て日々

2025年5月

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久々に妄想垂れ流しモードでいってみよう。《←えっ久々? いつもじゃんか!! というツッコミは却下。10年20年前と比べて、この「て日々」でも実社会でも、言うことがおとなしくなり、ものわかりがよくなり、狂気が影を潜めたことを、本人は多少なりとも気にしているのだ。》

フロイトの理論と微分幾何学を比較してみること。仮説としての無意識は実体としては捉えられていない。観測されるのはコミュニケーションのズレ(日常会話での言い間違いなど)である。ある空間のうちに居ながらにしてその空間自体の歪曲の具合を計測することがいかにして可能か。この観点から橋爪大三郎の古い論考「フーコーの微分幾何学」の議論を修正できそうだ。

リーマン幾何学:ユークリッド幾何学 = フロイト:デカルト = アインシュタインの一般相対論:ニュートンの重力論 = マルクス経済学:古典派経済学 といった比例式が成り立ちそうだ。平たく言えば 現実のコミュニケーション:理想のコミュニケーション = 曲がってる:まっすぐ という比例等式だ。そしてこれらの比例等式に共通の比例定数は「ちから」あるいは「権力」だ。かつて『逃走論』での浅田彰との会話の中で柄谷行人がフロイトやマルクスにカントール/ゲーデル的契機を見出すと言っていた<要確認>のは、むしろリーマン幾何学的契機というべきではなかったか。いや、当時の柄谷にそれが言えなかったのは、彼が脱構築的な思考を志向していたからだというのは理解できるのだけれども。

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狂気ということで思い出したのだけれど、中世において修道院は「おかしな人・いらない人」の収容施設という意味を持っていただろうか。近代日本の文壇なんてのもそうだったという説がある。新時代を切り拓く人はしばしばおかしな人から出る。おかしな人だからといって殺してしまうわけにもいかない。彼らを収容しておく座敷牢が必要だった。いまでは病院がそうだ(それに学校も、労働年齢に至らない若年者という弱者を収容する施設という意味を負わされつつある)が、そんなけっこうなもののない古い時代に、寺とか修道院はそういう意味を負わされていたのではないか。もともとは大学だってそうだったかもしれない。科学革命・産業革命・市民革命があって、大学が学校化してから、いろいろ変わったと考えられないか。それ以降は学者が制度内の存在になって「新時代を切り拓く仕事」という矛盾を孕んだ不可能な仕事を任されることになったのではないか。いままであの分厚さと文字の細かさに圧倒されて敬遠していたのだけれど、これはやはりどうあってもフーコーの『狂気の歴史』と『監獄の誕生』を読まねばならん。

それにしても制度内の学問なんてどのみち不幸なものだ。どんな仕事も、ある程度は「未来を切り拓く」仕事だが、とりわけてイノベーションを起こすことを請け負うというのは不可能な仕事というしかない。俺の考えでは、学問なんて、もっと狂気に近い「これはしゃあないなあ」というようなものだ。それがたまに役にたつことがあるという事実があるばかりで、学者たちはなにも役に立てるつもりで学問なんかやってない。が、いまの世の中では、いやもう最初っからあっぱれ世の中の役に立てようというつもりで学問をしているんですよ、というポーズをとらねば生きていけない。

学問に限らず、全般に狂気じみた考えが世の中の役に立つのは(考えてみれば当たり前のことだが)世の中の歯車が狂いはじめたときである。機械の歯車と違って世の中の歯車のピッチは変化するものだから、いつもと違う歯車が噛み合う場合がある。そういうことがあるから、いろいろな歯車を道具箱に確保しておくことに意味がある。何度でもしつこく言うが、学問なんてもともと半ば狂気なんだ。合わない歯車、変なピッチのネジなんだ。いつか役に立つ日が来るまで、規格の合わないネジや歯車を道具箱にしまっておく余裕が社会にあればいいが、いまはどうも、余裕の必要性を真剣に論じることが禁じられている。いやそれどころか余裕そのものが禁じられている。これは一昨日の日記に書いたことに通じる、ナニゲニ大問題である。

社会において余裕を禁じられた情況。もうちょっと上の世代の人たちはこういうのを革命的情況と呼ぶことを好んだかもしれない。だからといって革命が起こるとは俺は思っていない(旧制度の中で力を貯めてきていまこれから社会を転覆する新しい勢力があると思えない)けれども起こらないとも思っていない(そういう新しい勢力のことが俺に見えていないだけかもしれない)。そんなものは放射性アイソトープみたいなものだ。安定な通常の原子と放射性アイソトープとは、ほんのちょっとの質量の近いでしか区別できないし、放射性があるからとて、いつ放射性崩壊するかは完全に確率的にしか決まらないことだからな。そんなものはあとになってみないとわからないことだ。

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だいぶ脱線した。俺は知力気力体力いずれも乏しい単なる阿呆ではあるが、生きているうちに、リーマンの微分幾何学とアインシュタインの重力理論とフロイトの心理学とマルクスの経済学とフーコーの権力論を同列に、かつ、ひとつの根源から統一的に論じられる人間になりたい。数学教師の堅い仕事はそのための隠れ蓑かもしれない。いや、隠れ蓑だからといっておろそかにするつもりはないが。

つらつら考えてくると、数学や数理哲学の研究者としての自分が地域保健/公衆衛生を専門とする研究者の妻とどれほど違う宇宙に生きているのか、驚くばかりだ。思うに、あれとこれを《研究者》という一言で同列に括ってしまうのが、まあ制度上仕方のないことだというのはわかるけれども、一緒に括ってしまうのがいけない。それでも俺は、いますぐにも実際の世の中の役に立たねばならぬ医療関連の分野に棹さすことを自覚しながら研究を続ける妻を尊敬しているし、研究者としての人生と大学教員としての生業を妻と共有できていることを喜んでいる。(とはいえ妻よ、あなた一人が無理をして身体を壊して犠牲になったとて、それで世界を救うことはできない。とにかく身体だけは大切にしてくれ。そして細く長く仕事を続けてくれ。)

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ビートルズに Fool on the hill という曲がある。丘の上にいつもひとりぼんやり薄気味悪い笑顔で空を見ている男がいる。誰もがバカにして相手にしないその男は、ただ夕日が沈むのを眺めている。だが、その男の心の目は、地球が回っているのを見ている。そういう趣旨の歌だ。

これは難しい問題を含んだ歌だ。

この歌が感動的な理由は、地球が回っているという、誰もが気がつかないがまぎれもない真実を、その男がひと知れず見抜いていたという点にある。これが「その男の心の耳は月が歌っているのを聞いている。」だったら、全然違った印象を与えただろう。

すべての天体が地球の周りを回っていると誰もが信じていた時代に心の目で地球が回るのを見るためには、それこそ丘の上の阿呆でなければならなかった。だが、逆に丘の上の阿呆がみな、誰もが信じているドグマに反して真実を見ているかというと、そうは問屋が卸さないだろう。

丘の上の阿呆がみんながみんなコペルニクスやガリレオやダーウィンだなどと言うつもりはない。勘違いされたくないのでハッキリ書くけれども、自然科学研究という文脈で、正統的な科学といわゆるトンデモすなわち偽科学を両論併記的に同等に扱うことには、俺は断固反対だ。

ただ、すべてが行き詰まり何かが変わらねばならぬときに、それを変えられるアイデアを出すのは、やはり丘の上の阿呆だろうと思っている。

これを言いかえれば、丘の上の阿呆のみなさまにおかれましては、ただの阿呆=ただの厄介者で終わらないためにも、しぶとく生き延びて、最終的に勝利しなければなりませんよ、というわけだ。いまのこの社会を覆うナニゲニ大問題に対抗するには、雑草のようにゴキブリのようにシブトクなるほかない。

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というわけで、シブトク生き延びるため、夕方にフジグラン松山に買い出しに出かけた。荷物が増えたので電車に乗るか歩くか少し迷ったが、歩いて帰った。そしたら、途中で少しいいことがあった。結果オーライだ。

またしても、宵の口に寝落ちしてから未明に目が冴えて眠れないという事態になったので、もう居直ることにして朝3時半ごろからカレー作りを始めた。さしあたり鶏もも肉がないので、鯖カレーである。鯖の水煮を2缶使ったが、一味足りない感じだったので、後追いで鯖の味噌煮を1缶入れた。味見してみたところ、まず甘みが来て、次に鯖の旨味が来て、スパイスの香味が来て、最後に辛味がくる。人前に出せるかどうかというと味とビジュアルの両面で微妙だが、自分で食う分には問題ない。つべこべ言わず、これで週末の給料日まで生き延びよう。

午後には下伊台のソリアーニまで光永佳代さんのフルートと植野ゆかさんのハープの演奏を聴きに行ってきた。場所がちょいと不便で、お天気がいまひとつだ。柑橘の花の香るこの季節の晴天の日にこの田舎の風景の中に来れたらさぞかしよかったのだろうけれど。

しかし演奏はすばらしかった。イベールの「間奏曲」やマクスウェルの「ひき潮」のハープ版原曲が生演奏で聴けたのがうれしい。グランドハープを間近に見ながら生演奏を聴くのは初めての体験で、けっこうでかい音も出せる楽器なのだと知った。それに、フルートは音色的にハープに合いやすいと思った。

いやあ、たまには音楽を聴きに出かけなくちゃね。

で、コンサートの休憩時間中にスマホを確認したら、今年3月29日にあった「大人の音楽会」について連絡が来ていた。次は10月だそうだ。一も二もなく出演することに決める。今度はサックスを吹かせてもらう。

午前中は家で完全にダラダラと過ごした。午後は少し用があるので出かける。というのも、娘がネットで注文した雑誌が昨日どうしたわけか娘の住む京都のアパートではなく松山の実家に届いたから、転送してやらねばならぬのだ。中央郵便局へ行ってレターパックライトで発送しよう。そのついでというのもおかしいが、コミセンの図書館に行って本を返却しよう。いや、やはり全然読まなかったな。情けない話だが。

郵便局に行った帰りの足で一色楽器に寄って油を売っていたら、立て続けに2人の中学生の来客があった。

倅の出身中学に通っている1.10.1.6.10くんは、俺が一色楽器に行ったときには、上の階で、3月に白石バンドで共演した木村先生から、サックスのレッスンを受けていた。しばらくはロングトーンやスケールをやっていたが、そのうち「テイク・ファイブ」のメロディーが聞こえてきた。レッスン後、1階に降りてきた彼と木村先生をまじえてしばし雑談した。1.6.10くんは、ゆくゆくはジャズをやりたいらしい。中学校の体操服を着ていたが、長めの髪を後ろでくくっている。俺が中学生のころなら考えられなかったが、このごろは、女の子と同じ長さまでなら男の子が伸ばしてもいいらしい。なるほど。レッスン後の雑談で「よく言われるんですけど、サックスのスケベな音ってどういうのですか?」なんて質問してくれる中学生はなかなか望みがある。話してみると、受け答えはちゃんとしているし、だいいち低めの声と落ち着いた話しぶりが好ましい。次々回以降、白石バンドで共演することになるらしい。それは楽しみだ。

そのあと、声楽の道を歩みたいという中学生の女の子が来た。一色社長と並んで僭越ながら俺も (音楽的なアドバイスなどできるわけもないが) この先の道の進み方について多少のアドバイスをした。大人びて礼儀正しい、しっかりした子だった。あきらめずにがんばってほしい。

おかげで中学生に対する認識が大いに改まった。一色社長によると、中学生は中学生なりに、ちゃんとものを考えている。そこらの中学生がアホガキに見えるのは、学校や家庭でさんざんアホ扱いされ、それらしく振る舞うことを学習してしまっているからだそうだ。そしてその原因は親にもあるが、とりわけ教師にあるらしい。それは、なんとなくわかる。

学校の枠から外した形で、中学生なり高校生なりを一端の社会人として扱う道があればいいが、それがまた、いろいろの理由でなかなか作りにくい。というのも、そうした道を作る下敷きになるべき地域社会というものが痩せ細りきっているからだ。この国の将来を考えると、これはナニゲニ大問題である。

俺の観点から言えば、この大問題の本質は労働問題である。いってみれば経済構造全体に関わる問題である。俺はこの問題が、友人のなんちゃらさんみたいに不法滞在(?)の外国人を排除することで解決するとは思っていない一方で、ひとにやさしい社会を作ると言いながらイヌネコの保護や子ども食堂の活動にかかりきりになっている一部の自称市民派のやりかたで解決できるとも思っていない。(いやいや、イヌネコの保護も子ども食堂も個別の活動としては大切なのだけどさ。) とはいえ、それでどうすればいいのかといわれたら、ああああ。俺にも名案があるわけじゃない。というわけで、きょうのように若い人たちとの出会いを大事にして、人の輪を広げながら、あきらめずに生きていくほかはない。しぶとくズルガシコク生き伸びながら、自分に何ができるか考え続ける。

小雨がぱらついている。仕方がないので電車で大学に行く。きょうは金曜日だが、火曜日のスケジュールで授業をする。なので「数学の基礎」は午後からの火曜日クラスで、先週金曜日と同じく \(\forall\) と \(\exists\) の話をした。

夕方になっても雨がなかなか止まない。まあそんな日もある。帰りは雨の中を小一時間歩く。車はたくさん通るが、歩いている人はだいぶ少ない。雨の中をひとり傘をさして歩くのは、別段みじめではない。が、風流というほどでもない。まあ、酔狂といったところだ。さすがにいろいろ濡れたが、それほど被害はない。

午後に卒業研究ゼミをやる。前原昭二『記号論理入門』の第1章が済んで、第2章の \(\lor\) に関する推論規則のところまで進んだ。\(\lor\)-除去の推論はややこしい。このあとさらに \(\neg\) に関する推論規則や排中律などが入ってくると、さすがの自然演繹もあまり自然とはいえなくなってくる。だが、面白くなるのはそこらあたりからだ。

夕食の後に明日以降に備えて鶏むね肉を塩ゆでにした。ゆで汁にいいダシがとれたので醤油とごま油を入れてスープにしてラーメンを作って食べた。なかなかうまかった。うまかったはよかったのだが、きょうは晩飯を2回食ったわけで、ちと塩分と糖質をとりすぎたかもしれない。

宵の口に寝落ちして夜中に目が覚め、それから寝つけないというのを、またまたやってしまっている。これも身体に悪い。

嘉田さんの近著『数理論理学』(森北出版)の情報が流れてきた。来月刊行だそうで、これは要チェックである。

日中はグダグダするばかりで進捗がない。夕方から歯医者に行き、運動不足解消のためにそこらをぐるりと歩いて回ったあと、家でひじきの煮物とかみなりこんにゃくを作った。

午前のうちはショボショボと雨が降っていた。今日ぐらいは家でおとなしく本を読んでいよう。BGMはチャイコフスキーの交響曲4番5番6番、カリンニコフの交響曲1番2番、サン=サーンスの交響曲「オルガン付き」といったところ。

道後へ散歩にでかけた。それなりに人が多く、道後温泉本館には行列ができていた。並んで待って風呂に入るってどういう気分なんだろうな。

いつものようにカレーを作る。今回は最初のクミンシードを炒める時間をこれまでより長めにとった。ちょっと油が多かったかもしれない。ずいぶん前にパルタジェの遺品としてもらったクミンシードがさすがに残り少なくなったので、午後に散歩がてらナマステRARAに行って買い足した。これで当分カレー作りは安泰だ。

朝食のあと、『心の影』を広げて読み始める。iPhoneで野鳥のさえずりの音源をループ再生し、MacBook ProではChillアプリで小川の流れのサウンドと、標準のミュージックアプリでポール・オデットのリュートの演奏をエンドレスで小さく再生する。まあそういう現実離れしたサウンド環境を作り、窓を開けて五月の風を招き入れ、要点をメモしながら本を読み進むのだ。もっぱら林一訳のみすず書房版を読むが、この訳者を俺は全面的には信用していないので、Vintage版ペーパーバックの原書も用意してある。訳文が不明瞭な時には原文を確認せねばならないし、参考文献リストにアクセスするにも別冊子があるほうが便利だ。

午後には散歩に出た。一色楽器に立ち寄って、一色社長や居合わせた川尻さん、光永さんと話し込んだりして、ちと長い散歩になったけどな。

というわけで「数学の基礎」で \(\forall\) と \(\exists\) の話をしてきた。講義資料には \(\forall x\in X(p(x))\) を証明するためには《任意の \(x\in X\) をとり、\(p(x)\) が成り立つことを示す》なんて書いたが、これだけでは説明になっていないので《なんらかの \(x\) を任意にとるというのは、それが集合 \(X\) の要素だということ以外いっさいわからない。\(x\in X\) だという情報だけから \(p(x)\) が成り立つことが示れば、\(x\) は \(X\) の要素だったらどれでもいいんだとなって、\(\forall x\in X(p(x))\) が言えたことになる》とか《自分は小屋の中の占い師で、\(x\) は占ってもらいに入ってくるお客だと思え。入ってくるのは入ってくる人の任意であって、迎えるこちらの任意じゃあない》などなど、いろいろ工夫してしゃべった。

多重量化は頭が混乱しがちな部分だ。\(\forall x\in X\exists y\in Y(p(x,y))\) と \(\exists y\in Y\forall x\in X(p(x,y))\) は違うぜ、というのを形式的にばかり話していては仕方ない。《たとえば \(H\) をすべての人の集合として \(p(x,y)\) は \(x\) が \(y\) のことを好きだ、と読んでみよう》と言ってみた。 \[ \begin{align*} \forall x\in H\exists y\in H&(p(x,y)) \\ \exists y\in H\forall x\in H&(p(x,y)) \end{align*} \] と書いて、《日常的な思考の中で「どんな人も誰かのことが好きだ」というのと「すべての人に好かれるような人気者がいる」の違いがわからない人はいない。形式的に書かれた表現がわからないのは、あなたたちの頭が悪いからでは決してない。こういうふうに形式的に書くということ自体に不慣れなだけだ。》と力説した。この例については、あとの演習の時間にちょいちょい質問されたり、仲間内で議論したりしていた。日常的な例を出したからといって、全員にすぐにパッとは伝わらないもののようだが、関心は引いたようだ。

存在命題に関連した証明で一番問題になるのは、途中に(あるいは仮定として) \(\exists x(p(x))\) の形の命題が出てきた場合だ。しかし、今回その話には触れなかった。

午後には卒業研究ゼミをやった。前原昭二『記号論理入門』(日本評論社)の第1章の§7〜§9といったあたりを読む。毎週同じことを言っている気がするが、本を注意深くていねいに読むということを、ゼミを通じてまず学んでもらわんといかん。とはいえ、この本での《束縛変数》と《自由変数》の説明は、ていねいではあるが少々持って回っていて、直截とは言いがたい。たとえば、これは前原先生の初学者への教育的配慮から出た例だとは思うし、かくいう俺も、この話の流れで著者以上にうまく説明できるわけではないが、《2次関数 \(f(x)=ax^2+bx+c\) 》と言ったときの \(x\) は束縛変数と考えねばならない、なんてことは、初学者に言うとかえって混乱を招きそうだ。

そういえば明日の「数学の基礎」でも \(\forall\) と \(\exists\) の話をすることになっている。余計なことを言って初学者を混乱させないように気をつけなくては。