て日


2008年6月分


2008年6月30日月曜日

蒸し暑い。夜、萱町商店街の夏越まつりに行く。年を追うごとに規模が小さくなっていってさびしい限り。


2008年6月29日日曜日

表面上はまったく平穏無事な日曜日なのだけど、数学の研究に関して、明け方にちょっと突破口が開けたので、日常生活面での普通の日曜日に数学上の興奮状態が重なってなかなか味のある一日だった。朝食の炒飯と昼食のパスタは俺が作った。昼食は、エリチェで買ったトラパニ風パスタにトマトソースをかけたのだけど、隠し味のアンチョビのおかげでいい感じに「あちら」の味が再現できた。


2008年6月28日土曜日

練習場の都合で吹奏楽の練習が休み。しかし演奏会直後でいろいろの巻きなおしの時期なので運営委員会だけ開催。

イタリアルネサンス期、ヴェネチアの外交官にして思想家として名高いマキアヴェリによると、「ピンチとチャンスが同時にやってくるのが危機(クライシス)だ」ということなので、いまの俺たちの楽団はまさにその状態にあるといえる。しかし、このクライシスを招いた原因のひとつに俺の軽はずみな言動があったという状況証拠もあり、それについては反省せなばならない。


2008年6月27日金曜日

昼間はほとんど寝てばかりいた。


2008年6月27日木曜日

昼間はほとんど寝てばかりいた。


2008年6月27日水曜日

昼間はほとんど寝てばかりいた。


2008年6月27日火曜日

昼間はほとんど寝てばかりいた。


2008年6月23日月曜日

どうにか日常に復帰。なかなか調子が出ず、とんでもない時間に眠くてたまらなくなる。しかしせっかくイタリアまでいって学問的な刺激をいろいろと受けてきたのだから、ひとつ心を入れ替えて勉強を再開しなくっちゃ。


2008年6月22日日曜日

小学校の参観日なので、二週間ぶりに娘を小学校へ連れて行く。午後から、スーツケースを返却に行き、ついでにジャスコでほげほげと時間をすごす。


2008年6月21日土曜日

楽団の定期演奏会。楽器は昨晩の練習のあと会場に置いてあるので、出張に使ったスーツケースに、録音用の機材と衣装を入れてコミセンへ。ゲネプロからすでにアンブシュアが痛い。昨晩の練習でがんばりすぎたのだ。今回は、大学のオーケストラと日程がかちあっている上に、あいにくの天気だ。しかも、自分が直前の二週間日本におらず知人に宣伝できなかったせいで、知った顔がほとんど来ていない。しかし演奏者としては、いまさらそんなことを気にしていても仕方ない。運営上の課題は次回までに再考することにして、一生懸命演奏するだけだ。時差ぼけのせいで休憩時間こそ楽屋で寝ていたが、体力的にキツイことが最初からわかっていて無理のないように本番に臨んだこともあって、小さなミスは多少あったがブチコワシにすることもなく無事に終わった。今回の演奏では、なによりバスクライズミの成長ぶりにびっくり。終演後は、珍しくもウチアゲには行かず帰宅。楽器以外の一切をスーツケースに詰め込むことができたので、帰り道も電車で楽チン。


2008年6月20日金曜日

12時間近く飛行機に乗って成田に着陸。帰りの飛行機でも、窓の外はずっと明るかった。往路では西に向かって飛んでいたので、沈もうとする太陽を追いかけて飛んでいるんだと思い込んでいたが、復路で東に向かって太陽から逃げるように飛んでいるのにずっと外が明るいということは、これはシベリア上空の緯度の高いところ、早い話が北極圏を飛んでいるからに違いない。夏の北極圏には夜がないのだ。こんなことで地球の丸さを実感してしまった。

成田に降り立ったのが午前10時半。ひとまずバスに乗って羽田に行き、チェックインを済ませて11時半。松山行きの乗り継ぎ便は15時45分発だ。さすがに時間が余っているので、秋葉原にいった。秋月電子通商で、AVRマイコンATtiny2313をいくつか買い足し、プルアップ用の10kΩ抵抗と発光ダイオード駆動用330Ω抵抗をそれぞれ100本100円の袋で買う。そのほか、10MHzのクリスタル。電流の測れるデジタルマルチメータ。ハンダゴテのコテ先。ハンダ吸取線。スポンジ。そして、忘れちゃいけないmicroSDカード。

秋葉原では、陰惨な無差別殺人事件の直後だが、メイドの衣装で営業するお姉さんたちも自転車タクシーも、普段と変わらない。違いは、おまわりさんがすこし多かったことと、歩行者天国でなくなったことくらい。

夕方、松山に戻り、スーツケースを妻に託すと、家に帰る間もなくコミセンへ。明日が定期演奏会で、今日は舞台リハーサルがあるのだ。


2008年6月19日木曜日

少し名残惜しい思いを抱きつつ、朝のバスでエリチェの街を去る。パレルモの空港から逆ルートをたどって日本に帰るのだ。

楽団へのお土産と、子供たちへのお土産を少し追加しないといけない。パレルモ空港の免税店は高価なお酒ばかりだったので、乗り継ぎの待ち時間にローマの空港の免税店に行く。俺の入った店はお菓子とタバコと酒が主な商品だ。Bacioという名前のチョコレートがあった。イタリア産だから「バチーオ」と読むに違いないが、俺には、楽団の古株メンバーの一人イシバシくんの別名である「ばしお」としか読めない。そんな理由で楽団へのお土産はこれに決定。

レジに並ぶと、先に立っていた非常にあつかましい態度の黒人のおばさんが、マルボロのカートン一個買うだけのことに、赤マルボロじゃなくて金マルボロだとか、私のパスポートどこだっけとか、せんど大騒ぎしてレジのお姉ちゃんを困らせていた。確かこのおばさんは、パスポートコントロールの窓口に並ぶときに、俺たちの列に横入りしてきた人だ。手荷物を載せたカートを押していたから、文字通り横車を押してきたわけだ。なんというか、おばさんはどこの国に言ってもおばさんなのだ。そういえば、エリチェでは、石畳の坂道で少年たちが自転車に乗って大騒ぎしているのを何度も見かけた。男の子も、どこの国にいっても男の子なのだ。こればかりは、人種とか文化とかの差を越えた共通性のように俺には思われる。


2008年6月18日水曜日

いよいよ自分の発表。午前中のセッションの最後の20分枠だ。スライドと内容の準備は十分にしたが、なにせ英語のスピーチは久しぶりだ。途中何度か自分で何を言っているのかわからなくなりながらも、背景と主な結果と未解決問題を20分にまとめて話す。午後の三つのレクチャーが済むと、9日間という異例の長さの国際研究集会がようやく閉幕。といっても、ウチアゲの馬鹿騒ぎなどあるはずもなく、カダくんと普通に晩飯を食ってセンターに戻り、マトライくんに積年の未解決問題をひとつ伝え、すこしマルサラ酒を飲み、少しピアノを弾いて、11時過ぎに宿に戻った。


2008年6月17日火曜日

とにかく一日中やたらに風が強かった。空は一点の曇りもない快晴。ここの気候は本当によくわからない。

今回の参加目的のもうひとつはUCLAのケックリス(Alexander S. Kechris)教授の講演を聴くことだ。ケックリス教授は記述集合論の世界的第一人者で、いまは可算モデルのクラスへのポーランド群の作用という観点から、表現論、作用素環論、力学系理論などを横断する研究に打ち込んでいる。見た目はNHK教育テレビ「ゆうがたクインテット」のスコアさんにそっくりだが、猛禽類を思わせる鋭い眼光が恐ろしくて、俺はどうしても近くに寄れない。

午後のセッションで発表する予定だったハンガリーのマルトン・エレケスくんが、つい2週間前に子供が生まれたとかで、急遽こられなくなった。それで、発表予定のスライドを使ってタマシュ・マトライくんが代理で講演をした。いくら同じ研究所のメンバーでも、他人の研究結果についてピンチヒッターで話すなんて、なかなかできることではない。ところがマトライくんは、自分の結果について話した時よりも上手に面白くやったのでびっくり。発表が終わって質疑応答の時間にいきなりパソコンでSkypeを起動するから、いったいどうしたんだと思ったら、質問に対して「そこはきっとこんな風になってると思うけど、なんならマルトンに電話して議論してみてください」とジョークを飛ばしていたのだ。驚くほど頭がいい。きっとマトライくんは次世代のハンガリーを代表するロジシャンになることだろう。

お土産のお酒を買ってから、カダくんヨリオカくんと3人で「ラ・ピネッタ」に夕食に行き、マトライくん夫婦(奥さんは物理学者だそうだが、俺には高校生にしか見えない)と合流して、しばし四方山話。そこでも、マトライ奥さんが「安部公房の小説って好き♪」、マトライくんが「黒澤の羅生門が…」と言い出す始末で、日本人3人はもうタジタジ。まことに、ヨーロッパは恐ろしい所だ。


2008年6月16日月曜日

今回の参加目的は二つあり、ひとつはハンガリーの若い数学者タマシュ・マトライ(Tamas Matrai)くんに会うこと。世代的にはヨリオカ君に近く、俺よりは一回り近く若いが、論文の数も多いし、なにより俺が今回発表する研究内容に近いところで優れた業績をあげている。今日の午後は特別にお願いして、センターの中庭のベンチに陣取って、水曜日の発表に使うスライドの原稿をマトライくんに見てもらって、いろいろ意見を聞かせてもらった。

夜、センター内の秘密の酒盛り部屋に謎の東洋人フチノさんが登場して、ピアノを弾いてくれた。モンポーのプレリュードがたいへん美しかった。いろんな人が入れ替わり立ち替わり、ピアノを弾いたり歌ったり、ちょっとした隠し芸大会になった。俺も何度かピアノに向かい、「ジェルソミーナのテーマ」「マイ・フーリッシュ・ハート」など、他の演奏者とは別の路線で芸を披露。それなりに喜んでもらえたようだ。マルサラ酒は気に入ったので、お土産に買って帰ることにする。


2008年6月15日日曜日

携帯電話のmicroSDカードが壊れてしまった。写真をいろいろ撮るけれど、パソコンとのやりとりができない。携帯のカメラは風景のスナップを撮る他に手書きノートのイメージのやりとりなどに使えて、大変重宝しているが、どうしても必要な時だけ依岡くんのmicroSDカードを借りることにして「て日」への写真掲載は帰国後までおあずけだ。最近のau携帯電話にはデータ転送に使えるUSBケーブルが最初から添付されている。今回はmicroSDに頼ることにして持ってこなかったのだ。自分がWindowsユーザになると思っていなかった去年のうちに「どうせMacintoshで使えないし」と思って携帯電話の付属ソフトウェアCD-ROMを捨ててしまったのが悔やまれるところだ。

この会議の休み時間には、ノートパソコン持参の参加者がヘッドフォンをつけてパソコンに向かって一人しゃべりしている光景によく出会う。これはもちろんiTunesでカラオケをしているわけではなく、Skypeで電話をかけているのだ。俺も午前中の休み時間に家本先生のEeePCを借りて松山の自宅へ電話をかけてみた。Skypeは俺のパソコンにもインストールできないわけじゃないが、そもそもこのThinkPadにはマイクロフォンがないので入れても仕方がないのだ。

観光地の日曜日だもので、昼休みには役場前の広場で民族舞踊のアトラクション。マンドリンとギターにあわせて、踊り手がリズムをとる。男は手拍子、女はタンバリンだ。音楽はたいてい急速な6/8拍子で和音が二小節ごとにI→V→V7→Iと推移するシンプルな構成。音楽史上に名高い「たーんたたん・たーーんたん」という「シチリア風舞曲」はついぞ耳にしない。

夕方のセッションでの、ミルニャ・ザモーニャさんのバナッハ空間論の話と、そのあとのヤン・クラチェフスキくんのσイデアルの話は面白かった。ザモーニャさんは長い黒髪、彫りの深い顔、豊満この上ない巨体という典型的ラテン女性で、俺は最初この人をイタリア人だと信じて疑わなかったのだが、実はボヘミヤ出身でフランス語を話す。ボヘミヤならドイツ語かチェコ語になりそうだが、ヨーロッパというのはよくわからないところだ。2歳のお嬢さんをつれてきていて、これがまためったやたらとかわいい。

夜は町外れのレストラン「ラ・ピネッタ」のテラスでのバンケット。例によって酔っ払うと眠くなるので早めに退散。


2008年6月14日土曜日

会議はお休みで、セジェスタとセリヌンテへのバスツアー。肌寒いエリチェから下界に降りてくると驚くほど暑い。円形劇場やドリア式の神殿建築など、ギリシャ時代の遺跡(を復元したもの)を見て、地中海のビーチで遊ぶ。ランチタイムには大阪のカダくんがアトラクションに駆り出されて地元のミュージシャンの演奏に合わせて踊っていたのが面白かった。けっこうな時間山道を歩いたりしたので「これじゃあエクスカーション(遠足)じゃなくてエクササイズだよ」なんて言っている人(俺だけど)がいた。明日からしばらく脚が痛むに違いない。あと、これも日本では見られないのだけど、ビーチへ向かう道の途中で、フンコロガシとその作品をたくさん見かけた。

いつになくコンピュータ部屋で夜遅くまで作業していたら、急にピアノの音が聞こえてきて驚いた。会議場のセンターには夜だけ開く秘密の部屋があり、そこには酒樽と楽器が用意されている。俺も少しだけ弾かせてもらったが、アクションもチューニングもボロボロでなかなか厳しかった。


2008年6月13日金曜日

朝、郵便局へ絵葉書を発送に行く。霧で10メートル先が見えない。まるで冬のような風景だ。シチリア島は暑いところだろうと思っていたが、なかなかどうして、エリチェが山の上にあるからかどうか、寒いときは寒い。蒸し暑い日本が少し恋しくなってきた。

午後には霧が晴れて太陽の光が戻ってきた。一昨日あたりから、風邪をこじらせてつらかったが、少しよくなってきたようだ。大事をとって今夜は酒を飲まずにさっさと就寝。


2008年6月12日木曜日

ツーリスト向けのこの街では、土産物屋とリストランテのほかは(って、土産物屋とリストランテがほとんど全部ではあるけど)、銀行といえどもシエスタの時間にはしっかり休む。しかもその上、銀行は夕方にはさっさと窓口を閉めてしまう。店じまいを始めたころに無理やり入り込んでトラベラーズチェックを換金した。100ユーロの換金で手数料が6ユーロだった。夕方、役所前の広場に霧が立ちこめはじめる。気温も下がってきて、なんか冷蔵庫みたい。

夕食時、日本から持ってきた風邪で頭がボォっとしているうえに、体を温めようとワインを飲んで、ますます頭がボケボケ。とてもじゃないが外国語での会話についていけない状態になった。おかげで周囲の人々に不審がられただろうが、仕方がない。


2008年6月11日水曜日

センター内は無線LANが働いているが、参加者の多くは自分のパソコンなどもって来ていないので、センターのコンピュータ部屋のパソコンで仕事をする。俺たちはそうはいかない。なにせ、センターのパソコンでは日本語が入力できないからね。長い昼休みにはコンピュータ部屋は満員になる。

会議は午後6時過ぎに終わる。夕食はたいてい午後8時からだ。夏時間しかも夏至の直前ということもあって、午後8時なんて夜じゃなく夕方だ。空き時間にそこらを散歩する。石畳の通りを白いハトが闊歩していたり、ネコまで観光地向けに毛並みがよかったり、なんだかウソくさいなあと思いながらも、石造りの城や教会の建物にはやはり圧倒される。


2008年6月10日火曜日

そんなわけで会議が始まった。わがE大学のN教授の基調講演をはじめとして、招待講演はすべてサン・ドミニコ僧院跡のP.A.M.ディラック・レクチャーホールで催される。その建物の二階が談話室兼休憩室として開放されているのだけど、これは片側が海に向かって開けたテラスになっていて、シチリアの美しい海と峨々たる山々の風景が堪能できる。写真ではとてもじゃないがこの迫力を伝えられない

俺の講演はずっとあとで、最終日18日の午前中。俺を含む集合論の講演はすべてセンター内のR.P.ファインマン・レクチャーホールで催される。これも古い僧院を改修したもので、壁に中世風の壁画(の残骸)がある。こういうものを見ていると、ヨーロッパと日本での、「豊かさ」に対する考え方や科学研究のサポートに関する考え方の違いのようなものを感じる。

昼食と夕食はセンターと契約している何軒ものリストランテでまかなわれる。パスタと一品料理とサラダをそれぞれ2種類のなかから選ぶ。飲み物代は別料金だ。飯もワインもうまいのだが、俺はどういうわけか昨日の晩飯から3回連続でトマトソースのペンネを食うことになってしまった。


2008年6月9日月曜日

シチリア島に来て最初に驚いたのは、異様な形に切り立った岩山たち。「布団着て寝たる姿や東山」と詠われた京都に生まれ育った俺は、二十数年前に初めて四国に渡ったときには、山の形の凸凹具合におどろいたのを覚えているが、とてもとてもそれどころではない。ひょっとしてセメントの生産のために石灰岩を削ったせいで人為的にこんな形になったのかと思ったが、それもどうもスケールが違いそうだ。自然の造形でこんな形になるものだろうか。雨の多い日本では、岩肌はすぐに崩れ落ちて丸くなり草木に包まれるが、雨の少ない地中海の島だからこんなに切り立った崖だらけの山もできるのかもしれない。

パレルモ国際空港と市街地をつなぐ鉄道の沿線には、石造りやモルタルの廃墟が並ぶ。雨が多く地震が多く不動産の再開発に熱心な日本では考えにくい。なんだか荒涼とした印象を受けるが、俺はこういう、時代に取り残されたようなわびしい風景が嫌いではない。そして、シチリア島は四国に似ていると思い込めないことはないし、この荒涼とした風景だって、四国の予讃線沿線や伊予鉄道高浜線の沿線に似ていると思い込めないことはない。

ただし、四国の4に対してシチリア島は3だ。島の形は大まかには三角形で、三角形の頂点にある三つの岬(メッシーナ/パレルモ/シラクサ)を意味する「トリナクリア」(Trinachria)がこの島の古名でもある。メデューサの顔から三本の足が生えた異様な図像がシチリア自治州のシンボルになっており、これもトリナクリアと呼ばれる。松山では三番町4丁目あたりのイタリア料理店「シチリア」の外壁に見かけられる。

さて、パレルモのホテルを9時すぎにチェックアウトした。昨晩のことで懲りて、迷路のような街を歩き回るのはあきらめ、タクシーで駅へ直行する。駅へ向かうタクシーでも、運転手さんがイタリア語で「空港へ行くの?」とたずねているようだ。うっかり適当な相槌なんか打っているうちに、35キロ先の空港まで連れて行かれてはたまらない。通じるとは思わなかったが、英語で「あい・うゎんとぅ・ごー・とぅ・ざ・れらうぇいすてーしょん」とゆっくりはっきり言った。そのおかげかどうか、タクシーはほどなく中央駅へ。

昨晩のことで懲りて何事も慎重にやるはずだったのだが、空港行きの電車の切符を買うまでに、自動販売機の操作を間違えたりして、またまた右往左往。不慣れな外国でカンに頼って行動しては危険だということなんだろうけど、なにせイタリア語がわからないのだから他にどうしようもない。間違えて買った切符を有人の切符売り場に持っていって、空港行きの切符に換えてもらった。昨晩乗ったのと同じ電車で、今度は逆向きに空港へ向かう。

空港で会議場からの迎えのマイクロバスに乗り込む。空港の外は快晴。目の前に濃い青色の空と海が広がる。それに引き換え、地面も建物も土の色そのままで、陸路はどこまで行ってもベージュ色だ。右手に青い海、左手に岩山を見ながら進む。まことに、断崖絶壁とはこのことなりと言わんばかりの岩山ばかりで、まるきり島全体が四国カルストみたいだ。あの絶壁の上はどうなってるんだろうと、下から見上げれば当然気になる。

やがてバスは坂道を登り始める。はるか前方の絶壁の上にこれまたベージュ色の四角い建物がぽつんと建っている。「まさか、あそこまで上るんじゃないよね」と思っていたが、バスはどんどんヘアピンカーブをたどって登っていくと、やがてその建物の前を素通りしてさらに進む。なんと目的地はもっと上らしい。

どんどん坂を登ってたどり着いたエリチェは、中世の城塞都市のようなところ。城壁の中には、京都・清水の産寧坂や内子町廿日市の白壁の町並みを思い出させる石畳の細い道が続く。くねくねと入り組んで迷路みたいだ。会議の会場であるエットーレ・マヨラナ・センターは、中世のサン・ロッコ修道院が後に孤児院になって、やがて政府に買い取られて学術会議のための施設として再利用されているところだそうだ。大変由緒正しいというか、歴史のある建物である。

あてがわれたホテルは民宿のようなところで、しかも最上階のなんか屋根裏みたいなところだ。おかみさん以下従業員一同英語がダメだし、ネットワーク接続なんて冗談にもありえない。しかし建物は素敵だし、そしてなにより客室の窓からの眺めが絶景としかいいようがない。すばらしい。


2008年6月8日日曜日

長い長い一日だった。朝、大阪の梅田でバスを降り、地下鉄で難波へ移動。そこから南海電車に乗り換えて、関西空港に着いたのが朝の7時過ぎ。早めにチェックインを済ませてスーツケースを預け、空港内のカフェで朝食をとる。

飛行機は関空を10時発、ローマに15時40分着だが、これはもちろん飛んでいる時間が5時間40分という意味ではない。あちらとこちらで7時間の時差があるわけだから、12時間以上の長いフライトだ。ちなみにその8割くらいがロシア上空だから、改めてロシアって国がいかにデカいかわかる。

アリタリア航空の三人がけのエコノミークラスの窓側の席。隣はミラノとローマの5日間観光ツアーに出かけるおばさんおねえさん二人組。一人はネイティブ関西弁。もう一人はちょっと中国語訛り。この二人の陽気な奥さんたちと、行き先の話をしたりおやつを分けてもらったりお酒を分けてあげたり。おかげで12時間それほど退屈しなかった。ありがたいことだ。それに3列ほど後ろの席には大阪のカダくんも乗っている。カダくんは今夜はローマに一泊し、手短に観光してから明日シチリア島に入るらしい。なるほど、その手があったか。

さて、ローマからパレルモへ乗り継ぎ、空港へ降り立つまでは平穏無事だった。が、パレルモの空港から電車に乗って、うっかり途中駅で降りてしまったのが運の尽きで、夕暮れ(といってももう夜の9時前後だ)の下町にどんどん迷い込んでいってしまった。今にも崩れ落ちそうな古いモルタルの壁が迷路のように入り組んだ薄暗い町をうろうろとさまよう。どうみても観光ホテルのある町並みではない。警察署(と親切な通りすがりのおばさんが教えてくれた)の前の公衆電話からホテルにかけたら、タクシー会社の電話番号を教えてくれて一件落着。ホテルについてみると、さきほどは明らかにぜんぜん違う方向へ歩いていたことがわかる。素直に中央駅まで行ってタクシーに乗りゃあよかった。ほんと、公衆電話の使い方も最初はわかりにくくて何度も失敗したし、タクシー会社の電話番は英語通じないし、学生さんたちは暗い裏通りで騒いでるし、なんかもう、怖かった。やっとの思いでたどり着いたホテルで、俺が漢字でサインするのを見て、フロントのお姉さんが「わたしの名前を日本語で書いてくれる?モニカって言うんだけど」なんてにっこり笑いかけてくれたので、心底ほっとしましたわ。ほっとしましたが、さて、「モニカ」って、漢字でどう書けばいいんでしょうか。

ホテルの部屋はなんとダブルベッド1台とシングルベッド2台という広さ。ただし、ベッドのほかにはシンプルなひととおりの設備があるだけ。とりあえず一夜を安心して過ごせればいいのでぜんぜんOK。持ってきたThinkPadをインターネットにもつなげられる。時間ごとの料金制なので一時間だけ使うことにし、手早く日記を書いて家族にメール。


2008年6月7日土曜日

朝から仕事だと思い込んで大学に行ったが仕事は午後からだった。午後だと思い込んで午後に行ったら午前中だった、というよりはかなりマシ。仕事がおわったので帰宅して荷造りの確認をし、吹奏楽の練習に行く。まだ個人的にきちんと演奏できないところが多く皆に迷惑をかけている。こういう悔しい状態で来週の練習を休んで出張に行かにゃならんが、仕事だからまあ仕方がない。前日リハーサルに間に合うだけでもラッキーと思うことにする。練習が終わったのが9時前。帰宅してシャワーを浴び着替えて9時半。家族はすでに寝ている。バスは11時発だから少し時間はある。タチバナ事務局長と29zが近所の店でお好み焼きを食べているはずなので、電話して荷物を持って押しかけた。バスの時刻10分前に市駅前のバス停に着き、お酒とおつまみを買って大阪行きの夜行バスに乗り込んだ。


2008年6月6日金曜日

ダスキンのレンタルスーツケースを受け取りに行き、荷づくりをする。思い立って調べてみたところ、ヨーロッパの携帯電話の通信方法はGSM方式で、auのCDMA方式とは互換性がないので、いまの携帯電話(W52T)を持っていってローミングというわけにはいかない。前もって申し込んでおけば、NOKIA製のGSM携帯電話を貸し出してもらって、W52TからICカードを差し替えれば行き先でも同じ電話番号で通話ができるらしい(1分ごとに280円なんてとんでもない料金はかかるけど)。しかし出発の2日前ではそれも間に合わない。あとは、CDMAとGSMの両方に対応するW62Sに機種変更するという手がないでもないが、二週間足らずの貧乏旅行のためにそこまでするわけにもいかない。結局、やはり携帯電話で通話するのはあきらめることに。しかしカメラとして使えるので、携帯電話の端末は電波OFFモードで持ち歩こうと思うのだった。

さてそうすると、海外で携帯電話を充電する方法を確保しないといけない。通常の充電器は日本国内専用でAC100V以外では使えない。ThinkPadのACアダプタは240VまでOKなので、コンセントの形状にあわせた変換プラグさえあればパソコンは使える。だから、USB充電ケーブルを調達すれば、携帯電話も充電できるわけだ。おあつらえ向きに手元にUSB充電器があるはずもないので、出かけたついでにコンビニで探してみた。すると、いい塩梅に、iPodとFOMAとau携帯で使える充電器で、ACアダプタは100Vから240Vまで対応し、USBから電源も取れる、というものが手に入った。USBとACと、どちらか一方でよかったんだけどね。

県立図書館に本を返却し、ピアノのレッスンに行く。この一週間まったくピアノに触っていないので、当然ほとんど進展はない。そして今夜は市民コンサート例会。古部賢一のオーボエリサイタルだ。実は俺は5年前に一度、古部さんのリサイタルを聴き逃している(→2003年7月17日)。今回も、ピアノのレッスンのあとで駆けつけたため最初の2曲を逃したが、途中から入場してプーランクのソナタから聴くことができた。市民会館中ホールに入ると、古部さんの力強くも情緒的なオーボエの音色が空間にしみわたっていた。静かさや岩にしみいる何とやら。フルートでもクラリネットでも、このムードは醸成できない。まさにオーボエならでは。伴奏のピアニストがチューピスト29zの奥さんにちょっと似ていると思った。終演後は千舟町の青空食堂でウチアゲ。古部さんは大阪出身で、口調がとても親しみやすい。夜更け過ぎに徒歩で帰宅。


2008年6月5日木曜日

うちにはガキんちょが二人いる。週末から二週間家をあけている間に何かあっては困るから、部屋をそれなりに片付けておきたいのだけど、自分が面白いと思ったことをいろいろやっているうちに散らかったのだから、片付けるとなると、あ、これはこうやるといいよね、なんて脱線が多くて、なかなか進まない。困ったもんだ。市民コンサートの機関誌は俺が松山を離れている2週間の間に版組みして印刷する手筈になっているので、自分の担当である表紙の部分だけ先に作って持っていった。帰国後すぐの授業の準備もしないといけないが、それはもう行った先で時間を見つけてやるしかない。カンファレンス会場はルネサンス時代の修道院だからかどうか、とにかく黒板というものがないので、俺の普段の発表のスタイルが使えない。となると、ThinkPadにTeX処理系をインストールして、帰国後の授業の準備と研究発表の準備の両方を出先でやるというのが唯一の解決策だ。メールも二週間貯めるとメールボックスがパンクしかねない。電話が通じないから家族との連絡もメールがベストだろう。だからThinkPadにThunderbirdをインストールし、自宅のメインPCのメールボックスをコピーしていくことにする。発表の内容はすでに学術論文誌に掲載済みの結果だから、論文の別刷りも何部かは持っていったほうがいいだろう。県立図書館で借りた本の返却期限も出張中に来てしまうから明日のうちに返却にいくべきだ・・・。いろいろのことをとにかく今日明日じゅうに片づけないといけない。だあっ!

うまくすれば出先でも「て日」の更新はできそうだ。


2008年6月4日水曜日

3歳の息子がテレビの前でお茶かジュースか何かをこぼしたのが原因で、数日前からテレビの音声が「勝手にボリュームダウン」する状態になっていた。最初はビデオデッキから音声とりゃいいやと思っていたけれどもうまくいかないので、結局テレビの裏蓋をあけて本格的に修理するはめになってしまった。テレビの裏蓋をあけて中をいじるなんて、ブラウン管周りの高電圧が怖いから本当はやりたくない。ちょっとびくびくしながら基板を取り出す。ボリューム調整のボタンの奥には小さなプッシュスイッチがあった。テスタでチェックしてみると、ボリュームダウンのスイッチだけたしかに動作不良で、押しても放しても100KΩくらいの抵抗値を示している。なるほど、きょうびのテレビのボリュームはデジタルコントロールだから、これは「押しっぱなし」状態と判定されるはずだ。部品を外してチェックする。スイッチの部分はよくあるタイプの0.1インチピッチのタクトスイッチだ。しかしそれを固定する金具やボタンの軸部分はちょっと特別な形をしているので、結局、部品箱にあったジャンク再生品のタクトスイッチを流用し、壊れたボリュームダウンスイッチの金具と押しボタンを使って「なんちゃって部品」をでっちあげることにした。

古いボリュームダウンスイッチを分解してみると、内部まで液状のものが浸透していて、金属接点に何かの酸化物が付着している。これで、水気のものがかかったのが故障の原因であることはもう間違いない。この接点部分を正常なスイッチの部品と交換する。固定用のポッチは分解するときにカッターナイフで切ってあり元に戻らないので、金具にはホットボンドで固定する。そうやってできあがった「なんちゃって部品」を、もとの位置にはんだづけして全体を組み立てなおす。これでなんとか以前と同じようにボリュームが上げ下げできるようになった。買いなおさずに済んで助かった。しかし面倒じゃないか。ちったあ感謝しろよバカ息子。


2008年6月3日火曜日

高校時代の後輩の岩田直樹とmixiにて再会。岩田直樹については昨年7月20日の日記を見なさい。こちらがいつもの習慣でアホな紹介文を書いたら、イワタも紹介文を書いてくれた。「頭が文系で心が理系の人」と紹介されたのだけど、俺っていったいどういう精神構造なんでしょうね。まあそれはともかく、夏にはぜひライブを聴きにいくことにしよう。


2008年6月2日月曜日

月曜日である。雨である。俺はカーペンターズじゃないけど、こういう日はどうも調子がでない。

娘は今日も一人で電車に乗る練習をした。ただし平日の朝の駅は日曜の朝と比較にならない人ごみになるはずなので、俺が一本前の電車で出かけて降りる駅のホームで待っていた。俺が海外出張に出かけるのは今週末だから、それまでに娘には一人で学校にたどり着けるようになっていてもらわないといけない。

さて、今回製作したパラレルポート接続AVRライタの最終的な回路図はこれだ。実は、昨日の日記に掲載した写真のものとは少し違っている。昨日の写真をよく見ると、保護用のダイオードとプルアップ抵抗がそれぞれ6本ずつあるのが見える。どう見ても、回路図より2本多い。1つは上に述べた10ピンISP向けのLED信号線のためだった。パラレルポートのD2信号線のデータを受けて点灯するだろうと思っていた赤色LEDが、昨日の動作テストではついぞ点灯しなかったので、それならLEDを二つ設置する理由はないと思って簡略化したのだ。もう1つは、ターゲットから読み出したデータをPCに戻すRCK信号線までプルアップしダイオードをかませるという、単純な設計ミスをしていた。昨日掲載したのは、それを修正する前に撮影した写真だったというわけ。そのような紆余曲折のすえ、ようやく回路が決まり動作テストも済んだので、上に掲載した回路図どおりにもう一度作りなおして、しかるべきケースに入れることにしよう。


2008年6月1日日曜日

いつもの教会学校。そろそろ娘に一人で電車に乗ることを覚えてもらいたいので、自宅近くの駅まで連れて行き、電車に乗せた。行き先の駅の近くまで、妻が車で先回りしている。いつもより少し時間はかかったが、いつもの通学路を通って同級生と合流するポイントまで一人で歩けたようだ。俺は、次の電車で追いかけるはずだったのだが、日曜日だもので次の電車は31分後。降りる駅までは電車で7分。計38分あれば、教会まで歩いていける。ちょっと急ぎ足で歩いたけど、日曜の朝の上天気の空の下だから気分はよかった。その後、弁当を買ってロープウェイで城山へ上がってピクニック。

そして、飽きもせずAVRライターの話。当然のことながら、プログラム用のデバイスだけ作っても、実際にプログラムを書き込むAVRマイコンボードがないと仕方がない。テスト用の小さなATtiny2313マイコンボードを『試しながら学ぶAVR入門』の39ページの図2-19に従って作る。四つのLED(発光ダイオード)の点滅をソフトウェアで制御するボードで、二つのプッシュスイッチという入力装置もついている。今日のところは、拡張用コネクタの配線は省略。

試作したAVRライタ
今回試作したAVRライタ

ものは試しで、AVR Studio 4で作ったプログラム(『試しながら学ぶAVR入門』40ページのリスト, prg0201.asm)を、そのままAVR Studioから書き込めるか試してみる。が、パラレルポート経由で接続するデバイスが選択肢に現れない。仕方がないので、ChaNさんのAVRライタ製作集のページで公開されているライター制御プログラムを利用させてもらう。そのとき忘れてはいけないのは、Windows XPやVistaでは、パラレルポート直接アクセスのために追加のデバイスドライバが必要だということ。これについてはChaNさんのページにリンクがあるほか、 GIVEIO.SYSINSTDRV.EXE というキーワードでGoogle検索すれば、必要な情報が得られる。

ATtiny2313テストボード
動作テスト用ATtiny2313マイコンボード

以上のような段取りでようやく、AVRマイコンボードにプログラムを書き込んでテストできる態勢が整ったわけだ。最初のプログラムが意図どおり動作したときはかなり感激した。LEDがついたり消えたりするだけの単純な動作ではあるけど、ハードウェアの組み立てからやっているから感動は大きい。

しかし、実験するたびに、自宅のデスクの下に置いたメインPCの裏へ回ってケーブルを接続するのでは不便だ。最初の実験でも、PS/2コネクタに挿したキーボードの接続をうっかりはずしてしまったしね。そこで、FreeDOSを載せた古いPentium MMXのパソコンをそれ専用に使うことを考える。さいわい、ChaNさんのライタ制御プログラムにもGerhard SchmidtさんのGerd's AVR AssemblerにもDOS版があるから、簡単な開発ならFreeDOS上で話は済む。いずれ大掛かりな開発をするようになったら、Vista PC上のAVR Studioでシミュレーションとコンパイルまで済ませてから、フロッピーディスクでFreeDOSへHEXファイルをコピーして実機へ書き込めばいい。メインPCにおかしなデバイスドライバをインストールして使わなくていいのも、精神衛生上よろしい。「だけど、DOSパソコンにはシリアルポートがあるんだから、最初からStrawberry LinuxのAVRライタを使えばよかったんじゃないの」というツッコミは却下。それはいわゆるコロンブスの卵で、目的地についてみたら、なんだ近道があったじゃん、って話だし、自分でAVRライタを作ったということにもそれなりに意義があるんだからさ。