て日


2004年 9月分


2004年9月30日木曜日

パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス) はめちゃくちゃ面白いぞ。目からウロコが落ちるとはこのことだわ。

ひさしぶりに喜夢知屋 (きむちや) のオイキムチとチャンジャを買った。美味美味。とかなんとか言っているうちに今年も残すところあと三ヶ月。がんばりましょう。


2004年9月29日水曜日

ひさびさにコンピュータ関連のネタ。思いたって、PowerBook G4にインストールされたEmacsを最新のものに更新した。最新のCVSスナップショットからビルドすると、プログラムのバージョン番号は 21.3.50.1 で、以前のものとマイナーリビジョン番号まで同じなのに、できたアプリケーションのGUIがだいぶ違った仕上がりになっている。新しいものは、X Window System上で動くバージョンにそっくり。今年の4月にコンパイルしたものと現在のものの起動画面のスクリーンショットを置いておくから比較してみてください。

この新しいEmacsを入手するには、CVSサーバにアクセスしてソースを入手し、コンパイルする必要がある (当然Developer Toolsが必要)。その手順はMacintosh版Emacsの前メンテナAndrew ChoiさんのWebサイトで説明されているのでそれを読んでください。将来のバージョン、たしかバージョン21.4からは、Mac OS XのCarbonアプリケーションも正式にソースツリーに含まれるようになるそうだ。そうなったら、AppleのOS配布にCarbon版Emacsが含まれるようになるんだろうか。

と、今日の日記はこの新しいEmacsで入力しましたとさ。PowerBook G4 12inch, 867MHz CPU/640MB RAM で、今回のEmacsのビルドには20分弱かかりましたとさ。

ここまで書いてPowerBookのACアダプタを見ると、PowerBook本体に接続するプラグのあたりで電線が傷んで銅線が剥きだしになりそうだ。こりゃいかん。あわててサードパーティーのACアダプタをオンライン注文した。純正のより3,000円くらい安いからね。


2004年9月28日火曜日

俺たち夫婦の間では、中秋の名月の晩にススキとお団子を供えて月を観るというルールは守られていない。だが、どういうわけか「中秋の名月の晩はトンカツがおかず」というルールがある。結婚する前の年 (1998年) の名月の晩に起こったある事件、というほどでもないけど、まあ、あるできごとが理由なのだが、ここでそれを言って理解してもらえるとも思えないので、言わない。興味のある人は、俺か妻に直接会ったときに聞いてください。

そういうわけで、お気に入りの「かつれつ亭 湊町店」に行った。柔らかくジューシーなヒレカツと柚子の皮を入れた香り高い味噌汁を堪能した。この店、どうも二番町や出合橋のかつれつ亭とは別系列らしいね。妙な感じだ。二番町店も出合橋店も悪くはないが、なにしろ俺は湊町店が殊更に好き。


2004年9月27日月曜日

昨日100冊あまりBOOK・OFFに持っていった本のうち、3冊は買い取りできないといわれ戻ってきた。その本というのは外崎幹二・島岡譲『和声の原理と実習』(音楽之友社)、山本哲士『学校の幻想・教育の幻想』(ちくま学芸文庫)、南海昌博・津川律子・内田江里『あなたの中のパソコンストレス』(オーム社)だ。BOOK・OFF内部規定のようなものはあるのだろうが、どういう理由で突っ返されたのか、よくわからない。

『あなたの中のパソコンストレス』は、実は妻のお気に入りだった本だ。どこが気に入ったかというと、ストレスに対する反応メカニズムを説明する例え話として「山に登る→クマに注意という標識を見る→気をつけながら歩く→クマに遭遇する→大慌てで下山する→宿で風呂に入ってホッとする」という経験の流れを絵入りで述べているところだ。この絵に出てくるクマがなぜか可愛らしく友好的で、ヒトに握手を求めている (と、妻の目には映る)。クマに出会ったヒトは両手を上げてバンサイしている。びっくりして跳び上がっているわけだが、これは妻の目にはもちろん欣喜雀躍していると見える。まあ、そんなようなわけで、この本はきっとわが妻が恋しくて戻ってきたのだろう。『和声の原理と実習』は「おまえもミュージシャンのハシクレなら和声の勉強くらいしろ」という意味で戻ってきたに違いない。

問題は、『学校の幻想・教育の幻想』だ。数年前に読みかけて途中で放置し、最近になって「もういいや」と思って売り払うことにしたのだが、戻ってきてしまった。その意味についてしばし哲学癖な考察をしていたのだけど、よく見たら、表紙のグラフィックにぬいぐるみのテディベアが使われていた。なるほど。


2004年9月26日日曜日

この部屋が段ボールだらけでどうにも片づかない。本当は8月の上旬にも棚を自作するつもりだったのだが、なんだかんだで延び延びになって現在に至ったのだ。そもそもこれだけの段ボールに部屋を占有されていては、作業スペースがなくて、なにもできないのは当たり前。そこで、自分の本を入れた段ボール8箱を廊下に出し、そのうち2箱分の本をBOOK・OFFに売りにいった。これでようやく本以外のものの整理にとりかかれそうだ。そんなこんなで、片づけはかなり進んだ。妻も大きなおなかをかかえて頑張ったし。


2004年9月25日土曜日

朝は鈴木大介さんを駅まで送っていった。もちろん、途中で土橋のバナナ館に寄った。鈴木さんはかなりショックを受けていたように思う。ふつう、愛媛といえば柑橘類だが、鈴木さんの脳裏には「愛媛はバナナの名産地」と印象づけられたかもしれない。

夜、吹奏楽の練習。先々週は練習がなくて、先週は俺が休んだので、だいぶ間があいた。練習後、いつもの顔ぶれで宮西の「食べもの市場」に行き、飲み食いしながら来年の定演に向けた相談をした。


2004年9月24日金曜日

市民コンサート例会。鈴木大介ギターリサイタルだ。俺はステージマネージャーを受け持った。鈴木さんは大変気さくで親しみやすいキャラクターだった。アンコールを4曲も弾いてくれて、工藤さん以上にサービス満点。

鈴木さんは昨日の道後散策のときに、道後の「にぎたつの道」にある“市川バナナ店”の看板にいたく感激し、ラジオ番組のパートナー中澤裕子さんをはじめ、東京の知り合いにメールしまくったらしい。明日のお見送りの時には、ぜひ土橋の“バナナ館”に寄っていこうと思う。


2004年9月23日木曜日/秋分の日

きょうは出張の疲れをいやすために、家でゆっくり過ごすつもりだったのだけど・・・。

片づけをサボるとろくなことがない。ノートパソコンのモデムケーブルだけでなく、自転車の鍵やらなにやら、いろいろ大切なものがどこにあるかわからなくなってしまっている。物を探すたびに重い段ボールを箱根細工みたいに動かさないといけない。なんとかしなくちゃ。

ギタリストの鈴木大介さんが明日の公演のためにきょう松山に到着。主催者代表として俺を含む3人で出迎えに行った。宿に連れていき、喫茶室で明日のことを簡単に打ち合わせた。きょうが本当に久々のオフだという鈴木さんは、観光マップを手にさっそく道後温泉方面へ散歩に出かけていった。


2004年9月22日水曜日

松山に戻ってきた。千歳空港の売店がデパ地下みたいな大にぎわいだった。写真は小樽のおみやげに買ったステンドグラスのナイトランプ。

くまちゃんのナイトランプ


2004年9月21日火曜日

4日めともなるとさすがに疲れが出るなあ。夜、皆でサッポロビール園にいってジンギスカンを食った。赤レンガの建物は以前と変わらないが、敷地の半分くらい、道路に面した部分が更地になって工事中だった。なにができるのやら。

帰り道、ススキノの古本店で「新釈漢文大系 大学・中庸」を買った。


2004年9月20日月曜日/敬老の日

なにしろ、前に札幌に来たのは13年前。駅周辺の風景の変わりようにびっくり。便利になったのではあるけどね。先日の台風18号では、北大キャンパスのポプラ並木に大きな被害が出たようだ。大きな木が根元近くで折れ、バタバタとなぎ倒されている。

昨日けっこう散財したし、明日ジンギスカンを食いに行くことも決まっていたので、今夜は数人で普通におとなしく飲み食いした。


2004年9月19日日曜日

天気もよく、空き時間もたっぷりあったので、ちょっと足を伸ばして、小樽に行くことにした。松山で留守番している妻にメールして悔しがらせてやった。妻にとって、小樽は岩井俊二監督の映画『Love Letter』を観て以来の憧れの地なのだ。

小樽の運河(a)
小樽の運河(b)

昼には寿司を食い、夕方には運河沿いの倉庫を改造したビアホールで地ビールを飲んだ。娘へのおみやげにガラス細工の勾玉を買った。運河公園の眺めは観光客向けに整備したものではあろうけれども、それなりに風情があって楽しかった。そのうちきっとまた、今度は妻を連れてこようと思うのだった。そんときは、北一ガラス三号館でお酒飲もうね>つま

夕食は札幌に戻って狸小路でラーメン。


2004年9月18日土曜日

札幌にやって来た。宿は鴨々川のほとり。

かもかも川の鯉

用意していた長そでシャツを鞄に入れ忘れていたので、急遽買いに出ることに。ススキノのロビンソンへ行った。夕食は韓国料理。


2004年9月17日金曜日

明日から出張だ (「明日カラ出張だ」と変換したEGBRIDGEくんナイス!)。だが USBモデムケーブルが見当たらない。ということは、パソコンがあっても通信ができない。それなら、重いだけだからPowerBookを持っていくのはやめだ。もうこうなりゃ身軽に行こう...っても、行き先は札幌だから、それなりに着るものを用意していかないとね。

ちょっと気が早いようにも思ったが、「あいうえお表」というのを買ってきて壁に貼った。《あ》はアヒル、《い》はイヌ、《へ》ならヘリコプターと、いろいろのイラストが入っているやつ。娘はさっそく「これなぁんだ」と、絵を指さして問答を始めた。いまの段階ではそうやって言葉に興味を持ってもらうことが大切だと思う。文字というものがあるという認識はそのあとだ。

あいうえお表
アヒルのあ、イヌのい、ウマのう...


2004年9月16日木曜日

県立図書館へ出かけようとしたら財布が見つからなくて出るに出られず、明日以降に延期・・・って、明後日から出張だから、行くなら明日しかないじゃん(汗)。

出張先の空き時間に読むつもりで、段ボールの底から宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫) を探し出した。一昨日書いた「温故知新」の解釈は、この本ではこうだ「古いことを研究してそこから新しい知識を引き出してくるくらいでなければ、先生にはなれない。」俺が思ったのと少し違うが、とにかくも「古いものの中にも新しい価値があるのよね」というお気楽な認識ではない。新しい問題に応用できる価値は古いものの中にこそあり、それを見つけるも見つけないも本人次第だが、お前にその気概があるか? なければ人を指導する立場になんかなれないぞ、と言っているのだ。学者の心得とも言えそうだ。

ただし、この宮崎市定訳は、同じ著者の『論語の新研究』の一部で、呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫) で指摘されているところによると、大変おおらかな意訳であり、ここに示されているのが唯一あるいは最良の論語解釈と思ってはいけないらしい。やはり 金谷治 訳 (岩波文庫) と比較しながら読むことにしよう。

しつこく「温故知新」についてもうちょっと。現代人は「新しい」もののほうにこそ価値があると思っているから、古いこと自体には価値などなく、新しい価値を見いだしてこそ、再評価するに値すると思うだろう。いっぽう、神話時代の尭舜の治世の理想社会を現世に取り戻すことを望んだ孔子は、なにより「古きを温める」ことを最重要視していた。新しいものは、新しいこと自体に価値があるどころか、むしろ、生きるため、目的を果たすために、どうしても対応することを強いられる課題として立ち現れるものと考えられていたのではなかろうか。自らの使命として「古きを温め」さらに人びとを利するために「新しきを知る」という、両方のことができて、はじめて人を指導することができる。そう言いたかったのではないかと思う。


2004年9月15日水曜日

クマの むうむうたん の破れを修繕。

むうむうたん
修繕が終わり、よろこびの表情をみせるむうむうたん


2004年9月14日火曜日

エリアーデ『聖と俗』(風間敏夫訳/法政大学出版会) の訳者あとがきに『論語』為政第二の11の「温故而知新以為師矣 (いにしえのことに習熟して知あらたになれば、人の師となることができよう)」が引用されている。名高い「温故知新=古きをたずねて新しきを知る」の出典だ。この「温故知新」は通常「古いものの中にも新しい価値が見いだされるものですね」というように解釈されているが、風間敏夫の採用している読み下しでは、全然そんなことを言っていない。古来の知恵を学び、そのうえ新しいことがわかるようになって、ようやく人を指導することができる、と言っているとしか、俺には思えない。古来のものを研究することで新しいものが「わかるようになるぞ」ではなく、むしろ「わかるようになるまで研究をやめるな」と言いたかったのではないかと思うのだ。

その意味での「温故而知新 」は、孔子その人のやりかたそのものであったろう。古来の祭式を復興し、礼楽を正すことで人びとをより良く統治しようという思想は、単に形式を整えればよいということではなかった。祭式にこだわる古代宗教に対して、その祭式に人間の内面からの実存的な意義が見いだされることをこそ求めたという点で、孔子はバラモンの宗教に対するお釈迦さまやヘブライの律法に対するイエス・キリストに匹敵する、古代宗教の改革者であったのだろうと、俺は思う。

『聖と俗』の訳者あとがきが、孔子の人となりを後世の禅者たちと比較しているなど、たいへん興味深かったので、図書館に儒教と禅の本を借りに行った。家がコミセンに近いからこういうときは便利だ。玄侑宗久『禅的生活』、蜂屋邦夫『孔子』、呉智英『現代人の論語』などを借りてきた。だが、最初に読んだのは、一緒に借りてきた、呉智英『犬儒派だもの』だ。

とくに、第三章第一節「溢れ出た自我の行方」を、いつもの薬をもらいにいった精神科の待合室で読んだものだから、《狂なるは進取。しかし、いまや進取は、ただ目立ちたいだけの自己顕示であり自己主張である。練れた常識人の顰蹙を買えば、それが「狂」だと厚顔にも思っている。それは「狂」ではなくただの吉外である。狂にして直ならず。直ならぬ歪んだ病理も、個性尊重・自己実現という強迫観念の産物なのだ。(p.80)》のあたりはかなりコタエた。そういう耳の痛い部分もあれば、「最初の鹿」「「マイルド」に毒された日本人」など、爆笑を誘う話もある。だから、俺は呉智英の本は基本的にどれも大好きだ。


2004年9月13日月曜日

昨晩、口髭の左半分を間違って剃ってしまう夢を見た。吹奏楽団で、ある賭けに負けたらヒゲを半分にすると冗談で言ったりしたから、そんな夢を見るのかもしれない。

携帯の代替機はなぜか充電ができなくなったので「なんとかしてくれ〜」とショップに行ったら、修理に出していた端末が戻ってきていた。で、結果オーライ。

2004年 9月 17日 金曜日追記:この日、妻は第二子出産準備のため産休入り。娘は幼稚園に通いはじめた。


2004年9月12日日曜日

朝、娘が6時前に起きたので自分も起床。娘は昼寝もせずに頑張ったので夜7時にはコトンと寝てしまった。いや、明日から幼稚園に通うことになっているので、寝ようとしているところを無理やり起こして心を鬼にして風呂に入れた。さすがに大泣きになった。無理もない。俺だったら、そんなことされたら暴れる。

普通の日は普通に昼寝をして夜には普通に寝つくのだが、今日のように睡眠不足になったときは、寝る前の娘の行動パターンが、やたらハイになるときと、やたら不機嫌になるときの両極端に分かれる。後者が多いが、今日は前者だった。笑ってばかりで言葉は少ないし、大はしゃぎで遊んでいるうちに、足下もおぼつかなくなる。睡眠薬でラリるというのは、ひょっとしてこういう状態をいうのかと、ちょっと思ってしまった。

6日に竹田青嗣と西研の『よみがえれ、哲学』を読んでいると書いた。その日のうちに、すでに半分以上読んでいたのだが、そのあといろいろの事情でなかなか進めず、読み終えるのに今日までかかってしまった。恥ずかしい。が、それはともかく、感想をてなさく読書欄#35として公開。


2004年9月11日土曜日

妻の両親が孫の顔を見にやってきた。道後の椿舘で昼食をとる。なにせ今日は吹奏楽の練習がお休みなので、遠慮なく昼間からビールをご馳走になった。今日は秋晴れのいい天気で、柳井−三津浜航路のフェリーで瀬戸内海を渡るのはさぞかし気分が良かっただろう。妻が身重でなければこちらから出向いていきたいくらいだ。こりゃきっと義父は船で缶ビールを2本くらいは飲んでるぞと勝手に想定していたのだが、昼食のビールをおいしく飲みたいから我慢してきたのだそうだ。本当のビール好きってのはそうなのかな。

大学院の先輩 久馬栄道 (きゅうま・えいどう)さんが、昨年の5月に2冊目の本を出していたことに、最近気がついた。1冊目は数学の本だったが、今度は仏教の本。お坊さんのかけている袈裟に仏教の本質をみるという本だ。そう。実は、彼は数学者であると同時にお坊さん (しかもピアノ弾きで、大の酒好きで、愛妻家) なのだ。この本、『けさと坐禅』(法蔵舘) という。例によってAmazonで注文し、今日の夕方に手元に届いた。ゆっくり読ませてもらいますよ。

獺祭・オッターフェストビール

と、ここまで書いてアップロードしたんだけど、夕食後に冷蔵庫を見たら、オッターフェストビールが冷やされていてびっくり。妻によると、じいちゃんがお土産に置いていったそうだ。(お義父さんいつもすみません。今度一緒に旭酒造の蔵を見学に行きましょう。)


2004年9月10日金曜日

携帯電話の2と5と8と0のボタンとクリアキーが利かなくなった。これじゃあ電話もメールもできない。修理に出して代用機を借りたが、使い古されているせいか、こいつの電池のもちが非常に悪い。(13日 月曜日付記:一度電池を空っぽにしてから一晩かけてネンゴロに充電したらOKになりました。) 不便だが仕方がないな。auショップで見たサンヨーのWIN端末 (W21SA) がなかなか魅力的だった、と、あとで妻に話したら、「FMなんか聴かんから、いらないでしょ?」と冷静なコメント。はーい。そのとおりで〜す。・・・ってか、Mac OS X 用のUSBドライバがないしね。

職場から帰宅してテーブルにあった檸檬酒をコップでグイグイ飲んでしまってから、金曜日だからピアノのレッスンがあることに気づいた。まったく、この脳味噌にはモミガラでも詰まっているのかしら。檸檬酒って口当たりは軽いけど、調子に乗ってたくさん飲むと、あとから回ってくるのよね。ありゃ〜。

なんとか無事にレッスンが済んだころ、妻から今夜は外食にしようという連絡。娘が「うどんがいい」というので、なか卯 (松山衣山店)へ。豚どんぶりは初めて食ったが案外うまかった。俺は、それに、すだちおろしうどんと缶ビール。娘は月見うどん、妻はカレー。


2004年9月9日木曜日

いまのところ俺たち夫婦の間でだけ通用するのだが、ぜひ広く流通させたい言葉として、名詞「ラフレシアン」、形容詞「ラフレシい」、動詞「ラフる」がある。これを、ここで公開・解説するから、みんな使うように。

ラフレシア
世界最大かつ世界一臭い花ラフレシア

語源は植物のラフレシアだ。東南アジアの密林に生息するこの植物は、ヤドリギと同じく寄生植物で、自分で養分を合成することをせず、他の植物の根に寄生している。そのくせ、他所から掠め取ってきた養分で、世界最大の花を咲かせる。この花から腐肉の匂いを発して、集めたハエに花粉を媒介させて繁殖する。なかなかろくでもないやつだ。

・・・という植物の知識を下敷きにして、これを人間界に当てはめるとどうなるかというと、他人の視線を集めることによって自分の魅力を確認し、その魅力を巧みに利用して他人を操り自分の欲望を充足させようとする、平たく言えば「美貌を鼻にかけている」ような人たち (女性が多そうだが男性の中にも確かにいる) を「ラフレシアン」という。そういう人が時々見せる「この人なんか私の魅力でイチコロだわ」という自信に満ちた表情を「ラフレシい」表情という。また、かれらのように、本気でつきあう気も寝る気もない相手まで媚態で操ろうと試みるのが「ラフる」という行為だ。ちょっと見回せば、サンプルはいくらでも見つかると思うけど、いかが?

この言葉で理論武装したおかげで、俺はラフレシアンたちの誘惑に動じなくなった...と言い切るにはちと修業が足りない気もするが...かなり相対化して見られるようになった。適切な言葉は頭を整理するための最良の道具なんだな。

ところでラフレシアといえば松本零士の『キャプテン・ハーロック』の敵役、マゾーンの女王ラフレシアだけど、この人はこういうラフレシアンたちの対極にあって、つねに誇り高く毅然として、誰にも媚びるということがなく、一族の命運がおのれの双肩にかかっていることを深く自覚しつつ、マゾーンを率いて宇宙を旅している、敵ながらあっぱれなキャラクターだった・・・とかなんとか言っていたら、また『キャプテン・ハーロック』が観たくなったな。

コロっと話は変わる。《お気に入り(哲学癖編)》なるリンク集を公開することにした。読んで面白かった本に関連したサイトとか便利そうなリファレンスがあったら掲載していくつもり。


2004年9月8日水曜日

一転して、さわやかな晴天。午前中のうちに、いろいろな用事を片づけた。散髪にもいった。昼メシにはひさしぶりにアメリカンポテトのコロッケを食った。

銀天街のダイソーで火バサミを買った。焼き芋を作るわけでもないのに、何のためかというと、洗濯機の裏に落ち込んだコマゴマしたものを救出するためなのだった。洗面台の真横に洗濯機があるおかげで、歯磨きのチューブ、コンタクトレンズのケース、セッケン箱、丸めた靴下、等々、出てくる出てくる。


2004年9月7日火曜日

台風18号。激しい雨風。Amazonのマーケットプレイスに出品している古本に、買い手が昨晩からたくさんついているが、とても郵便局まで出かけられそうにない。

明日は散髪にも行きたいな。


2004年9月6日月曜日

毎週月曜日はクタビレていて、何も書くことができませぬ。オシマイ。

・・・と、さすがにこれだけでは自分でも納得いかないので、もう少し書こう。きょうは、竹田青嗣と西研の『よみがえれ、哲学』(NHKブックス)と長澤正雄の『シュレーディンガーのジレンマと夢』(森北出版)を並行して読むという奇妙な事をしていた。しかし、哲学はともかく、量子力学については、いつまでも概論とか啓蒙書とか読んでないで、そろそろ本格的に勉強しないといけないとは思う。

中断していた積ん読状態の本の整理を再開。まったく、居住スペースを圧迫するほど本を積み上げてアホみたいだ。それに、居住スペースだけでなく家計も圧迫している。自分の読むペースに合わせて買っていれば、こんなことにはならない。もうすぐ家族が一人増えるのだから、整理するならいまのうちだ。


2004年9月5日日曜日

今朝こんな夢を見た。《俺は学生だった。友人と一緒に教室にいた。かなりやる気満々で、鞄の中の持ち物を机の上に並べて整理していた。もうすぐ授業が始まる。と思ったら、いつのまにか俺は鞄を背負ってひとりで街をほっつき歩いていた。池袋か神田か、ともかく東京の街のようだ。なにをやってるんだ。これじゃいけない。教室に戻ろう。そう考えて、教室に戻ると、すでに授業は終わっていた。友人たちはみな去っていた。ただ一人、妻のみろりが待っていた。》

逃げ腰の生き方と、その報いとしての空っぽの人生を象徴する夢だと思った。中学校の国語の教科書に載っていた朱熹の詩の一節を思い出した。

未覺池塘春草夢,
階前梧葉已秋聲。

池塘の春草の夢は未だ覚めやらず、
階前の梧葉はすでに秋声。

この詩はまるで俺のことを言っているみたいだ。俺がそんなことを言っていたら、妻はこう言ってなぐさめてくれた。あなたはすぐに卑下したことを言うし、たしかにここ最近、目立った大きなことは何もしていないかもしれないけれども、小さいことでよければ、うれしかったこと、達成感を感じたこと、「やったぜ!」と思ったことは何かしらあったはずだ。たとえば、何だったかで、あたしを爆笑させたしね。

「爆笑」というのは、1日の日記の「無理を承知で一言でまとめると」とか、3日の日記の「俺の屁理屈の生き証人、云々」とかが、妻に大ウケだったことだろう。そのほかに「やったぜ」と思ったことは何かあったかと、記憶を手繰ってみると、本当にバカバカしいほど小さなことだが、確かにあった。いつも世話になっているあの店に新しいお客さんを紹介できた。何冊か本を読んでなかなか面白かった。昨晩はお好み焼きをうまくひっくり返せた。今朝は玄関の履物をきちんと並べて気持ちがすっとした。等々。ひとつひとつは、なるほど小さなことだ。だが、小さなことを軽蔑したからといって大きなことが達成できるわけではない。当たり前のことだ。むしろ逆だ。まったく、俺はどんな大人物のつもりで、小さな達成を喜ぶことを自分に禁じているのだろう。

妻はときどきこんなふうに大切なことを教えてくれる。いつもありがとう。


2004年9月4日土曜日

今朝は「テレビをつないだ電蓄で再生すると動画が見れるLPレコード」の夢を見たように思う。朝のうちに市坪のクリーンセンターへ粗大ごみを捨てに行った。

午後は市民コンサートの事前学習会。今回はとくにギターの生演奏を交えて内容充実。

夜はいつものように吹奏楽の練習。普通どおり1週間あいただけなのに、ずいぶん久しぶりな気がする。不思議なものだ。その後はパルティ衣山の「徳川」へお好み焼きを食いに行った。


2004年9月3日金曜日

妻の報告:《娘 (3歳4ヶ月. もうすぐ幼稚園に行くことになる.) に「幼稚園にはバスで行くのよ。でも、大人はバスに乗れないから、娘と幼稚園のお友達だけで、ママとバイバイして行くんだよ。」と説明すると、娘は「でも、バス大きいよ」と反論した。》

おおっ!思考の芽生えだ。大人が乗れないというママの言明が、(面接のとき実物を見て知っている) バスが大きいという経験的事実と矛盾することを指摘した。うむ。これぞまさしく論理的判断。3歳になってようやく思考能力が開花し始めたのね。

だが、ここでひとつ、見落としてはならないことがある。それは、この論理的判断が「ママと一緒に行けたらいいな」という、価値判断 (感情) に支えられて出てきている、という点だ。たとえバスが大きいという事実とママの言明の間に矛盾があっても、「ママとバイバイして行くこと全然オッケー♪」と価値判断していたら、反論するに値しないから矛盾は見逃され、乗り物好きの娘のことだから、「バスに乗れるのうれしいな♪」 という次の価値判断に、なめらかにつながっていったはずだ。

思考と感情、すなわち論理的判断と価値判断は、つねに車の両輪のようにあいまって働く。ただし、思考と感情のどちらか一方が表に出ているとき、他方は裏へ回って、見えにくくなる。今回の例では、価値の判断が裏にまわって、表に論理的な判断が出てきている。娘はここで、いつものように感情を表に出して、「ママと一緒がい〜ぃ(>o<)」と言うこともできたはずだが、この場面では思考が表に出た (どのみち、一緒に行けないことに変わりはないのだけどね)。その場その場で融通無碍にどちらかが出てどちらかが引っ込む。そんなふうに感情と思考を協調させながら状況に適応していくのが、人間の判断力の健全な姿だと思う。この事情は、大人になってもまったく変わらない。

それにしても、「バス大きいよ」という娘の言葉の中に、初めての思考の萌芽を見つけた妻の観察力もたいしたものだ。そして、俺は俺で、「感情と思考の役割分担を決め采配を振っているのはいったい誰なんだ」と、不審に思うのだった・・・

不審に思いつつ、話はコロッと変わる。

左手首の筋が痛むようになった。9年前に人さし指の靭帯を切るケガをしているので不安になる。もっとも、今回はどちらかというと薬指と小指のスジにきている。ピアノとパソコンのキーボードを扱うときの姿勢が良くないのかもしれない。あるいは、先日の頭痛と同様、肩こりのせいかも。

11月のピアノ発表会に不安材料を残しつつ、話はふたたび変わる。

7月22日にも書いたように、俺は本上まなみがわりと好きなのだが、俺はずっと本上まなみと大塚寧々という、まったく別系統の二人の女優を、頭の中で混同していたらしいのだな。我ながらアホみたいだが、どっちも好きだ。って、この話はこれでおしまい。


2004年9月2日木曜日

紀伊國屋書店のオンラインマガジン i feel のNo.29 (2004年夏号)で、「いまもういちどやさしく学ぶ構造主義」という特集を組んでいる。これの目玉は内田樹と鈴木晶の対談で、そのタイトル、《オリジナリティや自分らしさへの誘惑を疑うことからはじめよう》には、はっきり言って拍手喝采したよ。この対談そのものは、それほど突っ込んだ議論はされてないので、ちょっと毒にも薬にもって感じだけど、時間のあるときにご一読くださいな。

さて、拍手喝采しつつ周りを見ると、“オリジナリティや自分らしさへの誘惑”の権化というべき、フェリシモのカタログが古新聞カゴにあった。それと、楽天ブックスから届いたハリーポッターと不死鳥のなんちゃら言う本 (妻の母親へのプレゼント) を梱包していた段ボールと、なぜか赤トウガラシが枝ごと。

廃物利用でアートしてやる
永遠に未完成なんだけどね

・・・というわけで、アートしてみました。こういうことに使う素材としては、カワイイ中毒の患者さん向け通販カタログはさすがにお誂え向きだ。

フェリシモに代表される若い女性向け広告のディスクールに対する俺の姿勢はたとえば6月21日とか8月24日の日記にあるとおりだ。つまり、フェリシモがおそらくは意図的にとっている《私》を強調する姿勢が大嫌いなのだ。なぜか、という理由はなかなか説明しにくいし、やり出すと終わらない、長く辛い道のりなのだけれど、6月21日の日記では書かずに済ませちゃったので、気持ちに多少なりとも余裕のあるいまのうちに、ちょっと論陣を張っておくことにする。

〜*〜*〜*〜*〜*〜

カタログや広告にあふれかえっている《私》とは誰だろう。モデル嬢か、コピーライター氏か、編集者さんか、矢崎和彦フェリシモ社長か、ひょっとして、掲載商品やカタログそのものに自我があって《私を買って♥》と言っているのか。あなたはどう思う?

正解はもちろんどれでもない。思うに、広告の《私》は、この《私とは誰のことか》という部分を、あえて曖昧にし、「誰でもない誰か」を生み出す。目的ではなくムードで横へつながっていく女性的な連帯感に、自然な形で訴えかけるために使われる魔法のキーワードなのだ。だから、先ほどの問いに「そんなの、このワタシのことに決まっているわ」と即答してしまった人は、すでに魔法にかかっている。広告屋さんの術中に深くはまりこんでいるといえる。まさに格好のカモ。まあ、そこまでベタな人はあんまりいないと思うけど。

《誰でもない誰かが自分自身に向かって語っている声を、あなたは聴くともなく聴いている》・・・若い女性向けの広告の言語手法の基本はこれだ。

ためしに、広告の中の《私》をすべて《あなた》に置き換えてみよう。フェリシモのカタログから任意に抜き出した例として「オフィスでも自然な笑顔でいられる私になるぞ。」は「オフィスでも自然な笑顔でいられるあなたになってください。」となるし、「お花にも私にものんびり/水分補給しましょ。」は、「お花にもあなたにものんびり/水分補給してください。」となる。《なってください》だなんて、大きなお世話だと思う? 俺もそう思う。だが、広告の主が発しているメッセージはまさにそういう意味内容なわけで、「これらの商品を使って水分補給してください」というほうが、はるかに本音に近い。考えてみれば当然のことだ。

俺がこのテの広告のディスクールに感じる違和感 (気持ち悪さ) は、ここで例にあげた言い換えにあなた (って誰だよ...と自己ツッコミ) が感じた違和感とそっくりそのまま同じで、ただその向きを逆にしたもの、ということになる。

そして、《私》を《あなた》に置き換えたとたん、「オフィスでも自然な笑顔でいられるあなたになってください。」と、自分に語りかけるのは 誰なのか、という、これまで隠れていた (隠してあった) 問題が見えはじめる。たいていの女性の反応として、親友とか心から尊敬する年上の友人に言われたら感激するけど、普段イバリくさっているオヤジな上司に言われたんなら、気持ち悪いしムカツクからセクハラ認定ぢゃ、というところではないかと推察するが、いかが?

いや、それが自然な反応なのだから、けなすつもりはない。それでも、このように考えてみると、《私》を使うことで、「見ず知らずの人にシノゴノ言われたくないわよ」という反応をうまく抑制し、心理的ガードをすり抜けて広告メッセージを届けられることがわかる。正面からストレートに説得されるより、通りすがりに小耳にはさんだ情報の方が心に残りやすいってことは誰にでもある。意識的判断のチェックを迂回できる (難しくいうと「閾値が低い」) からだ。

雑誌の見出しや本のタイトルによくある「これは絶対知っておきたい」 (例: 《音楽家ならだれでも知っておきたい「呼吸」のこと》(誠信書房)... タイトル以外は良い本なのですが) なども、仕組みとしては同じで、意味的には「すべての音楽家に、これを知っておいて欲しいです」と言っているのだが、ストレートにそういうと、あなたの意識的判断のチェックをまともに受けるので、誰でもない誰かが「わたしは知っておきたいのよね」と言っているのをあなたに聴かせることによって、チェックの関門を迂回してスムースに心に入り込もうとするわけだ。

もうひとつ、これも本のタイトルによくある「・・・である理由」。たとえば《なぜ、枝豆が水虫に効くのか》というタイトルの本が (ないとは思うが) あったとする。枝豆が水虫に効くなんて思っていなかった人も、この本のタイトルを見ると「なんだそりゃ、本当かよ?」と思ってしまう。すでに、信じるほうへ半歩ぐらい進んでしまっている。これが《枝豆は水虫に効く》というストレートなタイトルだったら、「おーおー、山師がおるぞ」で済んでしまうものが、「なぜ効くのか」と、周知の事実にして自明の前提であるかのように語られているがために「それ、違うだろ」とは言いにくくなってしまうのだ。

というわけで、結論。親しい間柄では物事はストレートに言えるし、言うべきだが、見ず知らずの人どうしではどうしてもガードが固くなる。だけど、自分の意見の正当性を正面から証明してみせるストレートでフェアな手法では、そうそう物は売れない。だから、消費者に自社製品を買ってもらうよう説得するために、広告では、いろいろと正攻法じゃない手法だって使われる。広告は、いってみれば、あなたの心に裏口からこっそり忍び込もうとする。もちろん、あなたの心に忍び込むぶんには、俺の知ったこっちゃないが、勢いあまって、俺の心にまで忍び込もうとする。非常にうるさい。できれば「つべこべ言わずにコレを買いなさい」くらいストレートに来てほしいもんだ。

さらに、オマケ。形容詞や形容動詞を名詞扱いする (例:“あなたにぴったりのカワイイを見つけてください,” “素敵がいっぱい,” 等々) というのも、俺の嫌いな言語手法の一つで、これまた女性向けの広告に多用されているが、これは俺としても分析不足で、いまのところ、気持ち悪いから嫌いだ、としか言えない。そして、ここまで読んできて「ねえねえ、枝豆ってホントに水虫に効くの?」と興味を持ったあなた。あなたはまさに俺の屁理屈の生き証人です。ぜひご一報ください。

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話は変わる。恥ずかしいことに、日経サイエンス最新刊の記事を読むまで、ポアンカレ予想が解決されたらしいというニュースを知らなかった。いやあ、とうとう解けちゃったんだぁ〜。すごいね。


2004年9月1日水曜日

先月は毎日欠かさず日記を書いたので、文字数にして1万9千字近くになった。HTMLファイルとしては48キロバイトだ。あれよあれよと言う間に8月が始まって終わったように思ったが、日記を読み返してみると、なかなかどうして、いろいろなことをやったり考えたりしている。無理を承知でひと言でまとめると「森の石松の扮装をしたアルテミスの猟犬が、くじ引きで当てたビッグバン宇宙の鏡を割りながら、秘密基地で吹奏楽を聴いて過ごしたひと月でした」というところだ。そんなわけで、 とるに足りないくだらない人生でも、記録を残すのは少なくとも自分自身にとっては有意義といえそうだ。

託児所の保育士さんの報告《「今日から9月よ」という話をしていると、【娘】ちゃんが「9月が頭におちてきましたの」と突然話し始めました。あとは笑ってしまったのですが、何だったのでしょう?》いや、本当に、何だったのでしょう・・・