明日明後日の大阪出張の用件は談話会での講演。MacBook Proでプレゼン…というほどでもないが、かねて用意のPDF文書をスライドとして表示しながら発表…ということをする。(あ、そういうのをプレゼンっていうのね。) それで外部ディスプレーに接続するためのアダプタというものが必要だ。生協で買ったつもりが規格が違うものを選んでいた。配達にきてくれた大西チーフが在庫を確認したところ、先日二つばかり売れて品切れ、次の入荷は水曜日だという。それでは間に合わないんだよねと事情を話すと、大西チーフは先日買っていった先生に話をつけて木曜日までの約束で借り出してきてくれた。ありがたいことだ。貸主の先生とチーフには大阪土産を持ち帰らねばなるまい。
実物が物珍しいいまのうちに、iPadで研究発表というのをやれたらいいなとも思ったので、仕事帰りに PCデポに行ってコンポジットAVケーブルというものを購入。Just PDFというiAppならビデオ出力ができるのだ。だが、自宅のテレビで試したところ画質もトリミング処理も今ひとつだった。シリアスなプレゼンに使える品質ではない。かといって、いまからiPad版Keynoteをインストールしてスライドを再構成していたら間に合うまい。MacBook のVGAコネクタを拝借していることもあるので、今回は普通にパソコンで発表だ。そのかわり、iPadには談話会講演の前のセミナーでノートテイクやディスカッションに活躍してもらうことにする。AVケーブルはYouTubeのコンテンツをテレビで観たり写真のスライドショーをしたりで使えるから、無駄な買い物にはならない。
幸花の友達のゆうちゃんは「サザエさん」に登場するタラちゃんのモノマネがうまい。「ゆきかちゃんは誰のモノマネができる?」と訊かれて幸花が困っている。テレビを見ないで中古スーパーファミコンでゲームばっかりしていると、こういうときに共有知識がなくて困ることになる。いっぽう、幸星は幼稚園で遊びながら「ツールバーをダウンロード!」とか言っているらしい。普通ならテレビのヒーローの『シンボリック戦隊ホゲルンジャー』かなんかになりきって「ホゲメカ発進!ホゲピヨアタックだ!」かなにか言うところに違いない。モノマネの件といいツールバーの件といい、親の因果が子にナントヤラの光景だ。
きっと、「シンボリック戦隊ホゲルンジャー」の敵の悪の組織は「バグバグ団」で、「メモリーク将軍」とか「ヌルカイホー大佐」とかの幹部がいて、戦闘員の合言葉が「セグフォ!」だったりするのだろう。…いかんいかん、こんなことばっかり言ってるから幸星にツールバーをダウンロードされてしまうんだ。
歩数計カウント9,674歩。
金曜日に届いたiPadのソフトウェアの話。
Apple標準の電子ブックリーダ iBooks は無料インストールできるが、いまのところ日本語の本がなさそうだ。iPad 本体にあらかじめ Winnie-the-Pooh がインストールされていたほか、無料で読めるスピノザの『エチカ 第1部』とカント『実践理性批判』の英訳をダウンロードした。その他に、handwrites lite noteeditorという手書きメモソフト、Math Sheet なる簡易関数電卓、それから無料のPDF Readerをインストールした。

iAutoHarp
音楽系のアプリケーションを3つインストールした。SonataNote は有名なピアノ曲の楽譜を表示してプレイバックする。練習に使えるよ、というもの。FunPiano は、画面に表示された鍵盤にタッチすると音が出る。この二つは無料ソフトだ。あと iAutoHarp は有料(たしか310円)で、クロマティックハープをシミュレートする。コード名をタップして弦(の画像)を掻き鳴らすとギターのストローク奏法のような効果で和音が鳴らせる。他にドラムやハーモニカのアプリケーションもあるみたい。皆でiPadを持ち寄って合奏したら、なかなか面白いことになりそうだ。
ところで、わが娘の名前は「幸花」と書いて “ゆきか” と読む。だから、かな漢字変換ではもちろん「ゆきか」と入力して変換したい。さて、iPadの辞書に単語の登録はできるんだろうか。(ここで再びGoogle検索…)どうやら辞書に単語を追加する機能は用意されていないらしい。特殊な方法で実現するアプリもあるようだが、これは本来システムソフトウェアが受け持つべき機能だ。今後の改善を待つとしよう。
Wi-Fiスポットへの接続設定ということをしたい。最初にアカウントを有効にしないといけない。それには、手持ちの携帯電話 (という表現も「上の階にいく上りエスカレーター」みたいでオカシイなあ) からメールを送り、折り返し届くURLにアクセスして秘密の番号を入力する。そのように案内状にも書いてあるのだが、粗忽な俺は「このiPadにはそんな通信機能ないのにどうするんだ?」と思ってしまった。最初はGMailを使ってみたがダメ。系列会社のYahoo!メールならいけるのかと思ったがやっぱりダメ。困ったときのGoogleだのみで検索して調べてみたら、なんだ、自分のau携帯電話でやりゃあよかったんだ。そう思ってもう一度案内状を見てみたら、もうそのように書いてあるとしか見えない。だけど、思いつかないなあ。
*** *** *** ***
朝10時前、無事にアカウントの有効化が済んだiPadを持って、幸花と二人で外出。ようやく三越の鈴木英人展に行った。俺にとっては懐かしい'80年代ムードの作品が多く楽しかったが、およそ人物というものが描かれていないから、幸花には今ひとつだったかも知れない。その後、大街道のマクドナルドで先ほど設定したWi-Fi接続をテスト。なんら問題なく接続できた。よかったよかった。幸花のリクエストで、いつもクラスメートたちと遊んでいる公園に行ってみる。しかしまあ、日曜日の午前中だから、誰にも会わなかった。いつもの公園へ移動する途中に、堀之内公園を通る。整備したての広々とした緑地、天気がよく、さわやかな初夏の風が吹く。美術館の横ではオヤジさんたちのカントリー・バンドが演奏していたり、奥様たちがアカペラの練習をしていたり。とてもいい気持の日曜の朝だ。それから、正午の電車で帰宅。午後は道後温泉へ建物の写真を撮りにいこうかなんて言っていたが、いつもの調子で遅くなり、結局3時前に妻の車で外出。問屋町のヤマダ電機で (iPhone/iPad用のビデオケーブルを探しに行ったのだけど、なかったので、ひとまず) iPadのケースを買い、それから、ふたたび幸花のリクエストでいつもの公園へ行って、今度はクラスメートのヒナタちゃんや、託児所時代のお友達に遭遇。この時点で道後温泉へ行くのは断念。夕方5時まで公園で子供たちを遊ばせ、スーパーで食材を買って帰宅。
朝起きて、昨晩寝てからのTwitterのログを表示させたら、自然数は0から始まるか1から始まるか、という問題について、お前も見解を述べなくてはならんぞ、と言わんばかりの状況になっていた。俺は寝言のようにウダウダ考察するのは好きだが、議論するのが好きなわけではない。だが避けられないこともあるらしいのだ。
「0は自然数」という語句でGoogle検索してみよう。自然数が1から始まるか0から始まるか、両方の見解があることがわかる。俺自身は、自然数にゼロを含めるほうが自分の数学理論の展開上具合がよい、と思っている。その一方で「ゼロは自然数である」という命題が絶対的に真か偽かという問題には判断を保留するのが賢明だと思ってもいる。古代ギリシャの数学ではゼロはおろか1すら数の仲間に入れてもらえなかったという。その理由は、数の本質は複数性にあるからだという。まあ、それはわからんでもない。しかし俺を含む集合論研究者たち (なに? 俺なんかを含めるなって?) にとって、数とはひとまず集合と集合の間の1対1対応にもとづく同値類につけられる目印というべきものである。そしてそのさい、空集合も立派に集合の仲間とみなすのであるから、当然ゼロも「有限集合の基数」としての自然数の仲間に入れるべきだ、という話になる。数の系列が古代ギリシャ流に2から始まるとするか、中学・高校の数学のように1から始まるとするか、集合論でやるように0から始まるとするか。どれかひとつの意見に絶対的優位があるとは、俺には考えられない。
いや、ひょっとしたら、自然数とはペアノの公理によって特徴づけられる数学的構造の要素のことだというほうがマトモなのかもしれんが、それだとますます最初の要素が0なのか1なのかはドッチデモいいという話になってしまう。
ところが、俺は集合論を研究する立場に立つことを選択し、それによって自然数がゼロから始まると規約する世界に棲むことを選択した。論理的には他の選択もありえたが、現実にはそれらは選択されなかった。とすると、これはどうも母語の選択と同じような問題と思えてくる。俺は日本語 (関西弁) を母語とする環境に生まれた。だが、俺が英語やドイツ語や中国語やタガログ語やレプチャ語やバスク語を母語とする環境に生まれる可能性も(論理的には)あった。そのことを思えば、世界にたくさんの言語があることに驚いたり苛立ったりするよりも、(ましてや「標準語はムカツク」なんていう高くつく感性をもつよりも) 母語を異とする人々ともなんらかの形で意思の疎通ができると信じてコミュニケーションを図るほうがいい。
俺は「0は自然数である」ということに一票を投じるにヤブサカではない。ただし、数学が徹頭徹尾規約あるいは定義に基づいて議論する営みであることを正しく認識すること、必要とあれば論旨の明確化のために但し書きをつけたり相手に問い質したり、そういう議論のスキルを身につけることのほうが、0を自然数と認めるか否かという問題に決着をつけるよりもよほど大事であるという保留条件をつけた上でのことだ。それさえ保証されれば、初等中等教育の現場で自然数が0から始まると教えようが1から始まると教えようがどっちでも同じと言えるのだが、どちらかを選べと言われたら、0から始まると考えたほうが具合がいいかなー、という程度である。
この問題に関連して「バナナはおやつに含まれるのか」とつぶやいたら笑われたようだ。だが、俺にはこの問題が、バナナどころか「トマトは野菜か果物か」という問題とひとつながりのものに思えて仕方ない。俺は確かにトマトを野菜だと思っている。だがその根拠として植物学者の見解を持ち出す気にはならない。そんなことをすると、スイカは言うに及ばず最高級マスクメロンまでが野菜になってしまうからだ。植物学的にはそれでもいい。だが栄養士さんには別の判断基準があり、スイカは野菜扱いするには糖度が高すぎるという話になる。八百屋さんや果物屋さんには別の意見がありうるし、農家にも画家にも、御見舞い品をもらう病院の入院患者にも、それぞれ別の意見がありうる。必要なのはそういういわば百家争鳴の状態に決着をつけることではなく、また「正解はありません」と引き下がる弱気の相対主義でもなく、いわば強気の相対主義、それぞれの人がなぜその意見を主張するのかをきちんと理解し、それによって立体的にというか現象学的にというか、トマトとスイカの「リアル」に迫ることだろう。
少なくとも、学者の見解が「権威ある正解」にすりかえられてしまうのはイヤだ。



ええっと、ここまで書いて妻に読ませたら、俺がTwitterをすると、そのうち必ずつまんない曲解とかされて不幸な気持になるだろうし、そうなったら自分も楽しくない、とかなんとかゴチャゴチャ言い出しました。揚げ物作ったら火事になるからイヤとか、生きている人はそのうち必ず死ぬしそうなったらわたしは悲しいとか、そういうレベルのことを言われてるとしか思えなかったけど、妻の安心は俺にとって何より大事なので、あっさりアカウント削除しちゃいました。妻の見解はこちらで読めます。フォローワが沢山つきはじめた矢先なので残念ですが、仕方ありません。いつも心配ばっかりかけます。ごめんなさいゴメンナサイ。
(2010年8月11日追記) 結局、その後1か月を経ずして別のアカウントでTwitter再開。8月になるころにはすっかり元どおりだ。ただし、経過が恥ずかしかったので今回は本名を隠している。まあ、分かる人にはわかるでしょう。
夜、妻が研究の相談のため外出するので、子供の世話のためピアノレッスンをお休みにした。iPadが届いた。
医者に行った。最近はそれなりに面の皮が厚くなってきたと言ったら、貫禄が出てきたということよね、と言われた。いやあ、出てきたのは腹だけだよ。
昨晩コミセンの図書館に行って借りた本、randy『プログラム言語の作り方』(MYCOM)と『デリダ, 脱構築を語る』(岩波書店)を、時間をみつけては少しづつ読む。なに、両者の関連なぞ意識しちゃおらんよ。
具体的に構成できない存在証明、についてTwitterで話が少し盛りあがったようだ。俺は発端のところでちょっとだけ発言してすぐ寝てしまったのだけど、hyukiさんの呼びかけでいろんな人が発言したものを、その後、rashita2さんという方がまとめて下さった。どうも、高校数学のレベルでそういう例を挙げるのは決して簡単ではなさそうである。
その一方で、高校数学の範囲内では、円周率πにしても自然対数の底eにしても2の平方根にしても、およそ無理数というものは、構成することなくその存在が信じられているのだ、ともいえる。この事情は大学の数学科に進んでもあまり変わらない。
個々の無理数の存在の保証を求めるなら、数直線の完備性ということを言う必要がある。そのためには、無限集合の存在を積極的に認める必要が出てくるというわけだ。このように、現代の数学でしばしば用いられる「理想元の添加」「完備化」といった操作の正当性は、(いまのところ)集合論によって最終的に保証されている。
ところが集合論の教説を完全に受け入れて「図形とは、空間の点の集合のことである」と定式化すると、慣れ親しんだ面積や体積の概念が危機に瀕する。このことは、あのバナッハ・タルスキの定理などからわかる。それまでの数学の基礎を与えるという目的だけのために用いるには、集合という考え方はあまりにも一般的で茫漠としているのだ。数学が集合の言葉で再編成されつつあった20世紀初頭のフランスで、ボレルやルベーグやアダマールといった数学者たちが、数学的対象の存在論について議論を戦わせることになった背景には、まあそういう事情がある。もっとも、その頃はまだバナッハ・タルスキの定理が知られていたわけでなく、ルベーグらが問題にしたのは「全実数の整列順序づけ」「ルベーグ不可測函数」「絶対正規数」などの存在だった。
絶対正規数というのはどんな底に関して小数展開しても必ず数字の出現頻度が乱数表のように漸近的に均等になるような実数のことで、ランダム実数、つまり閉区間 [0,1] から無作為に抜き出された実数という、(数学的に正確には定義しようのない)概念を近似するものである。ルベーグ測度の意味でほとんどすべての実数は絶対正規数であることが、ボレルによって証明されていた。統計的には圧倒的多数の実数が絶対正規数だということになる。ところがボレルは絶対正規数の実例をあげることができなかったので、絶対正規数という概念にはたして意味があるだろうか、という問題を提起したわけだ。ルベーグはこの問題を扱った論文で「証明がマヤカシでないなら、存在証明を精密化することで実例の定義に到達できてしかるべきだ」と述べて、絶対正規数ばかりからなる実数の閉集合を具体的に与えた。集合は閉集合で、有理数を含まないから、これに属する正の数のうちで最小のものが存在する。そういう形でルベーグは絶対正規数の実例を定義することができた。いっぽう、全実数の整列順序づけやルベーグ不可測函数の場合は、このように実効的に実例を定義することができない。
ところで「具体的に例をあげることができないけれども解の存在だけは示せる問題の例」を問われて、「そういう問題は実際にありますが、具体的に挙げることはできません」と答えた人はいなかったようだ。わはは。
本当は土曜日に行かねばならなかったのだが、夕方にはコミセンの図書館へ本を返却。今月8日の日記に書いたようなわけで、なにか気の利いた返歌をつけて返さねばならぬ。次のようなことを書いた紙切れを挟んでおいた。

あまり気が利いているとも言えないな
どの本のことかは教えてあげないから、知りたきゃコミセンの松山市立中央図書館へ行って探してね。数学の書棚じゃないよ。
さて今日は11回めの結婚記念日。だが金欠なので家で地味に夕食。割れ鍋が綴じ蓋と連れ添って、それからいろいろ変化はあったけど、まだまだ11年である。このさきあと30回くらいはふたり揃って元気で結婚記念日を迎えたいものだ。25回めにはまだ無理かもしれんが、30回めくらいになったら、そのころには自活なり結婚なりしているはずの娘と息子に連絡して「お前ら、こっち来て祝え。えーい、つべこべ言うな。」って言ってやるぅ。もちろんその時は、御祝儀を強要すると見せかけて、こっちが皆にたっぷりご馳走するんだけどな。なんとしても、それまで元気で生き延びにゃならん。くたばっている場合じゃないぞ。
歩数計カウント9,794歩。
朝は雨、昼頃くもり、午後は晴。Twitterでかがみさんがヤブカラボーに "Annals of Mathematics" とつぶやいたから、ひょっとしてこれは何かの謎かしらんと思って久々に Ann.Math. をネットで閲覧。かがみさんが何を言わんとしているのかはわからんが、数学の全分野にわたってもっとも権威のある論文誌であるAnn.Math.に載るほどの集合論の論文を、もしも見逃していたら大変だ。ひとまず、マハラムの問題の反例を構成した2008年のTalagrandの論文(Ann.Math., 168 (2008), 981-1009)と、命題論理のグラフ理論化を提案した2006年のHughesの論文(Ann.Math., 164 (2006), 1065-1076)を入手。Hughesの"Proofs without syntax"から読みはじめる。命題論理の式をその連言標準形から自然に導かれるラベルつきグラフと同一視し、「命題」と「真偽」と「証明」を純然たるグラフ理論的概念として再定義したうえ、「真であることと証明可能であることは互いに必要十分」という健全性・完全性をグラフ理論の命題として証明する、というもの。グラフとしての命題という着想は無限論理や非古典論理に有意義に拡張されそうな、なかなか示唆的なもので、じつに面白そうな論文なんだが、あいにくグラフ理論に疎い俺には、かなり難しい。あ、しかしそんなことばかり言ってても仕方がないので、がんばって読んでみよう。
あとで本人が言ったところによれば、かがみさんは別にAnnals of Mathematicsのアソコにナニがあるから見てみろというつもりで発言したわけではなかったらしい。まあ、それはそれで、結果オーライですから。
歩数計カウント9,508歩。
午前中は子供につきあって教会学校。幼児のクラスでビーズ遊びをする傍らで、幸星の同級生のマアくん (役者の才能があるぞこいつ...) の遊びにつきあったり、すこしピアノを弾かせてもらったりした。子供づれのイベントに父親が来るとどうしても手持ち無沙汰になる。が、ビーズ遊びに小学生のお姉ちゃんたちが参入する頃あいに俺も参加して、幸花にちょっとした髪飾りをつくってやった。
教会&幼稚園から、三越は目と鼻の先。なので教会学校が済んでから鈴木英人展を見に行くつもりだったのだが、そろそろ行こうという時分になって、幼稚園の園庭の水溜りで幸星が水遊びを始めてしまった。三越に限らず、百貨店というところは濡れた服を着てゴム長靴を履いた5歳の子供を連れていくところではない。妻と幸星を先に帰らせて俺と幸花だけで行くことも考えたが、それにしてもまた日を改めることにした。
妻の体調がいまひとつなので、きょうは俺が料理番だった。といっても、俺の作るものだから、たいした料理ではない。朝は予定どおり昨日の残りのカレー。子供には少し辛いかと思ってチーズ乗せにした。朝食の片付けと並行して豚肉の仕込みをし炊飯器をセットしてから教会学校へ行き、帰宅してから昼食に豚の生姜焼き。夕食も豚肉で、ほうれん草と炒めて焼き肉のタレで味つけした。それにレタスと、カボチャの煮付けと、茹でたジャガイモを添えた。
今日から月末まで三越で鈴木英人展をやっている。幸花を連れていこうと思っていたが、もたもたするうちに夕方になってしまった。まあ、三越に行くのは明日でもいい。今夜は妻が子連れで同窓会に行く。俺は一人で留守番。レトルトのカレーか何かで簡単に夕食を済ませるつもりだったが、いざ近所のスーパーに行ってみると真っ先にニンジンとジャガイモをカゴに入れてしまっていた。あはは。もともとあまり考えずに行動する傾向があったが、そのうえ最近は物覚えが悪くなったというか物忘れがよくなったというか、ますます行動に一貫性がなくなってきた。
カレーを一皿だけ作るというわけにもいかないので、四人前作った。たくさん残ったぶんは明日の朝にでも皆で食おう。
午後、授業を済ませてから、来月2日に大阪でしゃべる内容のスライド原稿を作って先方へ送った。内容が固まるのはいいが、スライドを作るのが早すぎるといざ当日になって気持ちが変わっていて全然ノれなかったりする。前々日くらいにもう一度目を通し計算をたどり直すことにしよう。
妻からの連絡によると、幼稚園の園外活動で幸星が堀端に行って遊んでいたら、堀之内にあるNHK松山放送局のカメラが来て撮影していったそうだ。きょうの夕方のローカル番組でその映像を流すらしい。それはいいのだけど、その番組が始まる少し前に妻から「ろりぴゃのワンセグうつらない てなぴょ よかったら いよかんワイド録画して」とメール。その時俺はピアノのレッスンに向うため電停におり、妻子は家にいた。電車で移動しながらワンセグで番組を録画できないことはないが、ついこの間までは、テレビ番組を録画してくれなんてのは、外にいて移動中の人間が家にいる妻子に電話して頼むものなんじゃなかっただろうか。いつから話が逆になったのだろう。ピアノ教室に着くまで携帯のワンセグ画面を見ていたが、まだ幼稚園の子供たちは映らない。仕方がないので、教室のピアノの上に携帯を置いて録画しながらレッスンしてもらった。
夕食は昨日買ってきた中華麺でパパラーメン。なかなかうまかった。
昨年10月1日にあんなこと書いたクセに、結局 Twitter を数日前から使い始めた。半年ちょっとで前言を翻した自分が恥かしくてこっそり使いはじめたのだが、知り合いをフォローしはじめればもう隠れていることはできないので、このさいカミングアウトしてしまう。IDはtenapyonなので、フォローなりリムーブなりブロックなりクイックターンなり、好きにしてちょうだい。あ、Twitter上のてなさく(tenasaku)さんは俺とは別人だから念のため。俺なんぞと間違えられたら迷惑だろうからな。
朝、大学図書館の書庫から森毅『数学ワンポイント双書4: 無限集合』と『同14: 存在定理』(共立出版)を借り出した。火曜日にも書いたとおり、この『無限集合』でのツォルンの補題の証明は Smullyan & Fitting の自然数の順序の整列性の証明の方法とほぼ同じ議論になっている。
それよりなにより、四半世紀ぶりに再読して感じ入ったのは、足立恒雄先生の『無限のパラドクス』(講談社ブルーバックス2000年)よりはるかに早く、1976年にすでに、数学的無限論の源流が古代ギリシャ数学よりむしろジョルダーノ・ブルーノらのキリスト教神学にあることを、森さんがちゃんと指摘していたことだ。文面から、もっとそういうことを書きたいけどそれをやると数学の本でなくなるから自粛、というムードが伝わってくる。数学の背後に拡がる思想の沃野への目配りという点にかけては森一刀斎さんと倉田令二朗先生は超一流。どうやら、数学の枠からのそういう外れ方が、普通の数学者には好まれない。この『無限集合』にしても、俺はいい本だと思うが、セミナーのテキストに使ってヒドイ目に遭ったと酷評するレビューが Amazon に出たりもした。仕方のないことだ。これは、数学科の学生が先生に指導されながらセミナーで読むような本ではない。学生さんたちには、こういうアヤシげな本を先生の与り知らぬところでこっそり読んで牙を磨くような意気のあるところを見せてほしい。この本はそういう不良学生にぴったりだが、あいにく版元品切れ。いやなに、この本でなくてもいいのだ。書店に行けば専門書も啓蒙書も数々ある。その中に砥石やヤスリがなかなか見当らないとしても、それを嘆くばかりでは能がない。今度は俺たちがそういう「爪と牙を研ぐための本」を世に送り出す役目を担うべきなのだろう...俺は不摂生が祟って、もう爪も牙もボロボロではあるけど。
こういう「大学生は大学教師の言うことなんか聞くなと大学教師が言う」パラドックスも森毅さんの十八番である。
数学の思想について語る人に数学者が警戒心を抱くのにも、もちろん理由はある。証明を読みもせず、あるいはもっと悪いことに、徹底して定義に基いて議論するという数学のスタイルを踏まえずに、数学の用語を濫用して、「数学の思想」あるいは「思想の数学」を語るような、似而非思想家が後を絶たないからだ。だが森一刀斎や倉田令二朗先生をそういうマガイモノと一緒にしてはいけないだろう。
このごろは幸花も幸星も質問魔である。けさは幸花に「水くさいってどういう意味?」って聞かれたので「仲のいいお友達に、しなくてもいい遠慮をしてしまうことだよ」と説明したつもりが、「えんりょって?」と聞かれて困ってしまった。一応「やっていいことなのに、やっぱりやめとこ、ってやらないでおくのが遠慮」と答えはしたが、さて、わかってもらえたかどうか。
歩数計カウント11,504歩。
午前中、2週間後の6月2日に大阪で講演のようなことをするのでその内容の準備。このレクチャーで、主役ではないが重要な役割を担うコーシーの方程式
$$ \phi(x+y)=\phi(x)+\phi(y) $$は、わが妻には「だんご盗んで ばたんきゅー」としか読めないそうだ。「だんご」はまあわかるが、どのへんが「ばたんきゅー」なんだろうか。
午後はセミナー。前原本の述語論理の公理III.2は、変数 \(x\) を自由変数として含まない論理式 \(A\) についての \(\forall x(A\rightarrow F(x))\rightarrow (A\rightarrow \forall xF(x))\) というものだ。たとえるなら「みんな、天気がよければ、外でお弁当を食べる」ならば「天気がよければ、みんな、外でお弁当を食べる」のだ、ということになる。天気がよいという事態が成立するかどうかは、言及の範囲に含まれる誰彼にかかわらず、全員に共通するから、「みんな」の位置をこのように変えてかまわない。これが \(A\) が「\(x\) は宿題を済ませる」で \(F\) が「\(x\) はゲームをしてよい」であった場合は、前件の \(\forall x(A\rightarrow F(x))\) は 「宿題を済ませた人からゲームをしてよい」という意味になり、後件 \(A\rightarrow \forall xF(x)\) は「不特定の誰かが一人でも宿題を済ませれば全員がゲームをしてよい」という意味になってしまう。前者が後者を論理的に含意するわけはないと考えられるから、この場合は式 \(\forall x(A\rightarrow F(x))\rightarrow (A\rightarrow \forall xF(x))\) は論理の公理としては適切でない。\(A\) が \(x\) を自由変数として含まないという制限はこのような不適切な場合を排除するためのものだ。
とまあ、そのような話をしながら進んだが、昨日のグループよりも少しばかり進行が遅れ気味で、しかも教育実習のスケジュールの都合でどうしても水曜日のセミナーが一回少なくなる。さてどうしてものか。とかなんとか言いながら、夕方、またパソコン関係の本をひと山ブックオフに持っていった。たいしたお金にもならなかったが、代金の一部で幸花の読むお話の本を2冊買って帰宅。
先日中古の「すーぱーぷよぷよ通REMIX」と「極上パロディウス」を買ったので、数年前に大学の粗大ゴミ置き場で拾ったスーパーファミコンに挿して、夕食前に少し遊んでみた。(もちろんこの時点で幸花の宿題は済んでいる。) 誰が捨てたのか、少し接触が悪いがまだまだ使えるぜ。
午前中セミナー。第3章に入った。進みぐあいはまずまずだ。
日中えらく風が強く、夕方から少し雨も降った。夜は市民コンサート機関誌の作業。9時の電車で帰宅。乗り合いの客さんが心なしか普段より多かった。歩数計カウント8,750歩。電車で Smullyan & Fitting を少しだけ読む。第三章の自然数論はどうやったって面倒なところではあるが、ちょっと異色な方法で導入していて面白い。うろ覚えだが、森毅の古い本『数学ワンポイント双書4: 無限集合』(共立出版)ではこの方法をツォルンの補題の証明に応用していたように思う。明日にでも図書館でちょっと調べてみよう。
蔵書検索をしようとして、県立図書館のホームページが移転したことに気がついた。

Google様ともあろう人にして、
この間違いはいったいどうしたことやら
「この情報は正確ですか?」という表示も絶妙
(画像は縮小表示しています, 原寸で表示するにはクリックしてください)
きょうもいい天気。夕方電車で帰宅したにもかかわらず、朝いつもと違う銀行に寄ったのと、帰宅後幸花を靴屋に連れて行ったため、歩数計カウント11,577歩。
ようやくやってきた給料日だが、この先ひと月まだまだ財布が厳しい状態が続く。無駄遣いはできない。いままでは本を読むペースを買うペースに合わせようと無駄にあがいてきたが、自分の甲斐性とオツムの程度を考えればこれは話が逆で、買うペースを読むペースに合わせるべきなのだ。
だからというわけでもないが、引き続き藤本裕之『Mac OS X/iPhoneのためのCocoaプログラミング入門』を読みつつ実習。160ページのInterface Builder上でのアクションとアウトレットの追加は、本の記述どおりにはできなかった。というのも、Interface Builder (ver.3.2.2) のIdentityインスペクタに Class Action とか Class Outlet とかのペーンが見当らなかったからだ。これはXcodeバージョン3.1とバージョン3.2の違いかと推察する。(違ってたら誰かこっそり教えてください。) マイナーバージョンアップで使い勝手が変ってしまうのだから、この手の解説本の著者は本当に大変だろうと思う。とかなんとか著者の苦労を思いやっているばかりでは作業が進まないので、アクションとアウトレットの追加はXcodeでヘッダファイルを編集する従来の方式でやって続行。なんとか今週中にこの本を終わらせよう。
朝、子供たちを教会学校に連れていく予定だったがモタモタしているうちに9時を回ってしまった。昼食には、昨日のつけ麺のために買った麺の残りで汁そばを作る。いつもは味噌か醤油なのだけど、初めて塩ラーメンに挑戦。それなりにうまくいったと思う。
近所に新しいauショップとサークルKができた。なかなか出向くきっかけがないなあと思っていたが、掃除をしていると廃止した妻の古い携帯電話が二つ出てきたのでリサイクルに出しに行く。散歩がてら4人で歩いていく。いい天気で気持ちいい。auショップではリサイクルのお礼とかで折り畳み傘をいただいた。サークルKでおやつとビールを買って帰った。サッポロのファイブスターというビールだが、これはけっこううまい。午後4時すぎ。昨日に引き続き早風呂。そして廃止したのは携帯電話であって妻ではない。念のため。
さてさて、きょう何より特筆すべきなのは、幸花さんが強力お掃除モードに突入して寝室とリビングをすっかりきれいにしてしまったことだ。もちろん俺も一緒に掃除したのではあるが、幸花の大活躍に妻も俺もびっくり。おかげで、人並みに片づいたダイニングで幸せな夕食タイムとなった。妻が作った鯵の南蛮漬けがなかなか美味だった。
一昨日までに藤本裕之の『Mac OS X/iPhoneのためのCocoaプログラミング入門』を、自分でもXcodeを試しながら半分まで読んだので、この週末で一気に読み終えてしまうつもりだったのだが、結局それは果せなかった。それでもピアノの練習も普段より余計にしたし、なによりリビングのお片付けが進捗したのがうれしい。そう。人並みに片付いていれば、うちに限ってそれは特筆すべきことなのだ。
午前中、幸花がお絵描き教室に行っているあいだに、市坪のクリーンセンターへ粗大ゴミを出しに行った。途中、重信川沿いにある乗馬クラブ馬小屋の窓から、何頭かの馬が顔を出していた。一頭だけ尻尾を出している白馬がいた。馬にもいろいろ考えがあるのだろう。昼食にはつけ麺を作ることにして、古川のフジで食材を買った。午後、猫の額ほどの庭に幸星が水を撒いて池を作り泥遊びをした。幸星は屋外にある水道の蛇口で遊ぶのが大好きなのだが、水はもったいないし、服は着替えにゃならんし、まあロクなことはないので、蛇口のハンドルを外してしまうことにした。泥遊びの後始末は幸花がした。夜のお片づけの時間もそうだったが、叱られると幸星は反省はするようだが、なかなか行動が伴わない。そんな幸星を、時には叱り、時には根気よく説得し、時には代りに片づけてやる、お姉さんらしい幸花の振舞いがなんとも立派に思えた一日だった。
ピアノのレッスンでは、ドビュッシーのあの曲の中間部の mosso のところの指づかいを修正しようという話になった。イチから練習しなおしだが、11月の本番までまだまだ時間があるから大丈夫だ。三連符6個のフレーズの区切りをいままで三連符3個つまり一拍単位で感じて弾いていた。それを修正するために「きつねうどん、きつねうどん、…」と歌いながら弾いたら、先生が「またそうとしか聴こえなくなるぅ」と言って笑った。そしてその後しばらく、俺の頭の中では「さぬきうどん、ぼうずめくり、インドネシア、まくらことば、ヤマダ電機、…」と6文字言葉探索が続いたのだった。
歩数計カウント10,364歩。
そのようなわけで、きょうの講義の振り返りと次回への展望。距離空間の閉集合について説明したきょうの講義のあとの小テストでは、きょうのキーワード (蝕点、孤立点、集積点) をめぐる命題を20個リストして「例外なくいつでも正しいものにマルをつけなさい」と指示。問題は次のとおり (ここで \(A^d\), \(A^a\), \(A^i\) というのは, それぞれ 集合 \(A\) の導集合, 閉包, 内部を意味する)
[問題] 距離空間 \((X,d)\) の部分集合 \(A\subset X\) について述べた次の命題のうち, \(A\) の選び方によらず例外なく正しいものにマルをつけなさい
距離空間の文脈で例外なく正しい命題は1,5,7,11,14,15,19の7つだ。このうち命題17が正しくないという判断だけは、きょうの講義の内容からできるはずはなかった。というのも、距離空間の例として引き合いに出したのが数直線や平面ばかりだったからだ。空間が自己稠密であるかぎり命題17は成立する。出題してから「ありゃ、しまった」と思ったので、この命題の判断ミスは減点対象としないことにした。37人のうち全問正解は2人。あと命題17だけ判断ミスした人が1人。この3人は満点。そのほかの人の回答は判断ミスが1個から8個まで様々(平均 4.05, stdev 2.2)。命題ごとの判断ミスの数は次のとおりだ
| 命題 | [1] | [2] | [3] | [4] | [5] | [6] | [7] | [8] | [9] | [10] | [11] | [12] | [13] | [14] | [15] | [16] | [17] | [18] | [19] | [20] |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 誤答数 | 1 | 6 | 13 | 2 | 10 | 0 | 5 | 0 | 19 | 3 | 3 | 8 | 16 | 22 | 11 | 1 | 13 | 2 | 6 | 9 |
こうしてみると、学生の理解度よりも自分の講義を採点しているような気持ちになる。半数以上の人が命題9と命題14の判断を誤っているということは、「内点/外点/境界点」という分類と、集合に「属するか/属しないか」の分類のあいだに、まだ混乱があるらしい。つまり、内点と要素、外点と補集合の要素を混同している。命題17に判断ミスが続出するかと思ったが、説明がヘタだったせいか、それより前のところで混乱しているようだ。次回は最初の15分くらいで蝕点の説明をもう一度丁寧にやりなおすことにしよう。
歩数計カウント10,303歩。
お金がなくてオイソレと買い物できないせいもあるが、一昨日と今日は休肝日。酒を減らすと腹が減るものなのだろうか、飯は抜いていないのに、夕方ひどく空腹で困った。しばしば冗談に「主食はアルコール」だなんて言っていたが、まるでそれが本当になったみたいだ。歩数計カウント7,761歩。夜、妻子が寝静まってから明日の講義の準備。このサイクルは、本当はもう少し前に倒したほうがよい。
午前中はセミナー。前原昭二先生の『数学基礎論入門』で展開される命題論理は、出発点におく公理と推論規則がシンプルなぶん、いろいろの定理の証明には工夫が必要だ。議論を追いかけていると、なんだか奇妙な体系だなあと思うが、証明可能な論理式はまさしく古典命題論理のトートロジーなわけで、べつだん奇妙な論理が展開されているわけではない。むしろこれだけシンプルな公理系からすべてのトートロジーが導出されることが驚きである。あ、でも、本当にすべてのトートロジーがこの体系で証明できるかどうかという議論、つまりセマンティクスからのアプローチは、この本ではされていない。
夕方から市民コンサート事務所で機関誌の校正作業。その傍らで金曜日にリカバリをかけた旧パソコンのメンテナンスの続きをする。素の Windows XP Home Edition には、そもそも最新のウィルス対策ソフトはインストールできない。というのも、どれもこれも Service Pack 2 以降が要件になっているからだ。まず Windows Update をかけねばならないが、そのためには、ネットワークに接続する必要がある。そうすると当然、ウィルスに感染する危険を冒すことになる。安全を第一と考える限り、打つ手はない。仕方がない。危険を承知でままよとネットに接続してシステムを更新。Service Pack 2が適用されたところでいったんネットワークから外し、かねて用意の ClamAV for Windows をインストール。これで最小限度のウィルス対策ができた。直後のウィルススキャンではさいわい感染の兆候はなく、ひと安心。だがシステムの更新はそれで終わりではない。ネットに再接続すると、引き続き Service Pack 3 その他のダウンロードが始まる。小一時間経過して、本来の用事すなわち機関誌の編集が済んでも、まだダウンロード進捗率66パーセントだったので、きょうのところはやむなくダウンロード中止。メンテナンスの続きは次の金曜日にでも。
先週の金曜日に「まだ使っちゃいかんよ」と念を押したため、旧パソコンはすでに事務机の上から取り除けられており、新しいノートパソコンがちゃんと後釜に納まっていた。どうやら、さほど大急ぎで旧パソコンを戦列に復帰させる必要もなさそう。というより、ヘタに二つのパソコンが使えるようにしておくとデータの置き場所をめぐって混乱を招きそうだ。そのあたりもおいおい考えなくちゃ。
4月中、ジュンク堂で買った本のレシートで景品がもらえるキャンペーンをやっていた。先月は少々張り込んだので、一万三千円分のレシートがあった。それで、オリジナルバッグ2つとポケットティッシュカバーを1つもらってきた。さっそくのそのオリジナルバッグに県立図書館で借りた本を入れて持って帰った。歩数計カウント10,429歩。
朝。iPad予約注文受付開始の案内が来たので 32GB Wi-Fi モデルを注文。金欠のこととて、6万円かそこらの買い物だが12回払い。今月28日に届く予定。
昼間。眠くて仕方ない。Smullyan&Fittingを読む。夕方から少し調子が出だす。
夜。どういうわけか幸花が宿題を途中までしかやっていないことが9時前になって判明。100マスかけ算4題のうち1題だけやってあった。時間は遅いが、自主的に再開したので、横についてやる。昨年あんなに熱心にやっていた九九が、今はスラスラとは出てこないようだ。こういうことはしっかり身につくまで繰り返さないといけない。で、そのためにこそ、この宿題なのだ。九九の暗誦をさせながら根気よくやらせる。残り1題となったところで10時が目前に迫ったので、これで打ち切って寝かせようと思ったが、本人が最後までやるというので10時過ぎまでつきあった。自分の意思でやりとげたのは感心だ。もちろん、昼間のうちにやってあったら、もっと感心だったところだけど。本当は、そんな偉そうなことは宿題に関する限り口幅ったくて言いたくないのだが、これも親の役目なので。
歩数計カウント9,399歩。
幸星くんの微熱のためどこにもお出かけせず。洗面所と風呂場の片付けをする。
ずっと触っていない Eee PC 701SD (愛称 ごらぴー) の手入れをする。もともと非力なCPUであるうえに数ヶ月ぶりの起動なので、ソフトウェアの更新だけで一時間以上かかる。それが一段落してからウィルス検査をして、さらに別のSSDにインストールした NetBSD の起動チェックをしたら、もとどおり片付ける。なにせ使ってないから、「こいつ HARD OFF に売ったろか」と言ったら、ごらぴー が「それはヤメテ」と返事…するわけはなくて、妻が「それならあたしに使わせて」と言った。とはいえ、妻は妻で FM-V BIBLO LOOX U50XN (愛称 るーちゃん) というネットブックを持っているのだ。
お昼前にひとりでコミセンの図書館に行った。11時17分に大手町の駅で電車を降りてコミセンへ向かい、30分後の11時47分にはすでに大手町の駅に舞い戻って帰りの電車に乗っているという早業。金欠は毎度のことながら、今月はとくに苦しいので、なるべくお金を使わずに済まそうと思っている。そういうとき、インターネットと図書館は心強い味方だ。
借りてきた本のひとつに、誰かが自家製と思われる栞を挟んでいた。それがなかなか興味深い代物で、ζ(4)=π4/90 という等式から
$$ \pi\doteq\sqrt{\sqrt{\frac{2143}{22}}} $$という近似式を導く過程を簡潔に記したものや、片面に
$$ (1+\frac17)(1+\frac1{11})(1+\frac1{19}) =\sqrt{2(1+\frac1{3^2})(1+\frac1{7^2})(1+\frac1{11^2})(1+\frac1{19^2})} $$という式、他面に
Srinivasa Aiyangar Ramanujan
という名 (これはもちろん栞の主の名ではなく、インド出身の伝説的な数学者の名前) を記したものである。「数学ガール」のオープニングじゃあるまいし。こういう挑発的なものを見つけてしまったからには、この本をそのまま図書館に返してはヤボである。返却期限までに何か返歌を書いて、添えて返さにゃなるまい。
水曜日に届いたSmullyanとFittingの本も時間を見つけて少しづつ読み進む。なかなか面白い。
それにしても気持ちのよい快晴で、建物のなかに籠っているのはもったいない。午後も少々遅くなってからではあるが、北条の道の駅「ふわり」のところの海浜公園へドライブ。まだまだ海水浴というわけにはいかないが、子供たちは服を水びたしにしながら、打ち寄せられる海苔を拾ったりしてはしゃいでいる。道の駅で食材を買って帰宅。夜8時すぎ、買ってきた地物のサバで妻が味噌煮を作っているところへ、実家の母から電話。母の日の花が届いたという連絡だ。小さな子供のいる家で夜の8時を回って夕食が済んでいないというのは、さすがに面目ないので、そのあたりに触れないように近況を伝えたが、幸星に「京都のおばあちゃんだよ。お話しなさい」と受話器を渡したら「ママが、いま おりょうりの よういを しているの。こうせいくん みてたんよ」とリークしてしまった。あはは。
市民コンサート事務所のパソコンが壊れたという。正確にはハードディスクが壊れた。よくあることだ。前々から起動時に「このディスク不調ですぜ」という表示が出ており、俺もそのように皆に警告していたので、運営委員会でも相談し、すでに心ある会員からの寄付を受けて新しいノートパソコンを買い、バックアップをとってあった。だけど、いちいちノートパソコンを棚から取り出して使用記録簿に名前と用件を書いてから使うより、事務机の上にデスクトップ型のVAIOがでんと鎮座していたら、事務のおばさまたちとしては、ついそちらを使いたくなる。そんな理由で警告を無視しつつ使っているうちに、とうとう本当に起動しなくなった。だから、本当は直してやる義理はないのだけど、代わりのハードディスクがあれば、差し替えてシステムのリカバリをするくらいは朝飯前で、そもそもそういう作業が嫌いじゃないので、ちょいと力を貸すことにした。
ピアノ教室は市民コンサート事務所から徒歩3分。なのでパソコンのメンテの途中で楽譜だけ持ってレッスンに行く。ついさっきまでネジ回しを持っていた手で弾きはじめたので、最初はボロボロだった。わはは。レッスン後、事務所に帰って作業を続行。
バックアップ用に供出していた320GB外付けUSBハードディスクを駄賃がわりに回収。とはいえこれはもともと俺が提供していたもので、実は駄賃にもなにもならない。夜になってから黒幕キヨミさんや事務局長ワカコさんがかけつけた。黒幕キヨミさんが持ってきてくれたキリン一番搾り3缶は駄賃以上の見返りだった。いつもすみませんね。この人たちは長年の会社務めの経験から色々わかっていて、このデスクトップ機は廃棄したほうがいいと、運営委員会でも主張していたらしい。事務のおばさまたちがあまりにも機械オンチなうえ、そこへ居直った態度なもので、黒幕キヨミさんは「パソコンに強い若い人がボランティアで来てくれたらいいんだけど」なんて言っているけれど、俺は近頃そう思わなくなった。若くて能力のある人はジイさまバアさまの音楽鑑賞団体なんかには関わらなくていい。ぜひ若い人どうしで語らって、未来のあるクリエイティブな活動にエネルギーを使ってほしい。
システムリカバリ用のCD-ROMセットは残してあった。ハードディスクは事務所になぜか死蔵されていた旧パソコンの30GBのものを使用。主なデータはすでにバックアップがあるので、ディスクを消去するのに躊躇はない。だから本当にリカバリは朝飯前だった。しかし、リカバリ直後はサービスパック未適用の Windows XP Home Edition が入っているだけだから、危なっかしくてネットに接続できない。ウィルス対策ソフトが必要だ。そして、事務のおばさまたちが日々使用するあのソフトウェア・スイートも入手せにゃならぬ。そのあたりの作業は来週の火曜日に機関誌作業の裏でやることにして、夜九時半の電車で帰宅。歩数計カウント12,141歩。
連休も終わり日常に復帰。小テストの点数をスプレッドシートに記入する。授業をし宿題を回収する。明日の授業に備えてプリントを刷る。タマちゃんとの共著論文の別刷りが届いた。午後から雨。歩数計カウント11,644歩。
C++を覚えたいが、財布がピンチのこの時期でもあるから、本屋でプログラミング本を探す前に、ネット上に無料公開されている資料を読んでみようと思う。C++のチュートリアルを探してみたところ、小林健一郎さんのC++入門や大黒学さんのC++課外授業など、よさそうなものがいろいろあった。お二人とも市販のプログラミング本の著者であると同時に大学なり専門学校なりのプログラミング・コースの先生である。で、実習用のコンパイラだが、MacBookにはApple純正開発環境がありG++が含まれている。いっぽう、自宅のVistaくんには現在のところC++の処理系はない。さて、どうするか。
朝からずっと左膝の内側がピリピリと痛む。古傷のある右脚ではないし、関節の痛みではなく なにか神経痛のようだ。肩凝りの影響が回り回って脚に来たか、天気の変わり目だからか、原因はわからない。
午前中、妻の実家の二階の部屋を掃除し、作り置きの ひき肉の味噌炒めを作る。
午後、ほぼ満席のフェリーで松山に戻った。荷物を片づけ、風呂に入って、ゲームの公開作業。Wonderflにコードをポストしたほか、自前のページも用意。これからは対戦相手のAIを作れるようにプログラミングの勉強を続けたい。ActionScriptはとっても面白いが、先月25日に書いたような理由で、ゆくゆくはCocoaでMac OS Xネイティブなソフトウェアを開発したいと思っている。CocoaはObjective-Cが主な記述言語だけど、いろいろの文献を読むにはその他にC++も知らずには済まされないので、それも勉強したいと思っている。
昨年9月2日にAmazonに注文した Raymond M. Smullyan and Melvin Fitting: "Set Theory and the Continuum Problem" の Dover 版がようやく届いた。
昼食は手作り餃子。90個を6人で完食。食後、少しへばる。夕方、義父母のために牛すじと大根の煮物を作り置きする。
ゲーム作り。どうやら先月25日に書いた計画は守れそうだ。明日、松山に帰ったら公開できるだろう。未完成ながらこれを公開して、ActionScriptでの開発は一段落。Cocoaでの開発の勉強を始めよう。
昼食は幸花と協力して作ったカレー。買い出しのついでにドライブして海辺の公園に寄る。地元の子供たちが海に入って大騒ぎしていた。夕食は屋外でバーベーキュー。
ゲームにつけるサウンドエフェクトをいじっていると、先日作ったBGMがなんだか不似合いに思えてきた。やってみて初めてわかったが、サウンドエフェクトを先に作ってからそれに合わせたBGMを作るべきだったようだ。仕方がないのでBGMを作曲しなおし。ボツになったこの曲をどうすべか。
昨日作った牛すじの煮物はいい味になっていた。妻の車で子供たちと4人でドライブ。室積の象鼻ケ岬 (リンク先はGoogle Map) にいった。山口大附属小中学校から峨嵋山と象鼻ケ岬にかけての美しい景観を堪能。それから光のジャスコで食材を買って帰った。
妻の実家に世話になっている間は例によって俺が昼食の用意を担当する。そこで、義父に子供たちを見てもらっているあいだに、俺と妻の二人で買い出しに行く。子供たちはおじいちゃんの庭仕事の手伝いで「テンテンコマイ」になったらしい。
で、昼食は先日うちの子供たちに好評だった味噌煮込みうどん。今回は6人前だからうどん麺も7玉使い、土鍋が一杯になった。いつも3人前プラスαばかり作っているので、人数が違うと分量の感覚がつかめない。同じ味付けの再現など思いもよらないのだが、でき上ったものはそれでも子供たちにも義父母にも好評で、みんなで汗をかきかき、ほどなく完食。まあ、子供たちはともかく、心やさしい義父母はたいていのものはうまいうまいと食ってくれるのではある。それから、明日に備えて牛すじと大根の煮物を作り、夕食は近所のジョイフル。
ゲーム作り。「全消し」のときファンファーレを鳴らし、フィールドが7割埋まったときにはBGMをアップテンポのパニック系ループに変更する。GarageBandで作った音源は必要に応じてAudacityで編集するが、AudacityでMP3エンコードすると冒頭にほんの一瞬無音の時間が挿入されてしまう。となると、とくにアップテンポのループはブチコワシである。理由がわからずしばし途方に暮れたが、冷静に考えればGarageBandからiTunesにエクスポートしたMP3データをそのまま使えばいいので、Audacityでの再編集が不要になるようにGarageBandの扱いに習熟すればいいのだった。