て日々

2008年11月


2008年11月30日(日)はれ

Web日記を再開する直前の先月18日に、【娘】がドアに足先をはさんで救急病院で手当てを受けた。大した怪我ではなかったけど。待合室にらくがき帳(B5サイズの更紙メモパッド)とボールペンを置いてレントゲン室に行ったら、あとから来た妻が【息子】のリクエストに答えて絵を描いた。下のインライン画像はその一部。

ヘタ絵の一部
(全体図:1205×1600ピクセル, JPEGファイル, 256Kbyte)

もちろん上手な絵ではないが、他の誰にも描けない独特の味があって、俺は妻みろりの描くヘタ絵が大好きだ。電子メールなんて便利なものが普及していなかった独身時代には、妻はヘタ絵と文章で身辺のことを綴った「ヘタ絵日記」を友人たちにFAXで送って(当時、妻の友人には、睡眠も仕事のうちの三交代勤務の看護士さんが多く、休日といえどもおいそれと電話がかけられなかった。それで相互の連絡のためにFAXが必須だったそうだ)、大好評を博していたらしい。誰もが携帯電話のメールアドレスを持つようになって世の中便利になったが、この味はケータイのメールではとても伝えられない。もっと(うまくなってしまわない程度に)いろいろな機会に描いてくれたらいいのにと思う。

4歳の【息子】もママが描く絵が大好きで、描いてやると喜んであれ描いてこれ描いてとリクエストしてくると妻は言う。まあ、それはママがリクエストに答えてくれる、そのやりとりが楽しいってことなのだろう。いっぽう、だいぶ自分で好きなように絵が描けるようになった【娘】は、あまりそういうリクエストをしなくなったそうだ。お絵かき大好きの【娘】には、これからもっともっといろいろ描けるようになってもらいたい。だけどそれはそれとして、俺は「インターネット版:みろりのヘタ絵日記」の創刊を、強く望むものである。


2008年11月29日(土)くもり

なんとはなしに沈んだ気分で街に出かけた。やるべきことはたくさんあるのに、気力が足りないせいで何も成し遂げられず、あらゆるものに置いていかれる。それが俺の人生だと思えた。本屋が開く10時まで少し時間がある。喫茶店でチーズトーストを食いコーヒーを飲みながら、カードの支払い金額などを確認していると、となりに座ったおばさま二人が、年金がなんちゃらと世間話を始めた。このひとたちは本当にどうしてこう愚痴っぽいんだろうと、自分のことを棚にあげて不愉快に思った。気になってかなわんので喫茶店を出たが、もう少し時間がある。千舟町をぐるりと回り、はなまるうどんで「しょうゆうどん小189円」を食った。それで10時をまわったので、明屋、丸三、ヤマハ、紀伊国屋とみてまわる。買いたい本はたくさんある。が、自由になるお金も少ないし、読む力も落ちている。結局、紀伊国屋で石井茂『ハイゼンベルクの顕微鏡』、久石譲『感動をつくれますか?』ほか数冊を買い、電車で帰ろうと駅に向かった。

駅前では中学生たちが赤い羽根共同募金のボランティア活動をしている。大きな集団からはずれたロータリーの外周に立っている女子二人に、財布に残った数十円の硬貨を献じた。読者の皆さんも騙されたと思ってやってみてください。心の底から湧き出るハッピーな気分と、自分と相手の両側のぶんの微笑みが、ポケットのほんの少しの小銭で買える。同じ夢を買うなら、宝くじよりこのほうがよほどいい。

赤い羽根共同募金

たったそれだけのことで、すっかり明るい気分になって駅に着いた。ベンチで電車を待ちながら、こう考えた。仲間どうしでふざけあっている中学生たちはただのアホガキに見える。いっぽう、献金者に「ありがとうございます」と微笑む姿は、もう天使そのものだ。だが、どちらが本当の姿かなどと聞いてはいけない。彼女らも、俺と同じく、つねにすでに「気分」(『存在と時間』的にむずかしく言えば「情状性」)の中に投げ込まれた存在であり、時々刻々の状況を離れた真の姿などはないのだ。

だから、人を判断するときは、あくまで適切な文脈、とくに、判断する自分とのしかるべき関係という文脈の中に、相手を置いてから判断してやるべきだ。礼儀としても、認識の方法論としても、そうすべきだ。そして、誤解を避けるために言っておくけど、今朝の俺がおばさまたちを不愉快に思ったように自分の気分だけで相手を判断しろといっているのではないし、ましてや、自分の損得で相手を評価しろと言っているのでもない。そうではなくて、たとえば、仲間同士でアホをやっている子供たちを、通りすがりに見かけて「アホがおる」と判断してはいけない。むしろそういうときは何も判断を下すべきではない。そうしないと、結局は自分の中にある先入観(心理学者の言う「イマーゴ」)を投影して、先入観を再確認するだけで終わる。そういうことを言っているんだ。

もちろん、中学生や高校生が大人たちについてなにかを判断するときにも、同じことが言えるわけだから、今日の募金活動をひとつの例として、子供たちを早くから(たんなる保護観察の状況でなくて)正しい社会的コンテキストにおいてやることが、子供たちがまっすぐ育つことにつながっていくに違いないと思う。

財布に残った数十円でこれだけのことが学べたんだから安いもんだ。っていうか、少なくてごめんよ>女子中ペア

午後はコミセンで開かれている学会に妻が出向いているあいだ、子供らにコスモシアター(プラネタリウム)のスライドショーを見せたりこども館の遊び場で遊ばせたりして過ごした。


2008年11月28日(金)くもり

来月の13日から4回にわたって、花園町のマツヤマ楽器でミニコンサートが開かれる。俺にもお誘いがかかった。こちとら、言ってみりゃあカラオケの延長線上でやってるようなもんだから、たとえ下手でも聴いてもらいたい。出番がないところに音楽はない。恥知らずにも出演することにした。といっても、もちろん楽器店としては音楽教室の宣伝と楽器の販促という思惑があるわけで、あまりアホなこともできない。妻の大好きな中村由利子の曲と、時間があればもう一曲、昨年の発表会で弾いたワルツを弾くことにした。今日のレッスンで久々にショパンのワルツを弾いたが、やっぱり手首や肘が上がり気味で、おまけに表現にも妙な癖がついている。これから4週間で、このあたりの悪い癖を取り除く練習をしないといけない。

2000年のLogic Colloquiumの論文集が図書館の検認と登録が済んで戻ってきた。ゲーデル晩年の "連続体濃度はアレフ2だ" という予想を裏付けるウッディン(H.Woodin)の近年の研究の論説が載っている。ゲーデルとコーエンが半世紀近く前に確立した "連続体仮説の独立性" にもかからわず、いかなる理由で「本当の連続体濃度がわかった」とウッディンが主張しているのか。仕事上の自己紹介では、世を忍ぶ仮の姿にせよ集合論を専攻していると言っている以上、俺がこれを読まずに済ますわけにはいかない。現在の集合論研究の世界的リーダーはこのウッディンとイスラエルのシェラハ(S.Shelah)だが、この二人の哲学的背景は対照的(ウッディンはかなり明瞭に実在論的、シェラハはどちらかというと実証主義的)で、そのあたりも面白い。


2008年11月27日(木)あめ

虹の実物がどこにあるかって考えると、先日の「見る人がなくても色があるのか」と同じところに迷い込む。水滴が太陽の光をスペクトルに分ける効果は、水滴と太陽の光があるところには必ずあり、とくに大きな規模でそれが起こったとき、空にカラフルなアーチがかかったように見える、それを虹という。虹は、実際に空にアーチがかかったわけでなくそう見えるだけで、実体がないから、人(でなくでも犬でもカメラでもいいけど、なんらかの視覚の主体)が見て、「あ、虹だ」と思うということがやっぱり必要だと思うのだ。

と、ここまで考えたところで、「誰も見ていなくても虹はかかっている」という虹の実在論が、湯気や雲のような水滴と太陽の光があるところならどこでも、目に見えないくらい小さな虹が数え切れないほどたくさんできているんだという考え、いわば「空は小さな虹でいっぱい」というメルヘンチックな考えを生み出すことに気がついた。これはこれで、なかなか素敵な考えではある。

さてさて、きょうはかつての宇宙科学研の所長だった西田篤弘先生が愛媛大学で講演をするというので聴きにいってきた。太陽の生み出す希薄なガスの流れ(いわゆる太陽風)と地球の磁場の相互作用が生み出すいろいろの現象、いちばんわかりやすい例はオーロラだけど、そういう磁気現象を人工衛星を使って調査するプロジェクトのリーダーだったのがこの西田先生だ。講演は大変面白かったし、学生さんたちが熱心に質問をしているのが印象的だった。いまの学生さんたちも決して、飽食社会の商品の海を泳ぎきることに腐心している連中ばかりではないのだ。ほんの少しだが希望がもてる経験だった。そして、個人的には、科学は理屈だけでなく、事実を集める実験や観察の努力に支えられていることを再認識するいっぽう、電磁気学やらなにやら物理学の基本をちゃんと勉強しなおさんといかんと思った。

その後、小雨のなかを萱町商店街まで歩いてキムチを買い、古町から電車で帰宅。妻が子供たちを連れて帰る途中だと連絡があったので、娘に鍵を開けさせるべく玄関前で待機。


2008年11月26日(水)はれ

唐突で申し訳ないが、虹ってやつは、あれはどうも偽善者である。その証拠に、必ずといっていいほど、雨が止んで、空が明るくなってから出てくる。いままでどこに行ってやがったんだと言いたい。雨風のさなかにこそ、あるいは暗闇の中でこそ、ひとは励ましを必要とするし、希望のメッセージはそういう時にこそ、そういう人にこそ、届けられるべきだ。それなのに、雨風が収まって陽光が戻ってきてから、思い出したようにノコノコと、格好ばかり派手に出てきてからに。空が明るくなりゃあ、お前さんなどことさらに出てこなくても、誰だって希望は持てるんだってば。(虹の野郎は、きっと双子座生まれに違いない・・・)

虹については、もうひとつ言いたいことがある。みなさんいい加減「虹は七色」という先入観で絵を描くのをやめにしませんか?だって、色と色のあいだにご丁寧に黒で境界線まで引いてある七色の色帯は、どうみたって情報が多すぎて、ちっとも美しくないんだもん。実物を虚心に見ればわかるとおり、虹ってものは、もっとぼんやりとしたものですよ。(いや、しかし、虹の「実物」ってどこにあるんだろうね・・・)

何の役にも立たずフラフラしていて偽善的でいい格好しいなのは同じなのに、虹と違って登場するだけでは誰にも喜んでもらえない。ふむ、俺と虹の違いって、何なんだろうなあ・・・(きりがないので以下省略、といいつつ次の日に続く)


2008年11月25日(火)はれ

妻は、娘に「きょうはママがお仕事だから、学校にお残りして、それから自分で電車に乗って帰って来なさい」と言いつけたのを忘れて学校の最寄り駅まで迎えに行ってしまい、入れ違いに帰宅していた娘にさびしい思いをさせた。これで二度目である。仕方がないので、娘にも家の鍵を持たせることにしたが、それはそれとして、連絡のとりようも考えないといけない。

今朝は「母方のばあちゃんの家すなわち母の実家を訪ねようとして、町のあまりの様変わりにとうとうその場所すら見つけられず」という夢を見た。母の故郷である彦根には、ばあちゃんが亡くなって以来30年のご無沙汰で、もうなにがどうなっているか見当もつかないが、子供たちにひこにゃんを見せてやりたい気もするので、うちの【娘】【息子】に姪のりこポン甥のあっくんを引き連れて、そのうち行ってみたいとは思う。


2008年11月24日(月)/振替休日あめ

なんなんだこのコロコロ変わる天気は。

きょうもラッセルの『神秘主義と論理』から引用・・・

宗教には、そしてまた、世界と人間の運命とに関するあらゆる深刻な見解の中には、服従、すなわち人間の力の諸限界の自覚、という要素がある。近代世界は、急速に物質的成功をかちえて、進歩は無限に可能だという不遜な信念を抱くに至ったため、この服従の要素において若干欠けるところがある。「己の生命を愛する者はそを失わん。」あまりにも自信に満ちて生命を愛するがために、生命に最高の価値を賦与しているところのものを、生命自らが失いはせぬか、という危険が存在する。宗教が行動に関して説く服従こそは、科学が思惟に関して教えるところのものと、精神において本質的に同一である。そして科学に勝利をもたらした倫理的中立性は、この服従の帰結なのである。

世界に自分の希望をおしつけて、自分の夢はかなえられねばならない、と思い込むような考え方に対する警告なのだが、これまた耳が痛い。

それはともかく、午後の船で松山に戻った。義母も病院へ戻り(きっと正式の退院も近いのだろうけど)、義父はいまごろがらんとした家でギャップの大きさにあきれていることだろう。置き土産にザ・ドリフターズの『8時だヨ!全員集合』ハイライトDVD3枚組を残してきたので、観て下さいな。


2008年11月23日(日)/勤労感謝の日くもり

バートランド・ラッセルの『神秘主義と論理』(江森巳之助訳, みすず書房)にこんな言葉があった。

われわれの理想は、現実世界との結婚を通じてのみ、果実をみのらすことができる。離婚すれば実は成らない。しかし、事実に立向かうことを恐れたり、現実世界が己れの欲求と一致することを前もって要求したりするような理想は、現実世界との結婚を全うすることはできない。

なんというか、ちと耳が痛い。

妻の実家で皆様の日頃の勤労に感謝して、俺が昼飯のラーメンを作った。スープは俺のオリジナル(という名の出たとこ勝負)だが、麺は出来合いのを買ってくるしかない。なんだか学食のラーメンみたいな仕上がりになったが、幸いそれなりに好評だった。


2008年11月22日(土)はれ

予定どおり海を渡って妻の実家に行くのだけど、なにせ一人では朝飯も思うに任せないので(というのも、たった一人のために食材を使い手間をかけて料理する気にならないからだけど)、血糖値が低く調子が出ない。9時半の船に乗るつもりが、気がついたら8時50分だ。あわてて荷物をまとめ、駅に向かうが、途中で寄った農協のATMは俺の口座がある銀行と提携しているはずなのに引き出しをさせてくれない。きっと9時になるまでダメってことだろう。まあ、電車を降りてから銀行に寄ればいいやと思ったけど、そこで毎日欠かさず飲まないといけない薬を持って出なかったことに気づいて、やっぱり家にとんぼ返り。この時点で9時半の船にはもう間に合わない。そして家に帰って薬を確保してから冷静に考えてみると、おととい医者に行ってもらった薬が他の貴重品と一緒に鞄に入っていたのだった。自分のヌケサク具合にいいかげん嫌気がさした。しかしまあ、昨日とうって変わった好天になったことを考えると、べつだん神さまが俺に出かけるなと忠告しているわけでもなさそうだ。


2008年11月21日(金)あめ

明け方ごろ、寝室で、外は雨みたいだなあと思っていた。出勤時は雨は止んでいたが、昼ごろにもドエラい雨風になった。季節の変わり目にはこういうことがよくある。

コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』(和田純夫訳, 講談社ブルーバックス, 2008年)という本を読む。ヨーロッパの科学啓蒙書のレベルの高さにはいつも感服させられる。物理学が「実在とは何か」というまぎれもない形而上学的問題意識の探求として、哲学と密接にかかわりあいながら研究されているようすの記述が印象的だ。それはおそらく、科学研究の故郷ヨーロッパならではの姿なのだろう。日本では、なかなかこういうことにならない。19世紀の後半に既製品としての科学と既製品としての哲学を、既製品としての学校制度と共に輸入し導入したことが原因なのか、そのあたりの事情はよくわからない。自然科学分野では世界のトップレベルの研究者が続々と生まれ、少なからぬ数のノーベル賞受賞者を輩出する国になったにもかかわらず、それが一般市民レベルの文化的豊かさにつながっていかないのだとしたら、残念なことだ。

まあ、それはともかく、量子力学の多世界解釈が注目を集めているらしい。これは、量子力学で言う「波束の収縮」(量子力学では、システムのある物理量を観測すると、システム自体がその観測結果に対応した状態へと瞬時に変化するとしか考えられない、という事態)をどう説明するか、という、観測理論の悩ましい問題に答えるひとつの考え方だ。この説では、世界全体がひとつの量子システムにほかならないのだから、波束の収縮などそもそも起こらないのだ、と答える。まだちょっとうまく説明できないけど、その趣旨はこうだ。ある観測結果が出たあと、系の波動関数ψがその観測結果を固有値にもつ固有関数に「収縮」して見えるのは、その波動関数ψのその観測結果以外の成分と相互作用できなくなった「われわれ自身の波動関数」の特定の成分に、たまたま「われわれ」が乗っかっているからにすぎない。別の観測結果の出た世界とわれわれの世界のあいだで、観測時になんらかの選択が行われたわけではなく、二つの世界はお互いに連絡の取れない離れ離れの状態になっただけで、両者とも現実に存在するというわけだ。「EPRパラドックス」とか「ベルの不等式」に関連する、量子的相関の非局所性は、この多世界解釈によるのが一番すっきりと説明できる。

オーソドックスな「波束の収縮」解釈と多世界解釈の対比が、集合論でいう「強制法」の考え方と「ブール値モデルの方法」の対比に発想として非常に近いので大変面白い。そして、実はこの「ブール値モデルの方法」の教訓をよく検討すれば、これが「多世界」解釈である必要すらなくなるかもしれない。面白い面白い。


2008年11月20日(木)はれ

昨晩遅く、【息子】がえらく大声で泣きわめくので、みなびっくり。【息子】は起きているのか眠っているのかわからない状態でありながら、いやにはっきりと大きな声でなにやら懸命に主張していた。失禁したせいで現実に引き戻されたのか、しばらくしたら落ち着いたが、ありゃいったい何だったんだろう。心配だ。

義母が病気で入院しているのだけど、一時外泊で帰宅するというので妻子が帰省。俺も土曜日には行ってみることにする。


2008年11月19日(水)はれ

しかし一昨日の日記で書いた「合理主義的実在論」という言葉で俺が何を意味しようとしているのか、曖昧だったように思えてきた。たとえばゲーデルはいわゆる「カントールのパラダイス」(集合論の対象領域である、集合全体の世界)の実在を信じていた自覚的な実在論者だけど、一方で時間は非実在だと考えていた節があるとは、パレ・ユアグロウの『時間のない宇宙』を読んで知った。実在論は決して、なんでもかんでも「この○○は実在する」と須賀原洋行の漫画みたいなことを言うものではないのだ。

アインシュタインに至っては、どこがどう「実在論」なのかわからなくなってきた。というのも、自然現象を支配する物理法則が客観的なものだという信念はたいていの理論物理学者に共有されているはずで、アインシュタインの論敵であったボーアやハイゼンベルクといえども、その例外であるとは思えない。アインシュタインとボーアは、物理法則の客観的実在という点においてはお互いに同意した上で論争していたと考えると、問題は法則の先にある何かだということになる。こりゃいけない。もっと勉強しないと。

というようなことを妻を相手に話していると(いつも変な話につき合わせてゴメンよ)、妻も自分も、たとえば「机」というコンセプトのことを、眼前の物体が机であるか否かの絶対的判定基準として客観的に定まったものであるとは考えておらず、ただ、ものを置いたり書類を書いたりが必要であったときにそのような目的に使えるものを見つけ出してそれを「机として使う」ことができる、まさにそのことこそ「机」というコンセプトを理解していることなのだ、という意見であることが判明した。だから、「机」というコンセプトに関する限り、実在論ではない。まあしかし、ものが机という具体物・人工物であるからこそ、このあたりで同意できたのかもしれない。

さて、それはともかく、きょうはどういう一日だったかというと、朝など急に寒くなって、今シーズン初、仕事場でストーブを焚いたのでした。いま現在、建物外壁の塗装工事中で、せっかくの南向きの仕事部屋もブラインドをあけられないんですわ。


2008年11月18日(火)くもり

ある性質について例や反例の有無をいう、論理学で言うところのquantifier (量化)というのは、数学の学生にとってさえ、よほど難しいと見える。これについては、日本語の文法にも多少の責任はある。たとえば「すべてのニワトリが、あるタマゴから生まれた」という文は、「あらゆるニワトリがそこからすべて生まれたところの、特定の一個の、タマゴの存在」を主張しているのか「それぞれのニワトリが、それぞれ一羽ごとに別々に、そこから生まれたところの、ニワトリの数と同じだけの、タマゴの存在」を主張しているのか、曖昧である。しかし、母国語の日常的な語法が成りゆき上どうしても曖昧であるとしても、その曖昧さを除去して論旨を明確にする方法はあるのだから、大学生くらいの年齢となれば、必要に応じてそのように考えあるいは発言することができなければならない。そして、いちいち言われなくてもそんなことくらい、本当に必要に迫られればやっているはずだ。だが教育の場面で実際に学生に何かを書かせると、非常に高い確率でそこがアヤフヤだ。どうしてこうなるのか不思議だが、とにかくquantifierの使用が大学の数学を学ぶ上での最大の関門であるらしいことは、すでにはっきりしている。教える側もよほど注意深く説明しないといけない。

にもかかわらず、論理を実際の使用の場面から取り出して論理学として大学教育の早い段階で教えるという案には、俺は必ずしも賛成しない。いや、もちろん強く反対もしないのだけど、それよりは、大学の数学の導入部分で講じられる微積分や線形代数といった基本メニューのなかで、実際に使用されている論理に受講者の注意を引きつけるよう、講師がじゅうぶんに配慮することのほうが大切だと思う。たとえば、イプシロン・デルタ (微積分の基礎部分で重要になる論法で、quantifierのあからさまな使用の典型例) がわからないみたいだから、じゃあそれは使わずに授業しよう、というだけだと、そのときはよくても、どのみちquantifierなしで4年分の大学の数学を習得することは不可能なのだから、問題の先送りにしかならない。数学の基本用語というレベルの初歩的な集合論 (これの実態はもうほとんど、数学の衣を着せた論理計算なのだけど) を授業しても、やっぱり難しいらしいから、そこへ、それじゃあと論理を教えたところで、学生にとっても教師にとっても、厄介が増えるだけだと思うのだ。

集合が大切だから、論理が大切だから、というのは確かにそうなのだけど、だからそれを取り出しますという要素主義とは逆のアプローチが必要なんじゃないかと思う。というのも、quantifierを読み取れない人に欠如しているのは、実はquantifierを理解する能力ではなくて、自分の使っている言葉を冷静に客観的に吟味する批判精神のほうなのだろうから。そこで、大学数学標準コースからあえて外れて、コンセプト主導でない科目、初等幾何とか初等整数論とかを、つっこんで学ばせるというのではどうだろうか。道具立てが単純でも、深く考えることさえできれば、批判精神の涵養は可能なのではないかと、そこは楽観的に考えたいのだけど。


2008年11月17日(月)くもり

Stewart Shapiro: Thinking about Mathematics(Oxford University Press, 1997年)という本。数理哲学の概説として読めそうだ。前々から買ってあって、仕事場で積ん読されていた。読んでみるとなかなか面白い。だが、やはり語学力が足りなくて、あまりサクサクとは読めないのだった。もっとがんばらねえとな。

俺は最近、ライプニッツ流の数学的世界観が重要な気がしている半面、合理主義的実在論にはやっぱり与しえない気もする。というのも、思惟や言語が「存在」に対して卓越した地位にあるという確信がどうしてももてないからだ。哲学者ではプラトンやデカルトやライプニッツ、現代の科学者ではアインシュタインやゲーデルがこうした実在論の支持者だったみたいだ。アインシュタインはミクロな世界の物理理論が完全なものになれば量子力学に含まれる確率解釈は不要になるという考えを「神さまはサイコロを振らない」と表現したし、ゲーデルも連続体仮説が集合論の公理と独立であるのは集合論の適切な公理が不足しているからだと考えていたようで、これもアインシュタインと似た立場だといえる。筋道を立てて正しく考えさえすれば森羅万象はみなきちんと理解できるという確信がなければ、こういうことは言えないはずだ。

いっぽう、仏教、とくに禅の教えでは、言葉や思慮分別は物事の真のありさまをすぐさま裏切ってしまい悩みや苦しみの原因になると説く。すべては有為転変のさなかにあって互いに依存しあっており、独立自存の実体などはないし、確実なものは何ひとつない。そのことは、ごまかしをせずに見さえすればわかる眼前の事実で、それを正しく見て悩みや苦しみから脱出することが大切なのだ。だから「確実なものは何ひとつない」という主張が自家撞着を起こしていることを表層の論理で指摘したところで何の意味もない。これが「不立文字・直指人心」の教義で、最も極端な反実在論といえる。仏教に強く惹かれるところのある俺としては、だからアインシュタインやゲーデルの主張に全面的に賛成する気にはならないのだった。

いまのところ、実在論か反実在論か幟色を鮮明にしろと誰かに迫られているわけでもないので、もうしばらくあっちへフラフラこっちへフラフラと、迷いながら考えてみようと思う。ひとまず、このシャピロの本と、ヒュームはちゃんと読もう。


2008年11月16日(日)あめくもり

リビングに置かれたビデオレコーダー(2005年6月購入のビクターのDR-MX5)、いつのころからかDVDを再生しなくなっていたのだけど、今朝いじってみたら、なぜだか電源が切れなくなっていた。いままでの経験上、こういうのはハードウエアへの異物混入が原因と推測できる。液体か埃が入り込んだせいに違いないと思って、カバーを開いて中の掃除をした。予想していたとおり、この機材のハードディスクとDVD-Rドライブはパソコン用のものだ。ハードディスクはウェスタンディジタルのATA接続の250GB。DVD-Rドライブは日立のATAPI接続のもの。パソコン用のUSB-IDEコンバータをつないでThinkPadにつないでみた限りでは、ハードディスクはWindowsが認識できるフォーマットではなかったのでわからないけど、DVD-Rドライブはちゃんと動いて、少なくともオーディオCDの再生はできた。ただし、ThinkPadにはDVD再生用のソフトウェアをインストールしてないから、残念ながらDVD再生のチェックまではしていない。掃除をして組み立てなおすと、電源はもとどおり切れるようになったが、DVDはやっぱり再生できない。きょうは時間と気力が尽きたのでその状態で作業を打ち切ったけど、ドライブがイカレているのか、はたまた接触が悪いのか、故障原因が特定できていないので、いずれもう一度ドライブを取り出してパソコンに組み込むとか、逆にパソコンでDVD再生に使っているドライブを代わりにレコーダに組み込むとかのテストをしようと思うのだった。

で、分解してしまってから思い出したけど、このレコーダーは5年間保証に入っていたんだった。あーあ。保証がパーだぜ。

話は変わって、うちにあるLEDとICを組み合わせてクリスマスのイルミネーションを作ろうかと考え中。新しく部品を買うことは(家計に余裕がなくて)できないが、LEDならたくさんあるし、電流制限用の330Ωの抵抗も袋で買ってあるからね。


2008年11月15日(土)くもり

【娘】の小学校の学習発表会的なイベント。体育館が工事中なので教室での発表が主体で、高校の文化祭みたいな趣きだった。どの学年の子供たちもそれぞれ一生懸命に発表していて、盛りだくさんだった。しかし俺ははしゃぎまわる【息子】を抑えるのに必死で、かなりくたびれた。

【娘】を小学校に送ってから、小学校のイベントが始まるまでの一時間ほどの間は、お気に入りのコーヒーショップに席を占め、「月刊数理科学」11月号『物理と論理』に掲載された小澤正直先生の論文を読んだ。量子力学の数学が、古典的な通常の数学を「順序完備な直相補モジュラー束」という抽象的な順序代数構造、いわゆる「量子論理」にもとづいて解釈しなおしたものと考えられる、という大変面白くかつ有意義な研究のレポートだ。小澤先生がそこに書いているように、論理の数学的研究の先駆けとしての、真偽値の代数構造の研究というブールの発想、つまりブール代数の理論が、実際上それだけでは数学的論理学として不十分であるという指摘を認めるとすれば、同じことは順序代数構造としての「量子論理」に対しても言われねばならないと思う。量子の世界の論理学において古典論理学のブールに相当するのはバーコフとフォンノイマンということになるだろう。彼らの先駆的論文から70年が経過して、これから古典論理におけるフレーゲの仕事に相当する研究業績が出現するべきであり、またその上に改めて量子の世界の数学を建設しなおす、ブルバキに相当する研究がなされるべきだ。そうなった暁には、古典論理の真偽値の代数構造(相補的分配束)を「ブール代数」、直観主義論理の真偽値の代数構造(最小要素 0 と "→" 演算をもつ束)を「ハイティンク代数」と呼んでいるように、いま「量子論理」と呼ばれている直相補モジュラー束は、「バーコフ・フォンノイマン代数」という名で呼ばれるべきだ。もっとも、すでに作用素環の位相代数構造という意味で「フォンノイマン代数」って言葉が使われてるから、具合が悪いかもしれないけど。と、まあ以上は小澤先生の論旨でもなんでもない、俺の愚考である。

ところで、ヒルベルト空間の射影作用素の束としての量子論理を真偽値の空間にとった量子論理値集合論はすでに20年以上前に竹内外史先生によって研究されている。小澤先生の論文は、まずこの竹内先生の仕事を順序完備な直相補モジュラー束へと一般化したうえ、バーコフとフォンノイマンの基本的な研究との結びつきを考察するものだ。今後は、いよいよ「量子の世界のブルバキ」になって、量子力学の理論をこの量子論理値集合論で解釈された数学として再構成する方向へ展開することになるのだろう。小澤先生の「それぞれの科学理論には、その対象領域ごとに、われわれの通常の(二値)論理とはべつの、固有の論理がありうる」という論旨の成否と、その哲学的な含意を含めて、これからの研究の動向にも注目していきたいと思う。


2008年11月14日(金)くもり

明け方に妙に怖い夢をみた。けっこう心の奥深いところから湧き上がってくるイメージなのだろう。宗教的なヴィジョンも含まれていたように思う。このところ明け方に冷え込むことが多いのも原因のひとつかもしれない。

ピアノのレッスン。レッスンというより、来年の発表会と来月のイベントで何をするかという作戦会議みたいだった。


2008年11月13日(木)はれ

家の日当たりはいまひとつだが、職場の仕事部屋は南側で大変日当たりがよい。3月から窓側のデスクにパソコンを置いていたが、日が短くなるとともに、日光が部屋の置くまで差し込むようになったので、パソコンにも直射日光が当たるようになった、これではいけないので、パソコンの配置を替えて作業テーブルに置くことにした。その結果、デスクスペースが広くなった。だけどまあ、この話はそれだけ。

Doverの本の話。2005年10月20日の「て日」に《Y.N.Moschovakisの『Elementary Induction on Abstract Structures』や『Descriptive Set Theory』もリプリントしてくれないだろうか。》と書いたのだけど、最近になって『Elementary Induction on Abstract Structures』が本当にDoverから再刊された。しかも14.95ドル、日本円で1,500円という「大変お求めやすいお値段」だ。金のない時期ではあるが、こればっかりは見過ごすわけにいかない。Jechの『Axiom of Choice』もDoverからリプリントされているし、ありがたいことだ。この調子で『Descriptive Set Theory』と、あとF.Drakeの『Set Theory』もよろしくお願いします。Kunenは訳本も出たし、Barwiseの『Admissible Sets and Structures』は数年前に奮発して古本を入手したのでいいのだけど。

勢いで講談社さまにもお願い。山川偉也先生の本があいついで講談社学術文庫に収録されているみたいなので、その調子で『ゼノン、四つの逆理』もお願いします。


2008年11月12日(水)はれ

昨日ああいうことを書いたから今日はすばらしい晴天になった。言ってみるもんだ。

仕事中に、メガネが汚れてるなあと思ってタオルで拭いたらレンズがとれた。知らない間にネジが外れていたのだ。いつからこの状態だったのやら。夕方、銀天街のメガネ屋さんで直してもらった。ついでに久しぶりに明屋書店と丸三書店を見てまわった。面白そうな本がたくさん出ているが、お金がないから何も買えない。銀天街はクリスマス向けの電飾できれいに飾られていた。ちょっと贅沢して電車で帰宅。車内でヒュームの続きを読む。案外おもしろい。帰宅後はヒュームと下村寅太郎を交互に読み、少しピアノを練習する。夕食はエビフライだった。


2008年11月11日(火)くもり

ずっと天気のアイコンが「くもり」で、変更をサボっているみたいだが、本当にずっとくもりなんだから仕方がない。変更をサボっているのは天気の神様のほうだということで。

数日前から David Hume: A Treatise of Human Nature (Dover版) というのを読もうとしているところ。これは、認識論においてかなり重要な著作と思われる、ヒュームの「人性論」の原書だ。数学の専門書以外の洋書を読むのは久しぶりで、4ページそこそこの序文を読むのにまる二日かかったりしているが、がんばれば読めないことはない気がしてきた。さてその序文(Introduction)にこんな言葉があった:

For nothing is more certain, than that despair has almost the same effect upon us with enjoyment, and that we are no sooner acquainted with the impossibility of satisfying any desire, than the desire itself vanishes. (試訳: というのも、絶望がわたくしたちにとって享楽とほとんど同じ効果をもつことは何にもまして明らかでありまして、なんらかの欲望が満たしえないということには、わたくしたちは、その欲望自体が消えてしまわないうちに慣れたりはしないのです。)

哲学(あるいはヒュームによればすべての科学の基礎となるべき人間の学)を究極的な原理の上に建てることが不可能であったとしても、妙ちきりんな仮説を持ち込むくらいなら、調べられるものを調べつくしたあとに残る無知に満足するほうがマシだ。そういう文脈でいっているのだけど、仏様の教えみたいでもあり、いまの自分の苦境を見透かされているような気がしてちょっとドキッとした。


2008年11月10日(月)くもり

朝、学校に向かう電車で【娘】にメモ用紙とボールペンをわたして、ちょっとだけ「書き取り」をやらせた。最初は「さむいあさ」「やきめし」「うどん」とか適当に書かせていたのだけど(けさの朝食は俺がつくった焼き飯だったのだ)、ちょっと長い文章を書かせようと思って「いぬもあるけば ぼうにあたる」というお手本をみせたら、娘は書き取りをせずに犬が電柱にあたってゴチン・アイタタタとなってる絵を描いた。

犬も歩けば棒に当たる

姪の りこポンから【娘】と【息子】に手紙が届いた。りこポンは字がうまい。なにしろ、しっかりものの弟夫婦がきっちり躾けているからな。そこへいくと、うちの娘はゴチン・アイタタタだ。わっはっは。


2008年11月 9日(日)くもり

ピアノ発表会当日。曲は無謀にもショパン『幻想即興曲Op.66』。リハーサルは気分よく弾けたけど本番はやっぱりアガってしまって普段のとおりには弾けない。中間部をまともに弾けたからいいや、と自分を慰めつつ、雑念が多いなあ、もっともっと音に集中しなくちゃなあ、と反省する。しかしまあ、なんというか、スタインウェイのピアノはやっぱりいいですね。吹奏楽をやめたからってこともあって、久々にピアノが楽しいと思えるこのごろなのだが、本番が終わって帰宅して、子供を寝かせながら自分も寝てしまったら、夢でこんどは「数学に呼ばれている」気がした。呼んでくれるものがあるうちが華ってことだろうなあ。

吹奏楽はやめてしまったが、12月7日にアンサンブルをやることが決まっている。来春にはイデウエお姫さまが卒業してしまうから、長らく一緒に演奏してきた4人が一堂に会する機会はこれが最後だろう。タチバナさんが昨年同様「歌のお兄さん」に徹するものとしてトリオの楽譜ばかり用意したが、そうなるとカルテットも一曲入れたい気がしてきたな。とかなんとか言っていたら、妻が「○○センター(もちろんスーパーマーケットではなく、東温市にある公立の医療機関)でもやって〜♪」と言い出した。まあ、スケジュールが合えば考えます。


2008年11月 8日(土)くもり

一日じゅう家から一歩も出ませんでしたとさ。少しピアノの練習をし、少し部屋を片付けたほかは、サボって昼寝をしていた。ごめんなさい。あ、でも来月使うサックスアンサンブルの楽譜は書いたよ。

明日の発表会のあと、12月にも人前でピアノを弾かせてもらえる機会があるらしい。ありがたいことだ。で、今度はクラシックじゃなくて中村由利子の曲にしようかと思っている。どの曲にしようかなと思いつつ楽譜をピレパラポロリンとさらっていると、まだまだ未熟ながら以前よりはちょっとだけ技術が向上している気がしてきた。「うれしいなぁ、やっぱりやっただけのことはあるなぁ」とかなんとか思っていたところへ、妻が急に、子供に向かって「家でパパが弾くピアノが聴けるのは幸せなことよ」という意味のことを言い出したのでますますハッピー。明日の発表会がんばるからね。そして実は、来年の発表会で弾く曲もすでに決めてあるのよ。


2008年11月 7日(金)くもりあめ

ピアノレッスン。明後日の発表会に備えて通して演奏する。まだまだ練習が足りないけど、いまからあれこれジタバタするよりは、きちんと丁寧に弾くことを考えよう。帰り道にコミセンの図書館へ。めずらしくキャメリアホールでなにかイベントやってるなあと思ったら、ポルノグラフィティか誰か来ていたらしい。

図書館では林知宏『ライプニッツ』そのほかを借りた。下村寅太郎『無限論の形成と構造』を読んで、いまさらながらライプニッツの普遍学構想について詳しく知りたいと思っているのだった。


2008年11月 6日(木)くもりあめ

いつもの駅で電車を待っていると、足元にGKさんがいた。この時期の屋外なのでGKさんのいつもの敏捷性が発揮できない。そこで、前に回って写真を撮ることができた。娘と二人で面白がったのだけど、あまり騒ぐと、周囲の(普通の=GKさんを踏みつぶすことをなんとも思わない)人々に見つかってしまう。大きな声でGKさんの名前を呼ばないように娘を制しつつ、そっと去らせてやる。

GKさん
普段見る機会のない、GKさんの顔

娘を小学校まで送り届け、歩いて職場へ行き、夕方には歩いて市民コンサート事務所へ行き、歩いて帰宅。それもこれも、電車賃をケチるためなのだが、さすがにくたびれた。


2008年11月 5日(水)はれ

いよてつ高島屋が早くもクリスマス柄に模様替え。

いよてつ高島屋のクリスマスくまちゃん

夜は市民コンサートの例会。日本フィルの管楽器プレーヤーの木管五重奏。俺はビデオ係。久々にウマさんやレまソと話ができたのがよかった。


2008年11月 4日(火)はれ

下村寅太郎『無限論の形成と構造』を読む。学生だったころに一度読んだと思っていたが、全然読めていなかったに違いない。自分にわかるところだけで「ふーん」って思ってオシマイとか、その程度だったのだろう。まあ、それはいまでも同じかもしれないが。

学生時代に読んだのは1970年代の みすず書房版だが、今回図書館から借り出したのは1944年初版の弘文堂版で、1947年の第3刷となっている。ということは、1945年(昭和20年)を間にはさんでいる。この頃、軍部が確保していた紙資源が民間に放出されたことでちょっとした出版ラッシュが起こり、いろいろな本が争うようにして読まれたとは、木田元先生の自伝などを読んで知っているけれども、これはまさに、その当時の本の現物なわけだ。さすがに古びて状態が悪くなっているが、貴重なものなので、気をつけて取り扱わなくちゃ。


2008年11月 3日(月)/文化の日あめくもり

バザー当日。朝のうち強い雨で心配だったが開店時刻までには天気は回復。【娘】は生まれて初めてお買い物ができてとても楽しかったらしい。【息子】はお気に入りの機関車トーマスのおもちゃが手に入ってごきげん。妻は軽食コーナーのウエイトレスで大活躍。例年150杯くらいのカレーが190杯売れる大入りだったそうだ。おつかれさま。片づけが終わってから、夕食は楽して外食にしたいという妻の希望により、ひさびさに茜屋へ。

「て日々」のロゴを作った。左右の手の形は完全にシンメトリーで同じ大きさなのだけど、黒く塗った左手のほうが大きく見える不思議。


2008年11月 2日(日)くもり

明日は幼稚園と教会の合同バザー。妻はお昼前から3時過ぎまで準備。俺は最初のうちは【娘】をつれて県立図書館へ行き、その後、教会へ戻ってすこしだけ準備を手伝った。図書館ではあいかわらず数理哲学っぽい本を何冊か借りた。ラッセルの『神秘主義と論理』、下村寅太郎『無限論の形成と構造』などなど。

4歳になったばかりの【息子】がそれなりにその場の状況に合わせて「おてちゅだい」できたのが今日いちばんの特筆事項だろう。ただし、準備が終わって一息入れる段になって、食べきれないくらい大きいうえにマスタードが乗っているホットドッグを、食べないくせに手放さないし、コップの水はこぼすし、まあ相変わらずといえば相変わらずなのだった。

月が改まってファイル構成を変更するのにあわせてスタイルシートを別ファイル化。


2008年11月 1日(土)はれ

一日じゅう気分がすぐれず、不機嫌で家族に心配をかけた。ごめんよ>妻

突然だけど、色の話。自動車道路のトンネル内照明などに使われているナトリウムランプのオレンジ色は、あれはナトリウム原子に含まれる電子が、エネルギーの準位の高い軌道から、より安定したエネルギー準位の低い軌道へ移るときに、余分なエネルギーを光として放出しているのだ。塩などに含まれるナトリウムも火の中に放り込まれたらあの色の炎を出す。炎色反応というやつだ。あれはああいう波長の光なのだけど、トンネル内の照明の光やナトリウムの炎色反応を写真に撮って、パソコンの画面に表示させた場合には、コンピュータは赤い光と緑の光を適度にブレンドすることで、その色を再現する。

オレンジのアイコン

というより、おそらく写真がパソコンにデータとして取り込まれた時点で、色は赤緑青の三原色のブレンド比率という三次元のデータに、すでに変換されているはずだ。赤い光と緑色の光を適度にブレンドしたら、オレンジ色に見える。上に掲げたオレンジのアイコンの色は、MetaPostで赤と緑を10対7の割合でブレンドして作ったものだ。いっぽう、ナトリウムランプの色のように、もともとオレンジ色をしている光というものもある。両者は見た目ではなかなか区別できないが、ブレンドされた光は、プリズムという三角形のガラス器具で、成分(スペクトル)にまで分解することができる。太陽の光をプリズムに通すと、きれいな虹色が見える。太陽の光の白色は、ありとあらゆる波長の光がほぼ均等にブレンドされた結果だ。雨上がりに見える虹は、空気中の水滴がプリズムの代わりに太陽の光を分光してくれているというわけだ。見た目にまったく区別のつかない「黄色のスペクトルの光」と「赤と緑の光のブレンド」は、プリズムを通せば区別できる。ブレンドされた黄色の光はあくまでも赤い光と緑の光の重ね合わせであって、プリズムを通せばもとどおり赤と緑のスペクトルに分けられる。いっぽう、黄色いスペクトルの光は、プリズムをとおしても黄色い光のままだ。

プリズムで分光プリズムで分光

昔から、虹は七色だってことになっているが、実際には虹色のスペクトルには色と色の境目はなく、ずっと連続的に色が変化している。それを便宜上7色に分けて名前をつけていますというだけのことで、文化圏によってそのあたりは5色だったり3色だったり一定しないらしい。色は三原色のブレンドで再現でき、赤緑青の三色の比率という3次元データで表現されるが、光に含まれるスペクトルの分布は、連続的に変化している色のどの部分がどれだけ含まれているか、という連続分布だから、実数の区間で定義された関数と同じく、本来は無限次元のデータになっている。ヒトの目は光のスペクトル分布という無限次元のデータを、色という3次元のデータに変換して知覚していることになる。

そこで疑問が生じる。「この世に、ヒトというものがいなくて、目というものがなかったとしても、色というものは、あるのだろうか?」 色は光の物理的属性としての光のスペクトル分布そのものではなく、あくまで知覚されたデータなのだ。見る人がいなくても光はあるということを認めてもなお、色はヒトがモノを見るということを抜きにしては考えられないように、俺には思われる。