て日々

2009年9月


2009年9月30日(水)あめ

松山ではこの一ヶ月ぜんぜん雨が降らなかったのだが、月末の今日になってようやくまとまった雨が降った。きっとお天気にもいろいろと事情があるのだろう。昨晩遅くまで起きて『獣の奏者』続編2巻を読んで睡眠不足のうえ、読んだ話の重さについ物思いに沈みそうになっていて、そこへ持ってきてこの雨なので、仕事をしていてもぜんぜん調子が出ない。ところがきょうは珍しくN教授が数学の話をしにやってきた。聞かれた内容は位相空間の連結性と分離性の兼ね合いにかんする具体例の構成。ちょっとそこらへんの文献 [Steen and Seebach, Counterexamples in Topology, Springer 1978/Dover 1995. ISBN 0-486-68735-X] をひもとけば書いてある話だったのだけど、サボりがちでN教授に心配ばかりかけていることを自分でも気にしているだけに、なんというか「そのことだったら、これこのとおりこの本のここに書いてありましたよ」なんて答えてはいけない気がする。

結城浩さんの 『プログラマの心の健康』 という文章を読んだら、人の話を最後まで聞いてみよう、という提言があった。それを職場まで車で迎えに来てくれた妻のいつもの地域看護学研究ほうれん草トークに対して実行。これまで「スペシヤル企画!! いつ果てるともないマシンガントークに君はどこまで耐えられるか」だとばかり思っていた妻の話も ひととおり話せばちゃんと終わる ということを確認できた。妻の長話は決して俺の意見を求めたり決断を迫ったり責任を追及したりしているのじゃなくて、俺は聞く耳に徹すればいいらしい。そう思って相槌を打つほかにはとくに口を挟まず聞いてみると、べつだん苦痛ではなかった。

帰宅して iTunes を起動。来生たかおの「浅い夢」をキーにして Genius をかけてみたら、次のようなプレイリストが生成された。

浅い夢来生たかお
スカイレストランHi-Fi Set
アメリカン・フィーリングサーカス
虹と雪のバラードトワ・エ・モア
カナリヤ諸島にて大滝詠一
魔法の鏡荒井由実
Long-haired Ladyサザンオールスターズ
TSUNAMISouthern All Stars
愛は幻大貫妙子
冷たい雨Hi-Fi Set
はぐれそうな天使来生たかお
ミスター・サマータイムサーカス
海を見ていた午後荒井由実
太陽は罪な奴Southern All Stars
或る日突然トワ・エ・モア
夏に恋する女たち大貫妙子
スピーチ・バルーン大滝詠一
Please!サザンオールスターズ
卒業写真Hi-Fi Set
アムールサーカス
マイ・ラグジュアリー・ナイト来生たかお
あの日にかえりたい荒井由実
君に贈るLOVE SONGSouthern All Stars
若き日の望楼大貫妙子
素直になりたいHi-Fi Set

自分のライブラリのなかの楽曲なのだから嫌いな曲が入っていないのは当然として、なかなかうまいこと選んでくるものだと思う。


2009年9月29日(火)くもり

毎日のように酒を飲んでいたので久々の休肝日。なんか英語圏では、酒、酒宴あるい酔っ払いのことを booze ということがあるらしく、そこから転じてアルコール抜きのパーティーを boozless party というらしい。というのはラジオ英会話を聞いた妻からの報告。過去に何度か、休肝日を定例化しようとがんばったことがあって、あるとき妻が「じゃあ今夜はブーザレスね」と言うのを聞いて以来、うちでは ゴンザレス という言葉が休肝日を意味することになった。もちろん俺が勝手に言い出したのだが、すっかり定着してしまった。日本語を乱す張本人は俺だ。ごめんよ。

きょうは大阪でヨリオカくんに聞かれた Axioms of Symmetry というものについて、ちょっとしたノートを英文で書いた。夜、上橋菜穂子『獣の奏者』(講談社) の「3探求編」と「4完結編」が届いた。歩数計カウント6,015歩。


2009年9月28日(月)くもり

後期開講に備えてゼミ生再集合。後期のゼミは月曜と金曜の午前中。なんと朝8時30分開始だ。寒さに負けないようにがんばりましょう。学生さんも大変だがこちらも気を抜けない。

午後にヤン (Jan Spevak) さんの談話会。ヤンさんはD教授のもとで学位を取得して、明日にもチェコに帰ってしまうのだ。夜は送別会。会場は南堀端のアミティエ。フランス人オーナーシェフのビストロで、D教授のお気に入りの店だ。おいしいフランス料理のちょっとしたコースを食い、ビールとワインを飲んで、いい加減酔っ払った頃にシェフのフィリップがカルヴァドスの瓶を片手にやってきた。フィリップとD教授は仲良しなのだ。もちろん俺もカルヴァドスは飲みたかったがすでにアルコールを許容量いっぱいまで飲んでいるので断念。酔い覚ましに歩いて夜10時半ごろに帰宅すると、妻が一人でマイクロペットで遊びながら起きていた。娘もさることながら、うちでは妻のほうがもっとマイクロペットにはまりそうである。現在うちにいるのはローズヒップとカスタードだけど、俺としてはミルクとセサミのペアを魔除けの招き猫がわりに自分のデスクに置きたい。

歩数計カウント10,495歩。明日こそ休肝日にしようと思った。


2009年9月27日(日)はれ

きょうも大阪は晴れ。だけど松山は曇りのち一時雨という天気だったようだ。新大阪で帰りの電車の指定席をとり、ドトールで朝食をとって大阪大学に行った。午前中の講演を聞いて、ヨリオカくんと二人で石橋のサイゼリヤで昼食をとって、午後の講演を聞きに戻るヨリオカくんと別れて梅田へ。紀伊国屋で妻のために統計の本 (清水信博『もう悩まない!論文が書ける統計』オーエムエス出版, 2004年9月) を買った。

300系ひかり 700系のぞみ ひかりレールスター ドクターイエロー

新大阪駅のホームで電車を待っていると、反対側の東京行き路線を逆走してドクターイエローがやってきた。乗り物好きの【息子】がビデオや図鑑でみているので俺も知ってはいたが、実物を見るのは初めてだ。踏切の警報装置が作動したとかで特急が少し遅れて18時30分に松山駅に着いた。【娘】へのお土産はタカラトミーのマイクロペットのうちローズヒップとカスタード。【息子】にはNHK教育テレビ『リトルチャロ』のマスコットキーチェーンとひかりレールスターのTシャツ。妻には紀伊国屋で買った統計の本と『リトルチャロ』のボールペンだ。どれも喜んでもらえてまことに結構。

歩数計カウント9,888歩。明日からまた張り切って仕事だよん。


2009年9月26日(土)はれ

きょうの大阪は暑くもなく寒くもなく快適だった。塚本駅の吉野家で朝食。梅田から阪急宝塚線で石橋へ行き、大阪大学へ。日本数学会の秋季総合分科会に(会員でもないのに)顔を出すためだ。ときどきこういうところへ出てきてほかの数学者と顔をあわせ刺激を受けたほうがいい。少なくとも俺はそうしないと腐っちゃう。

今朝からフェン (Qi Feng) とマギドア (Menachem Magidor) とウッディン (Hugh Woodin) の論文 Universally Baire Sets of Reals を読み始めた。これが普遍ベール集合に関する基本文献である。この論文を読んでショートコースをやったらどうだとは、もう4〜5年も前に松原さんに提案されている。俺が「いまごろになって読み始めました」というと松原さんは「僕はまだあきらめてないですからね」という。申しわけなく、かつ、ありがたい。期待されているうちが華なので、近いうちに期待に沿えるようにしよう。

普遍ベール集合の理論がこんなふうに発展しているからには、1989年に出版されたマーティンとスティールの定理 (無限個のウッディン基数があれば射影集合の決定性仮説が成立する) の証明がもうすこし簡単になってくれてもよさそうである。そういう方向でも少し調べてみよう。

ただこのフェンとマギドアとウッディンの論文 (の公刊されたバージョン) はずいぶん粗い。証明のあらすじは書いてあるが概略だけであることが多いし、中にはぜんぜん証明になっていない証明もあるし、そもそも最初の定義そのものがあとで利用されているものと微妙に違っている。松原さんによると、これはおそらく公刊時に査読者の指示で 圧縮 されたせいだと思われ、公刊前の準備バージョンの方がよかったというもっぱらの評判なのだそうだ。最先端の集合論は非公開の情報が流れてくる いい場所 にいないとなかなか勉強できないと昔から言われる、その一端を見た気がする。それもこれも研究者の層の薄さに問題があるのだとは思うけど、そうボヤイていてもはじまらないので、これから俺たちが若い人たちをがんばって育てるしかない。

先日教室の予算で一冊買ったのではあるが、モスコヴァキスの例の本を私費でもう一冊買った。家と職場の両方にあれば普段はこの大きく分厚い本を持ち歩かなくてすむ。それに長らくこの本(の初版)をメシのタネにさせてもらった身としては、私費を投じて一冊買うくらいのことはしたい。そう思って買ったのはいいが売り場にクレジットカードを置き忘れて貼り紙で呼び出されるハメになった。恥ずかしい。

基礎論分科会の午後のセッションは集合論がテーマで、神奈川の阿部先生、名古屋の吉信くん、静岡のヨリオカくんの講演があった。サバティカルをもらって第二の故郷ボイジーに滞在しているカダくんと春日井から神戸へ引越し作業の真っ最中であるはずの謎の東洋人フチノさんがおらずちょっとさびしかった。特別講演は3月に仙台で世話になった横山くんの講演。超準解析のセッテイングを二階算術の言語にあらかじめ組み込んだ形式的体系を考えれば、逆数学の順方向の研究、すなわち制限された体系内で解析学の諸定理を証明する強力なツールになるというストーリーで、たいへん興味深かった。

セッション終了後は石橋の海鮮居酒屋で飲み食い。メンバーは神戸の鈴木くんと吉信くんとヨリオカくんと俺。横山くんの講演を評してヨリオカくんが「あんな仕掛けができてしまったら もうその領域でやることがなくなる」というような意味のことを言う。一同同意するが、あとで冷静に考えたら、超準解析の方法はあくまで逆数学の順方向すなわち体系内での定理の証明に有効なのであり、逆数学の真面目たる逆方向すなわち定理からの公理の証明の研究ではまだまだ問題ごとの個別の工夫が重要であるように思う。

妻の報告によるときょうの松山は本当に暑く、【娘】は運動会でみんなと仲良くがんばり、4〜5年ぶりに赤組が白組に勝ったそうだ。

歩数計カウント11,410歩。


2009年9月25日(金)はれ

朝は【娘】が小学校にいくのに連れ添ってやる。昨日は泣いてしまった【娘】だが健気に気を取り直している。小学校の校庭には万国旗とテントがすでに用意されている。きっと今日は全校練習かなんかあるのだろう。

松山駅のデリーでカレー食って特急しおかぜに乗って岡山から700系のぞみに乗って大阪にやってきた。宿は塚本駅前のホテルオークス塚本。この界隈は昭和の面影を色濃く残していて俺には好ましい。思いのほか早く宿に着いたので梅田へ買い物に出る。昨日書いたようなわけでちょっとお土産を奮発してやろうと思ったのだが、明日はお土産を選んでいる時間はなさそうだからね。キディーランドでちょっとしたおもちゃ (詳細は後日) を買って、ついでに紀伊国屋書店をひやかして、地蔵横丁でラーメン食って餃子食って宿に戻った。

電車の中やラーメン食ってる間など 合間合間に Patrick Dehornoy (デオルノワと読むに違いない) が書いた連続体問題の進展のレポート記事を読んでいた。どのみち概略だけなのだが、あらすじの紹介という意味では、ウッディン本人が書いた解説よりわかりやすかったように思う。しかしそれは単なる錯覚かもしれず、ただ後で読んだもののほうがわかりよいというだけのことかもしれない。いずれにせよ、概略だけではどうしようもない。そろそろ内容に踏み込んだ論文を読まないといけない。次は Feng-Magidor-Woodin を読もう。ウッディンとデオルノワの記事を読んで、俺に言えることは、嘘でも記述集合論をやっていますと言っている人間がいまどき普遍ベール集合について勉強しないでは話にならないということくらいだからね。

歩数計カウント10,656歩。


2009年9月24日(木)はれ

ようやく平日。と思ったらすでに木曜日である。週末は大阪出張だと言ったら娘が泣いてしまった。土曜日に小学校の運動会があるからだ。見に行ってやれないのはパパだって残念なのだが、運動会の日程が個人的な都合では変えられないのと同様 学会出張の日程だって変更はきかない。娘にはなにか大阪のお土産を買ってやらねばなるまいな。キディランドにでも足を伸ばそうか。そうすると、息子がまたしてもタナボタ的においしい思いをする。まあそれは仕方がないわな。

歩数計カウント8,939歩。


2009年9月23日(水)/秋分の日くもり

秋分である。ということは、これからは秋の夜長の季節である。だけど早寝早起きに心がけたいものでもある。どのみち昼間に起きて仕事することは避けられないわけだから、夜の時間の有効活用もほどほどにしないと身が持たない。起床後2〜3時間経過してからが、アタマがすっきりと冴えていて知的活動に向いている時間帯だという。きっとそれは顔にも出ているはずで、寝不足アタマでムスっとした表情で仕事に向かうよりは、シャキーンとした顔つきで出向くほうがいい。だから、夜更かしして翌日に疲れを残すよりは早寝早起きにシフトしたほうがいい。俺の場合さらにもうひとつ理由がある。というのは、夜更かしすると必ずがほしくなる。深更に飲むとつい深酒して、ますます翌日がつらい。早起き生活ならまさか出勤前に酒は飲めないから酒量もほどほどになろうというものだ。

午後、帰省していた妻子が戻ってきたが、妻の脳ミソだけが、この4次元時空連続体とは別次元のアサッテの方角へ3cmほどシフトしたまま戻ってこない。理由は明らかで、学業(とそれに抱き合わせで押し付けられる雑務)に昼夜分かたず頭の中が忙殺されてタマシイがすっかり目の前の現実から遊離しているのだ。こういうときは妻に何を言っても無駄である。仕方がない。夕食は俺が担当。おかずは鯖のムニエル。それに、酸味のある中華風スープにキャベツとウィンナーソーセージを入れてぐつぐつ煮た「北京のウィーン人」だ。そりゃいったい何かというと、朝食に作ったつけ麺のスープ(お湯に半ねりの中華スープと醤油と酢とごま油を加え、きざみネギと一味唐辛子を加えてひと煮立ちさせる)が余ったので、そこへキャベツと冷蔵庫にあったウィンナーを入れて煮て昼に食ったらうまかった。それを再現したのだ。もちろん、夕食に出したものはあくまで「再現」であって「残り物」ではない。それなりに評判がよかったぞ。鯖は塩を振ってない生身が珍しく生協マーケットに出ていて安かったので買ってきたのだが、鯖だけに、少々サバキにくかった。ムニエルの焼き魚部分は上出来だったがソースがいまいち。もうすこしバターを多めに使えばよかった。【娘】がサバをご飯に乗せてウィンナーを食ったあとに残った中華スープをかけて食い始めた。なるほどそういうのは中国の家庭料理にありそうだ。次に機会があれば、魚の(牛肉でもいいな)竜田揚げに酸味ととろみのある(八宝菜的な)あんをかけて食うというのをやろう。

そうだ中華なべも買い換えたいと思ってたんだ。いま使っているものはアルミ製で、焦げつかないなんちゃら加工が施してあったのだが、妻と俺が日々手荒な扱いをするものだからいいかげんアルミの地肌が見え始めている。焦げ付かないかんちゃら加工の部分は この後、私たちがおいしくいただきました というわけだ。どうせ おいしくいただきました するならアルミより鉄の中華なべのほうがいい。俺たち夫婦にはハイテクうんちゃら加工は豚に真珠じゃなくて立て板に水でもなくて、猫に小判である。


2009年9月22日(火)/国民の休日くもり

このサイトの「作者」のページに検索フォームをつけたついでにいろいろと書き換え「サポートセンター」というフザケた名前に変更した。どのみちこのサイト全体がやたら冗長な自己紹介でしかないのだからこのうえ「作者について」でもないだろうと思って、自己紹介の文にも仕掛けを追加した。昨晩遅くにいつもの牛スジの煮物を作り、きょうの朝食と昼食は牛丼にした。晩飯は自作ラーメンチャーハンセット。大盛り。

本当に久しぶりに iTunes Store で音楽を購入。岩崎宏美「聖母たちのララバイ」は超有名曲なので説明省略。テレサテンの「雨に濡れて」(作詞:荒木とよひさ 作曲:三木たかし →歌詞情報 - goo 音楽, →YouTube音源)は、あまり有名ではないが、若い頃ラジオで一度かかったのを聴いて以来ずっと気になっていた。ある夏の夜、ラジオのプロ野球中継が雨で流れて、間に合わせの番組で《雨》がテーマの歌謡曲を次々とかけていた。プロ野球に興味はなかったが、なぜかたまたまそのときラジオを聴いていた俺は、この「雨に濡れて」を聴いて一発でそのメロディーが気に入ってしまった。歌っていたのがテレサテンであることはわかったが、タイトルが覚えられなくて、ずっと「冷たい雨」だと思っていた。それは荒井由実だよ。「聖母たちのララバイ」を買った勢いでなにか他にもう一曲か二曲、と思って、奥村チヨ「終着駅」却下、高橋真梨子「別れの朝」却下、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」却下、と考えているうちに、そうだあの曲、あの台湾から来ていた歌い手さんは誰だったっけ?欧陽菲菲じゃなくてリンリン・ランランじゃなくて、おーそうそうテレサテンだ! というわけで無事「雨に濡れて」を購入・・・と思ったら、間違えて「女の生きがい」という歌をワンクリック購入してしまった。再生してみるとこれがいまじゃ絶滅が危惧されている "尽くす女" を歌ったド演歌で、しかも、ライブ録音ワンコーラスのみ、フェードアウトしてちょうど1分で終わってしまった。あまりのことに爆笑。こういう歌も嫌いじゃあないが、わざわざ200円払ってダウンロード購入して聞く曲ではない。これなら YouTube でたくさんだ。しばらく使わないうちに iTunes Store からショッピングカート機能がなくなってしまったので、これからはもっと注意深くクリックしないといけない。聴いてもらえばわかるが「雨に濡れて」は哀愁を感じさせる歌詞がどことなしクラシカルなメロディーラインに乗っていてとても綺麗な曲だ。いつかピアノで弾いてやるぞ。

あと「終着駅」をYouTubeであらためて聴いてみると、サビの終わり近く(愛という名の暖かい... の「あーた」のところ)にちょっと思いがけないコードが付いている。昭和歌謡曲侮りがたし。すごいすごい。


2009年9月21日(月)/敬老の日はれ

日本語でかかれた数学書 (とくに比較的新しいやつ) を読んでいると《〜しておく。》という表現が頻出する。典型的な用例は「ここで、次章以降で用いられるホゲピヨの補題を証明しておく。」というものだ。あまりにも頻出するので、気になりだして、このごろは自分で使いたくなくなってしまった。俺は天邪鬼なのだ。だが、頻出する理由は便利だからに違いない。俺だって無意識に使っていることがありそうだ。うん。あるある。そもそも22年前に大学院入試を受けたとき、小問(1)がわからないのに小問(2)が先にできたから、「まず、集合 E が(1)の性質をもつとすれば (2) は[中略]のように成立することを指摘しておく。」なんて書いてしまったのを覚えている。答案用紙にそう書いてしまうと、ワーキングメモリに空きができたせいか ほどなく(1)もできて結果オーライだったのだが、それにしても「成立することを指摘しておく」だなんて、若気の至りで、今となっては恥ずかしい。

数学書でよく使われる《〜しておく。》には、なにか威張りのようなコケオドシのような勿体ぶりのような、そういうイヤミなニュアンスがある。《指摘しておく。》なんてその最たるものだ。「成立することを指摘しておく」なんて言わなくても、あっさり「成立する」と言えばいいのだ、数学なんだから。

ためしに自分のウェブ日記での文字列 "ておく" の出現頻度を調べてみた。簡単な Perl プログラムでスキャンしてみた結果、旧「て日」に66箇所 「て日々」に17箇所あった。ということは、むしろ最近になって使用頻度が上がっている!! まいったなあ。

今月の日記にも昨日までに2回出てきている。しかし、それは10日の しばらく放っておくとまたどんどん生えてくる と、1日の どうか散らないで待っていておく だから、かろうじて「〜しておく。」という用例ではない。というのも、あっさり《〜する。》と言い換えられる《〜しておく。》の場合とちがって《放っておく》は《おく》を使わない他の表現に簡単には置き換えられないからだ。

「て日々」には《ておく。》 の用例はなかったので、旧「て日」を調べたら、5回使われていた。69ヶ月にわたって書き続けた「て日」全2,021日分で5回というのは多くないと思う。たとえば《仕方がない》という文字列は121回 (grep と wc で数えたから正確にはHTML文書の121行に) 出現するので、それと比較すれば、俺の日記中で《ておく。》は決して頻出表現ではない。

自分のウェブサイト(旧「読書欄」なども含めて)を題材としたテキストマイニングをそのうち本格的にやってみたいものだと思っている。きっといろいろと予想外の結果が出るはずだ。いや、なぜ予想外の結果が出ると思うのかは自分でもよくわからない。 (前もって理由がわかるくらいなら、それは予想外の結果ではない。) ただ、予想外の結果がいろいろ出てくれたら面白いなと希望しているだけかもしれない。

で、なぜ今日になっていきなり《〜しておく。》のことを騒ぎ出したかというと、こういう理由だ...

昨日あのようなことを書いたものの、俺だって他人の目は気になるから、Googleで tenasaku.com をキーワードとして検索してみた。いまは閉鎖している「読書欄」とくに山川偉也『ゼノン4つの逆理』(講談社)について書いたものへの参照が多い。これもいまでは閉鎖している、QuickTimeを使ってパソコン上の音楽などの音源ファイルを携帯電話で再生できるように変換する方法を書いたページへの参照もけっこうあった。そうした引用に混じって、どういうわけか国語学の論文のPDFファイルが見つかった。岡山のある女子大学の先生が書いたこの論文の中で、妻がかつて自分のWebサイトに書いた文章が引用されていたからだ。妻に確認したが知らないということなので、つまりインターネットで公開しているものを無断引用しているわけだ(一応引用元のURLは記載されている)。引用された妻の文章は次のとおり。補助動詞《おく》の用例である。

そーっと、じーっと、春がくるのを待っとこう
人間、好調なときと低迷期があるもんだよ。
低迷期にはじーっとしとくのも大事。また笑えるようになる日も来ます。
www.tenasaku.com/mirori/health/sentimental.htm
【2003年3月23日。他ページの内容から、松山市(付近)在住。】

なぜ居住地まで書かれているかというと、どうもこの論文では《おく》の用例の地域差を検討しているらしいのだ。妻は山口県の周防地方出身だから、西日本での用例として引用されているかぎりで、大まかには間違っていないが、書いた本人に出身地などの確認を取らずに「松山近辺ではこうやって使われています」という例として使っているわけで、どうも方法論としてアヤウイように思う。まあそれはともかく、上に書いたとおり俺はつねづね補助動詞《おく》の(特定の)用法にちょっと引っかかるものを感じていたので、しばらくがんばってこの論文とニラメッコしてみたが、門外漢の悲しさ、ぜんぜん理解できなかった。


2009年9月20日(日)はれ

お米が切れたので買いに行くついでに、庚申庵に道草を食いに行った。記録によると、これまでに少なくとも 2007年4月1日2008 年12月13日 の二回来ている。子供を連れてくるわけにいかないからめったに来ないが、ここに来て縁側に坐って庭を眺めると、本当に気持ちが落ち着いてほっとする。コオロギの声に耳を預け、草に留まる赤トンボや池のメダカを眺めて放心していたら、管理室のお姉さんがお茶を持ってきてくれた。ありがたい。

その後、フジグランでお米を2kgだけ買い、喫茶店でコーヒーを飲みながら、齋藤孝『坐る力』 (文春新書 2009年1月) を読んだ。

この本の中で齋藤は、われわれの生活時間の中で坐っている時間がどれほど多くを占めているかに注意を喚起し、坐る姿勢を見直して坐り心地のよいイスを上手に選ぶことを推奨している。だけど、さっきまで庚申庵の縁側で庭を愛でていたこともあって、俺はむしろ散らかり放題のLDKからダイニングテーブルとイスを追放することを考えている。その代わりにフローリングの床に畳かラグを敷いて、でっかい坐り机を置く。そこで家族四人で座布団生活をしたほうが、いろいろうまくいくような気がするのだ。視線が低くなればいままでよりもいろいろなことに気が回りやすくなるような気がする。ひとつの机で四人がそれぞれの本やパソコンを広げて勉強ができる (俺が買おうと思っているのは、それくらい大きな机なのだ、しかもコタツ兼用)。子供たちに正しい姿勢を教えられる。そしてなによりも、長い目で見れば、妻の腰痛が軽くなる。妻の腰痛や俺の肩こりは「腰を立てる」背筋力の足りなさと柔軟性のなさ、そしてそれに起因する姿勢の悪さが原因だと思うのだ。

格安で譲ってもらったものだから文句は言えないが、いま使っているダイニングセットのイスはお世辞にも坐り心地がよいとはいえない。大人の体格に合わせたイスに子供が坐ってダイニングテーブルに向かえば、脚をブラブラゆすってしまうのは当然だ。自分だって坐り心地の悪さを我慢して坐っているそのイスに、両足が床に着かない状態で子供を坐らせているのでは、口でいくらお行儀よくしなさいと言ったってどうしようもないではないか。

だからもちろん、これまでもイスを買い換えることは何度も考えたのだけど、もっと根本から考え直して、座布団生活にスイッチしたほうがいい気がしてきた。もちろん、ピアノの練習をイスなしでするわけにはいかないし、【娘】の勉強机のイスも買い換えてやらんといかん。だからうちからイスを一掃することはできないのだが、座布団に坐って姿勢を安定させる身体の構えができればたいていのことは坐り机で済む。

それに、座布団生活が板についてきたら、家庭内大喜利だってできるんだぜ (・・・ってオイ)。

話を齋藤孝の本に戻そう。面白かったのは、このごろの「キレやすい」「心が折れやすい」子供たちに対する齋藤の見解だ。いろんなひとがいろんな観点からこの問題を論じているけれども、昔はキレる子供が全くいなかったというわけではあるまいし、昔の子供だって心が折れることはあったわけで、それなりに訓練を積まない限り精神が未熟で脆弱であるのは何も不思議なことではないと、齋藤はいう。つまり、問題は最近の子供が自分を我慢づよく律する訓練を受けていないことにあるのだから、この現状は姿勢の調え方をはじめとして身体の使い方を丁寧に指導していく中で改善できると主張しているのだ。この意見には傾聴の価値がある。

また、齋藤はこの本 (に限らずおよそすべての著書) で、人は身体感覚をしっかりと取り戻すことで本来の自己と一体であるというゆるぎない確信をつかむことができるという意味のことを力説している。そういう文脈で、近年「本当の自分なんかどこにもない」という考え方が流行することで、他者の承認なしでは生きられない人間が大量生産され、そのなかから、昨年夏の秋葉原の無差別殺人事件のような異常な行動に出るものが現れてきていると、齋藤はいう。俺も時々「本当の自分なんてない」「他人あっての自分である」と主張しているから、これはちょいと耳が痛い。

そのことについてここでちょっと弁明させてもらえば、意識とか自我とか主観といったものを主役の座から引きずり下ろすためにこそ、《人間とはとりもなおさず内面、すなわちココロのことである》という考え方に対して俺はつね日ごろから異議を申し立てているのだ。もちろん、主役の座につくべきものが他にあると思うからこそ言っているのであって、ポストモダン的な流行の尻馬にただ乗っているだけではない。ただ、じゃあその主役の座につくべきものって何だよと聞かれると、そりゃもちろん《仏性》と言いたいところだけど、そう言ってわかってもらえるとも思えないので、そこでまたどうしても《自分》とかなんとか答えなきゃいけないのが困りものではある。だが根本のところでは《本当の自分=自我》なんかないというところに落ち着くことでかえって《本来の自己=仏性》が生き始めるはずだと思っている。

なんで本来の自己が仏性なんじゃ、と聞かれるかもしれない。これは俺が言い出したことではない。たとえば次のような話がある。 古代中国の唐の時代に慧能という男がいた。インドから中国に禅を伝えた初祖菩提達磨の宗旨を継承する五祖弘忍の寺で、下男として働いていたが、その人物と悟りを弘忍に認められて法を継ぎ六祖となった。しかし受戒していない俗人(しかも南方の異国人で読み書きも満足にできなかったらしい)が達磨の法の後継者とあっては寺の弟子たちが黙っていない。それで弘忍は自分の衣と托鉢用の鉢を慧能に与え、南方へ逃れるように諭した。慧能が南方へ急いでいると、弘忍の弟子である明上座が追いかけてきた。明上座につかまった慧能は「和尚さんの衣が欲しいんなら持って行きなさい」と衣鉢を道に投げ出す。その慧能の行動に感じるところのあった明上座は「衣鉢じゃなく法をくれ」という。そこで慧能が言う「善を思わない。悪を思わない。まさにそういうとき、どれが明上座の本来の面目ですか。」言いも終わぬうちに、明上座はたちどころに悟り、慧能を礼拝した。 ・・・明上座は法を求めた。慧能は本来の面目へ立ち返れと説いた。決して 自分に立ち返ることが法を見出す手段なんだよ などと悠長なことを言ったのではない。求められるがままに法を示したのだ。「いまここでお前さん法を求めていらっしゃるが、見なされ、ちゃんと仏さまの法にかなっとるじゃないか」というわけだ。ここに《本当の自分》とはまったく違う《本来の自己》がある。

それに、いまの若者が他人の承認なくして生きられなくなっているという状況を、異常だとは俺は思っていない。なぜなら、他人の承認なくして生きられる人など、どの時代にもいなかったはずだからだ。問題は、いまの若者が自信を失っていることにあるのではない。彼らが他人の承認を渇望することに問題があるのでなく、むしろ、彼らが他人を承認できなくなっていることに問題があると、俺は思う。

秋葉原殺人事件の犯人は、ネットに大量の書き込みをして、それが無視されたから、ナイフを持って暴れたのだという。その大量の書き込みが、齋藤のいうとおり他人から存在を認めてもらうための行為だったとしたら、そりゃ最初っから、承認を取りつける方法を誤っていたのだ。自分が承認される場所は自分が他人を承認する場所でもあるはずだ。だとしたら、それは自分の外でしかない。だって、あなたが俺から承認される場所があなたの中にあるのなら、あなたが俺を承認する場所は俺の中にあることになる。それは変でしょう? 逆に、あなたが俺を承認する場所があなたの中にあり、俺があなたを承認する場所が俺の中にあるのだとしたら、俺たちはどうやってお互いに承認しあっていることを知るんだろうか。きちんと考えれば、人が人を承認する場所はすべての人にとって外部にあって万人に共有されている場所でしかありえない。だから俺はいつも「自分の外へ出ろ」といっている。

この前の段、話が急に抽象的になりすぎた。しかし何も難しいことではない。正しい承認の受け方は、たとえば仕事をして給料をもらうことであり、たとえば学校で勉強して試験を受けて評価を受けることである。ボランティア団体に所属して街の掃除をするのもそうだ。役に立つ道具を作って人に使ってもらうのもそうだ。電車で年寄りに席を譲るなんてのもそうだ。手段は多彩多様であって選択肢は豊富にあるが、いずれにせよ自分の外に出てそこで求められているものに応じ身を粉にして働くことの中にしかない。

齋藤孝には悪いが、問題はやっぱり「自分内事情への執着」「他人を承認する能力の枯渇」のほうにあるのだ。ここはやはり「本当の自分」へのこだわりを捨てろと教えるほうが正しいと思う。そのために身体を調える必要があるといえば、話の筋は通るじゃないか。かつて日本の武術や芸術が「道」という形をとっていたこととも、きちんと符合する。それに、この考え方に立てば、いまは人が人を承認する従来のやり方(つまり社会のシステム)が崩壊して皆がみな暗中模索の段階で、それがいろいろの軋みを生んでいるんだという認識へとつながっていく。そこでみんなひとまず自分の身体という拠り所を取り戻そうぜと説くのが齋藤孝の仕事だ、という形で、その意義もはっきりして、ちゃんと話の後先がつながる。メデタシメデタシ。


2009年9月19日(土)はれ

モスコヴァキスの第8章を読む。セクション8A〜8Bの内容 (形式化された言語の構文論と意味論の叙述) は、ロジックのどの領域を勉強するにも一度は通らなければならない道だ。この部分、ロジック専攻の数学者なら誰でも書こうと思えば書けるのに、みんななかなか書こうとしない。理由は単純で、ひたすら面倒で面白くないから。それをこのようにていねいにわかりやすく書くのには、数学者としての視点の確かさだけでなく、教育的配慮、それに注意深さと忍耐が必要だ。モスコヴァキスに面識はないが、彼はきっと親切で温厚な人であろうと推察する。

紀伊国屋が閉店した後のビルにジュンク堂書店がきょうオープンした。そろそろ開店時刻だ。さっそく行ってくる。

また出てきたやる気のないあひるこれもやる気のないあひるこれまたやる気のないあひる
・・・(数時間経過)・・・

行ってきた。よくまあこれだけ詰め込んだなあという印象だった。かつての紀伊国屋書店と同じビルなのだから当然かつての紀伊国屋書店と同じ売り場面積なのだが、棚の数がすごく多い。しかも棚の背が高いので売り場全体を見渡せる場所というものが一切ない。それで売り場が狭くて仕方ない印象ではある。だが、おかげで品揃えはかなりいい。ざっと見てきただけだけど、数学書コーナーだけで7段構成の書棚が6台あったし、哲学書の品揃えはもっといい。だけど、今日はオープン初日と言うこともあって、1階にしかないレジが大混雑。もちろん面白げな本はたくさんあったが、行列してまで買わにゃならんものでもなかったので、今日は何も買わずすぐに退散。もう少し落ち着いてから、またゆっくりと見に来ることにしよう。このぶんならしばらく楽しめそうだからね。

久しぶりに都会の本屋さんに行ったような気持ちで外へ出ると、野村證券裏のかつて「麦」のあった場所に別の喫茶店ができていた。うんうん。街には書店と喫茶店が必要だ。本を読んで、お茶を飲みながら語る場所があって、そこから文化が生まれる。

俺が松山に住んでかれこれ18年ちょっと。お気に入りの居場所が次々と店をたたむのを見てきた。俺が気に入るような店はどうも長続きしないらしい。特にかつての中心街である湊町・千舟町界隈は、90年代半ば以降、あれよあれよと言うまにどんどんさびしくなっていった。それに合わせるかのように、お気に入りの湊町の丸三書店でも、かつての紀伊国屋書店の3階専門書売り場でも、いつのころからか数学書や哲学書などの専門書の棚が「多様化」してしまって、この数年はとくに、ちょっと本格的な専門書は大学生協でなければ首都圏なり京阪神なりへ出ないと (あるいはAmazonなり何なりの通販でないと) 買えないようになっていた。というわけで、今回のジュンク堂の松山進出を、俺は大いに歓迎する。ジュンク堂書店の専門書の品揃えはこの先も尻すぼみにならないでほしいものだ。そして、願わくはこれを機会に《いで湯と文学の町》松山の中心街に文化の香りが戻ってきてほしい。

ところで、ジュンク堂書店4階に、7段かける6台の計42段あった数学書棚のうち12段分は統計の本だった。ハードカバーの学術書から「マンガでわかる」的なのまで多彩にそろっていて、統計のニーズがいかに多いかよくわかる。そして、ナヴィエ-ストークス方程式の数理 なる本を見つけた俺は オイラー \((\nu\cdot\nabla)\nu\) を確認してうひひと笑ったのだった。

昼食は茜屋のラーメン。連休とて妻子は午後の船で帰省。きょうのような日は周防大島の海岸線のドライブはさぞ気分がいいだろうと思うが、いろいろの理由でついていかなかったのだ。


2009年9月18日(金)くもり

そのようなわけで、足元の地面をしっかり踏みしめながらゆっくりと進むことにする。学生時代にいちばん熱心に読んだモスコヴァキス (Yiannis N. Moschovakis) のテキスト Descriptive Set Theory の改訂第2版 (Mathematical Surveys and Monographs, Volume 115, American Mathematical Society, 2009. ISBN 978-0-8218-4813-5) が届いた。 ものすごく大きな改訂ではないが、最新の文献リストが加えられ、歴史に関するコメントが書き加えられた。全体が LaTeX で再組版された。数学的な内容としては、初版では部分的にしか証明されていなかった マーティンの定理 (ボレル集合の決定性) フルバージョンの証明が載っており、また ω 上のボレル集合の決定性の証明から選択公理を除去する方法の考察が書き加えられた。

1980年に出版された初版はそれ以後一貫して記述集合論の標準的な教科書であったのだが、その後しばらくして (マーティンとスティールとウッディンによる射影集合の決定性の証明を嚆矢として) この分野に訪れた大発展のために、いくつかの記述が時代遅れになったのは事実だ。モスコヴァキスの高弟ケックリス (Alexander S. Kechris) が やがて この本で展開される再帰理論的なスタイルの射影集合の理論から距離をおき 他の数学分野とのインターフェイスへと向かったことも、射影集合の記述集合論は「済んだ話」だとの印象を流布させる要因になっていたように思う。しかし、モスコヴァキスが第2版まえがきに書いている通り、先に述べた「大発展」以来、巨大基数の集合論、内部モデル理論、それと記述集合論の三つのどれを理解しようとしても、他の二つを知らずに済ますことはできなくなっているのだ。そして、この本の記述に時代遅れになった部分はもちろんあるが、エフェクティブな記述集合論や決定性公理の応用について、数学基礎論に動機づけられた一貫したアプローチで初歩のところから書いた手引き書が他にも出現したとは思われない。(第2版まえがき) ここに、今回の第2版発行の理由というか意義があるといえるだろう。

モスコヴァキス以後に記述集合論のモノグラフが出現しなかったわけではない。たとえばマンスフィールド (Richard Mansfield) とヴァイトカンプ (Galen Weitkamp) の Recursive Aspects of Descriptive Set Theory (Oxford UP, 1985) はいい本でけっこう好きなのだが、扱っている範囲が広くないし、古典理論との対応が見えにくいのは弱点である --- そのかわり、モスコヴァキスの書かなかったトピックを上手に掬い上げているから、あわせて読めば鬼に金棒である。その後も、アーニー・ミラー (Arnold W. Miller) の本、バルトスツィンスキ (Tomek Bartoszynski) とユダー (Haim Judah) の本、さらにもう少し新しくザプレタル (Jindrich Zapletal) の本などが出た。これらは強制法の記述集合論への新しい応用の説明に力を入れていて、これらを読むにはかえってモスコヴァキスの本の前半分くらいは予備知識として必要になってしまう。どれも決してモスコヴァキスの本に取って代わるものではない。上に引いたモスコヴァキスの言葉も、こうした事情を踏まえて言っているに違いない。

数学の特定の分野へ記述集合論を応用する本として、ケックリスとルヴォー (Alain Louveau) の三角級数論の本、ベッカー (Howard Becker) とケックリスのポーランド位相群の構造理論の本などがある。どちらも有意義な本ではあるが、これらを記述集合論のテキストというわけにはいかない。テーマとしての記述集合論そのものの最初から説き起こす手引き書 (入門書) としては、ケックリスのモノグラフ Classical Descriptive Set Theory (Graduate Texts in Mathematics, Volume 156, Springer-Verlag, 1994. ISBN 0-387-94374-9) がある。しかしこれは 応用重視のケックリスの姿勢を反映して 読めば読むほど途方にくれるしかない雑多な知識の寄せ集めになってしまっている。それならばスリヴァスタヴァ (Sashi Mohan Srivastava) の A Course on Borel Sets (Graduate Texts in Mathematics, Volume 180, Springer-Verlag, 1998. ISBN 0-387-98412-7) のほうが、内容を厳選してコンパクトにまとめているぶん好ましい。

要するに、記述集合論に関する限り、それ以後に出版されたどの本と比較しても、モスコヴァキスの本の価値の高さは歴然としている。読むに値する豊かな理論があるからだ。多少古くなったとはいえ、その理論は現在の集合論の最先端に通じる道のひとつでもある。そして、その「古さ」を克服し、新しい記述集合論の手引書を生み出すのは、あとを引き継ぐわれわれの仕事だ。

やる気のないあひる

いかんいかん。また世界を担いで歩くようなことを言ってしまった。気負いは捨てよう。ひとまず、新しく書き加えられたボレル集合の決定性証明(6F節)とか、学生時代にいまいち消化し切れなかった第8章『メタ数学』を味読することにしよう。

あ、そうそう。俺としては、第3章・第4章・第7章と読んでいけば一般再帰理論 (Generalized Recursion Theory) の概略をつかむことができるということもモスコヴァキスの本のご利益として強調したい。

〜〜〜

話はゴロっと変わる。一昨日の夜、妻の留守中に酔っ払って玄関のドアのガラスを蹴って割ってしまった。二重ガラスの内側だけなので、スキマ風が入るわけでもないし防犯上の心配もさほどではないが、恥ずかしく情けなくかっこ悪いのは確かで、おまけに破片が危ない。修理せにゃならぬ。けさ ガラス屋さんに電話して見積もりにきてもらったのだけど、二重ガラスというのは街のガラス屋さんが誂えるというわけにはいかなくて、サッシのメーカー (うちのドアの場合はトステム) に発注しないといけないらしい。納期がかかるうえ、純正品だけに値段もかなりになりそうだ。癇癪は高くつく。後悔先に立たず。

ピアノのレッスン。今年の出し物はショパンの夜想曲変ホ長調作品9の2。あの有名なノクターンである。一応目鼻はついたが、まだランニングとジャージの姿で家で寝転がってマンガを読んでいる。これでは人前に出せない。しゃんとしてもらわないといけない。今日は、速いパッセージの直前の音符で脱力しつつ指を運ぶ技を教えてもらった。実際にピアノに向かって説明してもらったのでよくわかったのだが、言葉だけでは説明のしようがないし、なにせ一瞬の動きのことで、楽譜にも指示の書き込みようがない。黙って練習して身につけるしかない。がんばろう。楽器店へ発表会の申し込み票を提出して参加費を払うついでに、来年やるつもりのドビュッシーの曲の楽譜を買った。先生に「来年はこれにします」というと「いいですねぇ」と即座にOKが出た。


2009年9月17日(木)はれ

その昔、ビートルズは歌った。 世界を肩にかつぐな。周りの世界を寒くしてクールなつもりになるのは馬鹿のやることだ...

最近の俺は自分の頭が悪くなったような気がして焦燥を感じていた。考える速さに無理に合わせて字を書こうとして、どんどん悪筆になった。読む速さを気にして、読んだものの理解がおろそかになった。それもこれも功をあせる気持ちがあったからだ。あせって失敗しては、ますます焦燥を募らせていた。いいかげん虚勢を張るのはやめよう。頭はもともと悪かったので最近ことさらに悪くなったのではない。もういい歳なのだから我慢を知らにゃならん。字が下手になったと感じるなら、ペンを丁寧に運ぶことを覚えなおせばいい。難しいことがわからなくなったように感じるなら、わかるまで反芻すればいい。理解する速さに合わせて読み、書く速さに合わせて考えよう。走れないなら歩くことだ。速くまっすぐ進めないからといって、歩くことに臆病になってはいけない。もともと駿馬ではない。むしろ牛に学ぼう。


2009年9月16日(水)はれ

この日記も何人かの人たちに愛読していただいているようで、大変ありがち…違う違う。大変ありがたい。いやほんと、いつもくだらなくてすみません。

俺にも毎日欠かさずチェックしているWeb日記がふたつある。ひとつは、集合論好きのプログラマ 鏡さんの日記 であり、もうひとつは、各種プログラミング本や『数学ガール』などの本の著者として知られる 結城浩さんの日記 だ。このお二人はどちらも数学が大好きで、どちらもプログラミング関連の仕事をしておられ、どちらも誠実な人柄がにじみ出るいい文章を書かれる。お二人とも、俺にとってはお手本のような存在である。そして文章から推察するに、結城さんは明瞭に、鏡さんはひそかに、愛妻家である。二人とも奥さんへの敬意を言葉にすることに躊躇しない。この点にかんしても、俺にとってのお手本である。

そして、鏡さんは娘さん(とくに高校生の三女モカちゃん)にメロメロである。愛娘にメロメロという点だけは俺も負けていないかもしれない。

夜はなんだったかの寄り合いに出かけた妻に代わって子供の面倒を見る。【息子】はまだ5歳にもならぬのに、いかにも俺の息子らしく、自分の殻にとじこもることで自分を守る生き方をめざしてように思える。心配だし、コミュニケーションが成立しない苛立ちも感じる。気疲れして不機嫌になった俺は、疲れて帰ってきた妻にまたまた迷惑をかけた。反省。

今年のピアノの発表会が終わったら来年に向けてドビュッシーのあの曲を練習しようと思う。


2009年9月15日(火)くもり

今日も数学談話会があった。今日のテーマは水中の気泡が浮かび上がっていくような現象、二種類の流体が表面張力をもって混在し流動している様子を数値解析的にシミュレーションするという話で、難しかったけれどなかなか面白かった。話の内容が面白かったのはもちろんのこと、なにしろ ナヴィエ・ストークス方程式(←リンク先はウィキペディア) の数値解を扱うもんだから、ネタサイト pya! で話題になったあの オイラー \((\nu\cdot\nabla)\nu\) が登場した。しかも pya! に登場するものよりも少しパワーアップしていて、

$$ \bigl[\,(w\cdot\nabla)u\,\bigr]\cdot v\;-\;\bigl[\,(w\cdot\nabla)v\,\bigr] $$

である。もちろんアカデミックな数学の話の中にマジメに登場したのだけど、俺だけが「あ、オイラー \((\nu\cdot\nabla)\nu\) だ」とひとりで喜んでいた。いっぽう、うちでは妻子がいまちょうど モフモフ にはまっており、俺が集合論の論文を読んでいると 子供たちが ω を見つけて「モフの鼻!モフの鼻!」とウルサイのだった。

(-ω-; マッタク 一家ソロッテ コマッタモンダ...

あいかわらず集合論リハビリテーションの日々。昨日から読んでいる Sy Friedman の論文も fine structure theory のあらすじを知るにはよいけど、詳細はたとえば Devlin の Constructibility とか、そうでなければ Jensen の原論文にあたらないといけない。しかしそれにしても Jensen のマスターコードが Turing jump の超限反復に関連するということすら 不勉強なものでいままで知らなんだ。情けない。はい。マジメに勉強します。Moschovakis の Descriptive Set Theory の第2版が届いたこともあるし、また初心に帰って Recursion Theoretic な観点から集合論を見るということを思い出さなくちゃ。


2009年9月14日(月)くもり

先日(今月9日の日記)書いたような理由で、20年前の恩師の講義ノートを読み直し、クリーネ帰着可能性について復習した。だがそれだけでは当面の目的にはちょっと不足。高い型の再帰論 (Recursion in Higher types) の文脈でまともに計算木を扱うか、または認容集合 (admissible set) の文脈でやるか。ひとまず両方のアプローチを検討しよう。前者なら Barwise編の「数理論理学ハンドブック」に掲載された Moschovakis と Kechris の論説が役に立つだろうし、後者のアプローチをとるなら Weitkampの学位論文のコピーがあるから、それを参照しよう。

予想あるいは希望としては、普遍ベール集合のクラスはクリーネ帰着可能性および superjump のもとで閉じていると考える。すなわち、\(A\) が普遍ベール集合で \(B\) が \(A\) と \({}^2E\) となんらかの実数パラメータに相対的に recursively enumerable だったら \(B\) も普遍ベール集合であってほしい。このことは \(A\) と \({}^2E\) から \(B\) を計算するプロセスを表す計算木を \(A\) と \({}^2E\) の普遍ベール性をテコにして解析することによって確かめられると思う。

ようやく市民コンサート例会に行けた。今年になって初めてだ。こりゃ明日は雨だぜ。今夜のコンサートは有森博さんのピアノ。華麗なテクニックと圧倒的なパワー。豪快な中にも透明感のあるリリカルなサウンドも聴かれ、なかなかすばらしかった。とくにラフマニノフにはシビレた。

市民コンサートの開演前と休憩時間中には Sy Friedman が fine structure theory の概説を書いた古い論文を読んでいた。終演後にはヤマザキデイリーで酒を買い込み、歩いて帰宅。歩数計カウント12,775歩。


2009年9月13日(日)くもり

朝食は久々の「パパチャーハン」。娘を教会学校へ連れていく。朝の9時10分ごろ、ロープウェイ街の霧の森菓子工房の前を通りかかったら、10時開店だというのにすでに長蛇の列。おそらくは霧の森大福めあてのお客さんたちなのだろう。ふむ。って、この話はそれだけ。昼食には牛スジを使った肉じゃがというか「スジじゃが」を作った。週末の朝飯と昼飯を俺が担当するというのは、はっきりとルールになっているわけではないが、最近よくそういう流れになる。

引き続きウッディンの論説を読む。これで概略がつかめたら、少しずつ詳細を調べていこう。とにかく、古典論理の証明でとらえきれない「正しさ」の洞察が普遍ベール集合 (universally Baire sets of reals) の階層によって与えられるという、Ω-ロジックの根本にある着想を自分もつかみとらない限りその先には進みようがない。

夜、【娘】が生まれた日のことを寝室で妻が【娘】に語って聞かせていたので、俺も時折言葉をはさんだ。幸せな時間である。歩数計カウント12,112歩。


2009年9月12日(土)あめ

例によって、朝食と昼食を俺がでっち上げた。家族でお出かけでもしたいものだと思っていたが天気もよくないので食材の買い物程度で我慢。ただし普段あんまり行かないところにしようと思って56号線のジャスコに行った。

先日、妻がある懸賞で Wii本体とWii Fitのセットなるものを当ててしまった。そういう最先端なものがうちに来てくれるのはありがたいことだが、使おうと思ったらそもそもテレビから買い換えないといけない。とはいえ、いまはそんなものポンと買う金銭的余裕はないので、きょうのところはジャスコとそれから千舟町のベスト電器に行って 「最近のテレビってどんなものじゃろか? おおっシロクマが映っとる」と眺めてオシマイ。この話題ではしばらく引っ張れそうなので、ぜひ妻に『ヘタ絵日記: みろり一家のWii生活』を発表してほしいところ。

このごろは、電気店に行くたびに ブロードバンドのキャンペーンでアンケートに答えてくれと頼まれる。俺はめんどくさくてイヤなのだけど、妻子はけっこうオマケに弱いのでカウンターへ引っ張っていかれる。今回は【娘】と【息子】がぬりえをしてピカラのピーちゃんのスプーン2本をもらい、アンケートに答えるとできるガラポン抽選で【息子】が赤い玉 (ピーちゃんオリジナルエコバッグ) を出してしまった。いやホント、もらうばっかりで本当にもうしわけない。


2009年9月11日(金)はれ

無条件の自己受容ということについて考えた。

時々耳にする「自分に正直」というのは自己受容ではなく居直りだ。「あたしゃ自分に正直に生きますから」なんて言いながら自信満々に生きている人ってものは、どこか一面的になりがちなように思う。というのも、誰でも生きるにあたっては心の中に一つや二つの葛藤を抱えているものなのに、そのことに自分で気づかない、あるいは気づいていても認めようとしないから、表ばかりで裏がない、光ばかりで影がない、そういう一面的な人間像になってしまうのだ。それに、困難だが実り多い道と安易で実りのない道の分岐点に来て、ろくに悩みもせずに「自分に正直」に歩めば、そりゃ必ず安易な道を選んでしまうことになる。だから、葛藤している自分をありのままに認めて、ちゃんと葛藤するのが正しい。あ、いかん。何を言っているのかわからなくなってきた。話題を変えよう。

夕方はピアノのレッスン。発表会は11月8日。それまでのレッスンは残り6回だから、いつまでも時間の余裕があるわけではない。ご自宅用としては弾けるようになったけど、まだまだ人前に出せない。


2009年9月10日(木)はれ

俺にはどうも人を見下す悪い癖があるようだ。もう若くもないのでそういう驕った考えを口に出さぬように気をつけてはいるが、心の中でよく知りもしない他人を低く見ることはすっかり身に染み込んだ性癖になっていて、自分で気づかぬうちに顔や態度に出てしまっているかもしれない。それはやっぱりいいことではない。ただ「かもしれない/そうにちがいない」と考えているばっかりではどうしようもないので、今日はひとつの実験として、正当な理由なく人を見下す考えが浮かんだことに気づいた時点でメモ帳に印をつけていったところ、21個の印がついた。これが多いのか少ないのかはわからない。カウントできなかった事例がもっとあったようにも思う。

他人のことをよく知りもしないうちに勝手な基準で自分を他人の上においたところで、幸いが訪れるなんてことはない。寿命が延びるわけでもない。宝くじの当たる確率が上がるわけでもない。異性にモテるわけでもない。肩こりがとれるわけですらない。ただ自分の値打ちが下がるだけだ。根拠のないプライドなんていうものは、心に生える雑草のようなものだけど、雑草だけに実にしたたかで、きれいに抜いたと思っても、しばらく放っておくとまたどんどん生えてくる。

作物を育てるには雑草が邪魔になる。かといって除草剤を撒くと作物にも悪い影響が及ぶ。雑草が生えるのは土が生きている証拠でもあるから、薬を撒いて根こそぎ退治するのは考えものだ。それと同様、心に自然に生じる妄念をまったく根こそぎにできる気はしない。生きているうちは面倒くさがらずに丁寧な手入れを心がけるしかない。そして、自分が他人を心の中で不当に扱うケースがいかに多いかを知れば、自分が他人に不当に扱われていると感じたときに、その不快感に冷静に対処する道が開けるように思う。

いま住んでいる家は建売だった。買った時点で築4ヶ月だったが、それから一年間ほど周りの土に雑草のひとつも生えなかったのでずいぶん心配したものだ。二年目からはぼちぼち雑草も生えダンゴムシも這い回るようになった。おかげでひと安心だが、そろそろちょっと草引きしなくっちゃ。

というところで話はわかる。毎朝飲む薬 (いつも言う バカにつける薬) を昨日と今日つづけて飲み忘れていたので妻に連絡して届けてもらい、ついでに二人ランチ。夕方にはそのバカにつける薬を出してもらいに医者に行った。ドクターに焼酎をストレートで飲むなと叱られた。今度からお湯割りにします。レモンスライスも入れようかな。歩数計カウント11,112歩。


2009年9月9日(水)はれ

昨晩遅く『フレーゲ入門』を読み終え、きょうはそれを含む計5冊を県立図書館に返却。いつもなら別の本を借りるところだが、いまは読むものがなくて困っている状態ではないので何も借りなかった。

昨日書いたようなわけで, Ω-ロジックに関するウッディンの論説を読んでいる. ウッディンの理論はZFC集合論に「いくらでも大きなウッディン基数がある」という仮説を付け加えたところから出発する. この仮説のもとでは, \(A,B\subseteq\mathbb{R}\) で \(A\) が普遍ベール集合 (universally Baire set, 以下 uB集合), かつ \(B\in L(A,\mathbb{R})\) という意味で \(B\) が \(A\) から 計算可能 であるとき \(B\) もuB集合である. そういうきわめて強い意味で uB 集合全体のクラスは閉じている. ウッディン基数の存在を仮定しない素のZFCでは, \(B\) が \(A\) のボレル可測写像のもとでの逆像であるときには \(A\) のuB性が \(B\) に遺伝する. ボレル可測写像で帰着可能というのは \(B\in L(A,\mathbb{R})\) なんてこととは比較にならないくらい強い計算可能性であるから, その場合にuB性が移行できるというのは, ウッディンの結果のうんと弱い特殊ケースということになる.

そこで両者の中間の強さの計算可能性を考えてみようというのは自然な成り行きというものだ. たとえば \(B\) が \(A\) にクリーネ帰着可能 (Kleene reducible, \(B\leq_KA\)) のときはどうだろうか.

クリーネ帰着可能性の定義もまためんどくさいものなのだが, 再帰理論の泰斗S.C.クリーネの創始した型2の対象の計算論の意味で \(B\) が \(A\) と \({}^2E\) (\(\mathbb{N}\)上の存在量化子に相当する) と 1個の実数パラメータとから計算可能であるということを意味する. 条件 \(B\leq_KA\) は \(B\) がボレル可測関数のもとでの \(A\) の逆像であるという条件よりは少し弱いが, \(B\in L(A,\mathbb{R})\) よりは はるかに強い. 特別な情報を何も持たないトリヴィアルな集合(たとえば空集合)へクリーネ帰着可能な集合のクラスはボレル集合全体と一致する. 各自然数 \(n\) について第\(n\)レベルの射影集合のクラス \({\mathbf\Delta}^1_n\) は関係 \(\leq_K\) のもとで左向きに閉じている一方で, ウッディンの意味で空集合から計算可能な集合のクラス \(\mathcal{P}(\mathbb{R})\cap L(\mathbb{R})\) は射影集合全体のクラスよりもうんと大きいのである.

そうすると, 関係 \(B\leq_KA\) がuB性を左向きに保つという仮説は「いくらでも大きいウッディン基数の存在」というウッディンの条件よりは素のZFCのほうに近いと思われる. だがもちろん本当のところはまだわからない. この仮説はZFCから証明できる(仮説でなく定理である)のだろうか. あるいはそうでないとしたら巨大基数公理の階層のなかでのこの仮説の位置づけはどうなっているだろうか. いまのところ正解を知らないけれども, 型2の対象の計算プロセスをあらわすジェネリック拡大モデルにおける計算木 (computation tree) の基礎モデルにおける名前の成り立ちを 調べればわかるんじゃないかという気がしている. ただしこれはひょっとしたら基数を潰す強制に対応する位相空間 \({}^\omega\lambda\) あるいはそのコンパクト化の上へのクリーネ流の計算論の移植なんて力業を必要とするかもしれない.

とはいえ, 最初に言ったウッディンの結果だけでは関係 \(B\in L(A,\mathbb{R})\) が uB 性を保つという仮説の強さが正しく見積もられたとはいえないな. 無理数空間 \({}^\omega\mathbb{N}\) の定義可能な部分集合間の帰着可能性 (ワッヂ帰着可能性, クリーネ帰着可能性, そのほか) については, 強制法とも関連づけてもう少し調べてみる価値がありそうだ.

もちろん この問題の答えがわかったところでウッディンの理論そのものへの貢献はほとんどないだろうが, uB集合の階層の理解に資するものはあるに違いない. この観点からいうと, たとえば すべての射影集合はuBである という仮説の強さを調べる作業と比較しても遜色はなかろう.

とかなんとかハッタリを言いながら話は変わる. 今日は職場の数学談話会で二人のゲストの先生に講演していただいた. テーマはそれぞれ非線形偏微分方程式と多重ゼータ関数だから, どちらも計算まみれの数学で, 俺のやっているような計算のない形而上数学とはある意味で対極にある. だが 俺の粗雑な頭で理解できた範囲だけでも とても面白く刺激的だった.

夕食は, うちではすっかり定着した感のある 牛スジを煮込んだ牛丼. 付け合せはハーブソルトで塩もみしたキュウリと フライパンで炙ったシシトウ. 歩数計カウント11,960歩.


2009年9月8日(火)くもり

明日には県立図書館に本を返しに行かないといけないので、それまでに 『フレーゲ入門』(勁草書房) を何とか読み終えたい。K.リーゼンフーバー『中世思想史』(平凡社ライブラリー) を読み 世界思想社版『中世哲学を学ぶ人のために』 を読んだ印象が薄れないうちに、山内志朗『普遍論争』リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』(どちらも平凡社ライブラリー)も読んでしまいたい。先月には 河合敦『早わかり日本史』(日本実業出版社) を読んだけど、一緒に買った 宮崎正勝『早わかり世界史』(日本実業出版社) にはまだ手もつけていない。そういえば 廣瀬健先生の『計算論』(朝倉書店) も読みかけだ。11月中旬に fine structure theory の大家 Sy D. Friedman 教授が来日してミニ講義をする。それまでにちょっとくらいは予習しておきたい。fine structure theory の定番テキスト Constructibility (Springer-Verlag) の著者 Keith Devlin さんは今では集合論ではなくコンピュータサイエンス寄りの言語と思考にかんする研究をしていて、一般には数学啓蒙書の著者として知られている。彼の Goodbye, Descartes --- the End of Logic and the Search for a New Cosmology of the Mind (John Wiley&Sons) は、買うだけ買ってまだ読んでないけど タイトルからして気になって仕方がない。11月中旬には Paul Larson さんも来日して Ω-ロジック についてこれまたミニ講義をする。これまたそれまでにちょっとくらいは予習しておきたいから、 Logic Colloquium 2000 記念誌 に収録された W.H. Woodin の論文も読み終えてしまいたい。あれも読まにゃならん、これも読まにゃならん。うおー。

声にならない叫び声をあげつつ、歩数計カウント8,348歩。

Thank you くまさん
近所の美容院(本日休業)の前で
くまさんが愛想してくれた


2009年9月7日(月)はれ

午後、あるお坊さんがテレビで話していた。重いうつ病になって自殺しそうになった人たちを立ち直らせる活動をしているという人だ。それを観て、俺も自分の殻に閉じこもっていないでもっと外の世界に興味を持とうと思った。

人は誰しも他の人々との関係の中ではじめて生きる意味を見出す。自分の元は他人である。

自分が夢を見ているのでなく現実を見ていることを、どうすれば証明できるだろう。自分が正気であることをどうすれば証明できるだろう。

正気で現実を見ているのでないとしたら、たとえデカルトのように「わたしは在る」と叫んだところで あまり意味がなかろう。

そして、自分が見ているものを現実だと保証し自分が正気であることを承認してくれるのは、いつだって他者だ。

誰かが「たしかにそうだ」と言ってくれることではじめて自分は自分でいられる。その意味で、生きることの意味はいつも他者との交流の中にある。

それに、自分のことを これこれこういう人間であると自己認識するさいには必ず 他者に通じる言葉を使って 他者にも適用可能な概念に自分を帰属させる。たとえば、短気であるとか 数学者であるとか やせ型であるとか ヒゲが濃いとか かに座生まれであるとか。いままさにこみ上げてくる喜びとか怒りという感情にしても、それを自己認識したとたんに 他の人に伝達可能な 表現された喜び/表現された怒り に変わってしまう。こうした 自己認識あるいは自分語りは もちろん ほかならぬこの自分自身を特徴づけようとしてなされることであるけれども、それは同時に 「すべてのひとびと」を 分類するための整理箱に自分自身を入れることである。われわれは他のすべての人々と共有する概念の空間の一隅に自分を位置づけることで自分自身を理解する。その意味で、自分の元は他人である。他人があって始めて自分が何ものであるかがわかる。

自己が独立自存の確たる実体だなどという考えは妄想だし、そうでなければならぬと信じ込んで ほんとの自分 であろうと努力するのは迷いだ。冷静に考えればわかることだ。本来、俺の生きる場所は俺の外にしかない。さっさと外に出よう。

歩数計カウント10,702歩。


2009年9月6日(日)はれ

一昨日の話の続き。初心者向けにRubyプログラミングの手ほどきということで真っ先に思いついたのは、オライリーから出ていた『初めてのプログラミング』という本だ。たしか持っていたと思ったのに、いつの間にか古本屋行きにしてしまったらしく手元にない。書店にもないのでどうしたものかと思ったが、調べてみるとオライリーのWebサイトで PDF版の eBook を買えるというので、『JavaScriptクイックリファレンス第5版』 と一緒に早速購入。うれしいことに、価格も冊子版より若干安くなっている。

お昼前に【息子】の靴を買いにフジグランに行き、そこで昼食。その後、コミセンの図書館へ行った。妻子が借りていた本を返して別のを借りるのに付き合ったが、俺は家にある本を読むことを優先しなきゃと思ったのと、突如眠気に襲われたこともあって、何も借りず。帰宅後、2階の自室に枕を持ち込んでグーグー昼寝2時間半。


2009年9月5日(土)くもり

先日『中世哲学を学ぶ人のために』(世界思想社) を読むペースを20分タイムトライアルで計測したけれど、それを読み終えて次に野本和幸『フレーゲ入門 --- 生涯と哲学の形成』(勁草書房) を読むときも、20分で200行というペースが保たれている。『中世哲学…』はページあたり19行の1行あたり47文字、『フレーゲ入門』はページあたり18行の1行あたり44文字。『フレーゲ入門』のほうが文字が大きく見えるのは活字の組み方の違いか。読みやすい組版のほうがペースが上がるかと思ったが行単位ではほぼ同じ数字になった。ということは、読書ペースに大きな影響を与えるほどには組版に差がなかったか、あるいはひょっとすると文字を追う目の動きが律速段階になっているのかも。さらにもうすこし調べてみよう。


2009年9月4日(金)くもり

ピアノのレッスンでは今回も余計な力を抜く必要を痛感。

レッスンの帰りに書店に寄って、Ruby を素材にしたプログラミング入門書を買って帰った。

プログラムが書けるようになれば、仕事が楽になるんじゃないかと妻が 自分のブログ で言っている。複数のテキストファイルから抽出したデータをちょっと加工して書式を整えてどうたらこうたら、というのは、awk とか grep とか sort とかのフィルタ系ツールが使えれば簡単に済む話のようなのだけど、Windows 環境では複数のテキストを一個のファイルにまとめるという作業ひとつでもバカバカしいくらい面倒だ。5つくらいのテキストファイルなら「メモ帳」で開いてコピーしてペーストすりゃしまいだが、妻の仕事がらみのデータとなるとあっというまに数十数百のファイルを処理する必要に迫られるに違いない。

まさにこの「複数のテキストファイルから抽出したデータをちょっと加工して書式を整えてどうたらこうたら」という作業を手っ取り早く済ませるために Perl という言語がある。これなら Windows 環境にも移植されている。あるいは Ruby でもいい。どちらかを覚えれば妻の作業はだいぶ省力化できるはずだ。俺がそう言ったら 妻は「パールとルビー、どちらがあたしに似合う か・し・ら (猛毒)」なんて さっそく冗談にしている。Perl は俺がこのサイトの CGI スクリプトを書くのに利用したり、いろいろ世話になっている言語だけど、書いているとどうしてもコードがごちゃごちゃしてしまう気がする (というのは偏見で 実際は 俺がきれいなコードをPerl で書けないだけなんだろう)。いっぽう Ruby だったら俺もこれから勉強してみたいと思っているところだ。

Rubyプログラミング入門 表紙 初めてのRuby 表紙 7ひきこぐまのかくれんぼ 表紙

で、今日買った本3冊。写真左から、まえだひさこ/清水智公/土屋一樹『Rubyプログラミング入門 --- はじめてのプログラミング、はじめてのRuby』(BNN新社)、Yugui『初めてのRuby』(オライリー・ジャパン)、たかはしかおり『7ひきこぐまの かくれんぼ』(ひさかたチャイルド)。プログラミングに関してまったくのヴァージンである妻には「Rubyプログラミング入門」を読んでもらい、俺はそれでは少しまどろっこしいので「初めてのRuby」を読むことにする。

子供が寝静まったころあいに「7ひきこぐまの かくれんぼ」を見せたら、クマ好きの妻は「幸福度max飽和状態」になって、そのまま すやすや寝入ってしまった。わが妻みろりは、家では子供と夫に振り回され、大学院生として入学したはずの大学では教授の教育業務の負担軽減のための安価で使いやすい労働力としていい具合にコキ使われ、ハードな日々をボヤキながらも、授業は本当に楽しいらしく、その話の時には目が輝いている。それこそパールかルビーのような輝き (だけど残念ながら妻の目は小さい)。そんな妻の心がけには頭が下がるが、そうでなくても 統計手法やらなにやら勉強せにゃならんことだらけの妻が プログラミング入門書をひもといてテキスト処理の技能を身につける日は、はたしてやってくるだろうか。

科学基礎論学会に無事入会。歩数計カウント16,068歩。


2009年9月3日(木)くもり

朝10時半ごろ外を歩いていると路上に大きな芋虫がいた。体側に目玉のような模様があってちょっとグロテスクだが、ピンと立った尻尾を振りながら這う姿にはちょっと愛嬌がある。どこから来てどこへ向かうのか、悠々と歩道を闊歩していたけれども、世の中にはこういうムシケラを踏み潰すのをなんとも思わない人たち (というよりそういうことをむしろ爽快だと思う種類の人たち) がたくさんいるので、もう少し人目につかないところへ移動させてやろうと、捕まえて草むらへ運んでやった。

イモムシ
大人の手の指より少しい大きいくらい
目玉模様がグロい

ころっと話は変わる。7月に引っ越したレンタルサーバでは、アクセスログを直接見ることはできないが、アクセス解析結果のページが思いのほか使いやすいのであまり困らない。いちばん困るのは SSI (サーバサイドインクルード) が使えないことだ。契約種別によっては使えるようになるらしいけれども、価格に比して容量および速度が大きいことがサーバ引越しを決めた理由だったわけだから、まあ文句は言うまい。

さて、アクセス解析の検索ワードをみていると、世の中の人が何を求めてわがサイトにやってくるのかはまったくわからないということがよくわかる。この「てなさく世界」に全体の基調というべきテーマがないせいではあろうけど、それにしても、思いもよらないキーワードで検索して来る人がけっこういるものだ。

たとえば、8月中圧倒的に多かったのが、ハートマンのリュックサックに関する引き合いだ。8月2日以後の十日間ほど、このキーワードで検索してアクセスする人が妙に多かった。とくに初日は100件くらい引き合いがあった。俺は福岡のポルコロッソ で買ったHerzのリュックサックを愛用しているし、妻は伊予鉄高島屋だったか三越だったかで買ったgentenのレザーのリュックサックを持っているが、ハートマンについては 三越でバッグを見て惹かれるものがあったが買わなんだと 2003年5月の旧「て日」に ひとこと書いただけだ。このサイトでハートマンに言及しているのは本当にその一箇所だけなのに、このアクセス数はどうしてことだろう。旧サーバでも検索ワードの追跡はしていたけど、これだけ集中的に同じキーワードでの引き合いがあったのは初めてだ。いったいハートマンに何があったのか。世情に疎い俺にはわからない。

だいいち、三越でハートマンのバッグを見かけたその年の誕生日に妻がHerzのリュックサックをプレゼントしてくれたもんで、書いた当人はハートマンのことなんかすっかり忘れていた。

アルフレッド・リードやアストル・ピアソラの楽曲のタイトルに midi とか mp3 というワードを添えて検索してくる人も時々いる。わはは。そんなおあつらえ向きに虫のいい話は、このサイトに限ってはありませんぜ。

笑ってはいけないのかもしれないが 「バリウム飲んで具合が悪い」 とか 「明日は胃ガン検診の結果 胃ガンだったらどうしよう」 とかで検索して来てくれた人もいた。本当に、お役に立てず申し訳ない。

「高校生 反省文 著作権フリー」 ... 最近では反省文に©マークをつける高校生がいるわけね。

「星の王子様 読書感想文」 ... おかげで てなさく読書欄 (かつてのメインコンテンツ) を再開する意欲が削がれる。

「妻 しんどそう」 「二歳 微熱が続く」 ... ネット検索してないで医者に連れていってあげてください。

もちろん、俺のサイトが意味のある情報を提供できる場合もある。また、既に閉鎖してしまっているページへのアクセスがあれば残念な気持ちにもなる。妻がかつて 妊婦さんのために カルシウムを多めに取る工夫のいろいろを紹介していたページがあった。サイト全体の更新が数年止まっていたので思い切って削除したのだけど、こうしたコンテンツには、いまだに引き合いがある。どこかにバックアップがあるはずだから復活させようかな。

歩数計カウント12,274歩。


2009年9月2日(水)はれ

職場の隣の中学校では2学期が始まったと同時に運動会の入場行進の練習をガンガンやりはじめた。昨日までは窓を開けておけば風も通ってエアコン要らずだと思っていたが、これからしばらくはそうもいくまい。

携帯電話のたとえば EZweb などでこのて日々を読むためのCGIスクリプトを書いてみた。元データは月ごとに一ページのHTMLファイルになっているが、これでは携帯電話の小さなメモリでは読み込みきれないことがあるし、インライン画像もお構いなしに貼っていると携帯電話で表示できない。そこで、日付ごとに切り出して画像とリンクを削除して、それなりに形式を整えて送信するようにした。一応、前の日あるいは次の日へのリンクはついているが、現在の単純な機構ではもしも日記をサボった日があるとエラーになってしまう。それは改善すべきだし、さらに日付を直接指定する機能もつけたいが、それはまあ、またそのうちということにしたい。

URL は http://tenasaku.com/cgi-bin/tepipi-mobile.pl です。ひとまず、URLで日付指定できます。たとえば2009年7月15日であれば、

http://tenasaku.com/cgi-bin/tepipi-mobile.pl?y=2009&m=7&d=15

にアクセスすればよろしい。

ここまで書いてアップロードしてから、少しだけがんばって日付直接指定の機能も実装したよ。

夕食は谷町の大岩。ラーメンの大盛りが ほんとに大盛りで、それを一鉢食った後で妻や【娘】の食い残したぶんも食ったら さすがに満腹でちょっと苦しかった。


2009年9月1日(火)はれ

さて9月、長月である。長月といっても、7月8月が31日あったのに9月は30日しかない。それでも月の古名が長月であるのは、旧暦の9月が現在よりおよそひと月ばかり遅く、その頃には秋分も過ぎて秋も深まって夜が長い、そのためであろう。

最近少しこりだした百人一首。長月といえば いま来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかも という歌がある。この歌は 《そのうち逢いに行くよなんて言われたから待っていたら9月も半ばを過ぎて下限の月が昇る頃になっちゃったじゃないのよ もぉっ》 というくらいの意味なのだそうだ。もっと秋が深まると 小倉山峰のもみじ葉こころあらば いまひとたびの御幸またなむ 《小倉山のすばらしい紅葉よ、こんど(みかど)がお越しになるまで、どうか散らないで待っていておくれ》 というのがある。それじゃあ、藤原定家やそれ以前の歌人の時代には「いま」というのは「現在」ではなく「そのうち」という意味だったのだろうか。だけど同じ小倉百人一首に いまはただ思ひ絶へなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな 《このさいきっぱりとあきらめますという一言だけでも、あなたに直接お会いしてお話できないものか》 という歌があり、ここでは「いまは」が「過去と違って現在ではもう」という意味で使われていることは間違いない。逆に、現代でも そんなところでホタエていたらいまに怪我するよ (これ, うちで毎日のように子供に言う) なんて表現で「そのうち」の意味で「いま」を使っている。そうすると、古代と現代でさほど使い方が違うわけではなさそうだ。

ここで例によって俺はまた突飛なことを言う。「いま」という言葉には「今」のほかに「居間」という意味があるが、これは単なる偶然による同音異義ではないような気がする。「居間」はその字のあらわすとおり自分たちが普段の生活時間を過ごす《空間》であるのに対して、「今」は ここでこうして話している自分たちが居る《時間》だろう。話し手と聴き手の双方が留まっているまさにその時間位置が「いま」なのだ。だから「あなたのその状態が持続しうる程度の短い期間」という意味で「いま」という表現が使え、いま来むといひしばかりに とか いまに見てろ が意味をもつわけだ。うちの居間 (すなわちリビングルーム) が狭くて散らかっていながらもそれなりの空間的広がりを持っているのと同様に、日本語の「いま」は短いながらも幅のあるもののようだ。(その点、物理学的な時刻 t とは異なる。)

だけど 時間的な現在をあらわす「いま」という あまりにも基本的な単語が 語源論的に《い》と《ま》に分節された複合語だなんてことは ちょっと考えにくいので、例によってあまり本気にしないでほしい。とかなんとか言いつつ、歩数計カウント9,701歩。