て日々

2010年6月


2010年6月30日(水)くもり

卒業研究セミナー。どうしても火曜日組に追いつかない。アキレスとカメみたいだ。

セミナーの指導をしながら、ボンヤリと考えた...

ヒルベルトは数学の危機への対応として、論証に用いられる論理まで含めた数学の営み自体の数理モデル化を構想した。いわゆる超数学だ。そこでは数学の意味内容をカッコに入れて記号の変換過程にだけ注目する。そのことにより、数学の論証を支える論理がある種の計算に還元される。フレーゲが数学を論理に還元したのに対して、ヒルベルトは論理を数学に還元している。

数学の営み自体の数学化という超数学の試みが、それをさらに算術化するゲーデルのアイディアを経て、後にフォン・ノイマンをしてプログラム内蔵型コンピュータの着想に至らしめたことはおそらく間違いない。

記号列の生成と変換の過程を統べる基本的なルールを明示的に与え、そのルールに従った記号列の変換が数学の理論を十全に再現することを異論の余地なく確認しようというのが、ヒルベルトの目標だった。その企図が達成されたかどうかという議論は、いまは措く。それよりもここで注目したいのは、計算ということへの篤い信頼だ。

数学の危機とは、ひとつには数学を支えていた論理への信頼の揺らぎであり、もうひとつには数学が人間のリアルな経験の少なくとも一側面と精確に対応しているという数学的対象の存在論の揺らぎであった。前者はラッセルが指摘したフレーゲの体系の矛盾、後者は非ユークリッド幾何の発見が、それぞれ引き金になっているといえるが、19世紀末には、より広く西欧文明全体が生活のリアリティと学知との乖離に直面し、学問全般の意義の問い直しの気運が高まっていたことも忘れてはならない。このあたりには、いまの我々を取り巻く状況を考えるヒントがあるように、俺には思われる。

ともあれ、数学の危機という認識にヒルベルトが提案した答えは、いったん具体的に手にとって扱える対象の計算にまで立ち返ってやり直そうということだった。数学者が最後によりどころにするものは、論理ではなく計算なのだ。

では、思考の法則である論理を、単純なルールに従う記号の変換である計算へ還元することで、その確実性への信頼が回復できると考えられたのはなぜだろう。《私は考える》の直接性より《私は見る》の明晰性を優越させたということだろうか。《私は考える》に不可避的につきまとう主観性への傾斜を克服するために計算の客観性が求められたということだろうか。

計算は、算盤の珠やオハジキや数字のような具体的なオブジェクトの操作に体現させることができる。このことが、意味内容を捨象した超数学の展開には必要だった。記号の操作は目に見える。見ることと考えることの違いは、当時者が複数になったときに明らかになる。「私が見ているのと同じこの算盤の珠を、いま現にあなたも見ている」と信じるのは、「私が思い描いているのと同じこの観念を、いま現にあなたも思い描いている」と信頼するより、はるかにたやすい。

だから、俺の考えでは、数学の基礎づけにおいて《私は考える》に優越すると信じられたのは《私たちは見る》の相互性・公共性であった。それがあってはじめて、客観性ということが云々できる。客観的だから信用できる、というのは、その意味では話が逆なのだ。

計算へ還元されることで、論理はいわば公共化された。そこまではよい。

だが、論理がそのように公共化されたことは、思考を導く規則が公共化されたことを意味するのだろうか。ライプニッツが望んだように、俺が現実に直面するあれやこれやの問題への答えが、計算によって自動的に得られるということは可能なのだろうか。現時点での情報科学の粋を集めてもそのことは実現からは程遠いということはわかっている。だがもしも、思考のすべてが、たとえ単に原理的にでも、機械的な計算プロセスに置き換え可能なのであれば、そのことは、俺たち一人一人が思考というものを我が身に引き受けなければならないという通念を覆すことになりはしないだろうか。

もしも思考がたとえ原理的にだけでも機械的に遂行可能なものであるなら、あるいは機械的に遂行可能な思考のみが真面目にとるに値するものなのだとしたら、4×18が72であることが宇宙開闢以前から変わらぬアプリオリな真理であるのと同じ資格で《この状況ではこうすればいい》もアプリオリな真理であることになる。とすると、俺たちのなすべきことは、せいぜい状況を正しく見極めて、この『アプリオリ倫理宝典』に記されたとおりに行為することだけだ。

だとしたらなぜ、俺は考えなければならないのか。

翌日追記:この『アプリオリ倫理宝典』の話はちょっとオカシイ。というのも、推論のプロセスが機械的であることと、すべての問いにイエス・ノーの答えが機械的に出るということとは、同じではないからだ。『アプリオリ数学宝典』が不完全であらざるをえないのと同様、あるいはそれ以上に、『アプリオリ倫理宝典』は不完全な書物であることだろう。しかし、そのことは「論理が公共的で思考が機械的であるとしたら、なぜ他の誰でもなく俺が考えなければならないのか」という問いを解除しはしない。

もちろん、現実にそうしなければならない理由はいくらでも見つかるし、それで十分だろうと言われれば返す言葉がない。思考というのはそういうふうに単に必要に迫られてすることなのかどうかが、ひどく気にかかりはするが、どのみちそんな疑念に実際的な意味はないのだろう。

公共の広場の清掃は、必要にして十分な人数の人が適宜これを実行すれば、その恩恵を他の全員が享受することができる。公共の交通機関は、資格を持った少数の人が代表して運営すれば、他の多くの人は乗客として便利に利用できる。その対価を運賃という形で支払うことで乗客としての責任は全うされる。一方、たとえ正規の運賃をきちんと支払って電車に乗ったとしても、車内で床に寝転がって枝豆をつまみにビールを飲みながら大きな音でラジオをかけることは許されない。乗客としての責任以前に、公民としての責任を全うしていないからである。公共のマナーの遵守は、公共の乗り物の運転とは違って、代表者が皆に成り代わって行なうということができない。というのも、すべての人が守ってはじめて、公共のマナーは公共のマナーたりうるからである。

公共化された筋道で考えるということも、これに似ているのかもしれない。あなたが論理的に判断する必要があるのは、あなたが判断を下すその状況を他の人と共有する可能性を考慮してのことだ。あなたの意見を周囲が無批判に全面的に承認してくれるとか逆に無条件に全面的に拒否するとかが最初から決まっているものならば、あなたがいかにしてその判断に至ったかなんて筋道は、はなから問題にならない。他の人に同じ筋道をたどってもらったうえで、批判的かつ自発的に承認なり拒否なりしてもらうためにこそ、公共化された筋道をたどる必要がある。

こうして、論理的思考の正しさの基礎は俺とあなたの相互主観性・考えることの間主観性である。論理は、正しく考えるための方法であるとともに、またそれ以前に、他の人々と一緒に考える方法なのだ。

このように考えるうち、ヒルベルトの超数学とフッサールの現象学的還元はそれほどかけ離れていないのかもしれない気がしてきたと言ったら、我田引水にすぎるだろうか。

後日追記: 我田引水かどうかはともかく、ヒルベルトとフッサールの哲学的類縁関係については倉田令二朗先生がとっくの昔に気付いて文章化している。倉田令二朗著作選刊行会 編『万人の学問のために』(日本評論社, 2006年)所収の「人間精神の形式原理」だ。この本にはそれぞれの文章の初出が書いてないが、たしか1970年代の数学セミナー誌上であったはずだ。と思って足立恒雄先生が『類体論へ至る道-初等数論からの代数入門』(改訂新版, 2010年, 日本評論社)でこの文に言及しているところを確認すると、初出は1978年9月号とある。そのころは、俺もまだ14歳の中学生。この文章の存在など知る由もない。ヒルベルトもフッサールも倉田令二朗も知らぬ、無知なくせに鼻息だけは荒い反抗期の青くさいガキで、理科には多少の興味はあったが、将来数学者のメシを食うことになるとは夢にも思っていなかった。(2010年7月7日...続きは当日の日記で)

キリがないから、ひとまずこれで終わり。大学院生として学部生の実習を手伝っている妻の作業が思いのほか手間取っているというので、夕方には、俺が代わりに【息子】を幼稚園に迎えに行った。聞き分けがなくて困った子供だとばかり思っていた【息子】がちゃんと電車の駅まで30分ほどの道のりを歩けるようになったから大したものだ。


2010年6月29日(火)くもり

卒業研究ゼミ再開。教育実習シーズンが終わったと思ったら、今度は四年生ではなく二・三年生がインカレのための欠席届を持ってくるシーズンとなった。それが一段落したら次に期末テストシーズンがやってくる。光陰は人を待たず。

ゼミでは前原昭二先生の『数学基礎論入門』をやっている。火曜日組は今日で第3章が済んだ。水曜日組が丁寧に進んでいるぶん少し遅れているが、なんとか調整して、後期には4人一緒に不完全性定理の証明を読めるようにしたい。

きょうのゼミで議論したことに関連して、ちょっと論理学ネタ。

数学では、なにかある条件をみたす対象が確かに存在することがわかったときに、そのような対象のうち任意のひとつに名前をつけて、以後その名前をつかって議論を続ける、ということをやる。式で書けば、\(\exists x F(x)\) が証明されたときに、それまで使っていなかった新しい変数 \(a\) について \(F(a)\) が成立するものとして議論する、というわけだ。あたかも変数 \(a\) についての何らかの条件のもとで \(\exists x F(x)\) から \(F(a)\) を導いてよいという法則があるかのようだ。しかし、『数学基礎論入門』の述語論理を扱う第3章をくまなく探しても、そのような法則には言及されていない。はて、これは数学で普通にかつ頻繁に用いられる論理的操作なのだが、と、ちょっと不思議に思った。

しかし実はこれには理由がある。『数学基礎論入門』の論理体系には \(F(x)\) から \(\forall x F(x)\) を導いてよろしいというルール (推論規則2) がある。自由変数は不特定の対象をあらわすものであるから、自由変数として \(x\) を含む式 \(F(x)\) は、内容的・意味的にはすべての対象 \(x\) について \(F(x)\) が成立していることを意味する。 また構文論的に見ても、\(F(x)\) が証明できるときには、自由変数 \(x\) を すべて一斉に 他の対象式 \(t\) に置き換えた \(F(t)\) が同様に証明できてしかるべきだ。こうした事情を考慮して、自由変数 \(x\) を含む \(F(x)\) が証明できるときに、またそのときに限って、 \(\forall x F(x)\) が証明できるものとしたい。それがこの推論規則2の役割というわけだ。

翌日追記: 上のパラグラフの誤記を修正し、ついでに言い回しを変更。

それで、先ほど言った、\(\exists x F(x)\) からなんらかの変数 \(a\) について \(F(a)\) が導かれる、という推論を許したら、それと推論規則2とを組み合わせて、 \(\exists x F(x)\) から \(F(a)\) が導かれ、さらにそこから \(\forall x F(x)\) が導かれる。つまりそのような論理体系では、 \(\exists x F(x)\) が証明できれば、かならず \(\forall x F(x)\) も証明できる、ということになってしまう。たとえて言えば、これは、ひとたび《女の人がいる》とわかったら《すべての人は女の人である》ということになり、また《男の人がいる》となったら《すべての人は男の人である》ということになってしまう論理だから、ふたつ以上のものが存在する世界には適用できないような論理、数学の論理としては使い物にならない論理である。

だから、\(\exists x F(x)\) からなんらかの変数 \(a\) について \(F(a)\) を導くというような推論法則は到底認められない。では、最初に言った《なにかある条件をみたす対象が確かに存在することがわかったときに、そのような対象のうち任意のひとつに名前をつけて、以後その名前をつかって議論を続ける》という話の運びはどう正当化されるのだろうか。

俺の考えでは、この論法に対応する推論法則はこうなる。変数 \(x\) を自由変数として含まない式 \(A\) があって、式 \(A\rightarrow\exists x F(x)\) が証明できたとしよう。さらに、変数 \(x\) を自由変数として含まない式 \(B\) について式 \(F(x)\rightarrow B\) が証明できたとすれば、式 \(A\rightarrow B\) も証明できる。この理由は簡単で、 \(F(x)\rightarrow B\) が証明できれば、推論法則2によって \(\forall x(F(x)\rightarrow B)\) が証明でき、この式からすでに確立された公式 (とくに『数学基礎論入門』43ページ末尾〜44ページの問の2番) によってすでに確立されている推論法則3.2 (42ページ) によって \((\exists x F(x))\rightarrow B\) が証明できるからだ。

後日追記: 上の段落でゴチャゴチャやっていることは推論法則3.2を使えばすぐに済むのでそのように修正。(2010年7月6日)

ここで式 \(B\) が変数 \(x\) を自由変数として含まないという条件は除去できない。このことは、議論の途中で導入された新しい名前は本来、最終的な結論として証明される式からきれいに消去されていなければならない、ということに対応する。

こうして、前原本の体系では、存在が保証された対象を自由変数として固定した \(F(x)\) を用いてもよい。細かい話になるから説明を略すが、お望みならその対象に別の名前を与える(自由変数 \(x\) に別の自由変数を代入する)ことも許される。しかしそれはすべて、最終的にその名前に (自由変数としては)言及しない式を導くための前提として用いる場合に限られるわけだ。

やる気のないあひるやる気のないあひるやる気のないあひる

それはそうと、いまは、「てなさく世界」の将来構想なんてことも考えている。いずれはこの「て日々」にインタラクティブな要素を加え、ツッコミ歓迎日記とする方針だ。それとあと、「読書欄」の再開だな。


2010年6月28日(月)はれ

子ども手当受給の現況届なるものを提出しに市役所へ行き、ついでに市民コンサート事務所へ顔を出し、事務局の松林さんと雑談。それからジュンク堂へ行って、サルトル『自由への道』の岩波文庫版というものを見つけてほほぉとか思い、電車で帰宅。歩数計カウント9,408歩。サルトルの邦訳は白水社からたくさん出ていたものが手に入らない状態が長く続いていた。だが数年前に『存在と無』がちくま学芸文庫に収録されたし、今度は岩波文庫がこの長編小説を収録することになったようだ。サルトルのリバイバルとは、時代がまたひと回りしたんだなあと思う。とはいえ、実は俺はサルトルについてはほとんど無知で、これまでに「水いらず」「壁」など短編を数本と『実存主義はヒューマニズムである』を読んだきりなのだ。『存在と無』はおろか『嘔吐』も読んでない。

今日は空き時間にもっぱら丸山圭三郎『言葉と無意識』(講談社現代新書1987年)というこれまた古い本を読んでいた。近代科学の客観主義のもたらした知と生の経験との乖離を克服する可能性を中村雄二郎が《パトスの知》に見いだしていたちょうどそのころ、表層の言語の平板な意味作用の背後で働き続けシンボル化作用そのものを司る深層のロゴスを、丸山圭三郎が同じく《パトス》の名で呼んでいたのは大変興味深い。アナグラム研究なども大変面白い。だけど、ときおり語り口が《現代思想風》すなわちフランス語の直訳みたいになって、難しくもない部分が妙に読みにくい。

iPad版Safariでは表示しているページ内の字句の検索はできないのかしらん。


2010年6月27日(日)くもり

午前中は【娘】を日曜学校へ連れていく。俺は街を散歩し、iPadで昨日の日記を書く。

午後、子供らが児童館で遊んでいる間に、愛媛県美術館のル・コルビュジエ展にいく。主催者の筆頭が愛媛県だったり、図録と 雑誌ユニバーサルデザイン の ル・コルビュジエ展連携特別号 (この特別号については、リンク先のWebサイトには一切情報がない。どうも番外らしい) がセットでディスカウント価格になっていたり、またその表紙の写真に加戸知事や中村市長が紛れ込んでいたりするところをみると、主催者としては何か都市開発がらみの思惑があるのだろう。しかしそんなことはよろしい。展覧会は大変面白く示唆的だった。絵画も展示されてはいるが、漫然と見ていてキレイだねと言えるような展示品はないので、ルノワールじゃシャガールじゃになると俄にわっせわっせと詰めかけるタイプのお客さんもおらず、展示された図面や模型や写真を見ながら、みなそれぞれ思いにふけるような、静かな展覧会だった。7月11日までやっているから、【娘】を連れてもう一度来ることにしよう。

家具・建物・都市といったものは、美術というよりは実用品なのだけど、そのデザインに際しては、つねに人間の身心が中心となる。家具を利用し建物や都市に棲み込む人間の健康をデザインが左右すると同時に、建物や都市そのものが、拡張された人間の身体として、健康にも不健康にもなりうる。建物や都市を人間の身体ないしその器官の延長と見てその健康を考えようという視点は、建物や土地を売り物と見てその資産価値だけを問題にする不動産業界的発想とはハッキリと一線を画して、社会政策的としか言いようのないものである。ル・コルビュジエといえばもちろんモダニズム建築の原点なのだが、彼のモダニズムは科学や社会思想の客観主義的モダニズムとは違って、身体論を踏まえたモダニズムというわけだ。

それから、姫原のパルティで草履とスリッパを買う。普段履き用に上面がいぐさの畳表になっている草履を愛用しているのだが、上面と鼻緒以外は普通にウレタンとゴムを使った、要するに安物であるから、ひと夏ごとに買い換えないといけない。一足980円。今回はいぐさ張りのスリッパも買った。こちらは職場で使う。一足290円。夏場は、建物内にいるときくらい革靴も靴下もなしにしたい。もちろん、講義のときは別だが。

もう一つの懸案事項。【息子】のお風呂屋さん体験。夕食を済ませてから東道後温泉久米之癒に行った。【息子】は最初だけは不安そうにしていたが、深い浴槽でもちゃんと足が立つことがわかってからはコロッと態度を変えてエンジョイしはじめた。とくに、熱くなくて浅い露天風呂がお気に入りなようで、何度もそちらに行こうとした。俺がもう上がろうかと言っても「あがったらいいことないじゃん」とか言って承知しない。なにせ、女湯に行った妻と【娘】のほうが先に上がっていたくらいだ。「また来たい」と言っていたから、お泊り保育の心配ごとが一つ減ったわけだ。家の近所に温泉がないわけじゃないのに今回わざわざ久米まで足を運んだ理由はそれで、お泊り保育の夜に子供たちが園長先生に連れられてこの風呂屋に来る予定なのだ。松山の温泉にしては小さいほうだが、いい雰囲気のところなので、俺たちもまた来たい。ビールも飲めるしな。時間が遅くなったこともあって、帰りの車で子供たちはグッスリ。

歩数計カウント10,469歩。


2010年6月26日(土)あめ

午前9時の血圧111/78。いたってマトモな値じゃないか。わはは。今日は基本的にお留守番の日で、昼飯の食材を買いに出たほかは家にこもっていた。

午前中、妻は珍しく大学院のセミナーに出かけ、【娘】はお絵描き教室に出かける。俺と【息子】は留守番。YouTubeで【息子】にウィリアム・テル序曲終盤の有名な部分を聴かせている頃に【娘】が帰宅し、昼になったので、近所のスーパーに三人で買い物に行き、うどんの乾麺と大根を買った。刻みネギと大根おろしとポン酢と削り節で味付けした冷やしうどんを作って子供に食わせる。午後1時すぎにいまから帰ると妻から電話があったので、大人の食うものをなにか買ってきてくれと頼んだのだが、実際帰ってきたのはその一時間後だった。待っている間に、子供たちにリクエストされるまま追加で茹でたうどんの残りを食っていたら、すっかり満腹になってしまった。

なお、妻が大学院のセミナーに出るのが珍しいというのは決してサボっているからではない。どういうわけか指導教員がセミナーをやりたがらず、何の思惑があるのか、院生一人一人を個別に呼び出して面談で指導するスタイルをずっと取っているそうだ。ところがどういう風の吹き回しか、急にセミナーを開くと言い出して、大学院2年目の6月下旬の今日にして、めでたく初セミナーだという。細工は流々というが、なるほど人それぞれやり方が違うものである。この件に関しては、妻には言いたいことが山ほどあるらしい。だがネットに公開していい筋のことではない。少なくとも無事に修士の学位を取得するまではね。

やる気のないあひるやる気のないあひるやる気のないあひる

【娘】がクラスメートと土曜夜市に出かけるといっていたので、今朝までは俺が同伴するつもりでいたが、妻が代わってくれるというので、夕方から宵の口までは一人で家にいた。昼寝をし、ピアノの練習を少ししたほかは、特に何をするでもなくダラダラ。【娘】がお友だちと夜市に行っていろいろ無駄遣いしてきたと、妻がしきりにボヤいている。俺たちが子供だった頃と比較して夜店の売り物の単価も上がっているうえ、まだ金銭感覚が育っていない小学3年生なのだから仕方がない。だからといって好き放題にさせていてはいけない。下手をすると悪い大人にお金を奪われるとか、ポトラッチ状態になって破産するとか、まあそれは極端な心配だとしても、そういう心配をする保護者が増えてくれば、学校というところは基本的にお役所だから、子供だけで夜市に行ってはイケマセンというお達しが教育委員会から届くのは時間の問題。子供の安全を最優先すればそれが確かに最善の策ではある。

子供にしても、そうなっては元モコモコ、いや、元も子もないといえば、その理屈は理解できるはずというか、理解してもらわんと困る。

いっぽう、目的を果たすために限られた予算でなんとかやりくりする必要に迫られる場面は人生において数限りなくある。あるどころか、うちではすっかり日常化している。ところがそういう経験は学校では教えようのないものだ。学校では社会の仕組みやお金の計算の方法は教わるが、そうした知識を実践的にどう組み合わせて使うか、という部分は学校の指導の範囲外である。こちらとしても、そんなことまでは学校で子供に指導してほしくない。そういう技能は《わかる》だけではダメで、《身につけ》なければ意味がない。学校で家計のやりくりの講習を受けて試験受けてハイ合格、なんて、想像しただけで頭痛がしてくる。

これは単に古風なオッサンの惰性化した感性が言わせているだけのことではない。自由な近代社会において公教育というものが持つべき(いまだ十全には実現されておらぬ)機能について真面目に本質論的に考えた結果としてそうなのだ。学校は公正な社会を実現する装置の一環として存在する。社会的正義の実現のために個々のヒトが自由な個人としていかに考えいかに振舞うべきかを教え学ぶために存在する。いかにキレイゴトと言われようと、大原則としてこの方向を確認しておかなくては教育論の混迷はとうてい打開できぬ。とすれば、現実に存在する不公平をあるがままに認めて強かに生き抜くサバイバル術は、もちろん絶対に必要なものではあるが、公立の義務教育の場で教えるべきものではない。まあそうはいっても、そういうことを教えている学校は現にあるだろう。実践的サバイバル術の範疇に受験術を含めれば、むしろ普通に学校に期待されている機能だとさえいえるかもしれない。だが、それを主たる指導内容と自認した時点で、それはもはや学校でなく私塾なのだ。

さて、それでは子供たちに夜市を楽しんでもらうために大人たちはどうすればよいか。夜市でお小遣いをやりくりして楽しむってのは、お金の使い方について実践的に学ぶいい機会なので、禁止されちゃう前に先回りして自主的に対策しよう。ひとまず、お小遣いの上限を露骨に設定して保護者間に周知させ、毎回きちんと確認しあうようにしよう。携帯電話を持っている子供には必ず持って出かけさせ、気心の知れた大人がいざというときに出動できる近距離に控えていた方がいい。毎回その日のうちに、行った先でどんなことがあったかを口頭で報告させ、大人が記録しておく。機会をとらえて保護者間で確認し合うためだ。そのさい、いわゆるヒヤリハットの事例を見逃さないようにするのも大切だろう。また、友人間のトラブルに発展しそうな問題にも注意を払い(保護者間でこっそり予防線を張った上で)子供どうしで解決を試みさせるということも必要だ。とすると、保護者どうし気心が知れている関係であることが前提になる。そのあたりのコンセンサスができている間柄でないと、恐ろしくて子供を送り出せない。親に必要なものはまず何よりも度胸である。

「絶対に必要なものではある」と入力しようと《ぜったいにひつようなものではあ》までタイプした時点で「絶対に必要なものではあはあ」という変換候補を提示してくれるiPadくん、相変わらずステキだわ。はあはあ。

自分でも何を言ってるのかだんだんわからなくなってきたので、ここまでの論旨と一見矛盾するような、しかもいまではすっかり忘れられた感のある諺で締めくくろう。

《可愛い子には旅をさせよ》


2010年6月25日(金)あめ

文章を書くことに意識を集中している最中に、家族に急に話しかけられて、向こう三軒両隣まで聞こえそうな大声で反射的にギャァとかなんとか叫んでしまったことが何度もある。これは実は驚きと恐怖の叫びで、そういう時の俺は、高い所から足を踏み外して転落していくような、あるいは立っている地面がいきなり消え去って宙に投げ出されたかのような感覚を、瞬間的にではあるが味わっている。だけどそんなことは、側で見ていてもわかるはずがない。

何か込み入った案件でメールを書こうとして頭の中で文章を練っている時に、ただボッとしているものと勘違いした子供がじゃれついてきて、とっさに突き飛ばしてしまったこともある。これだって、子供にしてみたら、いきなりパパにひどいことをされたとしか思えないだろう。本当にただボッとしていることだって度々あり、見ているだけでは区別できないし、本人に確認しようにも方法がない。なにしろ下手に話しかけたらまた向こう三軒両隣絶叫ヴォイスだ。

要するに、文章を書いている時には、側で見ている人にとって、俺はものすごく危険なコワイ存在になっている。言葉を紡ぐのに必死で他のことが全部シャットアウトされてしまうからだ。もちろん普段からそんなことばかりしていては身が持たないし、文章を書くときはなるべく一人で部屋にこもることにしているけれども、家族には度々迷惑をかけている。だからと言って文章を書いたり発言したりということから身を引いてばかりいることもできないし、俺自身また書くことが決して嫌いでないから厄介だ。

俺がほんの数日でTwitterをやめたのは、そういう俺のことを妻が心配したからだ。取り越し苦労と言って言えないことはないけれども、俺のこういう付き合いにくさに日頃さんざん苦労させられている妻がそう心配するのも無理はない。結局は俺の身から出た錆である。あのときの議論がどうだったとか、そのネタを振ってきた人がどうだとかいう話では一切ない。一切ないのだけど、これまた、側で見ていてもそんなことはわからないから、Twitterを急にやめたことで、何人かの人に、とくに直前に対話していた鏡さんに、ひどく迷惑をかけた。本当に申しわけありません。鏡さんは悪くないのです。

***

この「てなさく世界」には、メールフォームはあるが、ブログのコメント欄に相当する掲示板的な機能は一切設けていない。かつて運営していた吹奏楽団のサイトでもスパム処理に追われて苦労した経験があり、スパム対策を強化した掲示板でも、最後の数年は近隣の他楽団の演奏会の告知以外の書き込みはなくなっていた。それで、もうWeb BBSでもないだろうと思って「てなさく世界」でも数年前から掲示板を廃止している。

書くことは楽しい。書くことが楽しいのは、書くことで自分の考えが形を得るからだ。自分が書いたものを読むのが面白くて、日記を欠かさず更新している。誰よりも自分のために書いている。そういう自己満足日記だから、わざわざメールフォームを通じて意見や感想を伝える労をとってくれる人はほとんどいない。

だが、自分の言葉が形を得るのを自分の目で見たいという気持ちは、俺に限らず誰にでもある。自分が書いた言葉に誰かが応えてくれるのを望む気持ちもだ。読者とて、それは同じだろう。それなのに、日記にコメント欄をつけないことで、俺は読者のささやかな楽しみを奪っている。メールフォームでは、オープンかつインタラクティブに議論する意思表示としては不十分だ。これでは、他人の言葉に広く耳を傾ける気はないと宣言しているようなものかもしれない。たとえ誰も利用してくれなくても、あるいは逆に炎上のリスクがあっても、コメント機能くらいはつけるべきだ。

来るべきサイトのHTML5化を期にそういう所を改善していこう。


2010年6月24日(木)くもり

どうもこの頃の俺は他人を妬む気持ちが強くていかん。お金持ちとか若くて元気な人とか美人とか一芸に秀でて名を上げた人とかのことが、羨ましくて仕方がないのだ。若い頃は可能性(という名のモラトリアム)を担保にして根拠のない自信だけは持っていられたせいか、あまり他人の事を羨むこともなかったのに、オッサンになって自分の器が知れてからこういうことを思うようになるというのが、我ながら情けない。

朝、そんなことを思いながら歩いているうち、これは羨む相手を間違えているのがよくないのだと気がついた。自分より恵まれた境遇の人が自分より仕合せであるのは当然のことで、それを羨んでいても結局妬む気持ちしか起きない。どうしても他人を羨む気持ちが消せないなら、むしろ自分よりひどい境遇に置かれながら仕合せに生きている人を羨もう。逆境に負けずに活き活きと勁く毎日を生きている人の、その生きる力を羨ましく思い、そういう仕合せにあやかりたいと願おう。決して自分の方がマシだと思うためでなく、むしろ恵まれているのに文句ばっかり言う自分を戒め、また心がけ次第で仕合せに生きる道は必ず見つかると望みをもつためだ。

逆に、たとえば小さな事にいちいちブツクサ文句ばっかり言っている大富豪の姿を想像してみなさい。これほど救いのないものはない。いつもしかめっ面をしている美女やいつもクヨクヨしょげ返っているイケメンくんを想像してみなさい。これほど無意味な、もったいないものはない。だけど、いまの自分がいまの心持ちのままで財産や美貌を手に入れたら、そうなる公算が大きい。

心持ちがすべてではないけど、外的条件がすべてでもない。心持ちは大切だ。外的条件と同じく気の持ちようも簡単にホイホイと変えることなどできないが、外面にせよ内面にせよ、少しでも変えたいのなら、自分が身体を動かして働きかけるしかない。

やる気のないあひる

夕方、少し早めに用が済んだので、いつもの医者に行く前に温泉で汗を落として行こうかなと思って電車にまで乗ったのだけど、途中でまあいいやと思い直して家に戻り簡単にシャワーを浴びて一息入れた。 医者の時間が近くなったので、黒いヘンリーネックのTシャツにジーパンに草履という格好で歩いて出掛ける。片道30分。帰り道ではドラッグストアと書店に寄る。書店で買ったのはマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)とクロード・レヴィ=ストロース『パロール・ドネ』(講談社選書メチエ)だ。朝の出勤の歩数を加えて、歩数計カウント15,943歩。

きょう、【娘】が下校時に道でコケて怪我をした。ズボンに穴があくほどのハデな擦りようで、10円玉ほどの大きさにわたってヒザ小僧の皮がむけた。現場近くの家の方が、救急箱を持って来て手当をしてくださったという。ありがたいことだ。週末にはお礼を言いに行こう。


2010年6月23日(水)はれ

昼飯には妻と二人で湊町3丁目の裏通りの トマティナ へ。小さな生パスタの店。初めて行ったけど、安くてうまくて、二人とも大変満足。それからベスト電器に行き、エコポイントを交換した商品券で血圧計を購入。オムロンのHEM-7420という機種で、二人分のメモリ機能が付いている。この頃ちょっと血圧があがり気味の俺とひどい低血圧の妻は、それぞれに自分の血圧の推移を把握しておくべきだ。

このごろ iPad やらなにやらに関連してなにかと話題の、富士通のScanSnapなるものを購入するかどうか、夫婦で迷い中。俺の本棚も本でいっぱいだが、それよりも修行時代から溜め込んだ使うか使わんかわからん古い書類でいっぱいの妻の書類棚がすっきりするといいなと思っている。あとは写真ね。

仕事帰りにはデオデオへ行って、昼にベスト電器で買い忘れたディスクセイバー(エレコムCK-DS4)なるものを買い、その近くのドラッグストアでお酒を買って帰った。ディスクセイバーというのは傷のついたCDやDVDを研磨して修復を試みるというものだ。DVDやWiiのソフトウェアのディスクを子供たちが手荒に扱って再生できなくしてしまったものがいくつもあるので、ダメ元で試してみる。

歩数計カウント15,686歩。


2010年6月22日(火)はれ

あいかわらず楽しませてくれるiPadの日本語入力メソッド。「元も子もない」と変換しようとして「もともこも」まで入力すると、予測変換候補として「元モコモコ」「下モコモコ」などが登場する。「下モコモコ」が「元も子も」より優先される理由がわからん。いやまあ、説明されなくてもわかりますよ。何にせよ名詞の〈ほげほげ〉に〈元〉という接頭辞をつけて〈元ほげほげ〉という名詞句を作る日本語の慣用に従って、「もともこも」という文字列を見たとき「もと・もこも」と区切り、さらに「もこも」を予測変換している、というメカニズムぐらいは。しかしだからといって「モコモコ」ですよ、あなた。当然「親も子も」と変換しようとすれば「親モコモコ」が予測変換候補筆頭にくる。ふむ。親もモコモコ子もモコモコ親も子供もモコモコモコ …あたらしい早口ことばの誕生だ。

久々に晴れたので子供たちを風呂屋に連れていこうかと妻と相談していたのだが、夕方、お迎えからの帰りの車で【息子】が寝てしまったので延期。どうやら【息子】は舌を怪我したらしく、食い物がしみてろくに食事ができない。それで元気がないらしいのだ。

蒸し暑いこの時期の徒歩通勤で汗をかきがちだからたまには温泉でサッパリしたい (いや、だからといって日ごろ風呂に入っていないという意味ではないぜ) というのはもちろんだけど、風呂屋に行きたい理由が実はもうひとつある。年長さんの【息子】が「お泊り保育」を間近に控えている。【息子】としては、家族と離れてのはじめてのお泊りにはかなり不安があり、お泊りのメニューに必然的に含まれるお風呂屋さんについても、あれこれ心配が先に立っているみたいだ。それなら、いちど家族でお風呂屋さんにいってパパと一緒に男湯を経験させよう。それで不安は軽くなるだろうという、そういう目論見がある。だけどそれは、怪我して食事ができなくて本調子でないときにやることではない。

ところで、俺自身には、幼稚園のお泊り保育というものの記憶がない。入園の記憶はある。七夕の笹飾り・プール・発表会・クリスマス会・お餅つき・卒園式…各種イベントの断片的な記憶もある。園庭の砂粒を拾って口に入れる癖をクラスメートの女の子にひどく咎められたとか、スキップができなかったのがくやしかったが家で母や兄に指導されて三日ほどでマスターして皆を驚かせたとか、競争ということが理解できず運動会ではつねにビリだったとか、オシッコが言いだせずおモラシしたとか、いろいろ思い出すことはあるのだけど。お泊り保育というイベントがなかったか、あるいはあったけれどもイヤがって参加しなかったか。あるいは参加したけど、その経験が「お泊り保育」という言葉に同定されていないだけか。

俺としては風呂あがりにビールをグッといきたかったのだけど、家風呂になったので、昨日に引き続き今日もアルコール抜き。


2010年6月21日(月)くもり

この「て日々」をMacのブラウザで読むと本文が11ポイントのヒラギノ明朝ウェイト3フォントで表示されるようにスタイルシートを書いてあったのだけど、iPad版Safariではデフォルトのゴシックフォントで表示されてしまっていた。何とかならんもんかと思っていたが、これは単に俺のスタイルシートの書き方がまずかっただけのようで、フォント指定を書き直したらうまくいった。具体的には、

body { margin: 3pt 12pt 3pt 12pt; background-color: white; font-family: "ヒラギノ明朝Pro","MS P明朝",serif }

とフォント名を文字列リテラルで与えていたところを

body { margin: 3pt 12pt 3pt 12pt; background-color: white; font-family: HiraMinProN-W3,"MS P明朝",serif }

とコード名による指定へと書き換えただけ。ついでのことに、本文の文字サイズを12ポイントにして、少し目にやさしくした。本当をいえばMobile Safariのデフォルトフォントが明朝体・セリフ系に変えられるといいのだけど。いまのデフォルトは欧米語の文字がTimesで日本語の文字はゴシック体。不釣合いなこと甚だしい。欧米語をサンセリフにするか日本語を明朝体にするか、どちらかにして欲しい。

YouTubeで見かけた 漢字でQ というiPhone向けゲームをやってみた。四字熟語や日常語は何でもないが、動植物の名前の漢字表記などは全然わからない。理屈ばかりこね回して生きてきた俺には、その手の読書経験というものが乏しいのだ。このゲームは案外勉強になるかもしれん。

それにしても iPhone4 のこの前評判はどうだ。APPLE LINKAGEを見ていても、iPadが早くもすっかりかすんでいる。同時期に発表されたフルモデルチェンジMac miniなんて、リリースのニュースの他には話題にもならない。この三つのうちひとつだけでも十分すごいのに、魅力的な製品を立て続けに打ち出してくるAppleの勢いは何なんだろう。

歩数計カウント9,700歩。


2010年6月20日(日)くもり

子供たちを教会の日曜学校へ連れていく。普段は妻の運転する車で行くのだが、俺が子供二人を連れて電車で行くことにした。【息子】は来年小学校に上り、【娘】と二人で電車通学することになるので、駅から学校まで歩く機会をこれから増やして行ったほうがいいと考えたからだ。こういうとき【娘】はすっかり頼れるお姉ちゃんに変身する。電車に乗ってから小学校到着まで25分。歩いている時間だけなら17分。電車に乗れさえすればきっと大丈夫だ。校門前で子供たちの写真を撮って妻に報告し、教会へ移動。教会は小学校からさらに歩いて数分のところにある。礼拝のあと、子供たちと牧師館の屋上でドッジボールをし、それからリンゴジュースを飲ませてもらった。すぐ近くのファミマに寄ってビールと子供のおやつを買い、帰りは雨が降りだしたこともあって、来た道を歩かず市内電車を利用した。

俺は、どこへ行くにも車でぴゅーっと走っていくというクルマ社会の利便性の恩恵を受けながらも、「距離」を自分と目的地を隔てる悪者あつかいするような考え方には、どこか割り切れないものを感じてもいる。自分の足で歩く経験を大事にしたいと思ってもいる。だから、昨日といい今日といい、子供たちと歩く時間を積極的に取った。本当は、自分ひとりで自分のペースで足早に歩くほうがずっと楽だ。子供のペースに合わせてゆっくり歩くのは、けっこう体力と精神力がいる。そのぶん、子供たちにも、自分の足で歩く経験を通じて体力と精神力を養って欲しいものだと思う

後日追記: 「欲しいものだと思う」なんて間抜けな日本語があるものか。「欲しいと思う」や「欲しいものだ」でもお釣りがくる。「欲しい」で十分だわ。(2010年6月27日)

クルマ社会ではどうしても、道が「目的地に至るための手段」と位置づけされがちだ。だが人生を道に例えるなら、もとよりこの道に目的地などありはしない。出発点は忘却の薄闇の中。たどりつくであろう終焉もぼんやりとした薄闇の中。道標はせいぜい次の宿場までのことしか教えてくれない。人生はいつも途中。それならば、途中にあることをもっと大切に考えるべきだ。歩けるところは自分の足で歩く。そうしたら、ひょっとしたら、「距離」と友達になれるかもしれない。以上、散歩の勧めにしては大袈裟すぎるけど。


2010年6月19日(土)くもり

【娘】のお絵かき教室。いつもは妻が車で連れて行くのだが、散歩がてら歩いて帰ることはこれまでにもあったので、きょうは俺が徒歩で連れて行った。俺の足で徒歩35分の通勤路のちょうど中点あたりにお絵かき教室がある。途中でホームセンターを少し冷やかしながら、子供の足でおよそ25分。

早いもので、途中の保育園の生垣ではもう朝顔が開花している。近所の田んぼはきょうがちょうど田植えの日。今年こそ植えようと思っていたヘチマの撒きどきは、また逃してしまったようだ。

お絵かき教室に行った帰りにマクドナルドに寄り、コーヒーを飲みながら iPad でYahoo! BB モバイルのWiFi接続に再挑戦。先日は新幹線の車内で不覚をとったが、今回はパスワードその他をキチンと控えてあったので、何の困難もなく接続完了。ありがたい。せっかくの二年間無料オプションを使わない手はないからな。その次は眼鏡屋に寄る。木曜日の夜に眼鏡のフレームのネジが緩んでレンズが外れてしまっていたのだ。直してくれた店主によると、ネジが取れていただけでなく、全体に少し歪んでいたそうだ。知らず知らず、扱いが荒くなっていたのだろう。反省せにゃならん。

夕方からは、【娘】のリクエストにより土曜夜市へ。今年は今日が初日だ。早めに行って、帰りの電車が混みはじめる前に帰ってきたのだが、ビールも飲めたし、【娘】にかき氷も食わせたし、【息子】と妻へのお土産もそれなりのものを見つけたし、いい気分である。【息子】へのおみやげは たまごっち のキャラクター くちぱっち のお面。妻へのお土産はくまのプーさんとクリストファー・ロビンの柄のちょっとしたポーチだ。あとは、サンイートの屋台で明日の朝食用にサンドイッチを買い、ジュンク堂書店で文庫本を三冊買って帰った。

歩数計カウント12,091歩。


2010年6月18日(金)あめ

今週の火曜日の分からレンタルサーバのwebのアクセスログが生データのままダウンロードできるようになった。これにちょっとフィルタをかけるだけでいろいろなことがわかるのだ。たとえば、iPad を使ってアクセスしているのはこの三日間ではまだ自分だけだとか、iPhoneでアクセスしてくれた人が二人いるとか。そのうち一人はプログラミング関係のある本の情報を検索してやってきたとか、もう一人は知人かもしれないとか。

しかし、細かく見ても粗く見ても、読者が少ないことに変わりはない。人間のお客さんより、検索サイトの巡回ボットのほうが多いくらいだ。巡回ボットが来てくれるおかげで検索サービスのデータベースに載り、それがひいては人間のお客さんに来てもらえるきっかけとなるのだから、もちろんボットさん大歓迎ではあるのだが、最終的には人間が読むために書いているのだから、どうせなら読んだ人に喜んでもらえるような、有益な、または無益でも面白い文章を書きたいものだ。

人々が何を求めて、どんなキーワードでWebを検索しているかなんて、誰にもわからない。この頃はTwitterなどを利用して人々が頻繁に言及するトレンドをつかむことはできるようになったが、自分がそのトレンドに関連した情報を提供できるとは限らない。というより、俺のような非社会的キャラクターがトレンドがらみのことを書いたとしても、それは偶然の結果でしかない。俺は俺に書けることを書くしかない。

検索サービスのおかげで同じことを何度も書く必要はなくなった。その代わり、他の人と同じことを書いていても仕方がないということにもなった。無理にトレンドに乗っかったことを書いても月並みなことばかり書いていたら埋もれてしまう。無理せず書きたいことを書きたいように書こう。俺がここでボソボソと書いた何かを、あとでどこかの誰かが見つけてくれる可能性は、検索サービスの技術の進歩のおかげでずいぶん広がっている。俺が何か書いて、それを読んで役立ててくれる人が、いま現在いなくても、そのうち出てくるかもしれない。そういう希望は持てる。 そのためには、面倒くさがらずにディテールを書き込もう。

書いてあることがたとえば「朝起きて、朝食をとりました」だけであった場合と、「朝食は味噌汁とご飯と梅干でした」と書いてあるのと、「朝食は味噌汁とご飯と梅干でした。この味噌汁のダシは、昨晩夕食の後片づけのついでにとっておいたものです。味噌は赤味噌で、具は油揚げとほうれん草でした」と書いてあるのとで、読んで得るものは大きく違うだろう。「朝起きて、朝食をとりました」だけじゃあ、当たり前だ起きる前に朝飯喰うやつがあるものか、と言われるのがオチだが、油揚げとほうれん草の味噌汁と書いてあれば、それを読んで明日の朝は私も味噌汁にしようと思う人はいるかも知れない。まあ、たとえばの話だけど。

自分にとって当たり前のことであっても、細かく見ていけば他の人の目に意外と映るようなバリエーションはあるはずだ。俺が書いていることを読んで、なるほどそういうやり方・考え方もあったかと思う人はいるかもしれない。もちろん書くわけにいかない内容もあるし、パンツの柄や手持ちの現金の額まで書くことはなかろうけど、同じことなら、ディテールまで書きこんだほうが、読んでもらえる可能性が広がる。

やる気のないあひるやる気のないあひる
やる気のないあひるやる気のないあひる

それにしても、今日は眠くて仕事にならなんだ。いや、授業はいたってマトモに済ませたけどね。どうも最近体調がよくないなあと思いつつ、夕方からピアノのレッスン。帰宅したら、Kunen先生の本が届いていた。帰宅後少しおそくなってから茜屋へ夕食に出かける。妻子は味玉ラーメン、俺はピリ辛味噌つけ麺。そして生ビール。基本的に、いつもこのメニューだ。帰りの車で子供たちはぐっすり。歩数計カウント8,146歩。

やる気のないあひる やる気のないあひる やる気のないあひる やる気のないあひる
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Kunen先生の旧版 Set Theory では、この現実の世界のことを the world with cows and pigs と表現していた。日本語訳したときにそれを「イヌもいればネコもいるこの世界」と書いた。そこらへんにいる集合でないもののうちで、なにかジェネリックなものをピックアップして cows and pigs と書いたのだろう。いまの日本でそれに相当するジェネリックな生き物といえば「イヌとネコ」でトドメをさすだろう。そう考えて意訳した。日本の読者にとっては、「雌牛と豚」ではなにか特別な意図があって選ばれたもの (ジェネリックでないもの) のように感じられると取り越し苦労をしてしまったわけだ。続く記述には、いま C を 一頭の cow とすれば、{C} は確かに集合ではあるけれども、云々とあり、そこは当然、Cが一匹のネコならば、{C} は集合ではあるでしょうが、云々となった。しかし、原文を知る人にはこうした「超訳」はかえって意外だっただろう。あとで何人かの人にいろいろ質問されることになった。

さて、それで、Kunen先生の新しい本 The Foundations of Mathematics (College Publications, 2009/09) だ。この本の第I章では集合論を扱い、旧版Set Theoryの第I章と第III章に相当する内容をもう少し詳しく展開している。I.6節で、この世界と遺伝的集合の世界の対比を説明しているのだけど、なんだか池の周りにアヒルとブタが歩いているような図が挿入してある。池が遺伝的集合の世界 (ZF集合論の宇宙) を意味しているらしい。いろいろの集合は池の中の微生物で、順序数などは水底からポコポコ湧きだす気泡のようだ。

I.5節:Counting では To count a set D of ducks, you first have to get your ducks in a row, and then you pair them off against the natural numbers until you run out of ducks と述べて、池に4羽のアヒルが浮んでいる図と、その4羽が一列に並んで、番号 0,1,2,3 が付されている図が載っている。きっとKunen先生は大学の講義でもアヒルの絵を黒板に書いたりしているのだろう。こうなると、もう「イヌとネコ」作戦は通用しない。


2010年6月17日(木)はれくもり

なぜか自宅では数日前から、朝に iPad を使うとネットワーク接続がたびたび切断される。原因はわからない。夜、帰宅していじっている限りでは、ネットワークに問題は全然感じない。どうなっているのやら。

昔のフォークグループ「古時計」と「古井戸」を混同して、YouTubeで「古井戸 ロードショー」なんて検索して、なんでヒットしないんだろうと不思議に思っていたアホは俺だ。小中学生のころけっこうラジオ好きだったのだけど、そのころラジオでよくかかっていたのが古時計の「ロードショー」、ふきのとうの「風来坊」、それから少し路線は違うが尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」だった。どれもYouTubeで聴けるのが大変うれしい。いま聴いてもいい歌だが、あの時代の感覚というか、あのころの子供だった自分の感覚みたいなものは、もう戻ってこない。仕方のないことだ。

今日は昼休みに会議があった。スタッフの予定がかみ合わないことが多いので仕方がないのだ。俺は昼休み終了と同時に講義に出向かないといけない。昼休みに昼飯を食えないことはあらかじめわかっていた。そのうえ、朝飯もずいぶん軽かったので、10時半ごろに早弁を食った。講義が終って一息ついて、午後は15時半ごろに遅弁を食った。結果、晩飯が入らないので夜は酒だけ。これはこれで不健康。

Windows機の日本語IMEをGoogle日本語入力に替えてみた。案外いいかもしれない。まさか入力したことが全部 Google さんの研究用データとして提供されたりなんてことはないだろう。Macでは引き続き AquaSKK を使う。そんなことより、iPadの日本語入力で辞書登録ができないのをなんとかしてほしい。

歩数計カウント11,089歩。


2010年6月16日(水)くもりはれ

やほ。いい天気になった。

「て日々」のロゴを変更。前のは密教のマハームドラーみたいでサイトの内容 (というより無内容) にふさわしくなかったからね。それで、今度は各ページの先頭にこのロゴを表示させることに。このほうが無内容さがにじみ出ていてよろしい。しばらくのあいだこれでいく。しかし本当はサイトデザインをもうひと工夫して、もっと見やすくしたいところ。携帯電話やiPadから更新できるようにすることは今のところ考えていないけれど、せめてフィードくらいは発行するようにしなくては。

て日々の旧ロゴ
旧ロゴはこんなでした

さてさて、先日大阪でFrank Tall先生が話していた Kenneth Kunen先生の新しい本を発注。書誌情報は次のとおり。リンク先は版元。

The Foundations of Mathematics
Kenneth Kunen (著)
出版社: College Publications (2009/09)
ISBN-13: 978-1904987147

これはつまり、一昨年の夏に集合論のテキストの新版についてメールで問い合わせた返事に「新版はより専門的に突っ込んだ内容になる。その前に基礎的な部分を別の本として出す。いまはそっちに注力しているよ。」とKunen先生が言っていた、その本のことだ。なんとなんと、昨年の秋にすでに出ていたとは。不覚である。

歩数計カウント8,006歩。


2010年6月15日(火)あめ

まあそれにしても、よく降ること。

トレンドなう! なる iPad アプリがあった。キーワードを登録すると、それらを含む最近のTweetを、Twitter空間全体から集めてきてくれるというものだ。面白そうだと思ってインストールしてみた。デフォルトではいま現在多くつぶやかれている注目キーワードが表示されるが、俺には興味のもちようがない話題ばかりだったので、ためしに自分で「数学」「論理学」「ロジック」「解析学」「幾何」「代数」などのキーワードを登録してみた。その結果「数学」にかんするTweetの圧倒的多数は (おそらく高校生の)「数学わからん」「誰だ数学なんか考えだしたやつは」といった趣旨の発言だった。いや、「これから数学勉強するよ」「数学好き」「数学は日常生活を裏側で支えているんだと姉が力説している」といった肯定的なものもあるにはあったが、割合いでいうと、せいぜい5つに1つくらい。そして、「代数」にかんするTweetの圧倒的多数は大学生の「線形代数テスト終った。まじヤバイ」という趣旨の発言であることが判明。これでは、面白いTweetが見つかる前に気が滅入ってしまう。そんな理由で、トレンドなう! は一日でアンインストール。

どういうわけか、トレンドなう! は MacBook Pro の iTunes では iPadアプリのリストに表示されず、iTunes側の操作ではアンインストールできなかった。これはつまり、このソフトを将来再インストールするためには再度購入する必要があることを意味する。350円の有料アプリである。使っていて気が滅入ることよりも、この不具合のほうに、ちょっと腹が立った。

俺のようなソーシャルネットワーキング向きでない人間には気が滅入るだけといっても、たとえば、結城浩さんが 数学ガール テトラ ミルカ ユーリ なんてキーワードで使うぶんには、実用的な意味があるかもしれない。特定のキーワードについて市井の普通の人々が今まさに発言していることが手にとるようにわかるシステムがこんなに簡単に手に入るなんて、面白い時代になったもんだと思う。権力者が市民を監視するためにTweetアグリゲータを利用しだしたらエライことになるけど、テキストマイニングの技法を駆使してTweetを解析すれば、普通の人々が普通に考えて普通に発言していることからでも、思わぬビジネスチャンスが見つかる可能性はあり、おそらくその方向で研究を進めている企業はすでに多数あるはずだ。

さてさて、MacBook Pro上の Safari5 がとても快調なので、デフォルトブラウザを Firefoxからこちらへ切り替えてしまった。Windowsでは当分のあいだ、引き続き Firefox を利用する。それから、いまは「て日々」をXHTML1.0で書いているが、次のリニューアルのときにはHTML5化しようと思う。それまでに、先日までに書いたFlashコンテンツはまとめて別ページに置いて、「ねこ」や「くまのおさんぽ」をHTML5関連のAPIで実現できないか考える。まあ、あまり大掛りなことは、いますぐにはできないけどね。

歩数計カウント10,068歩。


2010年6月14日(月)くもり

娘の小学校は昨日の代休。息子は普通に幼稚園。大学生協の新しいレストランで妻と娘と三人で昼食。歩数計カウント8,832歩。

[本のアイコン]谷徹『これが現象学だ』を読み始める。今のところ、現象学の思考回路そのものを解説する本論部分に文句をつける資格は初学者の俺にはない。しかし数理論理学については俺はまんざら素人でもないので、ヨーロッパ諸学の危機について語る第1章第2節に限ってコメントする。

『これが現象学だ』34ページから引用: 一九世紀になると、デーデキント(1831-1916年)のような数学者が、論理的に整合的ではあるが、直観性をもたない「定義」を設定する。彼は「切断」という概念によって実数を定義しようとした。また、カントール(1945-1918年)は「超限数」(無限)を導入して数の概念を拡張したが、これによって結果的に古典的な数の射程が変わってしまう。さらに幾何学においても、19世紀に、ユークリッド幾何学の公準を変更して、非ユークリッド幾何学が成立する。この方向はヒルベルト(1862-1943年)の「公理主義」の数学に進む。数学は、経験や直観から離れて、新たな定義や射程や規則を作り出し、そこで活動することを主張しはじめたのである。

代数学のイデアル論などはデーデキントに由来するから、一般論としては大きく間違っているわけではないけれども、直観性をもたない定義の唯一の例として切断による実数の定義を挙げるのは適切でない。デーデキントの実数論は、それまで直観的にのみ捉えられていた実数連続体を、集合論的な方法の助けを借りて論理的に整合的なものとして定義しようとする試みであり、いわば論理の衣を着た直観の表現であったからだ。デーデキントの実数論と論理的に等価な二階算術のレベルに、集合論や計算論において、いかに多くの困難な問題が埋蔵されているかを思えば、デーデキントの実数論は、論理的整合性という観点からは、むしろ冒険である。

解析学を基礎づける営みは、運動の数学的記述の可能性を保証するために必要だった。エレアのパルメニデスやゼノンのように、運動などなく、不変不動の存在のそれ自身との同一性のみが真理であると言っているほうが、論理的整合性の観点からはよほど安全確実だ。実数論は運動や変化といった眼前の事実を論理と擦り合わせるために要求されたのであり、決して論理的整合性のみをルールとする精神の自由な活動などではない。

さらに言えば、数学の公理主義化・集合論化はフッサールにとって同時代的に進行していた変化であり、19世紀末の学問の危機と同列に論じうるかどうか難しい判断を要する。ましてやそのことを学問の危機のほとんど唯一の例として提示するのは適切でない。少なくとも歴史的順序に則っていない。ヒルベルトの公理主義は、たとえば非ユークリッド幾何学などに典型的に示される数学の経験との乖離という危機的事態を受けて数学者の観点から出した対応策。むしろ危機からの秩序回復を目指したものだったように思うだが。

最後にまた、次の文はどうだろうか。(37ページ): しかし、数学や論理学は、しだいに (直接に経験・直観される)「現実性」を離れて、(思考される)「可能性」の天空に舞い上っていった。さらにまた、数学に依拠して成立した近代自然科学も、同様に天空に舞い上がっていった。 紙数の都合もあってか、数学以外の諸科学の19世紀末の危機的状況については、この一言で済まされてしまっているのだ。

数学が天空に舞い上ったというのが仮に本当だったとしても、「近代自然科学も同様に」という記述を物理学者がうけがうとは思えない。近代の物理学が、実験機材を用いて感覚器官を拡張した結果として、「本来なら見ることができない」現象を実験によって捉えうるようになったのは確かだが、それは、ガリレオが望遠鏡を天に向けたときには、すでに始まっていたことである。物理学はつねに実験とともにあり、実験が示す観測データの解釈 (すなわち目に見える計器の指針がいかなる事実を示すものとして受けとられるべきか) をめぐる考察では、真面目な物理学者は常に、とても慎重だ。認識論的なディスカッションは物理学専攻の大学院学生たちにとっても日常的な活動の一環といえる。少なくとも、あの京都の衣笠に拠点を置く私立大学の、俺が出入りしていた頃の数学物理学科物理学教室の学生たちにとってはそうだった。残念だが数学者はとてもかなわない。その物理学者たちが、数学の抽象化に連られて近代自然科学も舞い上がりましたよ、と言わんばかりの記述を受け入れるはずがないのだ。

そのようなわけで、谷による「学問の危機」の説明は不適切または不十分なものと、俺には思われる。はじめ数学者として出発したフッサールのキャリアと関連づけて語ることを諦めて、もっと直接的な、平行線の公準への疑念と非ユークリッド幾何学の成立を例に挙げればよかったのではないだろうか。とはいえ、「現実性」「可能性」とカッコ入れして表記していたりする点をみると、この節の記述には、単なる導入とか問題の叙述とかでない、あとの議論への伏線のようなものがあるのかもしれない。このあとの議論で俺の疑念が丸ごと引っくり返される可能性はある。それに、数学の論理化・抽象化と経験からの乖離という問題は、他でもない俺の研究生活 (なんて言えるものがまだあるとして、それ) にとってこそ重要な問題なのだから、自分でも調べてみよう。

後日追記:こんな風に出だしのところにイチャモンをつけてしまったけど、谷徹『これが現象学だ』はとてもわかりやすく書かれた良い本だ。帯のコピーどおり「最良の入門書」と言って過言でないと思う。「数」をめぐるフッサールの考察には強い違和感を覚えるが、それは俺にとっての今後の研究課題であり、この本の責任ではない。あと、余談だけど、「あの京都の衣笠に拠点を置く私立大学」は奇遇にも谷徹教授の勤め先でもあるのね。(2010年6月19日)


2010年6月13日(日)あめ

昨晩、知人のピアノ弾き兼作曲家がかなり久しぶりにメールをよこした。作品をYouTubeにアップロードしたから聴いてくれとのことだった。宮澤賢治の詩 (『春と修羅』所収の「原体剣舞連」) に曲をつけ、メゾソプラノ独唱の歌曲にしている。いい仕上がりだと思ったが、この詞にこの音楽なら、女声ソロより男声合唱向きだ。そのように返事したら、その線は考えつかなかったがいいかもしれないな、とのことだった。

さて今日は小学校の参観日。妻と【息子】と俺の三人で小学校に押しかける。授業中の【娘】の机に向かう姿勢がなっちゃなかったので、放課後に教室に連れ戻して説教。まったく、授業中に脚を組んで座ったり横座りしたりするやつがあるか。【息子】は廊下で静かに遊んだり図書室で本を眺めたりしながらわりかし大人しく待っていられた。あっというまに校庭に飛び出して戻ってこなかった去年に比べればたいした進歩だ。いや、こう書き並べると、【息子】を褒めて【娘】を貶しているようだけど、【娘】はちゃんと授業を受け、同級生に先駆けて自分の描いた絵について発表していたわけで、いっぽうの【息子】は、これが来年小学生になるとは信じられないが、去年よりはいい子で待てたねという話だから、そもそも要求のレベルが違う。

昼食はパパラーメン。午後は交代で昼寝しつつのんびりと過ごす。夕方、谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)とデリダ/フッサール『幾何学の起源』(青土社)が届いた。がんばって読んでみよう。


2010年6月12日(土)くもり

きょうも今日とて、MacBook ProでYouTubeを子供に見せていたのだけど、その間、何度パソコンの画面を指でツンツンしたかわからない。すでに手がiPadに馴染んでしまっている。

昨日書いたように3G版iPadのほうがよかったかもと少し思いかけていたところへ、ソフトバンクのPocket WiFiというものがあると知って、一も二もなくショップへ出向いて契約してきた。これはつまりEMobileやSoftBank携帯電話のネットワークに接続できる小型無線LANアクセスポイントだ。手のひらにすっぽり収まるサイズなのでバッグに入れても邪魔にならず、出先でWiFi版iPadをネットワークに繋げる。もちろんデータ通信の契約は必要だが、一般的なプランでは基本料金が月額1,000円で、EMobile回線を使うデータ定額コースの通信のみならいくら使っても月に4,980円まで。携帯電話網を使う通信は従量制で少し割高になるが、妻の実家はEMobileのサービスエリア外なのでこちらを使うことになる。通信料金の不安はあるものの、最大5台までのデバイスをWiFi接続できるので、ネットワーク環境のない妻の実家で俺と妻がパソコンを使いたいとなったときなんか、かなり重宝しそうだ。俺の出張先はたいていそこそこの都市部だから、たぶん定額制の通信で用は足りる。それに、松山にいるときだって、わざわざ行きつけの喫茶店を変えなくても、いつもの店でiPadをフル活用できるじゃないか。わはは。

ソフトバンクの店を出て【娘】をいつもの公園に連れて行った。先週のiPhone父娘は今日もいた。先週なぜか裸足だったパパさんは今日はちゃんと靴を履いていた。俺は先週と同じ草履だった。

テレビをあまり観ない俺たち一家は、今頃になってソフトバンクモバイルのCMをYouTubeで見て大笑いしている。白戸家のお父さんの声がずいぶん渋いなあと思ったら、なるほど北大路欣也さんの声なのね。最初は、かつてよくあったお父さんにオチを担当させる論外な路線かと思っていたが、なかなかどうして、立派なお父さんである。それにしても豪華キャストだなあ。

このごろ日記がすっかりiPadブログだ。


2010年6月11日(金)はれ

朝、相変わらず【娘】の登校に同行。行きがけに、ワニさんちのユウタくんとお母さんに遭遇。ユウタくんは1年生だが、お母さんに似て背が高い。3年生の【娘】より少し高いくらい。

夕方は三か月ぶりに散髪に行った。夕食は近所に新しくできたラーメンの丸源。歩数計カウント12,185歩。

こうして毎日Wi-Fi版iPadを使っているわけだけれども、外出する機会が多い人が縦横に使い倒したければ3G版のほうがいいような気がしてきた。妻には3G版を薦めよう。だけど、世の中がこの先どう変わるかはわからない。あるいは、すべてのコンピュータが常にWi-Fiネットワークに接続している状態が当り前という話に近い将来変わってしまう可能性だって、あながち否定できない。

妻にiPadを薦めても、今はまだLOOXのるーちゃんを使いたいという。まあそれはそれでよい。Eee PCのごらぴーはWindows機としてはまったく使う気がしなくなった。もしもNetBSDなりDebianなりで無線LANデバイスが動作するようなら、そちら専従にしてしまうか、あるいはもうお払い箱にしてHARD OFFに持って行こうかと思わないでもない。しかし実は先日の妻の学会旅行で、事前にるーちゃんのネットワーク設定とセキュリティ設定ができなかったため、一時しのぎの代替手段としてごらぴーを持って行って、それなりに有効活用してきたようだ。そういうことがあるから、慌てて手放すこともないかと思っている。もともとそれほどかさばるものでもないし。


2010年6月10日(木)はれ

歩数計カウント8,170歩。

このごろは日記の文章をiPadのメモアプリで入力している。それをEvernoteにメールで送信してからパソコンでHTMLファイルへマージするという順序だ。これだとそこいらへんに寝転がりながらリラックスして作文できるのがいい。まあ俺の場合リラックスしたからとて別段たいしたものは出てこないのだけど。

さて今日はベルンシュタインの定理の全射版が選択公理のない集合論とは独立であることの証明を書いたノートを、いつもの場所に公開した。この話題に興味があって、なおかつ「いつもの場所ってどこだよ」と思うかたは、是非サポートセンターからご連絡ください。

というところで話は変わる。マルナカはマジンガーZである。というのはこういうことだ。帰り道にお酒とそのほかの食材を少し調達しようとマルナカに寄った。マルナカ店内に流れるイメージソングにはいつもちょっと引っかかってしまう。山陽マルナカの公式サイトで聴けるこの歌だ。これの何に引っかかるといって、「まあるい愛をショッピング」とか「みんなの夢をショッピング」とかいう部分だ。これはつまり、愛や夢は金で買えるのだと宣言する歌であり、あなたやわたくしが、うっかり誰かにまあるい愛情を抱いてしまったり夢を思い描いてしまったりすると、すぐさまマルナカ関係者がやってきて、問答無用でお買い上げしていっちゃうぞという、警告の歌なのだ。なんという強引な話だろう。それにしても、このロジックにはなぜか聞き覚えがある。何だろうと思って少し記憶をスキャンしてみると、あれだ、三十数年前 (1972年: なんと妻が生まれるより前じゃないか) のTVアニメ「マジンガーZ」のテーマソング (→YouTube) の「正義の心をパイルダーオン!」「平和の祈りをパイルダーオン!」というやつだ。あなたやわたくしが、うっかり正義の心を抱いたり平和を祈る心持ちになったりすると、すぐさま (サンダーバード2号ほどではないにせよ航空力学的にかなり無理のある) ホバーパイルダーという乗り物に乗った光子力研究所の兜甲児くんがやってきて、問答無用でパイルダーオンされてしまうのだ。なんという強引な話だろう。ええーい、光子力ビーム!

などとアホを言っていたら、深夜になって「てなさく世界」にアクセスしても404エラーが出て表示されなくなった。すわっ改竄か登録抹消かと緊張が走ったが、レンタルサーバの一時的な障害であるらしい。実際あなたがこれを読んでいるころには、ほれこのとおり復旧している。

そして夜中も2時を回ってから、なんで今夜に限ってこんなに腹が減るんだろうと思って、ようやく晩飯を食っていなかったことを思い出した。酒ばっかり飲んでコロっと忘れてた。なにをやってるんだか。


2010年6月9日(水)はれ

鉢植えのトマトに花が咲いた

本日は休肝日。歩数計カウント7,976歩。写真はうちの鉢植えのトマトの今朝の様子。小さい黄色い花が咲いている。そして日記は今日も今日とて iPad ラプソディだ。本体が届いた2日後の日曜日に貼ってから、わずか10日しか経っていないけど、タッチパネルの保護シートをはがした。そりゃあ画面を綺麗に保つのも大事だけど、表示の美しさを犠牲にしてまでというのは、ちょっと違うように思ったからだ。

先日褒めちぎったオライリーの電子ブックは、あとで知ったところでは Lexcycle 社の Stanza というソフトウェアに書籍データをバンドルしたものだった。Stanza単体はすでに iPad 対応を果たしている。そうと知ってりゃ、あの本も iPad 用 Stanza のカタログから買うんだった。Mac とか PC 向けの Stanza Desktop というアプリケーションもあり、こいつらは自前の文書を Stanza や Kindle で読める形式に変換できるようだ。俺がふだん読み書きしているような数式や図がてんこ盛りの文書も扱えるのだろうか。だとしたらちょっと面白そうだな。

読書ノート:林信行『iPadショック』(日経BP社, 2010年5月)

こういう本は賞味期間が短いから早く読んでしまうに限るのだけど、いろいろの事情でもたもたして、一日ちょっとかかってしまった。先が思いやられる。読んだあとは、フェローシステムに持っていって読んでもらうことにしよう。

どちらかというと、iPadをまだ持っていない人向けの本と言えそうだ。だが持ってから読んでも、もちろん得るものがあった。

iPadやiPhoneがAdobe Flashを採用しないのは、決して意地悪でやっていることではなく、Flashの深部に残る古い技術の残滓、たとえばメモリ管理の甘さなどを嫌ってのことであるらしい。Flashはクローズドな技術であるから、たとえSafariでのFlashの動作が悪くても、対策はAdobe任せにならざるを得ない。エンドユーザにはしかしそうした縄張りは関係のないことだから、ただ「Macは遅い」「Safariは使えない」という印象だけが残る。HTMLやJavaScriptといったオープンな規格だけを使ってWebサイトが構築されるようになれば、ブラウザの開発者が表示の品質を保証する全責任を負うことができる。アップルらしい考え方だ。なるほど、ようやく納得がいった。これからはHTML5サポートの動向に注目していこう。

日本の携帯電話業界の閉鎖的な体質と、その結果としての「ガラパゴス化」という話にも考えさせられる。ガラパゴス化は携帯電話業界だけの話ではないからだ。

あとがきから引用:私はiPadから生み出される未来が、90年代のIT機器のような効率に追われる世界ではなく、精神的豊かさや幸福感、ライフワーク・バランスのとれた未来の生活をもたらしてくれるものであってほしいと願っている。これからiPadでビジネスを展開する方々にも、ぜひ、子供の頃に夢見ていたような素敵な未来のビジョンをイメージしながら、夢を形に変えてほしいと思う。


2010年6月8日(火)あめ

2007年に書いたソロヴェイ論文に関する講義ノートを、いいかげんそろそろ改訂増補しようと考え中。そのためルベーグの積分論の背景について勉強し直したい。目的は測度問題に関するソロヴェイの論文の背景と意義を浮き彫りにさせることだから、ルベーグ不可測集合の存在証明における選択公理の使用という点が焦点になる。ルベーグ積分の歴史についてはトマス・ホーキンスの "Lebesgue's Theory of Integration: Its Origin and Development" (2nd edition, 1979 Chelsea/2002 AMS) がいい情報源になりそうだ。あの超有名な宇宙物理学者ステファン・ホーキングが編んだアンソロジー "God Created the Integers" (2007 Running Press) にはルベーグの元論文の英語への抄訳が収録されている。ルベーグを含む四人のフランスの数学者たちがツェルメロの整列定理について論争した五通の手紙の邦訳が田中尚夫先生の『選択公理と数学』にあるが、あいにくこの本は持っていない。しかし英訳がウィリアム・エウォルド編集のアンソロジー "From Kant to Hilbert" (1996 Oxford UP) の下巻にある。田中先生の本は図書館で借りるとしよう。フランス語原文に当たりたければ、学科の書庫に行けばアンリ・ルベーグ著作集があるはずだ。

ホーキンスの本は手頃なサイズだけど、ホーキングとエウォルドのアンソロジーはどちらもひどく分厚くて、持ち歩く気がしない。紙の本もいいが、このとおりどうしても重くかさばる。勉強が佳境に入った時期にたとえばイェック本とカナモリ本を持ち運びたいと思うと、その二冊だけで通勤バッグがパンパンになる。こいつらを全部デジタル化して iPad で持ち運べれば、何冊持っても荷物は増えないのだが。

幸いこの頃では、モシュコヴァキスの "Descriptive Set Theory" (2nd Edition, 2009 AMS) とデヴリンの "Constructibility" (1984 Springer) など、PDF版が用意された専門書も多い。モシュコヴァキスを GoodReader で開いてみる。同じ iPad のiBooks や Kindle for iPad の使い勝手にはかなわないが、大きく重い紙の本を持ち運ぶ必要がないだけでもずいぶん助かる。それに、分厚い本だけに時間は少々かかるものの、全文検索ができる。これは大変ありがたい。

読んだ本の記録はEvernoteでつけよう。どんどん読んで記録していこう。ひとまず林信行『iPadショック』(日経BP社)を読む。最近買った本のなかでは、なにしろこれが一番賞味期限が近いからね。

それにしても、iPadのスクリーンキーボードが打ちにくいせいか、昨日の日記にしても今日のこの上の文章にしても、つまらない誤字や編集ミスのせいで意味不明の箇所がいくつかあった。気をつけなくちゃ。

やる気のないあひる

さて、レンタルサーバのアクセス解析を見ると、このごろ「加算集合」「高々加算」という検索語で「てなさく世界」にたどりつく人が散見される。今日だけで2件あった。「可算集合」「高々可算」という正しい語句では今月に入ってからは誰も来ていない。ひょっとしたら俺が誤変換したまま日記に書いたのを検索エンジンが拾っていったのかもしれないと思って Googleで調べてみたが、www.tenasaku.com内で「加算」という語句にマッチするのは、ActionScriptで組んだゲームを紹介するページ(およびそのゲームのソースコード)の「得点を加算」というところだけだった。それでつぎはWeb全体で「高々加算集合」をGoogle検索したら、「可算集合」と訂正された上で、たくさんのページがヒットした。中には「可算集合」と「加算集合」をごっちゃに書いているページもあったけれど。いずれにせよ「加算集合」なんて用語はないので、間違えていた人はこの機会に訂正してください。


2010年6月7日(月)あめ

データが未整理のまま各所に散らばっているのは不幸のはじまり。全体を一望できる足場を確保したい。このiPadはあくまで閲覧&メモ用。パソコンに蓄積したデータの整理が問題だ。少しまじめに考えよう。 Mac を自宅用に買うのはまだ先のことになる。とすれば、Vistaくんをもっと真剣に活用すべきだ。だが iPad のホストを MacBook Pro から Vista くんに替える気にはならない。となると、写真も動画も、CDから変換した iTunes ライブラリも、およそ iPad で表示させたいデータをすべて MacBook Pro にコピーせにゃならんのだろうか。だが、MacBook Pro はあくまで仕事用に買ったもらった職場の備品だから、いくら自分専用で使い方は裁量に任されているといっても、プライベートなデータを満載にしていいものではない。

…こんなぐあいに迷ったあげく、せっかくの強力なパソコンや革命的な新製品を使いこなせないままで終ってしまう。だから、不幸のはじまりである。パソコンなんぞ、俺のようなシロートが3台も4台も持つものではない。しかしそうは言っても持ってしまったものは仕方がないから、有効活用を考える。MacBook Pro、職場のXPパソコン、自宅のVistaパソコン。それぞれの守備範囲を明確にしよう。整理するというのは集約することとは限らない。必要ならば Evernote と Dropbox を活用して、パソコン間のデータの同期をとろう。

いや待て。蓄積してきたものの整理も結構だけど、記録するに値するなにかを新しく作り出す努力を、最近怠っているのではないか?まあ、これまでだって大したことはしていない。だが、大したことあろうがなかろうが、情報を生み出さなくてはいくら Evernote が Dropbox でも iPad がクラウドコンピューティングでも仕方がない。作り続けなければ。本を読もう。ものを考えよう。できることを見つけよう。

大きくやる気のないあひる中くらいやる気のないあひる小さくやる気のないあひるさらに小さくやる気のないあひる

まあ、そんなようなことを思っているうちに夕方になったので、ジュンク堂書店へ。といっても、目的は自分の読む本を買うことではない。大学図書館に置く本を学生が選ぶ「ブックハンター」なるものに妻(いい歳をして看護学専攻の大学院生)が当選し、今日はそのハンティングの日。その間、俺は子供らのお守りをするのだ。5階児童書コーナーのベンチで【息子】が絵本を見るのにつきあったり、通路に座り込むなと【娘】に注意したりする傍らで、同じフロアの洋書コーナーからロジャー・ペンローズの "The Road to Reality" を持ってきてつまみ読んだりした。だがこの本は家にあるような気がする。読まなくちゃ。

妻がハンターの役目から解放されたので子供についている役目を交代してもらう。ついでのことだから、何冊か自分ための本も買うことにした。4階の数学書コーナーでルドルフ・タシュナー『数の魔力』(岩波書店2010年)、コンピュータ本コーナーで林信行『iPadショック』(日経BP社2010年)その他を選び、カード払いで買う。

帰宅後、iPadにPagesをインストールしてみる。テンプレートのひとつとして「感謝状」というのがあったので、試しにいつも俺を支えてくれる妻への感謝状を書いてみた。一緒にいてくれる人がいるのはとても幸せです、と書こうとして「一緒にいてくれる人がいるのは」まで入力したら、予測変換候補が言うに事欠いて「不幸のはじまり」… この日記の最初の部分の下書きをしたときの入力を iPad が覚えていたようだ。絶妙で面白いが、決してそうではない。普段は文句ばかり言っている俺だが、妻には本当に感謝しているのだ。


2010年6月6日(日)はれ

昨日書いたようなわけで、きょう一日は割り切って子供の世話に徹する。朝食はパパチャーハン、昼食はパパラーメン、夕食はパパカレー。

あさごはん

昼食後すぐにカレーを作り始め、炊飯器のタイマー予約をして、子供をいつもの公園へ連れていく。【娘】とヒナタちゃんが大きいほうのブランコに乗り、その隣の小さいブランコで【息子】がブランブラン揺れる。しばらくすると、【息子】と同じか少し小さいくらいの女の子が順番待ちをしだしたので、【息子】をこちらへ呼んで、女の子に「乗っていいよ」と合図。その子を公園に連れてきたお父さんは、ちょっとヒップホップないでたちの若い人で、なぜか裸足だった。iPhoneを片手に娘のようすを見ていたので、iPadを見せてあげた。やはり画面の大きさに驚いていたようだ。

ヒナタちゃんが帰る間際にもう一人のクラスメートであるユイナちゃんが登場。この二人にはこの公園でよく会うのだ。ちょっとの間遊んでユイナちゃんも帰り、俺たちはバスで空港へ。妻が乗ったANA便の到着予定時刻ぴったりに到着ロビーに行き、20分ばかり待ったのだけど、なんと飛行機は定刻よりも5分ばかり早く着いていて、手荷物を預けていない妻はその頃すでに家に向かって車を走らせていたのだった。迎えにいくと言ってあるのだから、次回からはせめて定刻までは待っているように。

ばんごはん

子供たちはいい子にしていたし、妻にとっては有意義な旅行だったそうで、なによりだ。

おかえりなさい

以上3枚のイラストは neuNotes なる iPad用手書きメモソフトで描いたもの。


2010年6月5日(土)はれ

今晩から一泊だけ妻が名古屋にいく。大学院での研究テーマに関連の深い問題について、明日開催の学会で知人が体験談を語る。その講演を聴き、先行研究者たちとディスカッションするためだ。お金があれば家族旅行を兼ねて俺たちも名古屋までついていくところだが、とてもそんな懐具合ではないし、まあ、【息子】くんも年長さんになって聞き分けも多少はできるようになったので、初めての試みとして俺と子供たちが残り、妻には【娘】さんを授かって以来10年ぶりに、子供の面倒からもダンナの心配からも解放されてのんびり (というのは言葉の綾で、実際はビジネス出張並みの強行軍だけど) 泊まりがけ旅行を楽しんでもらうことにした。子供たちがまっとうに成長してくれているおかげであり、少なくとも部分的にはこれまでの妻の苦労の賜物だ。だから、まあたった一日だけど、心置きなく羽を伸ばして来なさい。

夕方6時半ごろ妻が出かけたあとは、俺と【娘】が寝室の片付けと風呂の用意をして、8時半ごろに入浴、9時には歯磨きも済ませ布団に入る。サービスして半時間ほどiPadで子供たちにYouTubeを見せ、じゃあ続きはまた明日ね、と言ったら素直に就寝。夜10時には子供たちはスヤスヤと可愛い寝息を立てている (と書いてる最中に、どっちかが大きなくしゃみをしやがったけどな)。【息子】がゴネるのではないかと心配していたが、お姉ちゃんもパパもいるからわりと平気だったみたい。10年ぶりに一人で寝る妻のほうが寂しがっていたりして。

明日は三食俺が料理をし、公園へなりと遊びに連れて行き、夕方に空港へ妻を迎えに行く。妻が毎日のようにこなしていることでもあるけれども、これはきっと体力勝負だな。


2010年6月4日(金)くもり

週末恒例(嘘)、思ったことをダラダラと書いていきましょうコーナー。

たいていの用が携帯電話で済むようになった昨今、家庭の固定回線電話を使う機会はほとんどなくなった。固定電話を廃止するわけにもいかない気がするが、しかし本当に必要不可欠なのか、改めて聞かれるとわからない。俺たちの家から電話をかけるのは京都や山口の親元へ孫の声を聞かせる時くらいだし。

ノートパソコンとiPadを併用するようになって、今度は自宅のデスクトップパソコンが固定回線電話みたいな扱いになるのかもしれないと考えた。

しかし、自宅のVistaパソコンに関していえば、本当に貴重なのはパソコンそのものではなく、そこへ蓄積されたデータのほうである。いま手元にあるMacBook Proは勤め先で買ってもらったものだから、プライベートなデータを保存するわけにいかない。業務上のデータはどうかといえば、ノートパソコンに他人の個人情報を満載して西へ東へ運んで行くなんてことをしたくない。そうしたわけで、MacBook Proに保存するデータは、ダウンロードした論文など研究用のデータと、プログラミングの自習のためのプロジェクトくらいである。業務上の大事なデータは職場の居室のデスクトップパソコンにあり、取り溜めた写真やiTunesライブラリなどのプライベートで重要なデータは自宅のデスクトップパソコンにある。プライベートにもMacBookを持つようになれば、自宅のVistaくんは必要なくなるわけだが、いまの懐具合ではそれも当分は無理だ。

このあたりにパソコンと電話の違いがある。携帯電話は家の固定電話に携帯性を持たせただけのものでは(もはや)なく、機能面でも固定電話機を凌駕している。そのうえ、連絡を取り合うという本来の目的においては、留守というもののない携帯電話のほうが圧倒的に便利だ。だから若い人たちを中心に、家に固定電話を引かない人が増え続けることになる。いっぽう、ノートパソコンは機能面でまだデスクトップ機にかなわないし、携帯できることを別にすれば、デスクトップ機にない新しい機能がノートパソコンに備わっているわけでもない。そのうえ、パソコンのかけがえのなさが、そこに蓄積されたデータによるものだとすれば、すでにあるデスクトップパソコンをお払い箱にしてノートパソコンに完全移行するのは相当勇気のいることである。

ただ、全体の潮流としては、データ蓄積のクラウド化に後押しされて、ネットにつながった端末があれば用があらかた済むようになっていく。そうなると、自宅にデスクトップパソコンを置くのは、なにか特定の目的のために強力なCPUと大容量のディスクを必要とするパワーユーザだけということになってくるだろう。もちろん、業務用のマシンについてはまた話が別だけど。

携帯電話とメールが普及したせいで、高校生の男の子たちはガールフレンドの家に電話するときの緊張というものを経験しなくなったのかもしれない。携帯電話一つあれば、カメラもテレビも自分専用で持てるわけだから、リソースの争奪という形ですら家族と向き合う必要がなくなる。WiiよりDSが普及するのも同様の理由に違いない。生活がどんどん便利になっていって、いままで必要に迫られて行っていた「不本意なコミュニケーション」は、どんどん省略されるようになるだろう。

しかし、不本意なコミュニケーション、気の合う仲間でない相手すなわち「敵」とのコミュニケーションこそが、人間を成長させるきっかけになる。だとすれば、この便利さは諸刃の剣とも思える。たとえば、学校の成績がよかったりクリエーティブな活動で賞をとったりする子供たち、広い意味で賢い子供たちは、家族と話す時間が多い傾向にある、という調査報告があったように思う。家庭というものの意味が改めて問われる話だ。

iPadの純正メモアプリにはどうもバグがある。あるはずのない空白がときおり文字間に表示されるのだ。

やる気のないあひる

左手中指の痺れが取れないまま、ピアノのレッスンへ。O野先生にひどく心配をかけているようなので、やっぱり週明けに医者に行くことにする。歩数計カウント8,199歩。


2010年6月3日(木)はれ

朝起きたら左手中指の指先が痺れていた。そのうち治るかと思っていたが、午後4時をすぎても治らないどころか、右手の中指も怪しくなってきた。原因はわからない。どこか神経をいためたのかもしれない。右手にも響きだしたから、背筋かどこか、きっと身体の中心に近いところだ。いまのところ仕事にも生活にも支障はないが、長引くようなら医者に相談せにゃなるまい。

木曜日だから、午後5時前後にドミトリ教授が明日の演習の打ち合わせにやってくる。iPadに多少興味があるようだったけど、もっぱらLinuxマシンで日常の作業をこなしているドミトリ教授は、iPadにいろいろと不満を感じるはずだ。ソフトウェアの配布にアップルの検閲を通すことが必須だとか、オペレーティングシステムを選べないとか、シェルCUIがないとか、TeXがないとか、文字入力が難しいとか、持ちにくいとか。だから強くは勧めなかったけど、電波障害がなんとかとか、ルータをダウンさせた事例がどうだとか、ドミトリ教授も自分でいろいろと情報を集めていたのには感心した。そのうちどこかのメーカーがWindowsベースかLinuxベースでよく似たものを出すだろうから、自分はそれを試すことにすると、ドミトリ教授はいう。うん、それはそうだろう。OSがAndroidでブラウザがOperaという線なら、もう今日にも出てきそうだ。だけど、Mac OS Xが登場しておよそ10年たっても、ヴィジュアル面でMacのデスクトップに匹敵するものが登場していないところをみると、たとえハードウェア的に同等以上のものを作ったとしても、このGUIの使用感に「似たもの」を遠くない将来に他社が出してくるとは、俺には思えない。

あ、AppStoreにiPhone版のCrystal Questがあった。大学院生のころ、大学の計算機部屋にあったMacintosh IIfxでよくやったゲームだ。115円なら買ってしまえ。あと「ぷよぷよフィーバーtouch for iPad」なるものもインストールしたが、これは子供たちには内緒。


2010年6月2日(水)はれ

朝5時起床。7時にホテルの朝食。これまたありがちなバイキングではあるが、それなりにバランスが取れていてまことに結構。客室に戻ってすこし数学の文書をTeX入力する。9時前に宿を出る。

関西集合論セミナに参加。思いがけずトロント大のFrank Tall先生が登場して驚いた。午前中は大須賀くんの発表。昼食はインド料理店のカレーランチ。味も分量も申し分なし。午後は岩佐さんの発表。岩佐さんには今回初めてお会いしたがサウスカロライナ大学の先生で、位相空間論への強制法の応用が研究テーマだそうだ。

自分の談話会講演は、用意した40枚のスライドを35分間で語り尽くしてしまい、仕方なしに残り20分ほどを黒板を使ってアドリブ。専門が近いとかえって質問が出ないこともあるが、今回は数学者といっても集合論とは縁遠い人が多かった。そのせいか質問が多数出て、なかなか楽しかった。スライドの内容があまりにも初心者向きだったせいだろうが、質疑はアドリブ部分に集中した。本当ならこのあとのディスカッションが面白いのだけど、帰りの電車の時間というものがあるので、談話会が終わるが早いか、たちまち退散せねばならない。明日の講義を休みにするわけにいかないからな。

新大阪駅では、家族とVGAアダプタの件で世話になった大西チーフと匿名の先生におみやげを買った。大阪らしいたこ焼き味のお菓子だ。さらに、家族には岡山駅でままかりの酢漬けを追加。帰りの電車では「て日々」の下書きをiPadで入力。

それにしても、「新大阪」と入力するために「しんおおさ」までタイプした時点で「新大騒ぎ」という変換候補を提示してくれるiPadの入力メソッドってのもどうなんだろう。大騒ぎに新も旧もあるもんか。頭がいいんだか悪いんだかわからんが、こういうアホくささは、ちょっと憎めない。

夜11時半をまわってから特急しおかぜが松山に到着。駅からは徒歩で、日付が替わるころに帰宅。くたびれた。歩数計カウント12,017歩。


2010年6月1日(火)はれ

大阪出張。

そうか。新幹線の車内ではYahoo! BBモバイルに接続できるのか。しかしユーザアカウント名やら認証手順やらを覚えてないもんだから、インターネットに繋がらん。どこかに控えておくべきだった。不覚だ。これから先、外でiPadが使えるようにするために、明日松山に戻ったら忘れず控えておこう。

宿は日本橋のヒラリーズ。わりとありがちなビジネスホテルだが、内装が新しいのは気持ちよい。今回はバスタブのないシャワーブースの部屋を取った。日本人としては物足りない感も否めないが、なに、ヨーロッパに行けばこれが普通だ。なかなか機能的にできたシャワーブースで、それなりに快適であった。

ヒラリーズホテルのシャワーブース
これがそのシャワーブース
焼き肉:発色がヘン
焼き肉をご馳走になりました。
デジカメで炭火を撮ったら発色がヘンになった

久々に立ち寄った日本橋はしっかり秋葉原のレプリカになっていて、ちゃんとメイドカフェやフィギュア専門店があった。当初は心斎橋のアップルストアに行く予定をしていたが、必要なものはひととおり昨日の時点で手に入ったし、今回はそれ以外には無駄金を使うまいと心に決めて来たから、パソコンショップにも寄らず、宿で一息ついてから地下鉄で中百舌鳥へ移動。大阪府立大のスタッフに夕食に誘われているのだ。なかもず駅近くの焼肉屋でご馳走にあずかってきた。明日は張り切って講演しようと思う。

歩数計カウント15,138歩。