったので楽しかった。2時間ほど日にあたっただけで、日焼けして肌がヒリヒリする。


2010年7月18日(日) はれ

妻子が日曜学校に行っている間にジュンク堂を再襲撃。『LaTeX2ε 美文書作成入門』第5版と、C.リード『ヒルベルト』の岩波現代文庫版を買ってきた。それから、妻の車で 旧中山町 (現 伊予市中山地区) へドライブ。クラフトの里の蕎麦屋で昼食をとり、名物ジェラートを食い、野菜を買って帰ってきた。晩飯はパパカレー。午後6時には夕食も風呂も済んで、あとは寝るだけとなった。まだ外が明るいもんで、【息子】は「いま夜?」と言ってパジャマを着るのを躊躇していた。いま午後7時20分。【娘】が【息子】にトランプを使ったゲームの手解きをしている。最初は9枚のカードを3×3に並べて記憶を試すゲーム。5歳の【息子】にはこれくらい単純なやつから入るのがいい。


2010年7月17日(土) くもり

午前中、妻が所用で出掛けたので、またまた【娘】をお絵描き教室へ連れていった。それから電車に乗って市駅前まで出て、ジュンク堂書店までいった。何も買わずに帰ってきたが、帰ってきてから奥村晴彦先生の『LaTeX2ε 美文書作成入門』の第5版を買うつもりだったことを思い出した。あーあ。

午後、お泊り保育から帰宅した【息子】は疲れもみせず、お姉ちゃんと二人で跳んだり跳ねたり大騒ぎをしている。妻が先生たちから聞いてきたところによると、【息子】はお友達のなかで最初に寝入って最後に目覚めたそうだ。お泊り保育に来て起されるまで起きない子はなかなか珍しいらしい。なんだ、心配することはなかった。と言っても、お泊まり保育のことをいちばん心配していたのは【息子】本人なんだけどね。

夜には、土曜夜市のあとの見回りボランティアに参加してきた。青少年の健全育成のため、というとものすごくウソ臭いが、しかし先月26日の日記に書いたような懸念事項もあることだし、「小学生は夜市に行っちゃダメ」なんていう身も蓋もないお逹しが出ぬようにするためにも、こういう活動にも協力する意味があると思っている。


2010年7月16日(金) くもりあめ

【息子】くんは家族と離れて一夜を過ごす「お泊り保育」に行った。そして、娘の小学校では夏休み突入直前の恒例行事であるサマーカーニバルというのが今夜開催される。盆踊りのようなことをPTAと町内会などの共同でやるのだ。雨のため、昨年同様体育館での開催となったが、昨年と比較すると、蒸し暑さもさほどでなく、よほどしのぎやすかった。

三年前の【娘】のお泊まり保育のときにも思ったが、二人の子供のうち一方がいないだけで、夜の就寝前のひとときがえらく静かだ。しかも今夜は【娘】がサマーカーニバルの途中でお腹を痛くしてしょんぼりしていたから、なおさらだ。


2010年7月15日(木) くもり

俺って教師失格かもなあと思わされる事件があった。ある学生に、間違ったことは言わなかったのだが理解してもらえず、かえって怒らせてしまったのだ。間違ったことを言わなかったということとは別に別問題で、教育効果として大きくマイナスであった点は慚愧に堪えぬ。しかしまあ、そんな日もあるか。

そもそもトポロジーは図形のもつ直感的かつ質的な形態的特徴を言葉のロジックで捉えようとする試みである以上、そこでの証明に《明らか》はかえって禁句なのだ。いまは納得がいくまいが、彼の卒業まであと一年半ある。それまでにわかってもらえればいい。

フランス20世紀初頭の数学者、アダマール、ベール、ルベーグ、ボレルが、ツェルメロの整列定理をめぐって交わした名高い「集合の理論をめぐる五通の手紙」を、フランス語原文で読もうとしているところ。1905年の彼らの論争から100年そこそこのうちに、現代の数学がルベーグやボレルの持っていた感覚からいかに遠く離れてしまったか、そのことが浮き彫りにできるんじゃないかと思っている。

ツェルメロの評伝 Heinz-Dieter Ebbinghaus, Ernst Zermelo - An Approach to His Life and Work, Springer 2007 が届いた。英語の本だが、本文で論じられた内容についてツェルメロ自身の書いたドイツ語原文が巻末に収録されている。なかなか読み応えがありそうだ。今回はハードカバーを取り寄せたのだが、Amazon.com でKindle版を購入することもできる。そちらの方が若干安いよ。

というか、ツェルメロ先生31歳も年下の奥さんもらってるし。


2010年7月14日(水) くもり

中国の古い諺に「桃李不言下自成蹊」(とうりものいわざれど、したおのずからこみちをなす)というのがある。もももすももももものうちという意味…なわけはなくて、桃も李も自分から何か言うわけでないが、花が美しく果実が美味いので、おのずと人が集ってきて、木の下に道ができるほどだ、という意味。司馬遷が李広という将軍を評する言葉として引用しているが、彼の創作ではなくもっとずっと古い諺であるらしい。李という名の朴訥な人の人徳を讃えるには、まさにお誂え向きの諺だ。

さて、「下自成蹊」であるためには桃李になるべきなのであって、単に不言であればいいというものではない。不言だけなら簡単だが、たとえば俺などは、下自成蹊を日頃から切望しておりながら、桃李たらんとの努力を忘れて、不言と多言の間を闇雲に行ったり来たりしている。反省すべきだ。まして、自分が桃李であると多言すれば足れりとする人々については、何をかいわんやだ。

自戒の気持ちをこめて、仕事場の自室に「桃李不言」と大書きした紙を貼った。下の句を書かない理由は、ささやかながら「不言」を実行したということだが、もう一つ、うちは国立大学なので成蹊大学に遠慮したという理由も、もちろんあるのだった。どうも意外性がなくて申訳ない。

ゼミの進捗の記録をみると、水曜日が遅れている理由は火曜日がカメで水曜日がアキレスだからとか火曜日がサラリで水曜日がコッテリだからとかそういう楽しい理由ではなくて、単に水曜日のゼミが一回少なかったからだとわかった。前期のうちに『数学基礎論入門』の第5章「型の理論」を終わらせておきたいところだが、両者とも第4章で苦労している現状では、火曜日を一回休みにするという方法で進度調整をするのは得策でないので、あるいは水曜のゼミを一回余分にやることになるかもしれん。後期にはぜひ第6章「自然数論」から全員そろって精読したいものだ。


2010年7月13日(火) あめ

iPadに仏和辞典と独和辞典のソフトも入れた。紙媒体の辞書より安いとはいえ、もちろんそれなりにお金がかかったので、無駄にせぬように活用したい。

ネタがないから、日曜日の山川世界史の話の続きだ。《歴史》を意味する英語のhistoryはけっしてhis storyではないぞ、と立証しようとして、久し振りにラテン語の辞書やフランス語の辞書を開いた。ラテン語の historia やフランス語の histoire にはもともと《歴史》と《物語》の両方の意味がある。そしてこれらの言語では、his- は《彼(三人称単数男性)の》という意味を担う語根ではない。フランス語経由でこの言葉が英語に持ち込まれたあとで storyhistory に分化したわけで、history = his story というのは、どこかのフェミニストが考えたコジツケだ。それなりに上手いコジツケだがな。

そもそも、フランス語の単数三人称代名詞の場合、主格にこそ男性 ilelle の区別があるが、属格というか、所有形容詞になると性の区別がなくなって son/sa になる。sonsa はそれぞれ男性と女性なのだが、それは所有する「彼/彼女」の性ではなく、形容されるものの名詞としての性を反映する。彼または彼女が男であれ女であれ、その父親は son pére であり、母親は sa mére、という具合だ。ただし、école (学校)のように母音で始まる語や histoireのように"無音のH"で始まる語の場合、女性名詞であっても son école, son histoire となる。だから男でも女でも、恋人は もなむーる (mon amour) なのだ。

ところが俺はそのとき、この son という所有形容詞をド忘れしていた。ええっと主格は il/elle で強勢形が lui/elle で…と、所有格は leur だっけ… (←間違い。これは複数三人称の所有形容詞《彼らの》だ)、としばらく悩んでしまった。マトモなフランス語の短文をひとつでも、それこそ「ういもなむーる」の一言でも、口に出して言えれば、すぐに思い出せただろうに。使わない知識はどんどん「出て来なく」なるものだ。反省反省。このさきフランス語の文献をひと山読まねばならんのだから、がんばって復習しなくちゃ。


2010年7月12日(月) あめ

出勤時、大雨だった。ズボンがぐしょ濡れになることは予想できたので、最初からジーパンに草履を履き、着替え一式を持って出かけた。大学の正門前あたりはいつも大きな水溜りができるのだけど、けさは写真のとおり大規模に冠水して、とうとう通行止めになった。

愛大正門付近・水浸し 東中正門付近・水浸し 理学部前・水浸し
左から、愛媛大学正門付近、東中学校正門付近、愛媛大学理学部前
いずれも松山市文京町 午前8時15分ごろのようす

正岡子規・夏目漱石ゆかりの史跡《愚陀仏庵》が土砂崩れで倒壊したらしい。萬翠荘の裏手の山の斜面に復元移設してあったのだけど、場所が悪かったというか、ひょっとして移設のために無理に山を掘ったりしていたのかもしれない。

日中は雨が止んで空が明るくなり、やれやれと思ったけど、帰る時間にはまたポツポツと降りはじめ、朝に劣らぬ激しい雨となった。これぞマーフィーの法則。必要最小限の荷物だけポリ袋に入れて小脇にかかえ、草履をはいて家路を急ぐ。自宅近所の農業用水がいまにも溢れそうで心配だった。増水していて流れも早かったので、さすが泳ぎきれなかったか、20cmほどのカメが一匹流されてきた。ところが、下流で水位が堤の上端まであと1cmまで迫っていたのが逆に幸いして、カメはどうにか自力で岸に上ることができた。水面があと5cm低ければカメは取りつく島もなくどこまでも流されていくしかなかったことだろう。人間万事塞翁が馬というが、時にはカメも塞翁が馬であるらしい。

さて、土砂降りの雨の中家路を急ぎ、用水路の増水を心配し、自分も濡れねずみになりながら溺れカメの心配をした俺は、どうやら人生は虚しいなんて本音ではちっとも思っていないわけだ。だって《まことに人生は虚しい、けど、家が浸水したら困るな》なんて、どう考えたってオカシイもの。たしかに《自分なんか生きていても仕方がない》なんて心持ちに時々なるが、そんな考えは天気ひとつで吹っ飛ぶ一時的かつ表層的な気の迷いにすぎない。


2010年7月11日(日) はれ

熱は下がった。参議院選挙の投票に行き、その足でフジグラン松山に行って昼食。ついでにフジグラン4階のTSUTAYAで本を買う。古代ギリシャの都市国家における民主制の成立と崩壊、僭主とオストラシズム、衆愚政治といったことについて、高校の世界史で習う程度のことを知っているのと知らぬのとでは、いまの日本の政治関連のニュースに触れたときに感じることが違ってくるぞよなどと、妻に講釈してしまった手前、家に通史の本のひとつもあるべきだと思って、『もう一度読む山川世界史』というやつを買った。それと、表紙が恥ずかしくてなかなか買えないと評判のビジネス書『もしドラ』…ええっと正しいタイトルが長すぎて思い出せない。「もしも世界が100個のドラ焼きだったら」「もしもドラムが弾けたなら」「もしもし、ぼくドラえもんです」…とにかく、フジグラン松山のTSUTAYAはベストセラー中心とはいえ狭い店内に上手に取り揃えていて、案外バカにできない。

それにしても、世界史の教科書のギリシャ時代の記述はアテナイのことに偏りすぎているような気がしないでもない。たとえば、オストラシズムはすべての都市国家で行なわれていたのかとか、そもそもアテナイとスパルタの他にどんな都市国家があったのかとか、そういったことは教科書からはわからない。(スパルタとアテナイの身分制度の違いだけは、コラムに書かれていた。) 都市国家ごとに制度や習慣の違いがあったからこそ、プロタゴラスのような人が出てきて「人間が万物の尺度である」なんてことを言ったのだろうし、また一方ではオリンピアの祭りとかデルポイの神託とかを重んじる習慣はギリシャ文化圏共通のものだったんだろうし。あ、いや、でも、プロタゴラスを始めとするソフィストたちが活躍し、さらにソクラテスが登場するのは、つまり哲学の時代が始まるのは、オリンピアの祭りとかデルポイの神託とかに代表されるギリシャ人の宗教文化がピークを過ぎ没落を始めてからだったようにも思われる。このあたりのこと、山川は山川でも、山川偉也先生の本で勉強しなおそう。これまたわれわれの現在について考えるヒントが得られそうだ。


2010年7月10日(土) くもり

熱が出て、一日寝て過ごす。ずっと寝ていたので夕方にはもう寝るのに飽きてしまったが、さりとて寝るほかにできることもない。しかしこの「寝るのに飽きる」というのは快復の兆候だろう。実際、朝と昼には食欲がなかったのに、夕食のときにはまだ微熱がありながらも「こうなりゃ食ってやるぜチクショーめ」という心持ちになっていた。

ところで、昨日の「バビロンのへちま」の話、ひょっとしてNöthさんは「Babylonのbabel」と言ったのではなかろうか。そして、それならそれで日本語にするときに工夫のしようがあったろう。本当のところは調べてみないと、いくら考えてもわかる話じゃないけど。


2010年7月9日(金) くもり

田中久美子『記号と再帰』(東京大学出版会, 2010年) を読みはじめた。いつものことだが、初めて読む著者の文章のクセにはいろいろ引っかかる。この人のスタイルはまたずいぶんと生硬だ。しかしこういう第一印象の反感はなんとしても乗り越えて、先に進まなくちゃならん。

これは、記号論という《文系的》理論と、プログラム言語理論という《理系的》理論を架橋する試みだという。たしかにソシュールやパースの記号論/記号学を論じる一方で、第2章には簡単なものながらHaskellとJavaのコードが掲げられている。こちとら、JavaはともかくHaskellはちんぷんかんぷん。ところがどうやらこの本の中味は、HaskellとJavaの記述スタイルの違いになぞらえて、現代記号論の祖であるソシュールとパースそれぞれの理論のよって立つ記号観を比較するという画期的な論考なのだ。難しくて頭がハチャハチャになりそうになったがなんとか食い下がり、全体のイントロダクションというべき最初の三章を読んだ。 まだ全体の二割くらいで、ようやく面白くなってきたところ。

まだそういう段階だから、内容に踏み込んだ話は差し控えよう。ここでは第3章の章題「バビロンの混乱」の話だけ。

「バビロンの混乱」というのはバビロンとバベルを同一視しているみたいだけど、はたしてそういう同一視は許されるのだろうか。 案外そうかもしれない。バベルの塔の物語はヘブライ語で書かれ、バビロンという地名はギリシャ語の文献を通じて知られている。(Mac OS X 10.6 標準添付の辞書) New Oxford American Dictionary によれば、両者とも、「神の門」を意味するアッカド語のバーブ・イリを語源とする。だからバベルとバビロンは (ペキンとBeijingが異なる言語に音写された同じ街の名であるように) 同じ街の名前であるのかもしれない。 とはいえ、この二つの名前が同一の土地を意味しているかどうかではなく、「バビロン」を「バベル」の代わりに「言語の混乱」という含意を持たせながら使うことが適切かどうか。ここではそれが問題だ。(浪花節を"大阪節"と言えず江戸前寿司を"東京前寿司"と言えないように) 一応は区別すべきなんじゃないだろうか。

ところが実は「バビロンの混乱」という表現を使ったのは田中さんではない。Winfried Nöthなる記号学者がドイツ語で書いた『記号論ハンドブック』 (Handbuch der Semiotik) が震源だ。記号論の基礎になるのは、記号という事象の理論モデル。これが大まかには二元モデルと三元モデルの二つなんだけど、多くの学者がそれぞれ独自の用語法で理論化していて、二元モデルどうし三元モデルどうしでも、同じ用語を皆がちょっとずつズラした意味あいで使うもんだから、どうにも整理のしようがない状態になっちゃってるそうだ。そのことをNöthさんが、実際になんと書いたのかは資料がないのでわからんけど、バベルの塔の物語になぞらえた。そして、この本の英訳を読んだ田中さんがNöthさんの言ったことを「バビロンの混乱」という日本語に直して引用しているというわけ。ややこしいな。アッカド語、ヘブライ語、ギリシャ語、ドイツ語、英語、日本語と、少なくとも六つの言語が関係する。まさにバベルの塔。

ゲーデルの赤本, ISHI Press 版
ゲーデルの赤本の赤くない版

まあそんなわけで、感じだけでも掴みたいと思ってMacBook ProにHaskellもインストールしてみた。今日はそのほかに、いわゆる「ゲーデルの赤本」すなわちKurt Gödel, "The Consistency of the Continuum Hypothesis" のリプリント版 (ISHI Press International, 2009, ISBN 0-923891-53-6) が届いた。初版はPrinceton University Press, 1940年。SpringerやElsevierをはじめとして、数学の専門書はしばしば黄色い表紙なのだけど、プリンストンの数学研究シリーズは赤い表紙が特徴で、そのためこのゲーデルの本は「赤本」と呼ばれていた。ところがリプリント版はまことに遺憾なことに表紙が白い。だがリチャード・レイヴァーの解説文もついて2,766円はお買い得かも。

ピアノレッスンではテンポを上げようとして事故続発。歩数計カウント10,439歩。


2010年7月8日(木) はれのち くもり

今日は大ポカはしていないが小ポカが多かった。いまなら小ポカ3個で大ポカ1個と交換できます。

昨日と今日、立て続けに歩数計のリセットを忘れて、三日分の歩数計カウント24,035歩。一日あたり八千歩だが、たしか昨晩の時点で14,000歩ちょっとだったはずだから、今日の歩数は一万歩に迫っているはずだ。

プログラム言語理論の術語って、クラスとかメンバとかインスタンスとか実体参照とか属性とか、いろいろとスコラ哲学っぽい。プログラミングと形而上学との関連は俺にはうまく説明できない。まあ、どちらについても素人なんだから説明できなくて当然だ。だけど、このごろはとうとうプログラミング理論の側でオントロジーとか言いだした。やはり偶然ではないらしい。プログラミング理論とスコラ哲学。この二つのディシプリンは、いったい類縁関係にあるのかないのか。これ、前々から気になっていることだ。だが気にしているばかりでは、誰かが向こうから出向いてきて教えてくれるとは思えないので、自分で調べたり考えたりせにゃならん。なにかヒントがつかめたらいいなという思惑のもと、田中久美子『記号と再帰』(東京大学出版会, 2010年)を読み始めた。


2010年7月7日(水) はれ

きょうは46歳の誕生日。無事に誕生日を迎えられることはいいことだ。せめてきょう一日は自分に罵詈雑言を投げかけるまい。あまり後向きなことは考えるまい。...と言いながら、古い雑誌の記事のことを書く。

6月30日に書いたことに関連して、雑誌「数学セミナー」1978年9月号を書庫で探した。「私の数学観 II」という特集で数学者14人がエッセイを書いている。記事のタイトルと著者名をリストしよう

町にて田村二郎
数学を始めたころ藤原正彦
やぶにらみ数学考山崎洋平
試験の夢山内恭彦
相互の交流西尾真喜子
物理と数学基礎論前原昭二
数学は思想を持つ, けれど...渡辺 豊
なまじっかな数学観は不必要か矢島敬二
科学と数学伊藤 清
2人の先生𠮷岡昭子
大学一年生江田義計
数学放浪の記 (失敗談)南雲道夫
数学をどんなものと考えてきたか吉田夏彦
人間精神の形式原理倉田令二朗
数学セミナー1978年9月号
特集「私の数学観 II」記事一覧

実に豪華なメンバーである。今回の目的は倉田令二朗先生の文章だったのだが、他にもいくつかの記事をコピーして自室に戻って読んでみた。前原昭二先生が文章を書くときの一人称が平仮名の「わたくし」であることを (ゼミテキストにしている『数学基礎論入門』(朝倉書店1977年, 復刊2006年)の「はしがき」をていねいに読めばわかることなのだが) 再認識した。田村二郎先生の次の文には考えさせられた。

...学校を出て、つくづくまわりを眺めると、驚いたことに、町には数学がない。これほど明白な事実に、どうしていままで気が付かなかったのであろう。まことに、環境は意識を決定する。<段落改> 町に数学がないのは、おとなたちが数学をもたないからである。数学をもたないおとなたちが、どういう根拠から、こどもに数学を強制することができるのか。(田村二郎「町にて」, 数学セミナー1978年9月号)

東京大学を退官して後、数学を普通の人々に教えて「市民文化としての数学」を確立できないかと考えた田村先生のことを、お茶やお華の先生みたいだと揶揄した現役の数学の先生たちがいたそうだ。それに対して、田村先生は反論する。数学は国家権力のお墨付きをもらって学校で強制的に教えられる。それは数学の先生に与えられた大変な特権ではないか。茶道も華道も権力の後ろ盾など持つことなく、何千何万の人々に愛好されている。学校で全員に必修させても、数学愛好者は、茶道華道囲碁将棋などなどの愛好者と比較してはるかに少ない。だから、私を芸事の先生になぞらえたのでは、お茶やお華の先生に失礼だ、と。

数学の愛好者が多いか少ないか、俺は実のところちゃんと知らない。これはあくまで、田村先生の見解である。だが少なくとも「数学とかマジで意味分からんし」が仲間内の合言葉になっている生徒さんたちのグループは無数にある。あ、それはそうと、こういう余談を引用文と区別するためにスタイルシートを少し書き換えなくちゃ。

さて、話を戻そう。今回の本来の目的は俺が6月30日の日記で口を滑らせて書いた ヒルベルトの超数学とフッサールの現象学的還元はそれほどかけ離れていないのかもしれない気がしてきた という着想を、30年以上も前に倉田先生がちゃんと認識し、俺のタワゴトなんぞよりはるかに明快に言語化しているのを確認することだった。

まず数学基礎論の意味における形式主義は対象についてのイメージを排除するものではない。そんなことはそもそもできはしない。形式主義は命題や証明の構造を顕在化するため、その内容についてのイメージの使用を停止するという現象学的エポケーであり、それによってはじめて全数学を貫く syntax と論理に関する《事実》の発見をもたらしたのであり、哲学史上画期的な発見といえる。(倉田令二朗「人間精神の形式原理」, 数学セミナー1978年9月号)

倉田先生がこう書いた文脈は、小平邦彦先生の小文「数学的現象の把握を」(岩波書店基礎数学選書の各巻巻頭に「刊行にあたって」として収録, 初出は岩波講座「基礎数学」月報)に典型的に見られる数学的プラトニズムと、そこから派生する数学基礎論批判に対抗して、ヒルベルトの形式主義の方法を弁護するというものだった。「数学セミナー」の同じ号の吉田夏彦先生の文章にも、文脈こそ違うが次のようなくだりがある

...だが、同時に、数学基礎論生成期の論争などについても情報が入るようになり、その点を少し知るためにいくつかの文献を読むうちに、ヒルベルトの形式主義の考え方から深い印象を受けた。そうして、対論理主義者の論争では、ヒルベルトの方が正しかったと思うようになった。<段落改> この点での考え方は、今でも変らない。ヒルベルトの考え方には、哲学的にいってまことにすぐれたものがあるように思われる。このことは、有限の立場による無矛盾性の証明という彼のプログラムが破産してしまったことと、十分、両立すると思う。このプログラムも魅力的なものではあったが、その成否とは別に、形式主義の思想としての価値は残ると思う。(吉田夏彦「数学をどんなものと考えてきたか」, 数学セミナー1978年9月号)

とりあえず、先週の日記で俺はあながち的外れなことは言っていなかったようだ。ふむ。もう少し真面目に展開するに値する路線かもしれん。

あと、この頃の「数学セミナー」には、足立恒雄先生の「整数論からの代数入門」という連載記事があり、これが後に名著『類体論へ至る道−初等数論からの代数入門』(日本評論社1979年, 改訂新版2010年)になった。そんなわけで、当時の数セミは、30余年を経たいまでも、かなり読み応えがある。(いや、もちろんいまの数セミが悪いわけじゃないんだけどさ。)

さらについでに言えば、数学では「取り出す」、「分ける」、「移す」といった操作に関する言葉を使うが、実際にはそうした操作は行わない。こうした言葉は、事を明確にするために言い切るなら、数学は物質的であろうと、あるいは理念的であろうと、とにかく実在的対象を取り扱うものだという考え方の名残りである。数学の問題を考えるときには、あたかも実在の対象を触っているかのごとくに考えるのは数学を学ぶ者にとって当然の行為だが、それはいわゆる heuristic (発見的、あるいは教育的) な立場であって、円を二つばかり描いて和集合とか補集合とかを理解するのと五十歩百歩である。客体としての数学はそういうものではない。実在と論理との癒着を引きずっていては、数学の形式としての本質を見誤ることになるだろう。(足立恒雄『改訂新版 類体論へ至る道』日本評論社2006年, 93ページ)

2010年7月6日(火) くもり

2007年の数学基礎論サマースクールで講義した内容についてもっときちんと書こうと思いながら、ずるずる先延しにしてかれこれ3年が経とうとしている。いいかげん重い腰を上げにゃならぬ。あのときのレジュメには「ルベーグはボレルやベールより多少は穏健な立場で」なんて書いたが、有名な「五通の手紙」を読んだ限りでは、存在証明の effectivity の要請にかんして、ルベーグはボレルと大同小異の強硬派と言えそうだ。ルベーグの測度と積分の理論が effectivity の観点から言って弱いことは事実なのだけど、(志賀浩二先生の書物が伝えるところによれば) そのことを当のルベーグは自分の理論の欠陥とみなしていたらしい。とすると、たとえルベーグ積分が effectivity を犠牲にして成功した理論の典型例であるとしても、そうなった理由をルベーグの思想的な穏健さに帰すことは許されない。こういう初歩的ミスをしないように、今度はちゃんと調べて書かねばならん。また、ルベーグの積分論の背景を知るためには、ツェルメロの整列定理をめぐる論争以前にフランスの解析学研究で集合論がどのように応用されていたのか、そこんとこを調べたい。

というわけで、ボレルの『函数論講義』("Leçon sur la théorie des fonctions," Gauthier-Villars, Paris, 1898) のリプリント版を発注。Amazon.co.jpで1,975円。

夕食はパパつけ麺。


2010年7月5日(月) くもりのち はれ

ひさびさに晴れ間が見えたが、この涼しさは梅雨がまだ明けていないことを意味している。その前にもうひと雨くらい来るはずだ。

昨日書いたことで言いたかったのは、科学技術や学問と生活との乖離の克服という課題だ。その実現のためには、研究者としてはもう少し同時代の学問の動向に広く目を配っていなければならない。ボンヤリと考えているだけでは、何も解決しない。たとえば、ペレルマンがクレイ研究所の賞金を辞退したニュースが、一昨日報道された。野次馬的興味を引きやすい話題だ。だが、肝心のペレルマンの業績すなわちポアンカレ予想の解決が、今後のトポロジー研究にどう影響するか。またペレルマンが暗に告発する現状での数学や自然科学の研究態勢の問題点についてどう思うのか。そうしたことについて、俺はなにも言う用意がない。「はやぶさ」が持ち替えった帰った観測データや試料は太陽系の来歴について何を教えてくれるのだろうか。それについても、俺にはなにも言えない。情けない。俺はどれくらい科学研究の動向をチェックする気があるだろうか。それをせずには世界を救うことができないどころか、一人前の学者づらすることすらできないのに。

***

と、ネタを振っておいて、話を変える。

有限でも可算でもないのを、普通には非可算と言っているが、これを不可算と言うことを俺は控えめに提唱している。が、ここでの話はそのことではない。可算集合と言ったときに自然数全体の集合ωとの間に全単射があるような集合のことを意味する流儀と、ωまたはその始切片(つまり自然数)との間に全単射があるような集合のことを意味する流儀がある。つまり可算集合と言ったときに有限を含むかどうかということで意見が分かれることがある。可算が有限を含むという流儀では「たかだか可算」という表現は冗長であり、可算といえば有限ではないという流儀では「可算無限」という表現は冗長だ。どちらの流儀にせよ、その程度の冗長性は受け入れるべきだと俺は思うのだが。

ともあれ、ここでの論点はこうだ。可算が無限に限るという流儀でも非可算あるいは不可算と言ったら不可算無限を意味するというのは、実は一貫性を欠いているのに、そのことをほとんど誰も問題にしないという点を指摘したいのと、それに関連して、言語の使用における慣行の力というものをもう少し高く評価してほしい、と言いたい。まあ、慣行としては圧倒的に優勢な「非可算」にあえて盾突いている俺がいうことでもないが。

数学にせよ何にせよ学問をするときに言葉を注意深く使うことが肝要であることは俺ももちろん認めるのだが、注意深さとは別の、《可》の否定は《不可》に決まっとるじゃろうとか、自然数はゼロから始まるに決まっとるじゃろうとか、《たかだか可算》なんて冗長な表現をしたい奴は一歩前へ出ろ、とか、そういうところであまり非妥協的になってはいけないと思う。言葉はあなたと俺が一緒に生きるために用いられるべきで、あなたと俺の間に溝を掘るために用いられるべきではない


2010年7月4日(日)くもり

今週も【娘】を連れて教会の日曜学校へ。俺はクリスチャンではないのだけど、子供につきあって久々に礼拝に出てお説教を聴いた。お題は旧約聖書のバベルの塔の物語だった。昔々、放浪の生活をしていた人々が平野に定住を始める。石の代わりに煉瓦で建物を作ることを覚えた人間たちは大都市を建設し、力を合わせて巨大な塔を建てる。神さまはしかしその大事業を嘉したまわず、それまで同じ言葉を話していたのをお互いに言葉を通じなくして、人々を離散させた。

キリスト教会の人々はこの話から、すべての力と知恵は神さまから来るものであると知り感謝すること、傲慢になってはならないこと、そういった教訓を引き出す。それはそれでよいのだけど、根が不信心で、また曲がりなりにも科学者の釜の飯を食っている俺は、少し違う感想を持った。というのも、19世紀から20世紀にかけて科学者がそれこそ天にも届くような壮麗な世界認識の体系を打ち建てながら、一般の人々は言うに及ばず科学者どうしですら、いつのまにかお互いに話が通じないようになってしまった、そのあとの時代に俺たちは生きているからだ。

日常の用を足す自然言語を離れて、力学的諸概念と数式を世界認識のための共通言語とした俺たち近代人は、世界を丸ごと作り変えるほどの強大な力を手に入れたのだが、その成功自体の副作用として科学研究に従事する人々が増え、専門分化が進み、やがて自然科学は誰も全体を見渡せない巨大プロジェクトとなった。極めて限定された文脈で用いられなければならない専門用語が専門家どうしのコミュニケーションを効率化する一方で、無際限に氾濫するジャーゴンが専門を異とするものどうしのコミュニケーションを著しく困難にしている。《畑》が違うとなかなか言葉が通じない。そのことが畑違いの者どうしがお互いを軽視する風潮を産みさえする。まさか神さまが仕向けなさったことでもあるまいけど、科学研究の現場はバベルの再現だ。

これは人間にとって大変不幸なことだ。科学が人に与える新しい世界認識と、それがもたらす強力な技術とを、俺たちは自分たちの生活にかかわるものとして受け取り、自分たちの進む方向を舵取らねばならないのに、そのことが絶望的に困難なのだ。

これは、悔い改めて神さまに栄光を帰すれば解決する種類の問題であるとは、俺には思えない。おそらく即効性のある対策などはない。ただ、自惚れを捨て謙虚になることは必要ではあるはずだ。さしあたっては、科学にせよ哲学にせよ、普通の人々の普通の生活から出発して普通の人々の普通の生活に還って行くべきこと (言い換えれば、根が人間的生のリアリティーにあることと、研究の成果は一握りの選ばれた人々のためではなく人類全体の幸福の増進のために用いられるべきこと) を正しく理解し、自分の知りえたことについて根気よく説明を続けていくしかない。

そんなことを考えながら説教を聴いていたので、俺はそのときはいつになく真剣な(=怖い)顔をしていたはずだ。だが、小さな子供たちの目に普段の俺はちょっと変わってるけど一緒に遊んでくれる面白いオッチャンと映っていると思いたい。とはいえ、そのわりに、うちの二人の子供には残念ながら不機嫌な面を見せすぎている。その点は反省せにゃならん。まあそんなことはともかく、帰り道は【娘】とお友達のまぁちゃんサホちゃん姉妹を連れて歩いた。先週と同じだ。この一週間を俺はよほどボンヤリと過ごしていたと見えて、たしかに一週間経っているはずなのに、その記憶が妙に希薄で、「なんじゃこりゃ、つい先日も同じことをやってたぞ」と妙な感じがした。だが日記を読み返せば間違いなく一週間がきちんと経過している。

夕方から久々にジョープラへ買い物に行った。歩数計カウント10,155歩。


2010年7月3日(土)くもりあめ

午前中、【娘】をお絵描き教室へ連れていき、その足でスーパーマーケットにいった。午後からはずっと家にいて、とくに何をするでもなくボケっとしていた。そのぶんピアノの練習を普段より多めにやった。

このところ連日蒸し暑いところへもってきて昨日いろいろの事情で風呂に入れなかったので、日中は気分がすっきりしなくてまいった。それで今日は風呂も夕食も早めに済ませた。午後には、ときおり雷を伴った雨。そろそろ梅雨も後半。ビールのおいしい季節はもうすぐだ。

たいていの日は、日記をひとまず iPad の Apple純正メモアプリで作文し、メールとしてEvernoteアカウントに送信する。あとでそれをパソコンでHTMLファイルに書きこんでWebページ化する。携帯電話で撮った写真などもメールでEvernoteアカウントに送ってしまえるから簡単でいい。日記の下書きにEvernoteを利用するようにしたので、ノート数はひと月で100を越えた。これからもどんどん増える予定。しかし、Webサイトとしての仕上げまで iPad で済ませることは考えていない。それに、Evernote はテキストデータや写真を保存しておくにはよいが、HTMLのタグを書いてWebサイトとして完成させることは Evernote上ではできそうにないから、いまのところパソコンが必須である。現在のところ「てなさく世界」のデータはUSBフラッシュメモリに保存しているが、この先、WebサイトのバックアップをDropboxに置くという方法を使えるかどうか、ちょっと考え中。

GoodReader, iAnnotate PDF, Dropbox, Evernote と、iPad をもの書きツールとして利用するための定番アプリはひととおり活用している。Pages と Numbers はインストールしたが、まだ使う機会がない。


2010年7月2日(金)くもりあめ

丸山圭三郎『言葉と無意識』 (講談社現代新書) という古い本を読み終えて思ったのは、1987年という時点ではこれでよかったんだなあ、ということだ。人が認識する事物はなんら実体的なものではなくカオスに押し付けられた恣意的な分節であり、文化はひとつの錯乱であり、理性はひとつの狂気である。ただ、それが他の錯乱と狂気を排除しえたことが、文化や理性が正当性を主張できる根拠なき理由である。1980年代には、先人の思想的達成を渉猟して、そこからこういう人間観を導出すれば、それで何事かをなしたと自他ともに思っていられたわけだ。だが、1990年代以降は、それでは何も言っていないに等しいと考えられるようになった。

なぜかといえば、1989年にベルリンの壁が崩され1991年にソヴィエト連邦が消滅して、それまで揺るぎなく強固に見えていた社会のシステムが、実は人間の作り上げた恣意的な体系であることが、理屈でなく目の前の出来事として、誰の目にも明らかになったからだ。人間の文化とは云々と思想を論じたら、文化が錯乱で理性が狂気でも結構だけど、それではこの行き詰まった世の中をどうしろというの、と言われるようになった。いまの俺たちは、システムの幻想性を既知の事実として受け入れつつも、システムに依存しなければ生きていけないことのほうを重大視して、幻想のシステムのメンテナンスに勤しんでいる。1980年代には、社会のシステムに依存して生きながら、自分たちが生きることを可能にしている社会のシステムの幻想性を口にして思想を遊んでいられたわけだ。いまにして思えば、なんと幸福な時代だったことか。

だが、その1980年代に幸福な青春の時期を過し、幻想としての文化という発想にシビレていた俺たちが、いよいよ溜った宿題を提出しないといけない時期にさしかかっている。人が生きることを可能にする思想が、これまでにも増して求められている。いや、思想よりも、人が生きる《道》が求められているのだ。丸山がソシュールの思想との親和性を高く評価していた龍樹や世親といった仏教者の《思想》が、いまの俺たちが言うところの (thoughts の翻訳概念としての) 思想にとどまらず、むしろ仏道修行の一環であったことを、ここで思い出そう。

やる気のないあひる

夕方はピアノのレッスン。先月末に些少ながらボーナスをいただいたので、例によって半年分のお月謝を先払い。三連符のアルペジオの出だしが粘ることを前々から指摘されている。粘り方がまるで前川清みたいですよね、と言ったら、先生がまた笑ったけど、内山田洋とクールファイブというグループのことはご存じないようだった。世代間のギャップを感じる。


2010年7月1日(木)はれ

職場を早退し、娘を美術館に連れていった。楽しんでくれたかどうか。今回は子供には難しかったかもしれないが、メゲずにこれからもいろいろな展覧会に連れていこうと思う。歩数計カウント13,073歩。