て日々

2017年10月


2017年10月13日(金)くもり

朝、妻がなにやらバタバタしているので、俺が弁当づくりを担当した。その後、いつものドトールでレタスドッグを食いながら、昨日もらった愉快なメールの愉快な話について、ひとり作戦会議。なんかすごく大変なことを例によって軽々しく引き受けてしまった気もするが、実現すればそれは有意義なことだから、ひとつ努力してみる。(この件については、今はまだ未確定であれだけど、そのうち必ず、ちゃんと話しますからね。)

午前中は510くんの自主ゼミ。超積の定義とウォシュの定理が中心。午後は卒業研究ゼミ。10kくんは分割合同の定義と例の話。枝eくんは命題論理のタブロー法の話。

先週の金曜日の日記に書いた問題(体の直積の素イデアルは極大イデアルである)は思いのほか簡単に解けたので、よく似た状況として、コンパクトハウスドルフ空間 \(X\)上の実数値連続関数全体の環 \(C(X)\) の素イデアルについて考えてみる。イデアルがノルム位相の閉集合になっていれば、それは\(X\)の空でない閉部分集合に対応するから、素イデアルなら極大である。それにイデアルの閉包はまたイデアルなので、極大イデアルが閉集合であることは明らかだ。だから問題は、\(C(X)\)の素イデアルがノルム位相の閉集合になっているかどうか、と変換される。この話、イデアルのノルム閉包と各点収束位相での閉包が一致するとか、極大イデアル全体の集合にある位相を入れるともとの\(X\)と同相になるとか、いろいろ面白いことがわかるのだが、さて…

明日の午後には妻の実家を訪ねる予定なので、夕方、フジグラン松山へ手土産の日本酒を買いに行った。


2017年10月12日(木)くもり

nCoくんの3年生ゼミ。濃度の定義。\(\mathbb N\)が有限集合でないことの証明。\(\mathbb N\)と\(\mathbb Z\)が対等であること。\(\mathbb R\)と\(\mathbb N\)が対等でないこと。濃度の大小の定義とその整合性。シュレーダー・ベルンシュタインの定理。濃度の和と積の定義とその整合性。と、まあ盛りだくさんだったが、本人としては濃度の無限和まで話したかったらしい。そりゃ無茶である。

夕方、あるお方から愉快なメールを頂戴して愉快であった。


2017年10月11日(水)はれ

ペンローズの所説に触発されて、チューリング機械では実現できない計算、いわゆる hypercomputation (ハイパー計算) の実現可能性というものに関心をそそられているこの頃である。ペンローズは量子重力理論にそうしたハイパー計算の可能性を見ていたのだが、調べてみたところ、一般相対論の応用としてある種のハイパー計算が構想されているらしい。ブラックホールを回転させる技術が必要なようだから、きょうあす実現するということでもないが、面白そうだ。ただ、この路線を追求するには、量子コンピュータとか、いわゆる自然計算(自然界に計算論的な現象を探す試み)についても勉強せねばならん。あれもせんといかん。これもせんといかん。


2017年10月10日(火)はれ

午前中、物理学科の学生さんが位相空間論の質問に来たので「任意の集合の境界はかならず閉集合」ということを3つくらいの観点から説明して差し上げた。物理学徒が位相空間論を何に使うのかと聞いたら、量子力学をやるためのヒルベルト空間論で必要だという。まあ、そりゃそうか。

夜は1年間の海外出張から帰ってきたYP准教授の帰国祝いの飲み会。YPさんの人徳を反映してか、教員も学生もけっこうな出席率であった。こういう席にくると、俺は別段嫌われているわけじゃないということに気づく。みんな、俺がちょいと偏屈だから扱いに困っているだけなのだ。

西堀端の夜の景色

飲み会を終えての帰り道、堀之内公園で心地よい夜風に当たって星空を見上げながら酔いを醒ます。飲み会も嫌いじゃないが、ひとりに返ったこういう静かな時間が俺には幸せである。とはいえそれも、さっきまで気分よく飲めたおかげ。ありがたいことだ。


2017年10月9日(月) 体育の日はれ

木曜日には「きょうのうちに読み終えられるはず」と豪語していいたペンローズ『心は量子で語れるか』を、今朝ようやく最後まで読み終えた。これだけ遅れに遅れたのは、なかなかナサケナイ。

ナサケナイので、せめて何かもう1冊と思って、ファインマンとワインバーグの『素粒子と物理法則』(小林澈郎訳, ちくま学芸文庫)を読んだ。ざっと目を通した、という程度で、門外漢の俺にはまだまだ難しくてよくわからんのだが、二人とも、量子力学に各種の対称性の議論を追加することで素粒子の理論が自然な形で得られる、と言っているらしい。ポール・ディラックが電子の量子力学をローレンツ変換で不変な形に定式化し、そこから陽電子の理論が生まれたという経緯や、エネルギーや運動量がそれぞれ時間方向と空間方向の平行移動に対する状態ベクトルの変化に注目することで自然に定式化できること(他の物理量についても同様)などが、例として挙げられている。

夕食後、少し目先を変えて『ゲーデルと20世紀の論理学(ロジック)』第1巻「ゲーデルの20世紀」所収の飯田隆「ゲーデルと哲学─不完全性・分析性・機械論」を再読。が、ほどなくドロップアウトして就寝。続きは明日。


2017年10月8日(日)はれ

昨日ずっと頑張っていた妻はさすがにクタビレて寝ている。朝と昼の飯を担当。それと洗濯をする。昨晩作りおきしたカボチャの煮物を朝飯に出したら、寝ている妻にと思って残していた分まで倅が食ってしまった。仕方のないやつだ。昼飯に肉じゃがと並行して3度目のカボチャの煮物を作ってようやく妻に出せた。

なかなか本が読めない。家ではどうしようもないと思って夕方本と筆記具を持って(iPhoneは持たずに)散歩に出る。手持ちの現金がほとんどないので、カフェでコーヒーというわけにもいかない。 コンビニで買った缶チューハイを片手に、スーパーマーケットの外に置いたベンチに座って『心は量子で語れるか』の後半を読む。3人の学者(アブナー・シモニー、ナンシー・カートライト、スティーブン・ホーキング)がペンローズの所説に批判的にコメントし、ペンローズが答える、なかなかエキサイティングな場面だ。しかし酒を飲みながら外のベンチで取ったノートを帰宅後に見直したらさすがに字がグチャグチャだった。

パブリックスペースのベンチで、ノートに下手な字で何やらクチャクチャ書き散らかしている酔っ払いの男というのは、いかにも怪しいな。


2017年10月7日(土)くもり

朝、娘を連れて外へ出ると、ちょうど、うちの町内の神輿と、道を隔てた隣町(ミキ学部長の町内)の神輿が、コンビニの駐車場で鉢合わせをするところだった。これを生で見るのはけっこう感激する。

ダイキに行ってボールペンの芯を買った。ずっとゼブラのSurari0.7を使っていたわけだが、今年の3月に卒業したOz8くんとKdくんがJETSTREAMの4色ボールペン+シャーペンというものをくれたので、この夏あたりからそれを使っているのだ。娘は帰りに近くのダイソーで画用紙などを買っていた。

妻は朝の4時から町内の子供らの神輿巡幸の引率。昼過ぎに抜け出してある私立大学へNPOの研修の講師をしに行って、戻ってきたらすぐに祭の行列に戻るという神出鬼没ぶり。昨年同様、夜の10時ごろに戻ってきた。それでまあ食事の用意などは俺が担当。晩飯は豚肉のもやし炒めとカボチャの煮物。カボチャが好評だったので、夕食の片付けをしてから明日に備えてもう一度作る。天気がよくなくて洗濯物が溜まっているのが気がかり。


2017年10月6日(金)あめ

午前中は510くんの自主ゼミ。「ゲーデルと20世紀のロジック」第2巻第II部を読む。今日のお題は§2.1「ウルトラフィルター」で、おおむね標準的な内容だったが、最後に、体の族 \(F_i\) \((i\in I)\) の直積環 \(\prod_{i\in I}F_i\) の極大イデアルと添字集合 \(I\) 上のウルトラフィルターの間に自然な1対1対応がつくという指摘があってちょっと面白かった。というのも、一般の環の極大イデアルの存在証明には選択公理のフルパワーが必要だが、ブール代数のウルトラフィルターの存在はいわゆる素イデアル定理(任意の環に素イデアルが存在する)と同値で、選択公理より真に弱いのだ。体の族の直積として与えられる環の場合は、素イデアル定理で極大イデアルの存在が示せるわけだから、そこには一般の環とは異なる、体の直積の特殊事情のようなものがあるはずだ。無限個の体の直積は単項イデアル環にはならないのだが、一般の環にはない「素イデアルはすべて極大イデアルである」という性質があるのだろう。

午後はITくんとA4くんの卒業研究ゼミ。


2017年10月5日(木)あめ

午後には3年生nCoくんのゼミ。寺澤順『現代集合論の探検』(日本評論社, 2013年)を読んでもらう。初めてにしては要領よく上手に喋ってくれた。板書が少々雑だったのと時間が余ったのは残念だったが、それはこれから場数を踏んで上手になってもらえばよいことだ。集合族の直積の理解が少し怪しかったので、あとで補足した。

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ちくま学芸文庫版『ペンローズの〈量子脳〉理論』(2006年)の文庫版あとがきで、茂木健一郎は《最近のペンローズは、本書にも収められているハメロフとの共著論文にあるような「マイクロチューブルにおける量子重力的効果が意識をもたらす」というような議論は表だってはしなくなった。最近著 The Road to Reality (未邦訳)は、数式を多数用いて宇宙の成り立ちを論じた、一般には難解な物理学の本である。ペンローズの関心の中心は再び数理物理学に戻っていっているらしい。》と書いている。

少し調べてみたところ、意識現象を支える物理的メカニズムに関するペンローズとハメロフのモデルは、L.K.McKemmishらの2009年の研究論文において、既知の実験結果等からみて生物学的に受け入れがたいと指摘されているようだ。またB.J.BaarsとD.B.Edelmanの2012年の記事においても、量子論的なモデルによって意識現象が説明されるには現在のところ至っていないと述べられている。とはいえ、心理現象の物理化学的メカニズムの量子論まで視野に入れた探求は、いまもハメロフを含む人々によって続けられているようだ。

実はPubMedで論文を探すのも俺にとっては初めての経験である。数学者はもっぱらMathSciNetを使うのだ。

それで、意識の物理的基盤の解明に向けたペンローズの構想はひとまずポシャったということになるのかもしれない。とはいえ、俺にとっては、それはあまり問題ではない。俺の知りたい、考えたいのは、そこではないのだ。

『心は量子で語れるか』の第3章までを読んだ限りでは、ペンローズは次の3つのことを主張しているように見える。

  1. 意識という現象には計算可能的でない部分がある。
  2. こうした計算不能性は(量子重力を含む)量子的過程に起因する。
  3. 意識現象の物理的メカニズムは具体的にはマイクロチューブルにおける Orch OR であろう。

このうち(3)が、McKemmishらの研究で否定されたらしい。(1)と(2)についても、その立証にペンローズがどれだけ成功しているかには疑問の余地がある。そもそも鍵となる量子重力理論自体が未完成なのだ。したがってペンローズの理論は意識という現象の説明に成功したとはとてもいえないわけだが、しかし(2)は(1)や(3)の不成功とは一応独立に考えられる話である。そこには、まだ確かめるべきことが残っている。というのも、ペンローズのいう決定論的かつ計算不可能な動作をする物理的なメカニズムあるいは「装置」が実在したら、あるいはその原理的可能性があるというだけでも、アルゴリズムと計算可能性にかんするチャーチ=チューリングの提唱の再検討が必要になるだろうからだ。これはちょっと大変なことである。この場合、その物理的なメカニズムがヒトに内在しているかどうか、ヒトの脳がそうした「装置」の実例であるかどうかは、さしあたり問題にならない。極端な話、この宇宙のどこかにそういうものが実在しうるかが、まず問題なのだ。われわれがその「装置」にアクセスできるかどうかが問題になるのはその次だ。


2017年10月4日(水)はれ

引き続きペンローズ『心は量子で語れるか』(講談社ブルーバックス)を読む。第3章の大事なところなので、ノートに要点をまとめながら読む。ニューロンやシナプス結合の図を自分が研究用ノートに描く日が来るとは思わなかったが、けっこう面白いので、楽しく勉強させてもらっている。

シナプスの模写


2017年10月3日(火)はれ

このシーズンならではの国民行事。というのは大袈裟だが、ご存じ「象の卵クエスト」の文書を、夜22時までかかって書いた。少々杜撰な文書になったかもしれないが、ひとまず形になった分、どうしても書けんかった昨年なんかより、よほど気分がいい。

日曜日に大学の元同級生から久々にメールがあり、今朝は高校の元同級生から思いがけずメールがあった。日曜日と昨日に事故を見たり聞いたりした。仕事部屋の電話は相変らず故障中だ。ラジオのニュースも騒がしい。あ、それはいつものことか。しかし、10月になってからの、この妙な流れ。なんかドラマの最終回直前みたいやなあと思った。


2017年10月2日(月)あめ

先週末から、交換機の故障で仕事部屋の電話が使えない。まあ、故障してなくても俺は外線からかかる電話にはまず出ないけどね。今日はペンローズ『心は量子で語れるか』を第2章までメモを取りつつ読んだ。ランベルトを「ランバート」、主教ジョージ・バークリを「ビショップ・バークレー」、カール・ポパーを「ポッパー」と表記している等々、翻訳にちょっと残念なところがあるが、話はだんだん面白くなってきた。

ピアノのレッスン後、いつものドトールで『心は量子で語れるか』のエントロピーの説明(テーブル上のワイングラスが落ちて割れてワインが床にこぼれ散る例)を読んだ。ミクロな物理法則が時間反転に関して不変であるのにエントロピーが増大する向きにしか現象が推移しないのは、エントロピーの大きい状態に対応する相空間上の領域が、エントロピーの小さい状態に対応する領域とは比較にならないほど広大であるという、たったそれだけの理由だとの説明。そのくだりを感心しながら読んでいたちょうどそのとき、店のカウンターの向こう側で、ガシャン・パリンという音がした。グラスだかカップだかソーサーだかが不可逆変化して、エントロピーが急激に増大したようだ。

話は前後するが、ピアノのレッスンのときに発表会のエントリーをした。料金は給料日まで待って貰わにゃならん。出し物は日本の歌もののピアノアレンジ。恥かしいから曲名は本番が済むまで内緒。

やる気のないあひるやる気のないあひるやる気のないあひる

昨日あんなことを日記に書いたばかりだが、またまた、世の中には「通りすがりの看護師さん」が必要だという事例。今日の夕方、妻が倅を塾に送る途中いつもと違う道を通ったら、クルマと自転車の事故の現場を通りすがったという。実習帰りの専門学校生が自転車に乗って通行中に乗用車にはねられ、骨折だかヒビだか、脚をやられている。救急車は目撃者が呼んでくれたらしいが、被害に遭って茫然自失状態の学生さんを、通りすがりの看護師さんである妻が元気づけ、学校等への連絡を手助けしてやったそうな。

はねた車の運転手もその場にいたというから、それなりの保障はされるのだろう。今回の場合、実習からの帰りなので、学校でそういうケースを想定した保険に入っていてくれればいいのだがと思う。

聞くところによると、今回の事故では、黄昏時、混んだ道路、雨上がりの濡れた路面、黒いスーツ姿と、教習所でも事故に遭いやすいと教わるような条件が揃っている。自分たちだっていつ被害者になるか、あるいは加害者になるかわからない。気をつけた上にも気をつけなくちゃならない。なんといっても安全が第一。


2017年10月1日(日)はれ

夕方4時半ごろ、コミセンの図書館に行っての帰り。松山市駅ビルの下りエスカレータで、前に乗っていた老夫婦の、お爺さんのほうがよろけて転倒、そのままエスカレータの段を転げ落ちていった。お爺さんは頭を打って怪我をしたし、お婆さんは腰を抜かすし、さあ大変である。エスカレータの降り口のところでお爺さんは倒れている、お婆さんは座り込んでいる。何人かの人が駆けよって来た。なにか手助けできることがあるかもしれないからと、俺もしばらく近くにいた。2人の駅員さんがすっ飛んできて、1人がお婆さんに事情を聞き、1人がエスカレータを停めた。通りかかった看護師さんらしい女性がお爺さんに話しかけながら介抱している。お婆さんの受け答えはしっかりしているし、お爺さんも意識はある。大怪我ではないようだ。しかし、頭を打っているから、一度は医者に見せねばなるまい。駅員さんが救急車を呼んだという。そこまで見届けて、俺はその場を離れた。

妻はそのとき例によって某巨大ショッピングモールの医務室詰めのバイトに行っていたわけだが、それはまさに、そのショッピングモールで万一こういうことが起こったときに駆けつけるためなわけだ。そういう人員の備えが、世の中には本当に必要なのだと、改めて思い知らされた事件だった。

話が前後するが、コミセンでは えひめ国体のなぎなたの試合が行われていたそうだ。図書館自体は人がかえって少なかったが、キャメリアホール前のピロティが時ならぬ土産物屋になっていて、道着姿の女たちがいっぱい歩いていた。図書館では池内紀訳の『ファウスト』等々を借りた。