大学生協の書店で田中尚夫先生の新著『記述集合論要説』(日本評論社)を見かけた。実物を見るのは初めてなので、手にとってみたら、扉をめくったショッパナの緒言に俺の名前が載っていて驚いた。こりゃいけない。不意打ちを食らった。すぐさま本をレジに持っていった。田中先生は緒言で、俺の古い2004年のノートを参考文献に挙げてくださったうえ、いずれ俺かフチノさんがもっと新しい内容の本を出すはずだという意味のことをおっしゃっているのだ。むむむむむ。こりゃいけない。いけない いけない いけない。一方的にバトンを渡されてしまった。だが他ならぬ田中尚夫先生の言葉だから、俺としては襟を正す。
某所にも書いたとおり、田中尚夫先生は記述集合論や再帰理論(計算可能性理論)において世界的に著名な方である。Sacks-Tanakaの定理 (正のルベーグ測度をもつ \(\mathit\Pi^1_1\) 集合は超算術的(hyper-arithmetical)な要素を無限個含む) といえば、実効記述集合論をちょっと勉強した人なら誰でも知っている。『選択公理と数学』などの著書もつとに知られている。俺が初めてマトモに集合論を勉強したのは学部3年生の頃で、田中先生の『公理的集合論』を取り寄せて読んだのだった。
夕方には倅が京都の寮を退去して帰省してきた。一週間ほど松山に滞在するらしい。
実は倅は一年の浪人のすえ、首尾よく志望校に合格したのだ。前々から約束してあったあの本を、祝いとして買ってやらねばなるまい。
雨が降っている。まあ、せんど言っているとおり、雨も降ってくれないと困るんだが。そんなわけで、日中は家でグダグダと過ごした。スペイン語の自習をしているときに、倅と二人で母の見舞いに行っている妻からLINEのビデオチャットの誘いがあった。
夕方から電車で街へ出かけた。紀伊国屋書店に行ってクラウス・リーゼンフーバー『存在と思惟』(講談社学術文庫)、中山茂『帝国大学の誕生』(講談社学術文庫)、松原隆彦『宇宙とは何か』(SB新書)と3冊買い、地下BALで2杯飲んだ。
先日からの話の流れで、少しスペイン語を齧っている。11年前にドイツ語の勉強をしたときはルーズリーフに手書きで要点をまとめたり演習問題の解答を書いたりしたが、今回はノートをテキストエディタでマークダウン記法で書いて、Obsidianの「保管庫」の専用のフォルダに残しておくということを考えた。テキストは福嶌教隆『これからはじめるスペイン語入門』(NHK出版, 2022年)を使い、ドイツ語のときと同じく1日に1課を目安として進む。
それにしてもドイツ語はすっかり揮発したなあ。やはり言語は使わないとダメだわ。
マークダウンはHTMLやTeXより手軽なのがいい。ただし、手書きノートのように蛍光マーカーで簡単にカラフルにするなんていうわけにはいかない。文字の色を変えようとすると、そこをいちいち <span style="color:#cc66ff">こんなふうに</span>
HTMLでマークアップしなければならない。演習問題の答え合わせなどでどうしても必要なときにはこの方法を使うことにする。
夕方からパルタジェに行ったら千客万来で楽しかった。
MacBook ProではObsidianを起動しっぱなしにするくらいでいよう。Vivaldiのメモ機能とAppleメモはどうしても必要なときだけ使うことにして、普段のメモはObsidianの日ログでとろう。文章をちょいちょい入力するだけならiPhoneでもできるので、日記の下書きもこれでやろう。
というわけで、MacBook ProとiPhoneのObsidianを使って入力した今日の日記。
朝起きて、取り急ぎ2品調理した。鶏もも肉を醤油と酒に漬けて蒸し焼きにした。それと、鶏肝を赤ワインで煮込んだ。こちらはちょっと塩気が足りなかった。
久しぶりに古い松山ウィンドの録音を聴いた。あの頃の俺たちは、ショスタコーヴィッチの11番とか7番とか、わけのわからん長くて難しい曲を、指揮者の指導だけを頼りに必死で演奏した。俺はあの楽団でもやはり呆れられるばかりのバカ男担当だったから、楽しいことばかりじゃなかった。悔しくて泣いたこともある。だがそんなことはまあいい。いま聴くと、すごく上手いわけじゃないが気合いの入った、いい演奏だ。
録音を聴きながら考えた。普通に生きていて、いま幸せだと実感できるなんてことは、なかなかない。だけど、達者で諦めずに頑張り続けていれば、いつか振り返って、あの頃は楽しかった、幸せな日々だったと思えるときがくる。幸せとか不幸なんてものは、その時にわかるものではない。そんなものは横へ置いといて、ただ、いまこの時を充実させよう。努力を続けよう。身体に気をつけて、健康で上機嫌でいよう。
午後はいつもの通院に関連して保健所に手続きに行った。年に一度この時期に欠かせない手続きだ。そして、給料日なのでいつもの資金の移動。これまた月に一度の欠かせない手続きである。
午後には、修士課程を終えて東京に引っ越したMBRくんと、ビデオチャットで小一時間話した。身体に気をつけて頑張ってほしい。そのあと、ある委員会のビデオ会議があった。
EvernoteからApple純正のメモにコピーしたテキストをObsidianに移植し終わった。メモアプリからObsidianにテキストをコピペして編集する単純作業だ。一つひとつはなんでもないが、なにしろメモが221個あったので、ちょっと大変だった。それから、VivaldiブラウザのノートもObsidianに移植した。こちらはデータがJSON形式で保存されているから話は早かった。Pythonで短いプログラムを書いて、50件ほどのノートの本文をマークダウン形式のテキストファイルとして書き出し、Obsidianの「保管庫」にコピーして、少し編集しなおしたら、それでおしまい。Obsidianのデータは、マークダウン形式のプレーンテキストをフォルダで分類しているだけの、いたってシンプルでオープンな形式だから、今後はメモを残すのにObsidianを使うことにすれば、データ形式がどうとかサービス終了がどうとかで悩まなくて済むだろう。LaTeX形式の数式のレンダリングもしてくれるから、数学関係のメモだって残せる。ひとつこの機会にマークダウンの使い方を覚えよう。
雑誌「数学セミナー」の4月号の特集「数学とのつきあい方2024」の冒頭に、俺と川井新さんと静間荘司さんの鼎談が掲載されている。昨日発売日だったのでジュンク堂書店に行って確認してきた。鼎談は今年の1月10日にZoom座談会という形で実施したものだ。さてそれで、自分の写真を誌面で見て、改めて老けたなあと思うと同時に、なんとも父親に似てきたなあと思った。
午前中は入試の監督業務。午後は研究室でぼんやりしていた。
MacBook ProとiPhoneにObsidianをインストールした。この手の、テキストをデバイス間で共有するソフトはこれまでにも、SimpleNoteとかTextasticとかTextwellとか、はたまたYahoo! NotepadとかGoogole NotebookとかEvernoteとか、あるいはVivaldiブラウザのノート機能、macOSとiOSのメモアプリとか、いろいろ試してきた。ここでさらに新たにObsidianを使う理由は、なんといってもTeX記法で数式が扱えることだ。CherryTreeのようなアウトラインプロセッサとして使えればいいなと思っているが、どうだろうね。現在はiCloud Drive経由でMacBook ProとiPhoneの同期をとっているが、研究室のUbuntuパソコンにもObsidianは入っているので、これとの同期のためにクラウドにサインアップしようかどうしようかと思っている。
さてさて、夜はピアノのレッスン。それほど進捗はないし、ちゃんと練習せにゃ道は開けないのだが、その一方で、ちゃんと練習すれば大丈夫だなという手応えもある。
午前中はちょっと用があって銀行に行っていた。午後には大学に行った。月刊バンドジャーナルの4月号が届いた。「聴く力」を高めよう、という特集なので読んでおおいに参考にさせてもらう。あと、記譜ソフトウェアMuseScoreの使い方を覚えようと思う。
快晴。詳細は省くけどきょうは大変いいことがあったので、散歩していても気分がよろしい。取り置きをお願いしていた本をジュンク堂で受け取り、地下BALで軽く飲んで、歩いて帰る。
コロっと話は変わる。
ベクトル解析を物理に応用するときに「極性ベクトル」と「軸性ベクトル」の区別をする。座標系を右手系から左手系へ変換したときの3次元のベクトルの変換のされようが異なるという話で、たとえば位置や速度が極性ベクトルで角速度や角運動量が軸性ベクトルだということは、それなりに納得がいく。
それはわかるのだけど、数学としてどうかと考えるとわからなくなる。例えば \((1,2,4)\) と成分表示されたされた1本のベクトルをみて、はいこれは極性ベクトルですか軸性ベクトルですか、と問うことが意味をなすかどうかと考えると、途端にわけがわからなくなる。
外積で定義されるベクトルは軸性ベクトルなのかと思ったが必ずしもそうではなく、軸性ベクトルと極性ベクトルの外積をとると極性ベクトルが出てくる。たとえばベクトル三重積 \(\mathbf{A}\times(\mathbf{B}\times\mathbf{C})\) は見かけは外積だが極性ベクトルなのだ。
物理学者がこのベクトルは軸性ベクトルですよ、というとき「このベクトル」と言って指さしているのは、\(1\mathbf{i}+2\mathbf{j}+4\mathbf{k}\) と成分で書かれたベクトルそのものではないのだろう。そうではなく、そのベクトルを与えている文脈にまで踏み込んでいると思わなくては、どうも納得がいかない。
それでまあ、電磁気学の教科書も数ある中で、今は講談社基礎物理学シリーズの第4巻、横山順一『電磁気学』(講談社, 2009年)を読んでいるわけだが、ライブの講義みたいに《御託》の多いのがこの本の特徴だと思う。物理の理解に有益と思われる御託もあれば、ちょっと先生なに言ってるんですかと言いたくなる御託もあるが、いずれにせよ面白い。たとえば、先日の日記に書いた疑問点に関連して、捩り秤を発明しただけではクーロンの法則を確かめられるわけではないと、ハッキリ書いてある。これはありがたい。
会議も何もない日なので、一日、家から出ずに鬱々と過ごした。VPN経由で少しだけ教室のウェブサイトの管理作業をした。それと、夜にいつもの集合論 Zoom ゼミをやった。選択公理を扱うセクションに「全順序集合は共終な整列部分集合を含む」という定理があり、テキストの証明はなんだか不十分だったが、修正するにも随分手間取った。
鬱々と時間をやり過ごしながら考えた。自分がバカであることは隠しようがない。隠したつもりになっても他人の目には明らかなんだから、無理に隠そうとしても、バカの上塗りをするだけだ。自分がバカであることを認めたくないばっかりに自分よりバカな人間を探して回るのも、情けないからもうやめよう。自分がバカであることを一旦は受け入れよう。だけど、自分に向かってバカだバカだと悪口雑言を投げかけるのもやめよう。そんなことをしたらなおさらバカが自己成就してしまう。自分がバカであることを一旦受け入れて、バカな自分を一旦許して、さて、どうするか。どうしたいか。俺は、何をどう改善したいのか。
自分は何をしたくて生きているのか、このごろそればっかりが気になっている。仕事にやりがいを感じるということがあまりないのは昔からだ。むしろ以前ほど趣味に打ち込めなくなっているのがいけないんだろうな。
ぐるぐる考えてばかりいても仕方がない。いい歳をして何をやってんだか。
そもそもバカでない自分でありたいと望むのが驕りあるいは貪りなのかもしれぬ。あのクレージーキャッツも「とかくこの世は馬鹿ばかり、天下御免の馬鹿になれ、馬鹿は死んでも直らない」と歌っているではないか。俺のくだらない悩みなど、すでに植木等の歌声に吹き飛ばされていたのだ。
天気がよい。洗濯を済ませて自転車で大学へ行き、教室のWebサーバの管理作業、具体的にはSSL対応のための作業を進める。途中で学部の会議があって、大学院の修了認定、学部の卒業認定を済ませた。会議のあとも少し作業して、無事にWebサーバのSSL対応ができた。あと、使っているMathJaxのバージョンが古くなっていたので、そこを書き直す作業もした。
帰宅して、夕食のラーメンを作ったら、スープに豆板醤を入れすぎた。不味くはないが、とにかく辛くて大変だった。
後期の授業が済んでから朝寝坊の癖がついてしまってどうもいけない。ずっと放置していた虫歯が悪くなってきて、これまたどうもいけないのだが、吹奏楽の本番も近いので、歯医者に行くのは4月になってからになりそうだ。
先日ネットで情報を得て買い求めた堀口智之『一瞬で数字をつかむ!「概算・暗算」トレーニング』(ベレ出版)という新しい本を読んでみている。この本にはたとえばテーマパークの入場者数を例にとって、年間の合計数を1日あたりの数にするために365で割るには、0.27パーセントと考えればいいし、概算でいいなら1000で割って3をかけるだけでもいいという具合に、日常のいろいろな場面で必要になりそうな計算を、大まかに簡単に済ませる方法がいろいろ書いてある。365で割る代わりに400で割るなら簡単だな、なんて考えながら読むと、なかなか楽しい。
朝から雨である。仕方がないから電車で大学に行く。
新年度の卒業研究ゼミ生の配属が決まった。うちのゼミ生は3人で、テキストとしては寺澤順『現代集合論の探検』(日本評論社)を読むことにする。
夜はいつものピアノのレッスンに行く。いまキャラクター的に対照的な短い曲を2曲練習している。どちらもまだ弾けないけど、弾けるようになれば楽しいはずだ。だから、いまは弾けない自分にちゃんと向き合うべきだ。何をやるにせよ、ひとまずカッコ悪い自分をありのまま受け入れない限り道は開けない。いやまあ、たいていの人はそんなことは言わなくてもわかっていて、当たり前にできているはずだ。当たり前のことをわざわざ書くのは俺がその当たり前のことができずに人生でずいぶん時間を無駄にしてきたからだ。
昨日までと比較するとだいぶ暖かい。弁当を作って自転車で大学へ行き、職場のウェブサイトの更新作業などなどをやる。午後には学部の会議があった。その後、サーバ管理に関係した調べ物をしていたら1日が終わってしまった。職場のLANへのVPN接続が用意されていて申請すれば自分にも使えることがわかったのは収穫だった。これを知らなかったばっかりにウェブサイトのタイムリーな更新ができなかったことが何度もあったからね。
俺もいい歳で、この職場に永遠に置いてもらえるわけでもないので、ウェブサイトやら何やらの管理の引き継ぎについてそろそろ真剣に考えねばならない。
朝からよい天気だが、昨日にまして寒い。しかしせっかく晴れたし、昨日の風呂の残り湯もあるから、洗濯をする。本を読もうとするが、なかなか集中が続かない。
小山慶太『科学史年表 増補版』(中公新書, 2011年)によると、シャルル・オーギュスタン・ド・クーロンが電気力の逆二乗即を確かめる実験をしたのは1785年のことだそうだ。また、ヘンリー・キャベンディッシュがクーロンに先立って電気力の逆二乗則を実験的に確かめていたらしいとも書かれている。キャベンディッシュは自分の発見のプライオリティを主張する気がなかったらしい。ネット上のいろいろの情報源によれば、そのキャベンディッシュが万有引力定数の測定実験をしたのは1798年だというから、重力の逆二乗則の実験的検証は電気力の逆二乗則の発見よりだいぶ遅かったことになる。もちろん重力の逆二乗則の主張自体は16世紀にニュートンによってなされており、ケプラーの法則という観測事実に照らして間違いないであろうことはわかっていたのだけれども。
さてそれで、昨日の日記に「頭の中が疑問だらけになる」と書いたのはこういうわけだ。電気力が「電荷に比例し、距離の二乗に反比例する」というクーロンの法則のうち、「電荷に比例する」という部分は、本当にクーロンによって実験的に確かめられたのかどうか。というのも、質量が普段から慣れ親しんだ「重さ」に対応しているのと比較すると、電荷は直感的にわかりにくいし、先に電磁気の法則を知っていてそれを応用するのでなければ、電荷を直接測定する方法が俺には思いつかない。クーロンはいかにして、電気力は電荷に比例するという事実を発見したのだろうか。電磁気学の教科書でクーロンの実験の概要を紹介しているものはあるが、そうしたテキストにしても、電荷の導入は天下りになりがちだ。天下りに導入された電荷を用いて定式化されたクーロンの法則から電磁気学の教程は始まる。そこが気になる。
朝のうち少し降雪した。昼頃からは晴れたが、なかなか寒い。電磁気学の本を少し読んで、頭の中が疑問だらけになる。
きょうも休日出勤の代休日。ぼんやりしているうちに午前が終わってしまった。昼食のあと県立図書館に行った。アルゼンチン関係の本のうち2冊を貸し出し延長してもらい、別に物理の本を3冊借りた。
相対性理論を勉強したいのだが、それには古典電磁気学を学ぶことが前提になるというか、古典電磁気学と特殊相対性理論はとても深く関わっているらしい。なので、ひとまずベクトル解析からチマチマと勉強する。
かれこれ20年前、まだ銀天街に新刊書店も古書店もあって、まだ俺が子育てと吹奏楽とに一生懸命だったころ、2004年6月24日の日記に、俺は「荷電粒子は本当に慣性運動できるんかいな」という疑問を書いた。その疑問を解決するための勉強がまだできていない。というか、やっていない。やっていないのだが、少し思い出して、荷電粒子を加速するとき何が起こるか考えたら、ますます疑問が湧いてきた。うんとこさ軽いがたっぷり電荷を持った粒子を、電場も磁場もないところで加速させても、質量が少なければ特に抵抗がないはずだ。質量が少ないというのはそういうことだ。ということは、荷電粒子みずからが生み出す電場が、その粒子の運動によってどのように変化しようとも、その結果として生じる電磁場の変化によっては、粒子自身の運動はトラップされない。電磁場というのはそういう性質のものらしい。いっぽうで、質量をもった粒子を加速させることには、質量に比例した抵抗が発生する。重力場というのはそういう性質のものらしい。いや、いま俺はここでまったくトンチンカンなことを言っているのかもしれない。なので、電磁場の方程式と重力場の方程式を解析してそのあたりのことをちゃんと理解したい。
相対性理論を勉強したいというなりゆきになったのには、上の段落に書いたような疑問とは別に、理由が二つある。雑誌『数学セミナー』の昨年の6月号の記事に、現代の物理学では時空は連続体ではないと考えられているらしい、という意味のことを書いた。しかしこれはいくつかの概説書を読んで書いたにすぎないので、そのことについてもっと詳しく裏を取りたいというのが第一の理由だ。そしてもう一つの理由はロジャー・ペンローズの古い本『皇帝の新しい心』にある。この本でペンローズは、量子重力理論が完成した暁には、人間の脳の仕組みに関する新しい知見が得られ、人の心がチューリング機械を超える働きをすることが明らかになるだろうと予言している。もちろんこのペンローズの見解はこれまでにもさんざん批判されているが、どうも哲学的観点からの批判が多いようだ。だが、脳がどうした心の哲学がどうしたということをカッコに入れてしまうと、ここでペンローズは、チューリング機械の計算を超越した物理過程が可能であることを示唆している。俺としてはそこに注目する。もしもそんな物理過程が可能だとしたら、それは計算可能性理論にとって一大事である。その物理過程が人間の脳内で起こり得るか、人間の心の働きとしてあり得るか、ということとは別に、チューリング機械を超える物理過程の可能性自体を、まじめに検証してみる価値がある。トンデモじみた話なのは承知のうえである。
県立図書館のあとはジュンク堂書店で加藤文元の新刊『数学の世界史』(角川書店)などなどを買い、パルタジェでひと息入れた。夕方からはいつもの集合論Zoomゼミをやった。テキストの記述が混乱しているところがあってなかなか手間取った。選択公理から整列定理を導き、整列定理からツォルンの補題を導いたところで時間切れとなった。この第4章を片付ければ、ゼミ生くんの当初の目的である集合論による《数学の基礎づけ》について、ある程度の理解は得られるはずなので、それ以後は、ゼミを続けるにしても、テキストを変更しようと思う。あと、金曜日のゴールデンタイムが毎度のようにゼミに費やされるのもそろそろ苦しくなってきたので、曜日を変えてほしい。まあそれは年度が改まってからでいいけど。