て日


2003年 4月分


2003年4月30日水曜日

県立図書館へ資料を借り出しに行ったが、月末なので休館していた。不覚。

まあ仕方がないので、行きがけの駄賃にと、隣の県立美術館の《中西夏之展 広さと近さ−絵の姿形》という企画展示を観た。なにやら奇妙な絵画なのだけど、基本的に明るい色を多用しているので見ていて気分はいい。だけど最近の作品より1970年前後の『山頂で石蹴り』というシリーズのほうが俺には好ましいな。そのころの作品には、抽象的な中にもどこか人体のパーツとその配置を思わせるものが多かったけど、時代が下って最近の作品になると、もっとなんというか、目の前の空間の広がりをそのままつかみ取るような (もっとも、作家自身は「写しとる」という言い方を好むらしい) 、より抽象度の高いものが多くなって、理屈としては興味深いけど、俺には面白くない。

仕事柄、数学でいう《平面》と画家のカンヴァスとの比較、というようなことを考えてみた。《平面》は無限の広がりだがカンヴァスは有限の面分であるとか、水平に広がっているか垂直に切り立っているかという「広がりの方向」は《平面》にとっては関係がないが画家にとっては大問題のはずだとか、数学にとって3センチメートル四方の面分と3メートル四方の面分に違いはないが画家に限らず生身の人間にとって両者には大きな違いがあるとか。中西夏之の作品の中にも、そういうことを画家の視点から問題にしているように思われる作品(たとえば、張りつめた弦をこちらに向けて弓をカンヴァスに貼り付けたものとか)があってなかなか興味深かった。

陳列室のベンチに置かれたカタログにあった作者の言葉。字句は不正確かもしれないが概略「遠くに巨大なものがあり近くに微細なものがある、というわけではなく、微細なものは遠くにも近くにもあり、遠くと近くは微細なものを媒介として繋がっている。」と言っていたのは示唆的だった。俺たちはどうしても遠近法的にものを見る。遠くのものは大まかにしか見ない。だが、遠くにあるものも、身近なものと同様、内部の微細な仕組みによって支えられているのだ。

「東京、山手線、上野、不忍池はソーサーに乗せたレモンティーのカップである」ってのは、詩的すぎて理解に苦しむけれども。


2003年4月29日火曜日/みどりの日

あいかわらず微熱がある。少し頭痛がして、咳が出る。いつもなら身体がだるくて仕方がなくなるところだけど、不思議なことに意識は明瞭でそれほど気分も悪くない。念のため家でおとなしくしてたけどね。

妻子は仲良しお母さんグループ松山ウィンド引退組(あっ一人は休団あつかいかも)で梅津寺パークへ。ウィンド団員でもある愛媛大学のサックス吹きたちがアトラクションで演奏したのでそれを見にいった。仲良しお母さんたちの3人の子供たちは、うちの娘が生まれて間もないころにも来てくれた、生まれながらのお友達だ。幼稚園行くか行かぬかの子供たちだけど、子供なりに人間模様が展開したとかしなかったとか。


2003年4月28日月曜日

うちのドアの横にプラスチックごみを袋に入れて出しておいたら(このアパートには管理会社の人が掃除に来てくれているからゴミは戸口のところに出しておけばOKなのだ)、誰か不心得者が分別されていないごみ(ガス抜きしていないスプレー缶とか)の入った袋をその横に置いていった。出ているゴミの中身からして両隣りの住人でないことは明らかだけど、もしも同じアパートの住人だとしたら、俺が出してOKなものはそいつが自分のところに出してもOKなんだし、俺が出して問題になるものなら、俺が「すみません俺が出しました」なんて言うはずもなく、いつもゴミを集めてくれている管理会社の人ならそれが俺のところから出たものでないことはすぐわかるはずだし、要するにアパート全体の問題になるわけで、そうなればエレベータの防犯カメラの映像を解析すれば犯人はすぐに見つかる。いずれにせよ、こんなことする理由はまったく理解できない。もちろん、深い考えがあってやっているんではないんだろうけど。

そうかと思ったら、出勤するときには、たまたまエレベータに乗り合わせた上の階に住む女子高生が、俺たち夫婦を気持ちよく先に降ろしてくれた。べつだん不心得者ばかり住んでいるわけではないのだ。

駅前では昨日再選された市長がさっそくハンドマイクで街頭演説をしている。衆議院選挙で再選されず野に下ったときに始めて現在にいたるもので、毎週続けているだけでも見上げた心がけではある。ただ、肩書きがない時期ならともかく、現職の市長なら自分の見解を述べる公的なチャンネルはきちんと保証されているはずだし、そうした公的チャンネルを使って情報公開する責任もあるはずで、そう思うと、この街頭演説の位置づけはちょっと微妙かもしれない。ヤジウマ向けのポーズとしてやっていると思えないこともないが、お伴も連れずに地味にやっているところをみると真剣なんだろう。まあ、好きでやっているのだと思うことにしよう。この街が大好きらしいのは昨晩の当選時のインタビューの表情を見ていてもわかることだしな。

しかしこの市長、(某県某町の、見た目もやることも「悪代官」そのものの町長某と違って)なかなかいい面構えなので、京都市長と同じように紋付きの羽織袴姿で議会に出たらサマになると思う。髪も侍ふうのチョンマゲにすればなおよろしい。この時代、刀は持てないし(レプリカならいいぞ)、調子に乗ってお城で記念撮影とかしたら(「お殿様やってんじゃねえよ」って)反感を買うだろうけどね。あと、43歳でちょっと薹が立っている感はあるけど、「坊っちゃん」の格好で「マドンナ大使」と一緒に道後温泉本館前で記念撮影ってのもまだいけるかもしれん。(ってことは、こんなアホな日記書いている今の俺の年齢の時には、この人すでに一期目の市長になってたんだよなあ...。)

それにしても、投票率30.2%は同じ市民として情けないと思うがどうよ、みなさん。

...とかなんとか言いながら仕事してるうちは持ちこたえていたけど、夜になってやっぱり熱が上がってきたので、明日は家でおとなしく寝ていることにしよう。


2003年4月27日日曜日

それほど気を使ったつもりはないが、天候不順も手伝ってカゼぎみ。朝からセキがでて気分がすぐれず、松山に戻ったころには微熱が出てしまった。今夜はとっとと寝ることにしよう。

松山へ戻る船にちょっと目を見張るくらいの美人と男前くんという若い二人づれがいた。妻と二人で感心して見ていたけど、感心したところでどうもならん。というわけで、この話はこれでおしまい。


2003年4月25日金曜日

最近また『存在と時間』の訳本(中公クラシックス版)が出てますね。

この本の最初の方を読んでいると、「人は誰でも《ここに机がある》や《空が青い》の意味を了解している」とかなんとか書いてあるのだけど、この《空が青い》を「空は青いのである」とか「空は青くある」とか訳さないといけないのが、『存在と時間』の厄介なところだ。おそらく原書では「である 」<ist>のところがイタリック体か何かで強調されていて、それを忠実に再現しないといけないという要請があるのだろう。でも、普通に日本語を母国語として話している人が、いきなり「空は青いのである」とか、ましてや「空は青くある」とかいう表現を見たらギョっとするのではないかと思うぞ。原文の表記を忠実に再現したぶん、原文の言っている内容である「《ある》はいつでも誰にでも現に了解されている」という部分が怪しくなってしまっている。

日本の哲学者ならばここで、それでは《空が青い》と日本語の話者が言ったり聞いたりするときには、存在の了解はそこに前提されていないのだろうか、という具合に問うべきだと思う。存在了解が前提されているなら、表だって《在る》と言わずに存在を了解するその構造を取り出して見せるべきだし、前提されていないなら、それはハイデガーの立論が普遍性を欠くという話になるわけだから。

実際のところ、どうなんでしょうか。半ダースほどの訳本が出ているんだからその辺の議論もすでにされているんでしょう? ...なに? 脳天気に「されているんでしょう?」なんて聞いてないで調べに行け? こりゃ失礼しました...

まるきり話は変わる...

NHK『にほんごであそぼ』は面白い。ちょっとマンネリになりがちみたいだけど、もっともっといろんなネタを紹介して日本語の言葉遊びの面白さを伝えていってほしいものだと思う。俺がとりわけ気に入ってるのは、どこだったかの高校の放送部が作った「じゅげむ」のビデオクリップで、麗しき女子高生たちが「じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょの...」と唱えながら歩いたり自転車に乗ったりするもの。学園ドラマ好きの妻もきっと気に入ると思うのだが...

いっそのこと、もっと学園ドラマにしたらいいと思う。ただしもちろんセリフはすべて「じゅげむ」にする。生徒会室で役員たちが相談事をしていると、生徒会長の友人Bくんが駆け込んできて「じゅげむじゅげむ!」と叫ぶ。一同騒然となり口々に「ごこう!」「すりきれ!」「ごこうのすりきれ?」と言いはじめる。それを制した生徒会長のA子さんが「かいじゃりすいぎょの?」と役員の意見を聞けば、「すいぎょうまつ」「うんらいまつ」「ふうらいまつ」などの意見が次々と出される。云々。

ピアノが済んでから船で妻の里へ。瀬戸内海にしては波が高い。珍しく船酔いして、よろけながらトイレへ。よろけたのは船が揺れたせいだけどね。


2003年4月24日木曜日

とある自動翻訳サービスで、昨日の日記からの1パラグラフを「日→英」翻訳させ、つぎにその結果を「英→日」翻訳させてみた。そしたら、こうなった。

人々が、誘拐する殺人事件に関する1人によって現実に殺されるので、無分別にコメントすることは保留するでしょう。それは婚外交渉の事柄スキャンダルの話です。私は、信号(すなわち政治家が私の女性を囲むと言うこと)を既に無視して、湿度を吸い上げる塩の、あるいはオートバイが団結し、それが1人の政治家当たりものの「特徴」であるのと、それが同じであると思います。ものの「特徴」が作るので[それは、それをよく言う際にとにかくよい、そして]1つのバラエティーショー当たり雑音、誇大に、それは避けられませんですか。しかしながら、私は次のことを考えます、何「大きな騒動を作ってもよい」婚外交渉の事柄開示によって、別の家族および個々の目標と提携する、範囲の単に人です。私、次のことを考える、その人は直立していますか、またそれ、それ、セットする、かどうか、それ、合理的な創造物としての判断標準の中心上の「よい人」である、個々の友達および知人のない人々に関して私においてミスを犯しました。そのようなものから、政策に関して、世界が雑音を出すために来る場合、少なくともこの[政治家の]は質的に改善してもよい。

もはや原作者(俺だ)の意図は完全に失われているけれども、偶然にせよ、部分的にはなかなか味のある表現が含まれている。「それは避けられませんですか」とか「大きな騒動を作ってもよい」とか「合理的な創造物としての判断標準の中心上の『よい人』」とか「その人は直立していますか」とか。きわめつけは、「世界が雑音を出すために来る場合」だな。こりゃなかなかどうして、ちょっとした詩人の仕業だ。

「不倫発覚」が「婚外交渉の事柄開示」であるってのは、言われてみればその通りだ。とりわけ今回のスキャンダルに関しては「発覚」というよりまさに「開示」だし。いや、勉強になるなあ。

ところで、「政治家が私の女性を囲む」というのはどういう状況でしょうね。永田町の人々がわが妻みろりを囲んで「かごめかごめ」をしている状況? そりゃなんかNHK『にほんごであそぼ』の世界だな。って、いや、まあ、この場合の「私の」は“my”じゃなくて“private”だろうけどね。


2003年4月23日水曜日

今回はちょっとDude!!な感じになった...まこぴは違う見解を持つかもしれないけどね。

昼飯を東雲町の「麦まんま」(って名前だったっけな)で食った。お惣菜っぽくてなかなかうまかった。職場にもまあまあ近いし、また行くことにしよう。

店でテレビがついていたのでメシ食いながら久しぶりにワイドショーというものを見た。愛知県の誘拐殺人事件の容疑者逮捕の話と、山崎自民党幹事長(って肩書きだったっけな)の不倫スキャンダル。ワイドショーってのはあいかわらずだなあと思った。

誘拐殺人事件については現に人がひとり殺されているのだから軽々しくコメントすることは差し控えよう。不倫スキャンダルの話だ。政治家が女を囲うというのは、俺はもう、塩が湿気を吸うとか、暴走族が信号無視をするとかいうのと同じで、政治家につきものの「性質」だと思っている。まあそれを言ってしまうと、どうでもいいことを針小棒大に騒ぐのがワイドショーにつきものの「性質」なんだから仕方ないか。だけど、不倫発覚で「大騒ぎ」していいのは、家族その他個人的につきあってる範囲の人間だけだと思う。個人的な交友関係のない人にかんして、その人が清廉潔白かどうか、人間的に「よい人」かどうかを判断基準の中心に据えてしまうのは、俺は間違っていると思う。そんなことより、政策についてこれくらい世間が騒ぐようになったら、政治家が質的に向上するかもしれないな。

え? なに? 騒いでるのはマスコミだけで、庶民はもっとクールだ? こりゃ失礼しました...

想定される反論:

不倫というものは「倫」すなわち社会のルールに対する挑戦である。社会のルールを司るべき政治家が、社会のルールを踏みにじる行いをすることは許されない。

それに対する俺の答え:

許せと言ってるわけではないのだ。たしかに悪いことなんだから。だけど、家族とは何で理想的な家族の姿とは何かというような通念(というのは「あり方」という言葉を使いたくないがゆえの持って回った言い方だ。すまん。)は、ひとりの政治家がそれを踏みにじったくらいでは覆らないでしょう? 「家族」に限らず社会の姿を否応なく変えていくのはひとりひとりの人間の思惑を超えたもっと大きな力でしょう? たとえば、一方に、いろいろなものをもっとたくさん生産してもっとたくさん売るために(「一家に一台」より「一人に一台」のほうが売れるから)個人をターゲットにした商品を市場に大量に投入する製品メーカーがあり、他方にその戦略を可能にした大きな購買力をもった個人がいて、両者の形成するスパイラルが「個人」の重さを増加させ、結果として「家族」の意味を変化させてゆく。そしてそれが「社会が豊かになる」ということの内実だったわけでしょう?

ちょっと「経済決定論」じみてるけど、ルールにしてもモラルにしてもエートスにしても、所詮そういう大きな仕組みとの相関のなかにあって、ひとりひとりの人間の思惑を超えて変化していくものだ。だから「家族とはこうあるべきものだ」という模範を示すべき社会的使命を負った立場の人なんてのはこの世に存在しないと俺は思う。

そんなわけで俺は「関係者でもないのに騒ぐこたぁないだろう」といっているのだ。国の政治を預かる政権の中枢にいる人物なら、上に述べたような「大きな仕組み」の行く末に責任を負うべきなのであって、それをきちんとやっているのであれば(山崎さんがきちんとやってるかどうか俺には判断できませんけどね)不倫スキャンダルについては、となり町の山崎商店(仮名)の旦那の浮気に対するのと同じ態度で臨むのが、つまり「知らん。放っとく。」が正しい。放っといていけないのは政治家の浮気じゃなくて政治家の政策のほうでしょう?

ただ、自分の倫理感(「倫理観」が正しいのか?)に照らして許せんと思う、というのはもちろんありうる。「家族はこうであってほしいと俺は思う」というのはあっていい。というか、ないと困る。だがそれはアプリオリに普遍的な価値ではないし、政治家だろうが銀幕のスタアであろうが、著名人の考えだからより価値が高いということにはならない。たとえ教師という立場にある人でも、普遍的な価値を体現して子供たちを教化しなさいというわけにはいかない。教師が身をもって教えるべきなのは、自分で考えること、自分の生き方を自分で作り出すことのほうだ。

ワイドショーに代表されるマスメディアの伝えるメッセージはこれとは逆の方向に人を向かわせる。見ず知らずの人との間の擬制的共感を生み出す方向だ。社会がそれによって擬似的に「統合」される。政治家の不倫スキャンダルに感じる憤りはこうした擬制的共感(他人事なのに身近なことのように感じる)の上に成立しているわけだ。地域社会とか家族の絆とかの紐帯が失われた現状でもなお「健全な常識」が共有されねばならないとしたら、こうした擬制的共感による統合が必要だというのも一理ある。俺だって「健全な常識」には敬意を払いたい。だが、それを作り出すのがマスメディアの使命であるとは思わないし、マスメディアでなければそれができぬとも考えない。(現状においてそれをマスメディアが生み出しているように見え、そのことを無視はできない、と言ってるだけ。)

え? なに? 「関係者でもないのに騒ぐこたぁないだろう」はわかったけど、自分だっていまここでこんなに長文垂れ流して大騒ぎしてるじゃねぇか? こりゃ失礼しました...


2003年4月22日火曜日

iBookを修理に出した。iPodとEasyDiskでデータを持ち運べば仕事やなんかでは困らない。ただ、家で文書をいじるパソコンがPerforma6420というのはさすがにちょっと苦しい。そして、iBookがないと、DVDが見れず、iTunesが使えない。まさか修理に6月までかかることはないと思うけど、しばきや本舗の演奏会(6月22日)の録音にも使う予定だし、早いとこ直ってもどってきてほしいもんだ。


2003年4月21日月曜日

今夜から水曜の夕方まで妻子は帰省するのだった。前にも書いたとおり、気楽なのはいいが、つまらない。明日は仕事の関係上喋りまくらなければいけない日なのでいいんだけど、人付き合いに疎い俺は、妻子がいない普通の日は一言も口を利かずに過ごしてしまいそうなのだ。

ピアノの早朝練習作戦はこの2週間ちゃんと続いている。この調子でいきましょう。


2003年4月20日日曜日

iBookやっぱり調子よくないね。何か内部で接触が悪くなっているのか、回路の不調なのか。ひざの上で使っているときなど急にバックライトが消えてしまう。左手のパームレストあたりを叩くと元に戻る。偶然だかどうだか、この部分は使っているときにいちばん熱くなるところでもある。キーボードも痛んでるし、これは修理に出すしかないか。

『カルメン』の原作はメリメの短編小説。堀口大學訳の新潮文庫版を買ってきた。オペラのDVDも届いた。『「いき」の構造』の岩波文庫版も買ってきた。さあて、ちとがんばって、いや、がんばらずに、読んでみましょう。近いうちに「読書欄」に新しいのをアップできるかな。


2003年4月18日金曜日

西一万のはなみずきが開花。うちの近所(湊町7丁目)はまだだ。西一万でもビルの日陰に植えられた木はまだ開花していないところをみると、日照時間との関連のようだ。湊町7丁目のはなみずきが開くと、見慣れた通りの風景ががらりと変わり、とても華やかになる。もうすぐだ。

歌劇『カルメン』について。マリア・カラス主演のハイライト版CDと、バルツァとカレーラスが歌いレヴァインが振った公演のDVDをAmazonで買った。DVDはまだ届いてないけどね。カルメンといえば、男を惑わせる悪女の代表みたいなもの。たしかに、普通の基準で言えば「よい人」でないことは確かだ。だけど、オペラの筋をたどってみると、意図的に「男を惑わせる」行動に出ているのは第1幕だけのように思う。生真面目な伍長(だっけ?)のホセをからかって歌う名高いハバネラ「恋は野の鳥」と、女工どうしの喧嘩の末に逮捕されてホセに色仕掛けで助けを乞う「セビーリャの砦のはずれ」がそれ。これが、第2幕以降どうなるかというと、せっかく二人きりになってこれからイイことをしようという段になって「兵舎のラッパが鳴ったから帰らないと」なんてヤボなことを言うホセに怒る場面とか、タロット占いで自分の死期を悟る場面とか、殺されたってイヤなものはイヤよとつっぱる終幕とか、なによりも自由を求める姿勢が一貫している。なるほど「恋は野の鳥」を地でいっているわけで、男にぶら下がって生きようなんてケチくさい根性がない分、現代の女たちの目にはむしろ、天晴れと映るのではないかと思う。九鬼周造によると「いき」というのは《諦め・媚態・意気地》だそうだから、カルメンこそ「いき」の極致といえるかもしれない。


2003年4月17日木曜日

『だんご3兄弟あっという間劇場』のDVDが届いた。非常にうれしい。特典映像のつのだりょうこさんは、子供相手の頭のてっぺんから出る声じゃなく普通に語っている。きれいだなと思う。しかし、『あっという間劇場』の歌が杉田あきひろ&つのだりょうこだとは知らなかったぞ。


2003年4月16日水曜日

久々に姫原の《マルシェ》に行った。和風の好みに味付けした洋食を出す庶民的だがちょっとオシャレな小さなビストロで、東長戸に住んでいた頃はときどき世話になった。しかしずいぶんな御無沙汰だ。妻は初めてだったけど気に入ったらしい。ここ数日あまりちゃんと食事をしていなかったので、とりあえず空腹を満たす。こういうとき俺は、肉料理単品+パスタ+軽いお酒、というパターンで注文する。今回は、若鶏のグリル和風味+ジェノバ風スパゲティ+ハイネケン という無国籍なチョイスとなった。出てきたものは(妻から少し分けてもらった照焼きステーキも含めて)どれもたいへんおいしく、満足する。

《マルシェ》でたまに晩飯を喰っていたあの頃を思い出してみるに、仕事に熱中したり気掛かりなことがあると食事がないがしろになるという点は、当時もいまも変わっていない。だがあの頃とくらべると、俺はもう若くはない。無理のきく身体ではないのだから注意しないといけないと思う。


2003年4月15日火曜日

Safariの新しいβ版が出たので早速アップデートしたら、ブックマークが消えちゃった…というのは早とちり。新しいSafari 1.0 Beta 2 v73ではメニューが日本語化されていて、それに合わせてブックマークの保存場所も「ブックマークバー」「ブックマークメニュー」と日本語表記に変更されている。旧バージョンで保存したブックマークは英語表記の「Bookmark Bar」「Bookmark Menu」というフォルダにちゃんと残ってます。メニューが多言語化されたほかに、タブをつかったブラウズができるようになった。これは「環境設定...」メニューをいじると使えるようになる。かなり便利ですな。

市民コンサートの機関誌づくり。1回出すのに3回会合をひらくその3回目。原稿を持ち寄ってカメラレディの印刷原稿をつくる。夕方6時半から夜10時までかかった。本業でやってることよりよほど「仕事」という感じがする。そして、本業では長時間黙って過ごすから、こういうところではついつい冗舌になる。俺はこういうのも嫌いじゃないんだと実感した。

IO-DATA製のEasy Disk (USB-64ED2)は、買ったままの状態ではDOSフォーマットのボリュームなので、MacOS XとMacOS 9で共用するには、ちょっと使いづらい。MacOS XのディスクユーティリティーでMacOS標準フォーマットに初期化しなおしてから使うのがよいようだ。MacOS 9ではDOSフォーマットでしか初期化できなかった。


2003年4月14日月曜日

iBookが故障中で安心して使えない。持って歩けるパソコンがないので、いろいろなデータをどうやって運ぶかという問題が発生する。ひとまず、iPodを使って切り抜けることにする。職場のパソコンはeMacで、iTunesを削除してあるから、iPodをFireWireハードディスクとしてマウントできるのだ。さらなるバックアップ用に、USB接続フラッシュメモリなるものを買ってきた。IO-DATA製のEasy Disk (USB-64ED2)というやつだ。両方組み合わせて使えば、まあ、データがどこかへ消えてしまうことはないだろう。iBookがなくても大丈夫な態勢を早いとこ整えなくては。

戸田山和久『論文の教室』を読みはじめる。たいへん面白い。うんうん。俺も類語辞典買いにいかなくちゃ...


2003年4月13日日曜日

しまった、文庫本4冊買ったら2冊はすでに持ってる本だった。ううむ。返品はできんし、マーケットプレース直行か... 中村雄二郎『共通感覚論』と木田元『ハイデガー』(ともに岩波現代文庫)だけど、誰かいりません?

積ん読ばっかりしているとこういうことになる。本は買っただけでは場所ふさぎなだけ。読んでどれだけのものを汲み取ったか、そのことに意味がある。積ん読ってのは「こういう本も世の中にはありますね」ってだけなわけで、それで満足していては、ブランド品に身を包めば自分も高級になれると思ってる連中と変わらん。

あと、UNIX USER 5月号に「GNUアーカイブ集2003年度春版」という付録CD-ROMがついていたので迷わず購入。だけど、GNUってCD一枚に収まるもんだったんですね。


2003年4月12日土曜日

吹奏楽の練習。「ゴジラ・ファンタジー」「ゴジラ・マーチ」のあとに「レニングラード」の第1楽章。いつもながら体力勝負だな。でも「レニングラード」は案外楽しいかも。

イラクのフセイン体制がとうとう崩壊した。モザイク国家の独裁体制が崩れたあとは、内乱の血にまみれる恐れが多分にありますね。「内乱は外圧より恐ろしい」とは幕末にアメリカとの交渉にあたった幕府の大使の言葉らしいけど、イラクにもこれで平和が戻ると期待したいな。


2003年4月11日金曜日

iBookの液晶画面のバックライトの明るさが時々いきなり暗くなったり明るくなったりするようになった。画面のハードウェアを制御するチップの不調か、あるいはケーブルそのものに傷でもついたか。今度こそ修理に出さないといけないようだ。きちんとバックアップをとっておかなくちゃ。仕事のデータは職場のパソコン、メールやウェブサイトのデータは自宅のバソコンに移さないとね。市民コンサートの次の機関誌の作業が火曜日に終わるから、そのあと修理に出そう。

メールボックスとウェブサイトのデータをPerformaに移した。メールの環境はPostinoを使っている限り引っ越しに関して不安はない。ウェブサイトのデータは mi2.1.0 を使って編集しよう。仕事のデータは職場のパソコンに置けばいいし(本来そうすべきものだしね)、あとはiTunesで変換した音楽のデータが問題だな。聴きたいときはiPodで聴けるし、そもそもPerformaに入れても再生するには力不足だろうから、とりあえずFireWireの外付けHDDにコピーした。ただ、このHDDがちょっと挙動不審なんだよなあ。


2003年4月10日木曜日

松山市民コンサート(会員制のクラシック音楽観賞団体)の運営委員になったので、運営委員会に初参加してきた。俺は会員むけ機関誌を作ることと、ホームページづくりを担当することになった。若い層の会員を増やしたいのだけど、いまのご時勢、学生さんたちはケイタイの電話代が嵩んで、演奏会にいくどころかCDもろくに買えないそうで、なかなか大変だ。コンサートを聴くだけでなく企画し主催するという経験ができるのと、第一線の音楽家と親しく話ができるというのが、市民コンサートの魅力なので、どうかみなさん(って、誰か読んでますかぁ〜)、お近くの街の市民コンサートをよろしく。


2003年4月9日水曜日

今朝はもうちょっと寝ていたい気もしたけど、起きてピアノの練習をした。夜にやろうと思っても無理だからこれが一番いい方法だと思う。

『天才柳沢教授の生活』を何回かにわけて買い足した。きょう4冊買って19巻まで揃った。17巻まで見たが、すぐに全部読み終わるのは惜しい気がして、今日はこれでおしまいにした。

県会議員選挙の候補者はもっぱら名前を連呼してあとは「お願いします」くらいしか言わない。十数人でている中で、街宣でお願い以外の主張をしているのは二人くらいかな。その、主張のある二人のうち一人がやたらに「無党派」を強調するので(ちなみに、主張のあるもう一方の候補は、党派性をやたら強調する``あの''一派の人)、ちょっと考えてみた。

県会議員の仕事は、県民の代表として県民に成り代わってその意思を議会で表明し、県の意思決定に反映させることだ。だから、議員には県民の意見を広く聴き、集約する手段が必要だ。その点、党派性というものは、うまく使えば、ボトムアップで広く意見を吸い上げるためのシステムとして機能させられるはずだ(現実にはなかなかうまくいかないのだろうけどね)。また、ひとりの代議士が全員の意見を聴くことは理論上は不可能ではない(いや意見を言うだけでも時間がかかるから理論上も不可能だ。だが論理的には不可能ではない)けれども、全員の意見をひとりで代表することはできない(これができるくらいならそもそも議会は必要ない)。だから、掲げる看板が「無党派」であろうがどうしようが、人々の意見を代表するのが仕事の代議士には、無党派ということはありえないのではないか。

今回のこの候補者に関していえば、「既存の党派に属しない」という意味で「無党派」と言っているのだろうし、自前で支持者の草の根的ネットワークを構築していくつもりであろうことは容易に想像がつく。それには既存の党派性の弊害を排する意味はあるだろう。だが、国なり県なりの意思決定のためのシステムとして、支持者の草の根的ネットワークをもって既存のシステムと置き換えることが可能かどうか、俺には少々心もとなく思われる。

まあ、そう言っている俺だって現実に支持する政党はないので無党派層に入れられてしまうわけで、そういう意味では俺も(俺にしては珍しく?)大多数の一部。ただし、これって、大多数の日本人が「無宗教」なのとまったく同じで、その人の行動パターンとして宗教的でないとか党派的でないということを意味しない。

あーなんかまとまりがなくなってきたので今日はこれでおしまい。


2003年4月8日火曜日

なかなかいい天気にならないね。

iBookのキーボードのJのキーだけ、使ってるうちに外れるようになった。修理に出そうにも仕事でも使うし、どうしたもんだろうな。


2003年4月7日月曜日

最近ほとんどピアノの練習をしていなかった。していなかった理由はいくらでもつけられるけど、どうしたって言い訳にしかならない。安くもない月謝を払ってレッスンに行ってるんだから、もうちょっとなんとかしたい。そこで、朝目が覚めたらすぐにピアノの前まで這って行ってハノンのドミファソラソラミレファソラシラソファ云々で指ならしをしてツェルニーを30分ほど練習する、という手法でいくことにした。もちろん、そのためにはいままでより30分早く起きないといけない。いつまで続くか。まあ、やってみましょう。


2003年4月6日日曜日

松山城の堀端で花見。昼の1時すぎから夜8時ごろまで、途中でラーメンの出前を頼んだりしながら、うだうだと飲みつづけた。でも、今年はいつもより花見客が少なかったかも。ちょっと肌寒かったからかなあ。


2003年4月5日土曜日

散髪に行った。その足で、郵便局に書留を取りに行ったけど、ハンコを忘れていた。さいわい運転免許証は(クルマなんか乗らないクセに)もっていたので、街のディスカウントショップで三文判を買ってそれで用を済ませた。

iBookにEGWORD13を入れた。日本語入力メソッドのEGBRIDGE14と、オンライン辞書『大辞林』『研究社新英和・和英中辞典』と辞書ビューアがついている。EGBRIDGEを使ってみた感じは、ことえりより軽快。もっとも、このページも、仕事で書く原稿も、Emacsを使って入力しているから、MacOSの入力メソッドがどうでもそれほど関係ないのだけど。ERGOSOFTは古いMacintosh Plusの時代からMac用のソフトを作り続けているソフトウェアベンダーだ。今回買ったソフトウェアに添付されてきた取扱説明書も、老舗らしく、薄いながらも的確にポイントをおさえたものだった。


4月 金曜日

このところ天気もよくないしちと肌寒い。花冷え。もっとも、この時期の雨は田んぼに水を引くためには大切なのだろうとは思う。県議選が告示されて街宣カーが動き出した。これからしばらくにぎやかだな。


3月 木曜日

んあ〜。ピアノの練習ができてねえよ。日曜日にはそれなりに頑張ったんだけどなあ。ちょっとずつでも毎日弾かないとなあ。


2003年4月2日水曜日

元楽団員で広島在住の鉄平八が遊びに来ていたので皆で飲んだ。本当は夜桜見物の予定だったが、あいにくの雨だったので普通に居酒屋に集まった。週末の楽団の花見の日にはぜひ晴れてほしいもんだ。ひさしぶりに医学生の“さーちゃん”に会った。国試おつかれさま。合格してるといいね。


2003年4月1日火曜日

松山で最初のスターバックスがオープンした。朝に通りかかったら、まだ少し空席があったので、寄ってラテを飲んだ。帰り道、午後6時半ごろに見たら、いっぱいいっぱいでレジの前に列ができていた。次に行くのは新規オープンのもの珍しさが少し落ち着いてからにしよう。